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{{Infobox pharaoh
[[File:SahureAndNomeGod-CloseUpOfSahure MetropolitanMuseum.png|thumb|250px|ノモス守護神とサフラー王の二体像より、サフラーの肖像([[メトロポリタン美術館]])。]]
|Name=サフラー
|Alt=セフレス ([[マネト]])
|Image=SahureAndNomeGod-CloseUpOfSahure MetropolitanMuseum.png
|image_size=300px
|Caption=[[片麻岩]]製のサフラー像頭部。ニューヨーク、[[メトロポリタン美術館]]ギャラリー103番。{{sfn|MET|2015}}{{sfn|Allen ''et al.''|1999|pp=329-330}}{{sfn|Online archive|2014}}
|Reign=期間:13年5ヶ月12日間、紀元前25世紀初頭。{{efn|group=注釈|name=SahureDates|サフラーの在位年として提案されている説: 前2506-前2492,{{sfn|Redford|2001|location=entry "第5王朝"}} 前2496-前2483,{{sfn|Walters Art Museum website|2015}} 前2491-前2477,{{sfn|Clayton|1994|pp=60-63}} 前2487-前2475,{{sfn|Rice|1999|p=173}}{{sfn|Malek|2000|pp=83-85}}{{sfn|Baker|2008|pp=343-345}}{{sfn|Sowada|2009|p=3}} 前2471-前2458,{{sfn|von Beckerath|1999|p=283}} 前2458-前2446,{{sfn|MET|2015}}{{sfn|Allen ''et al.''|1999|p=XX}} 前2428-前2416,{{sfn|Hornung|2012|p=491}}}}
|Dynasty=[[エジプト第5王朝|第5王朝]]
|Coregency=
|Predecessor=[[ウセルカフ]]
|Successor={{仮リンク|ネフェルイルカラー・カカイ|en|Neferirkare Kakai}}
|Prenomen=<center>サフラー<br>''S3ḥ w Rˁ''<br>''[[ラー]]神の傍にいる者''<br>Alternative translations:<br>''ラー神が触れる者''{{sfn|Allen ''et al.''|1999|p=337}}<br>''ラーは我に恵みを与える''{{sfn|Leprohon|2013|p=38}}<br><hiero>M23:t-L2:t-<-N5-D62-G43-></hiero></center>
|PrenomenHiero=
|Nomen=<center>サフラー<br>''S3ḥ w Rˁ''<br>''ラー神の傍にいる者''</center>
|NomenHiero=<hiero>N5-D62-G43</hiero>
|Horus=<center>ホルス・ネブカウ<br>''Nb-ḫˁ-w''<br>''ホルス、顕現したる主''</center>
|HorusHiero=<hiero>V30-N28-G43</hiero>
|Nebty=<center>ネブティ・ネブカウ<br>''Nb.tj nb ḫˁ w''<br>''二女神、顕現したる主''</center>
|NebtyHiero=<hiero>V30:N28-G43</hiero>
| GoldenHiero=
| Golden=<center>ビクウィ・ネブウ<br>''bḳ.wj nbw''<br>''二羽の黄金のハヤブサ''{{sfn|Leprohon|2013|p=38}}<br><hiero>G7*G7:S12</hiero></center>
|Spouse={{仮リンク|メレトネブティ|en|Meretnebty}}{{sfn|Dodson|Hilton|2004|pp=62-69}}
|Children=ラーネフェル ({{仮リンク|ネフェルイルカラー・カカイ|en|Neferirkare Kakai}}として即位した), ネチェルイルエンラー (恐らく{{仮リンク|シェプセスカフ|en|Shepseskaf}}と同一人物)、ホルエムサフ、ラーエムサフ、カカラー、ネブアンクラー{{sfn|El Awady|2006a|pp=214-216}}
|Father=[[ウセルカフ]]
|Mother={{仮リンク|ネフェルヘテペス (ウセルカフ)|label=ネフェルヘテペス2世|en|Neferhetepes (Userkaf)}}
|Died=
|Monuments={{仮リンク|サフラー王のピラミッド|en|Pyramid of Sahure}} 「立ち上るサフラーの[[バー]]」{{sfn|Lehner|2008|pp=142-144}}、[[アブシール]]<br>太陽神殿 「[[ラー]]神の平野」"<br>宮殿 「サフラーの栄光は天へと上る」
| burial = {{仮リンク|サフラー王のピラミッド|en|Pyramid of Sahure}}
}}
'''サフラー'''(ラー神の傍にある者、の意)は[[エジプト第5王朝|第5王朝]]2代目の[[古代エジプト]]の[[ファラオ]]。彼は[[紀元前25世紀]]初頭に12年間前後統治した。
サフラーは[[エジプト古王国]]の王の中で最も重要な王の一人であると考えられている。彼の治世は第5王朝の政治的、経済的な絶頂期であった{{sfn|Brinkmann|2010|location=Book abstract, English translation [http://artdaily.com/index.asp?int_sec=2&int_new=38807 available online]}}。彼は恐らく前王[[ウセルカフ]]と王妃{{仮リンク|ネフェルヘテペス (ウセルカフ)|label=ネフェルヘテペス2世|en|Neferhetepes (Userkaf)}}の息子である。また、彼の地位は息子の{{仮リンク|ネフェルイルカラー・カカイ|en|Neferirkare Kakai}}によって継承された。


