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== 両軍の動き ==
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[[ジェノヴァ]]の攻囲を続けるオーストリア軍司令官{{仮リンク|ミヒャエル・フォン・メラス|en|Michael von Melas}}は、自軍本隊を[[ポー川]]沿岸の[[トリノ]]に置いて敵援軍の出現が予測されるフランス国境方面に備えていた。その意表を突く形で[[アルプス山脈|アルプス]]の困難な山越えを終えて5月半ばに北イタリアに入ったナポレオンは、オーストリア軍の背後に回るようにして東へ進み、トリノのはるか北東にある[[ミラノ]]を6月2日に占領した。その後は南下して[[ポー川]]流域に並ぶ[[パヴィーア]]と複数の都市を占領しながら渡河し、ポー川の南岸に本隊を置いた。これによってナポレオンは、メラス本隊とオーストリア本国をつなぐポー川の水運を利用した補給線を断ち切る事に成功した。だが、その間にジェノヴァに立て篭もっていたフランス軍は力尽き、6月4日に開城した。


占領後の[[ジェノヴァ]]は物資が枯渇していたので、メラスは攻囲軍を[[トリノ]]に集結させた。そこから{{仮リンク|オットー・フォン・バートケズ|en|Peter Karl Ott von Bátorkéz}}の前衛部隊を東へ進ませて[[アレッサンドリア]]に入城させた。ポー川の水運が断たれてる事を知ったメラスは、急いで補給線を回復する為にバートケズに出撃を命じた。バートケズは東へ出発し、ポー川南岸の[[モンテベッロ・デッラ・バッターリア|モンテベッロ]]まで進軍するが、そこでフランス軍の[[ジャン・ランヌ]]部隊と遭遇した。この6月9日に発生した戦いでランヌ部隊に敗北したバートケズはアレッサンドリアに退却した。同じ頃、メラスもトリノからオーストリア軍本隊を進発させており、アレッサンドリアを目指していた。
占領後の[[ジェノヴァ]]は物資が枯渇していたので、メラスは攻囲軍を[[トリノ]]に集結させた。そこから{{仮リンク|オットー・フォン・バートケズ|en|Peter Karl Ott von Bátorkéz}}の前衛部隊を東へ進ませて[[アレッサンドリア]]に入城させた。ポー川の水運が断たれてる事を知ったメラスは、急いで補給線を回復する為にバートケズに出撃を命じた。バートケズは東へ出発し、ポー川南岸の[[モンテベッロ・デッラ・バッターリア|モンテベッロ]]まで進軍するが、そこでフランス軍の[[ジャン・ランヌ]]部隊と遭遇した。この6月9日に発生した戦いでランヌ部隊に敗北したバートケズはアレッサンドリアに退却した。同じ頃、メラスもトリノからオーストリア軍本隊を進発させており、アレッサンドリアを目指していた。
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午後5時、敗北寸前のフランス軍の元に、多数の落伍兵を出しながらも強行軍で駆け付けて来た[[ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー|アントワーヌ・ドゼー]]率いる別働隊5,000名が到着した。大砲の音で本隊の交戦を察知していた彼は、伝令が来る前に独自の判断で部隊を発進させていた。このドゼーの来援で息を吹き返したフランス軍は反撃に転じた。ドゼー部隊がオーストリア軍の攻撃を正面から支えてる間に、それまで各所を遊撃していた[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|フランソワ・ケレルマン]]率いる騎兵隊400名が狙いを定めてオーストリア軍の左側面に一斉突入した。この突撃は秒単位と言われる程の完璧なタイミングで行われ、オーストリア軍陣形の隙間を駆け抜けて全体の要となる中央部隊を一気に突き崩した。オーストリア軍中央は壊走し、その混乱が次々と周囲に波及してやがて全体の統率を失わせる事になり、これを好機と見たナポレオンはフランス全軍に総攻撃を命じた。オーストリア軍は総崩れとなり退却にも失敗して、兵力のおよそ半数を失いつつアレッサンドリアに逃げ込む事を余儀なくされた。
