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|氏名 = 玉櫛媛
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2018年8月10日 (金) 11:52時点における版

たまくしひめ

玉櫛媛
別名 玉依媛、三島溝樴姫など
民族 天孫族
時代 神代
非婚配偶者 事代主(『古事記』では大物主)、火雷
子供 事代主との子:鴨王媛蹈鞴五十鈴媛五十鈴依媛
火雷との子:賀茂別雷
父:三島溝橛耳(陶津耳)、母:伊賀古夜日売
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玉櫛媛(たまくしひめ、玉櫛姫玉依媛玉依姫三島溝樴姫、『古事記』では勢夜陀多良比売)は、伝承上の上古日本の女性。神武天皇(初代天皇)の皇后媛蹈鞴五十鈴媛や、賀茂別雷神社祭神の賀茂別雷などの母として知られる。

鴨建角身八咫烏)の子であり、兄に鴨建玉依彦賀茂氏の祖)がいる[1]。「玉依媛」・「玉依彦」のように、ヒメヒコの二者(この場合は兄妹)がペアで統治を行う体制はヒメヒコ制と呼ばれる。

記録

以下、太字にした人名は玉櫛媛のことである。

山城国風土記

山城国風土記』によれば、賀茂建角身丹波国神野の神伊賀古夜日売をめとり、玉依日子賀茂県主の遠祖)と玉依日売の二子を生んだ。玉依日売が石河瀬見小川の辺に遊んでいた時、丹塗矢(火雷の化身)が川上より流れ下ってきた。これを取り床の辺にさし置くと、玉依日売は妊娠して子を生んだ。この子は賀茂建角身の名からとって賀茂別雷と名付けたという。

賀茂建角身および玉依日売は賀茂御祖神社の、賀茂別雷は賀茂別雷神社の祭神である。この二社は賀茂神社と総称される。これに関連して、各地に賀茂神社・加茂神社が存在する。

神代紀・地祇本紀

日本書紀』第8段の第6の一書では、「又曰」として、事代主が八尋熊となって三島溝樴姫(みしまのみぞくいひめ。或いは玉櫛姫という。)に通って生まれた子が姫蹈鞴五十鈴姫神武天皇皇后)であるとする。

先代旧事本紀』の「地祇本紀」によれば、都味歯八重事代主(つみはやえことしろぬし)は八尋熊鰐となって三島溝杭(みしまのみぞくい)の娘活玉依姫(いくたまより-)に通い、以下の三子を生んだという。

神武-安寧天皇紀・神武天皇記・天皇本紀

『日本書紀』神武天皇段によれば、人(名は不明)が天皇に

事代主神三島溝橛耳神の女玉櫛媛に共して生める児、号を媛蹈鞴五十鈴媛命と曰う。是国色の秀者。」

と奏したという。綏靖天皇段によれば、媛蹈鞴五十鈴媛は事代主の娘だという。安寧天皇段によれば、五十鈴依媛も事代主の娘であるという。

『先代旧事本紀』の「天皇本紀」によれば、人(名は不明)が神武天皇に

事代主神三島溝橛耳神の女玉櫛媛と生める児、号を媛蹈韛五十鈴媛命と曰う。是国色の秀者なり。」

と奏したという。また、媛蹈韛五十鈴媛および五十鈴依媛は事代主神の娘であるという。

古事記神武天皇段によれば、神武天皇が大后とする美人を求めた時、大久米

「此間(ここ)に媛女(おとめ)有り、是神御子と謂う。其を神御子なりと謂(もう)す所以(ゆえ)は、三島湟咋の女、名は勢夜陀多良比売、其れ容姿麗美故、美和大物主神、見感でて、其の美人(おとめ)の大便為すの時に、丹塗矢と化(な)りて、其の大便為すの溝の流下より、其の美人のほとを突きたまいき。爾(かれ)其の美人驚きて、立ち走りいすすきき。乃(か)くて其の矢を将来して、床辺に置きしかば、忽ちに麗しき壮夫(おとこ)に成りて、即ち其の美人を娶りて子を生む。名は富登多多良伊須須岐比売命と謂(もう)す。亦の名は比売多多良伊須気余理比売と謂す。故(かれ)是(ここ)を以て神御子とは謂すなり。」

といったという。

崇神天皇紀・崇神天皇記

『日本書紀』崇神天皇段によれば、茅渟県陶邑にいた大田田根子に天皇が「汝は其れ誰が子ぞ。」と問うたところ、大田田根子は

「父をば大物主大神と曰。母をば活玉依媛と曰。陶津耳の女なり(亦は云う、奇日方天日方、武茅渟祇の女なり)。」

と言ったという。

『古事記』崇神天皇段によれば、河内美努村にいた意富多多泥古に天皇が「汝は誰が子ぞ。」と問うたところ、意富多多泥古は

「僕は大物主大神陶津耳命の女活玉依毘売を娶りて生みませる子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕意富多多泥古」

と言ったという。

また、『古事記』には次のように書かれている。

「此の意富多多泥古人と謂うを、神の子と知れる所以は、上に云える活玉依毘売、其れ容姿端正。是に神壮夫有りて、其の形姿威儀、時に比無し。夜半の時、倏忽と到来す。故相感でて、共婚供住の間、未だ幾時を経ず、其の美人妊身す。爾(ここ)に父母其の妊身の事を怪しみて、其の女に問いて曰く、『汝は自ずから妊めり。夫無きに、何の由にか妊身(はら)みぬ。』ととえば、答えて曰く、『麗美(うるわ)しき壮夫有り。其の姓名を知らず。夕毎に到来し、供住の間に、自然(おのず)から懷妊(はら)みぬ。』という。是を以て其の父母其の人を知らんと欲して、其の女に誨えて曰く、『赤土を以て床の前に散らし、へその紡麻を以て針に貫きて、其の衣の襴(すそ)に刺せ。』とおしう。故教の如くして旦時に見れば、針に著けたる麻は、戸の鉤穴より控き通りて出で、唯遺れる麻は三勾のみなりき。爾(かれ)即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸の從(まにま)に尋ね行きしかば、美和山に至りて、神の社に留りき。故其の神の子なりとは知りぬ。故其の麻の三勾(みわ)遺れるに因りて、其の地を名づけて美和と謂うなり。〈此の意富多多泥古の命は、神君鴨君の祖なり。〉」

脚注

出典

参考文献

  • 近藤敏喬 編『古代豪族系図集覧』東京堂出版、1993年、156頁頁。ISBN 4-490-20225-3 

関連項目