サフラーの在位中、エジプトは[[レヴァント]]海岸と重要な貿易関係を持っていた。サフラーは貴重な杉や人々(恐らく奴隷)や珍奇な品々を得るために、現在の[[レバノン]]へ複数回の海上遠征を実施している。彼はまた、[[プント国]]への遠征を命じた。この遠征は実際に実施された事が証明されているプント国への遠征の中では最も古い。これによって膨大な量の[[没薬]](ミルラ myrrh)、[[マラカイト]]、{{仮リンク|エレクトラム|en|electrum}}が持ち帰られた。サフラーはこの冒険の成功を彼の葬祭殿にあるレリーフの中で祝賀している。そのレリーフには、「サフラーの栄光は天へと昇る」と名付けられた彼の宮殿の庭で、ミルラの木の世話をする彼の姿が描かれている。これはエジプトの美術において王がガーデニングをする姿を描いた唯一の物である。サフラーは更に[[シナイ]]にある[[トルコ石]]と[[銅]]の鉱山へ遠征隊を送った。彼はまた、恐らく西部砂漠の[[リビア人]]の酋長に対する軍事遠征を命じ、家畜をエジプトに連れ帰っている。
'''サフラー'''(Sahure、生没年不明)は[[エジプト第5王朝]]の[[ファラオ]](2代目)で、在位は紀元前2491年から紀元前2477年。サフラーとは、「[[ラー]]の傍らにあるもの」の意。