午後5時、敗北寸前のフランス軍の元に、多数の落伍兵を出しながらも強行軍で駆け付けて来た[[ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー|アントワーヌ・ドゼー]]率いる別働隊5,000名が到着した。大砲の音で本隊の交戦を察知していた彼は、伝令が来る前に独自の判断で部隊を発進させていた。このドゼーの来援で息を吹き返したフランス軍は反撃に転じた。ドゼー部隊がオーストリア軍の攻撃を正面から支えてる間に、それまで各所を遊撃していた[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|フランソワ・ケレルマン]]率いる騎兵隊400名が狙いを定めてオーストリア軍の左側面に一斉突入した。この突撃は秒単位と言われる程の完璧なタイミングで行われ、オーストリア軍陣形の隙間を駆け抜けて全体の要となる中央部隊を一気に突き崩した。オーストリア軍中央は壊走し、その混乱が次々と周囲に波及してやがて全体の統率を失わせる事になり、これを好機と見たナポレオンはフランス全軍に総攻撃を命じた。オーストリア軍は総崩れとなり退却にも失敗して、兵力のおよそ半数を失いつつアレッサンドリアに逃げ込む事を余儀なくされた。
戦いはフランス軍の大逆転勝利に終わったが、勝利の貢献者であるドゼーは最後の激闘の中で銃弾に倒れ31歳で戦死した。晩年のナポレオンは自身に仕えた最も優秀な軍人を尋ねられた際に一番目は[[ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー|ドゼー]]、二番目は[[ジャン=バティスト・クレベール|クレベール]]、三番目は多分[[ジャン・ランヌ|ランヌ]]と答えており、その落胆は想像に余りあるものだった。もう一人の貢献者であり、言わば針の一刺しでオーストリア軍を崩壊に追い込んだ[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|ケレルマン]]は、元帥に次ぐ地位の将軍に昇進した。このマレンゴの功績は余りに大きく、その後のケレルマンが数々の不正と醜聞と強欲さで悪評を垂れ流す事になっても、彼の地位を揺るがせなかった。[[ファイル:Broc.jpg|サムネイル|ドゼーの死|代替文=|中央]]
戦いはフランス軍の大逆転勝利に終わったが、勝利の貢献者であるドゼーは最後の激闘の中で銃弾に倒れ31歳で戦死した。晩年のナポレオンは自身に仕えた最も優秀な軍人を尋ねられた際に一番目は[[ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー|ドゼー]]、二番目は[[ジャン=バティスト・クレベール|クレベール]]、三番目は多分[[ジャン・ランヌ|ランヌ]]。」と答えており、その落胆は想像に余りあるものだった。もう一人の貢献者であり、言わば針の一刺しでオーストリア軍を崩壊に追い込んだ[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|ケレルマン]]は、元帥に次ぐ地位の将軍に昇進した。このマレンゴの功績は余りに大きく、その後のケレルマンが数々の不正と醜聞と強欲さで悪評を垂れ流す事になっても、彼の地位を揺るがせなかった。[[ファイル:Broc.jpg|サムネイル|ドゼーの死|代替文=|中央]]
== その後 ==
== その後 ==
[[アレッサンドリア]]で包囲されたオーストリア軍司令官{{仮リンク|ミヒャエル・フォン・メラス|en|Michael von Melas}}は6月15日に降伏し、フランスはイタリア北部における勢力圏を再確立した。
[[アレッサンドリア]]で包囲されたオーストリア軍司令官{{仮リンク|ミヒャエル・フォン・メラス|en|Michael von Melas}}は6月15日に降伏し、フランスはイタリア北部における勢力圏を再確立した。