サフラーは[[アブシール]]に自身のピラミッド築き、前任者達がピラミッド群を建設した[[サッカラ]]と[[ギーザ]]の王室のネクロポリスは放棄された。この決定は恐らく、アブシールにあるウセルカフの太陽神殿に触発されたものである。ウセルカフの太陽神殿は、第5王朝で建設された最初の太陽神殿である。{{仮リンク|サフラー王のピラミッド|en|Pyramid of Sahure}}は先行する[[エジプト第4王朝|第4王朝]]のピラミッド群に比べて遥かに小さいが、付属する葬祭殿の装飾はより精巧になっている。彼のピラミッド複合体の参道と葬祭殿はかつて10,000平方メートル以上の精緻なレリーフで飾られており、そのことで古代では有名になっていた。サフラーのピラミッド複合体の建築家達はヤシ柱([[ヤシの葉]]を模した[[柱頭]]がある柱)の列柱を導入した。これはすぐに古代エジプトの建造物を特徴づける物となった。サフラーはまた「ラー神の平野」と呼ばれる太陽神殿を建設したことが知られているが、ピラミッド同様にアブシールにあるであろうその場所は未だ特定されていない。
==遺跡==
[[ギーザ|ギザ]]の南にある[[アブシール]]にピラミッドを建造した。アブシールには[[ネフェルカラー]]、[[ニウセルラー]]といった後代の王もピラミッドを建設したが、サフラーのピラミッドは最も大きな規模であったことが判明している。しかし、それでも建築時の高さは48mほどであり、ギザのピラミッド群に比べると規模は小さい。さらにピラミッド自体は激しく風化が進んでおり、高さは20数メートルに減少している。ピラミッドは形が崩れ、石の小山のようになっているが、周辺施設は[[ドイツ]]の考古学者[[ルートヴィヒ・ボルヒャルト]]率いる調査隊による修復作業が施され、中でも河岸神殿までの参道が再現されたことにより、ピラミッドを中心とするピラミッド複合的としての姿が明らかになっている。特に河岸神殿はかつての姿をとどめており、装飾が施された赤色[[花崗岩]]の柱などが当時の壮麗な装飾を現在に残す。また、同神殿で発見されたレリーフにはエジプト人と小アジアの人々が乗る船が描かれており、[[レバノン]]との交易の様子が示されていた。交易については、レバノン側で発見されたサフラーの名が記された黄金製の家具金具がその裏付けとなっている。レバノン側から主に輸出されたのは[[レバノン杉]]であり、巨木の少ないエジプトにとってレバノン杉は神殿の重要な建築資材であった。


== 参考文献 ==
== 家族 ==
=== 両親 ===
{{Commonscat|Sahure}}
[[File:PapyrusWestcar photomerge-AltesMuseum-Berlin-5.jpg|thumb|right|340px|[[ウェストカー・パピルス]]。[[エジプト第17王朝|第17王朝]]時代の物であるが、恐らく原本が書かれたのは[[エジプト第12王朝|第12王朝]]の頃であろう。第5王朝の起源についての神話を伝えている。]]
* ピーター・クレイトン『ファラオ歴代誌』[[吉村作治]]監修、藤沢邦子訳、[[創元社]](1999年)
サフラーの父はウセルカフ、母親は{{仮リンク|ケンタカウエス1世|en|Khentkaus I}}であると推定されてきた<ref name="ドドソンヒルトン2012pp64_66">[[#ドドソン, ヒルトン 2012|ドドソン, ヒルトン 2012]], pp. 64-66</ref><ref name="ティルディスレイ2008pp64_65">[[#ティルディスレイ 2008|ティルディスレイ 2008]], pp. 64-65</ref>。この説ではケンタカウエス1世は[[エジプト第4王朝|第4王朝]]の最後の王{{仮リンク|シェプセスカフ|en|Shepseskaf}}の王妃であり、その後ウセルカフと再婚してサフラーの母となったとされた{{efn|group=注釈|この場合, ケンタカウエスは恐らく彼女の最初の夫の死後にウセルカフと再婚したとし{{sfn|Hayes|1978|pp=66-68 & p. 71}}、サフラーと彼の王位継承者ネフェルイルカラー・カカイの母となったとする{{sfn|Rice|1999|p=173}} 。この説はケンタカウエスが''mwt nswt bity nswt bity''と言う称号を負っているという事実に基づいている。この称号は「二人の王の母」と翻訳することができる。付け加えて、[[ウェストカー・パピルス]]の物語で、魔法使いが[[クフ]]王に対し、彼の王家が終わり[[ラー]]神と{{仮リンク|ラージェデト|en|Rededjet}}と名付けられた女から生まれる3人の兄弟のために終わる事、そして彼等が第5王朝の最初の3人の王として君臨するという未来の予言をしている{{sfn|Lichteim|2000|pp=215-220}}。何人かのエジプト学者は、ケンタカウエスはサフラーの母であり、ラーデジェトのモデルになった歴史上の人物であるという説を唱えた。ヴェルナーとエル=アワディのアブシールでの発見の後この説は放棄されたが、ケンタカウエスの本当の役割は確定困難な問題として残った。これは部分的には彼女の称号の翻訳に問題があり、また第4王朝から第5王朝への移行過程の詳細が未だ明瞭ではないためである。シェプセスカフとウセルカフの治世の間に一時的にファラオとなったと見られる{{仮リンク|ジェドエフプタハ|en|Djedefptah}}については特にそうである{{sfn|Hayes|1978|pp=66-68 & p. 71}}}} 。しかしこれは複数の解釈が可能な碑文に基づいたものであり、確証はなかった<ref name="ドドソンヒルトン2012p65">[[#ドドソン, ヒルトン 2012|ドドソン, ヒルトン 2012]], p. 65</ref><ref name="ティルディスレイ2008pp64_65"/>。この説は2000年代の発見によって過去の物であると考えられている{{sfn|El Awady|2006a|pp=192-198}}。


{{仮リンク|ミロスラヴ・ヴェルナー|en|Miroslav Verner}}とタレク・エル=アワディ(Tarek El-Awady)の指導の下、2000年代に行われた[[アブシール]]の{{仮リンク|サフラー王のピラミッド|en|Pyramid of Sahure}}での発掘調査で、第5王朝初期の王家の姿を明らかになった。特に、ピラミッド複合体の河岸神殿と葬祭殿に繋がる参道のレリーフ群によって、サフラーの母親が王妃{{仮リンク|ネフェルヘテペス (ウセルカフ)|label=ネフェルヘテペス2世|en|Neferhetepes (Userkaf)}}{{sfn|El Awady|2006a|pp=192-198}} であることが判明した。彼女のピラミッドが[[ウセルカフのピラミッド]]の真横にある事が示すように、ネフェルヘテペス2世はウセルカフの王妃である{{sfn|Labrousse|Lauer|2000}}。また、このことからほぼ確実にウセルカフはサフラーの父であり、ウセルカフの葬祭殿からサフラーのカルトゥーシュが発見されていることで更に確証が取れている。これは恐らくサフラーが彼の父によって始められた建設事業を完了させたことを示している{{sfn|Labrousse|Lauer|2000}}。
{{先代次代|[[ファラオ|古代エジプト王]]|28代<br>紀元前2491年-紀元前2477年|[[ウセルカフ]]|[[ネフェリルカラー]]}}

{{先代次代|[[エジプト第5王朝]]|2代<br>紀元前2491年-紀元前2477年|[[ウセルカフ]]|[[ネフェリルカラー]]}}
=== 子供 ===
サフラーの王位を継承したのは{{仮リンク|ネフェルイルカラー・カカイ|en|Neferirkare Kakai}}{{efn|group=注釈|最初の王名は即位名であり{{仮リンク|ファラオの五重称号|label="上下エジプトの王"|en|Ancient Egyptian royal titulary}}と呼ばれる。他方は彼の誕生名であり{{仮リンク|ファラオの五重称号|label="ラーの子"|en|Ancient Egyptian royal titulary}}と呼ばれる}}であることが知られている。彼は2005年までサフラーの兄弟であると考えられてきた{{sfn|Verner|2002|p=268}}が、現在は異なる。かつてサフラー王のピラミッドの参道を飾っていたレリーフに、サフラーがラーネフェルとネチェルイルエンラーと言う名の二人の息子の前に座っている姿が描かれているのが、エジプト学者{{仮リンク|ミロスラヴ・ヴェルナー|en|Miroslav Verner}}とタレク・エル=アワディ(Tarek El-Awady)によって発見された{{sfn|El Awady|2006a|pp=208-213}}。ラーネフェルの名前の隣には、「上下エジプトの王ネフェルイルカラー・カカイ」と言うテキストが付け加えられていることから、ラーネフェルがサフラーの息子であり、「ネフェルイルカラー・カカイ」と言う名前で父の死後に即位したことが想定される{{sfn|El Awady|2006a|pp=192-198}} 。ラーネフェルとネチェルイルエンラーはともに「王の長男」という称号を与えられている。ヴェルナーとエル=アワディは、彼等が恐らく双子であり、ネチェルイルエンラーは後に短期間王位を手にした[[シェプセスカラー]]であろうと推測している{{sfn|El Awady|2006a|pp=213-214}}。同じレリーフには更に王妃{{仮リンク|メレトネブティ|en|Meretnebty}}が描かれている{{sfn|El Awady|2006a|pp=198-203}}。故に彼女はサフラーの配偶者であり、ラーネフェル(ネフェルイルカラー・カカイ)とネチェルイルエンラーの母であろう{{sfn|El Awady|2006a|pp=208-213}}。更に3人の息子、ホルエムサフ、ハカラー(Khakare)、ネブアンクラーがサフラーの葬祭殿のレリーフ群に描かれているが、彼等の母親は特定されていない{{sfn|Dodson|Hilton|2004|pp=62-69}}。