2019年5月11日 (土) 09:05時点における版

マレンゴの戦い

マレンゴの戦い
戦争フランス革命戦争第二次イタリア戦役
年月日1800年6月14日
場所:イタリア北部ピエモンテ地方アレッサンドリア南東12kmのマレンゴ
結果:フランスの勝利
交戦勢力
フランス共和国 ハプスブルク君主国の旗 オーストリア大公国
指導者・指揮官
ナポレオン・ボナパルト オーストリア帝国の旗 ミヒャエル・フォン・メラス英語版
戦力
兵員 28,000
大砲 24門
兵員 31,000
大砲 100門
損害
死傷 4,700
不明 900
死傷 6,000
捕虜 8,000
大砲 40門
フランス革命戦争

マレンゴの戦い(マレンゴのたたかい、: Bataille de Marengo)は、1800年6月14日に行われたフランス革命戦争における戦闘の一つ。

現在のイタリア共和国ピエモンテ州アレッサンドリアから南東へ12kmのマレンゴ英語版の地において、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、ミヒャエル・フォン・メラス英語版率いるオーストリア軍に対して勝利を収めた。この結果、第二次対仏大同盟におけるイタリア方面の戦いは決着がつき、フランスはイタリア北部の勢力圏を再確立した。

背景

アルプスを越えるナポレオン

1798年、第二次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦したオーストリアは、ドイツ方面へ軍勢を進めるのと同時に、フランスの衛星国が割拠していたイタリア北部にも侵攻軍を派遣した。フランスのイタリア方面軍は苦戦して後退を重ね、ジェノヴァにまで追い詰められていた。1799年にエジプト遠征から帰還して第一統領に就任していたナポレオンは、イタリア方面の劣勢を挽回するべく新しい軍隊を編制してジュネーヴに集結させていた。

1800年4月、ジェノヴァで包囲されたフランス軍が危機に陥った為に、救援を急いだナポレオンは翌5月になると37,000名の軍勢に、アルプス山脈グラン・サン・ベルナール峠を越えさせてイタリア北部に進軍した。このスイス方面からの侵入はオーストリア軍の意表を突く機動であり、そこから東へ進む事でジェノヴァの攻囲軍とオーストリア本国の間の連絡線を断ち切る狙いがあった。しかし、険しい山越えの中で運搬の困難さから多くの大砲が放棄されてしまい、フランス軍の戦力は低下した。

両軍の動き

当時のイタリア北部

ジェノヴァの攻囲を続けるオーストリア軍司令官ミヒャエル・フォン・メラス英語版は、自軍本隊をポー川沿岸のトリノに置いて敵援軍の出現が予測されるフランス国境方面に備えていた。その意表を突く形でアルプスの困難な山越えを終えて5月半ばに北イタリアに入ったナポレオンは、オーストリア軍の背後に回るようにして東へ進み、トリノのはるか北東にあるミラノを6月2日に占領した。その後は南下してポー川流域に並ぶパヴィーアと複数の都市を占領しながら渡河し、ポー川の南岸に本隊を置いた。これによってナポレオンは、メラス本隊とオーストリア本国をつなぐポー川の水運を利用した補給線を断ち切る事に成功した。だが、その間にジェノヴァに立て篭もっていたフランス軍は力尽き、6月4日に開城した。

占領後のジェノヴァは物資が枯渇していたので、メラスは攻囲軍をトリノに集結させた。そこからオットー・フォン・バートケズ英語版の前衛部隊を東へ進ませてアレッサンドリアに入城させた。ポー川の水運が断たれてる事を知ったメラスは、急いで補給線を回復する為にバートケズに出撃を命じた。バートケズは東へ出発し、ポー川南岸のモンテベッロまで進軍するが、そこでフランス軍のジャン・ランヌ部隊と遭遇した。この6月9日に発生した戦いでランヌ部隊に敗北したバートケズはアレッサンドリアに退却した。同じ頃、メラスもトリノからオーストリア軍本隊を進発させており、アレッサンドリアを目指していた。

敵補給線の分断には成功したがその他の情報は依然不足しており、ナポレオンは手探りで作戦を練っている状態だった。その中で舞い込んだ9日のモンテベッロの戦いの勝利の報せで気を大きくしたナポレオンは、オーストリア軍の戦意と戦力を過小評価するようになった。オーストリア軍は退却移動を始めると早々に予測したナポレオンは、彼らを確実に捕捉撃滅する為に自軍の布陣を大きく広げる決断を下した。アントワーヌ・ドゼー部隊を南方のノーヴィ・リーグレに向かわせた他、東方のピエアチェンツァにも別部隊を派遣し、更に二つの部隊をポー川の北へ渡らせ、それぞれパヴィーアヴェルチェッリに移動するよう命じた。ナポレオン自身は本隊を率いてアレッサンドリアに向かって進撃した。

6月13日、アレッサンドリアの東に到着したナポレオンはそこでも本隊を分け、ヴィクトール=ペラン部隊を前方に派遣してマレンゴの村を占領させた。ナポレオンは9日の戦いの敗走部隊が逃げ込んでるだけと考えていたようで、そのままオーストリア軍の動静を探る事にした。しかし、彼の眼前のアレッサンドリアにはバートケズの部隊だけでなく、すでにメラスの本隊も入城していた。こうしてフランス軍とオーストリア軍は、6月14日にアレッサンドリア近郊のマレンゴで直接激突する事になった。