== 治世 ==
=== 年代学 ===
[[File:Berlin 122009 020a.jpg|thumb|right|350px|シリアから帰還するエジプト船を描いたサフラーの葬祭殿のレリーフ。]]
サフラーの相対年代は歴史的記録と同時代の製品により十分に確立されている。これらの記録はサフラーがウセルカフの跡を継ぎ、サフラーの地位はネフェルイルカラー・カカイが継承したことを示している{{sfn|von Beckerath|1999|pp=56-57|location=king number 2}}。[[エジプト第19王朝|ラムセス時代]](前1292-前1189)初期の[[エジプト第19王朝|第19王朝]]の時に作られた[[トリノ王名表]]は、サフラーに12年5ヶ月12日間の統治年数を割り当てている。一方、[[パレルモ石]]として知られる第5王朝の同時代に近い時期の年代記は、彼の治世第2、3、5、6年が記録されており、同様に在位最後の年と、命日として{{仮リンク|播種季 (エジプト)|label=シェム II|en|Season of the Harvest}}月(9月)28日が記載されている{{sfn|Wilkinson|2000|p=259}}{{sfn|Breasted|1906|p=70}}。この文書は6回か7回の{{仮リンク|畜牛頭数調査 (エジプト)|label=畜牛頭数調査|en|Cattle count (Egypt)}}を記録する。この年代記は第5王朝の初期の物であると考えられるので、古王国時代の畜牛頭数調査が隔年(2年に1回)行われていたとするならば、この記録は少なくても12年間の在位期間があったことを示唆する{{sfn|Verner|2001|p=391}}<ref group="注釈">畜牛頭数調査は、納税額を確定するために行われていたもので、古王国時代は2年に1回実施されていたと考えられている。</ref>。もしこの仮定が正しいとし、ウィルキンソンが考えるようにサフラー治世の証明可能な最も新しい年次は7回目ではなく、6回目の畜牛頭数調査の後の年とするならば{{sfn|Wilkinson|2000|p=168}} 、これはサフラーが彼の治世第13年に死去した事を意味し、彼には13年5ヶ月12日の治世年数が割り当てられるべきである。この数字はトリノ王名表の12年という数値より1年長いだけである。また、紀元前3世紀に[[マネト]]が記したエジプトの歴史書『[[マネト|エジプト史]]』の13年と言う数字に近い{{sfn|Wilkinson|2000|p=168}}。

サフラーは更に二つの歴史記録に登場する。[[トトメス3世]](前1479-前1425)中に作成された{{仮リンク|カルナック王名表|en|Karnak king list}}の3番目と、[[ラムセス2世]](前1279-前1213)時代の{{仮リンク|サッカラ王名表|en|Saqqara Tablet}}の26番目にサフラーの名前が記載されているのである{{sfn|Baker|2008|pp=343-345}}。この二つの資料はどちらも彼の治世年数を記載していない。サフラーの治世の絶対年代ははっきりしないが、大多数の学者は紀元前25世紀の前半に位置付けている{{efn|group=注釈|name=SahureDates2|サフラーの在位年として提案されている説: 前2506-前2492,{{sfn|Redford|2001|location=entry "Fifth Dynasty"}} 前2496-前2483,{{sfn|Walters Art Museum website|2015}} 前2491-前2477,{{sfn|Clayton|1994|pp=60-63}} 前2487-前2475,{{sfn|Rice|1999|p=173}}{{sfn|Malek|2000|pp=83-85}}{{sfn|Baker|2008|pp=343-345}}{{sfn|Sowada|2009|p=3}} 前2471-前2458,{{sfn|von Beckerath|1999|p=283}} 前2458-前2446,{{sfn|MET|2015}}{{sfn|Allen ''et al.''|1999|p=XX}} 前2428-前2416,{{sfn|Hornung|2012|p=491}}}}{{sfn|Baker|2008|pp=343-345}}。

=== 対外活動 ===
;交易と貢物
[[File:Sahure Wadi Maghara.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|ワジ・マグハレフ|en|Wadi Maghareh}}にあるサフラーのレリーフ{{sfn|Gardiner|Peet|Černý|1955|p=15}}{{sfn|Sethe|1903|p=32}}。]]
歴史的記録と現存する建造物によって、サフラーの治世に外国との接触が数多くあったことが示されている。付け加えて、これらの接触は本質的には軍事的な支配では無く、大部分経済的な動機を持つものであったように思われる。彼のピラミッド複合体のレリーフから、彼が100[[キュビット]](約50メートル)のロングボートの船団を含む海軍を保有していた事を読み取ることができ、そのうちの一部は貴重な[[レバノンスギ|レバノン杉]]の丸太を満載してレバノンから帰還している姿が描かれている{{sfn|Lehner|2008|pp=142-144}} 。別の船団は「アジア系{{efn|group=注釈|エジプト学の文脈において、「アジア系」と言う用語は[[カナン]]、つまり現在の[[レバノン]]と現代の[[トルコ]]南岸の人々に言及する際に使用される。}} 」の大人と子供を乗せている事が表されている。彼らは恐らく奴隷である{{sfn|Clayton|1994|pp=60-63}}{{sfn|Baker|2008|pp=343-345}}{{sfn|Hayes|1978|pp=66-67}}。一つのユニークなレリーフは恐らく同様に海軍遠征隊が[[レヴァント]]海岸から連れ帰って来たレリーフは数匹の{{仮リンク|シリアヒグマ|en|Syrian brown bear}}を描いている。この熊たちはシリアからの12個の赤く塗装された片手付壺と関連付けられていることから、貢物の一部であろう{{sfn|Sowada|2009|p=160 and Fig. 39}}{{sfn|Smith|1971|p=233}}。

[[ビュブロス]]との貿易上の接触はサフラーの治世中のことであり、{{仮リンク|バーラト・ゲバル|en|Ba`alat Gebal}}の神殿の発掘調査では裏付けとなるサフラーの名前を刻んだ[[アラバスター]]製の鉢が見つかっている{{sfn|Baker|2008|pp=343-345}}。第5王朝時代のエジプトとレヴァントとの広範な貿易は更に別の証拠、レバノンから見つかったこの王朝の王のカルトゥーシュを刻んだ多数の石船によって裏付けられている。最後に、サフラーのカルトゥーシュを持った木製の玉座に張り付けられていた薄い金の欠片がある。これは[[トルコ]]での違法な発掘の際に見つかり、「ドラクの宝物」として知られる宝物群の一部であると主張されている{{sfn|Clayton|1994|pp=60-63}}{{sfn|Smith|1965|p=110}} 。しかし現在ではこの宝物の存在は疑わしいとされている{{sfn|Mazur|2005}}。