両軍の配置図

戦闘

フォン・メラス
ケレルマン

6月14日朝、フランス軍の布陣を把握したミヒャエル・フォン・メラス英語版は、アレッサンドリアから全軍を出撃させ、午前9時にマレンゴの村にいたヴィクトール=ペラン部隊を急襲した。その前線から5km後方に本陣を置いていたナポレオンは、大兵力のオーストリア軍本隊が出現したという報せに驚き、各方面に散っている別働隊を呼び戻すべく急いで伝令を飛ばした。続けて手元にいるジャン・ランヌ歩兵隊とジョアシャン・ミュラ騎兵隊を前線へ向かわせ、ナポレオン自身も本隊を率いて午前11時に戦場に到着した。

先日に別働隊を割いていた兵力分散の失策が祟って、この時点で前線に集結出来たフランス軍は23,000名程度となり、数で勝るオーストリア軍31,000名の攻勢を支えるのに手一杯の状態となった。午後2時にはマレンゴの村がオーストリア軍に奪われ、敗色が濃くなったフランス軍は3km余りの後退を強いられた。自軍の揺るぎない優勢を見たメラスは勝利を確信し戦勝の報告を本国首都ウィーンへ送っている。

午後5時、敗北寸前のフランス軍の元に、多数の落伍兵を出しながらも強行軍で駆け付けて来たアントワーヌ・ドゼー率いる別働隊5,000名が到着した。大砲の音で本隊の交戦を察知していた彼は、伝令が来る前に独自の判断で部隊を発進させていた。このドゼーの来援で息を吹き返したフランス軍は反撃に転じた。ドゼー部隊がオーストリア軍の攻撃を正面から支えてる間に、それまで各所を遊撃していたフランソワ・ケレルマン率いる騎兵隊400名が狙いを定めてオーストリア軍の左側面に一斉突入した。この突撃は秒単位と言われる程の完璧なタイミングで行われ、オーストリア軍陣形の隙間を駆け抜けて全体の要となる中央部隊を一気に突き崩した。オーストリア軍中央は壊走し、その混乱が次々と周囲に波及してやがて全体の統率を失わせる事になり、これを好機と見たナポレオンはフランス全軍に総攻撃を命じた。オーストリア軍は総崩れとなり退却にも失敗して、兵力のおよそ半数を失いつつアレッサンドリアに逃げ込む事を余儀なくされた。

戦いはフランス軍の大逆転勝利に終わったが、勝利の貢献者であるドゼーは最後の激闘の中で銃弾に倒れ31歳で戦死した。晩年のナポレオンは自身に仕えた最も優秀な軍人を尋ねられた際に「一番目はドゼー、二番目はクレベール、三番目は多分ランヌ。」と答えており、その落胆は想像に余りあるものだった。もう一人の貢献者であり、言わば針の一刺しでオーストリア軍を崩壊に追い込んだケレルマンは、元帥に次ぐ地位の将軍に昇進した。このマレンゴの功績は余りに大きく、その後のケレルマンが数々の不正と醜聞と強欲さで悪評を垂れ流す事になっても、彼の地位を揺るがせなかった。

ドゼーの死

その後

アレッサンドリアで包囲されたオーストリア軍司令官ミヒャエル・フォン・メラス英語版は6月15日に降伏し、フランスはイタリア北部における勢力圏を再確立した。

その後、ドイツ方面でもマリー・モロー率いるフランス軍が、12月3日のホーエンリンデンの戦いで勝利を収めたのでオーストリアは戦意を喪失し、翌年2月のリュネヴィルの和約に応じる事になった。オーストリアの脱落により第二次対仏大同盟は崩壊した。

逸話

  • 鶏肉のマレンゴ風
    マレンゴの勝いの夜、ナポレオンはお抱えの料理人デュナンに勝利を祝う特別な料理を注文した。しかし大混戦の中で全ての荷物が失われており、慌てたデュナンは戦場周辺を走り回って食材をかき集め、火を通した鶏肉をトマトとニンニクとワインで煮込み、茹でたザリガニと目玉焼きを添えたあり合わせの即席料理をナポレオンに出した。ナポレオンはこの料理を大変気に入り「鶏肉のマレンゴ風」として知られるようになった。以後のナポレオンは縁起を担ぐ意味でもこの「鶏肉のマレンゴ風」を好み、特に戦いの前夜によく注文したという。
  • プッチーニのオペラ『トスカ』では、第1幕でナポレオンがマレンゴの戦いに敗れたという誤報がもたらされ、第2幕でナポレオンが勝ったという正しい知らせが届く。
  • ナポレオンの肖像画にも描かれている芦毛の愛馬「マレンゴ」の名はこの戦いが由来とされている。

参考文献

外部リンク