彼の在位最後の年、サフラーは伝説の[[プント国]]への記録に残る最初{{sfn|Sowada|2009|p=198}}の遠征隊を派遣した{{sfn|Hawass|2003|pp=260-263}}。この遠征隊は80,000尺{{訳語疑問点|date=2017年5月}}(measures)の[[没薬]](ミルラ myrrh)と共に[[マラカイト]]、{{仮リンク|エレクトラム|en|electrum}}を持ち帰ったと言われている{{sfn|Baker|2008|pp=343-345}}。このため、サフラーはエジプト[[海軍]]を創設したとされる事がよくある。しかしながら、現在では先行するエジプトの王達も外洋海軍を持っていた事が知られている。特に[[クフ]]の時代には知られている限り最も古い[[紅海]]の港、{{仮リンク|ワジ・アル=ジャルフ|en|Wadi al-Jarf}}が運用されていた{{sfn|Tallet|2012}}。それでも、サフラー王のピラミッド複合体の遺構から見つかったレリーフ群は、「エジプトの海上船舶の初めての明確な描写(first definite depictions of seagoing ships in Egypt)」(シェリー・ワクスマン Shelley Wachsmann)である{{sfn|Wachsmann|1998|p=12}}。

彼の在位最後の年、サフラーは別の国外遠征隊も派遣している。これは[[シナイ]]にある{{仮リンク|ワジ・マグハレフ|en|Wadi Maghareh}}{{sfn|Gardiner|Peet|Černý|1955|p=15}}{{sfn|Strudwick|2005|p=135, text number 57}} とワジ・ハリト(Wadi Kharit)の[[銅]]と[[トルコ石]]の鉱山へのものであった。この地への遠征は少なくても[[エジプト第3王朝|第3王朝]]時代に始められて以来続いていた{{sfn|Mumford|1999|pp=875-876}}。この遠征隊は6,000ユニット{{訳語疑問点|date=2017年5月}}(Units)の銅をエジプトへ持ち帰り、またシナイに二つのレリーフを作った。片方はサフラーがアジア人{{sfn|Baker|2008|pp=343-345}}を打ち据える伝統的な描写のものであり、もう片方は「偉大な神が全てのアジアの国々を討った」と誇示している{{sfn|Breasted|1906|pp=108-110}}。

;軍事遠征
[[File:Egyptian - Royal Seal of King Sahure - Walters 571748 - Side D.jpg|thumb|right|100px|サフラー王の銀製シリンダーシール。[[ウォルターズ美術館]]。{{sfn|Walters Art Museum website|2015}}]]
サフラーの軍歴は主として彼の葬祭殿のレリーフから知られている。それは明らかに[[リビア砂漠|西部砂漠]]での[[リビア人]]に対する軍事遠征が描かれている。この軍事遠征では様々な家畜を奪い、サフラーが現地の酋長を打つ姿がレリーフに描かれている。[[パレルモ石]]はこれらの出来事を裏付け、またシナイと異国の地プントへの遠征に言及する。しかしながら、これらと同じリビア人を攻撃する場面が200年後の[[ペピ2世]](前2284-前2184 BC)の葬祭殿と、サフラーの生きていた時代から大体1800年後の{{仮リンク|カワ (エジプト)|label=カワ|en|Kawa, Egypt}}にある[[タハルカ]]の神殿でも使用されている。特に現地の酋長達には同じ名前が使用されている。従って、サフラーもまた、より昔の同じ場面をコピーしていた可能性がある{{sfn|Baines|2011|pp=65-66}}{{sfn|Kuiper|2010|p=48}}。

=== エジプト国内での活動 ===
パレルモ石に記録されているエジプト国内でのサフラーの行動の大半は本質的に宗教に関するものである。石は彼の治世第5年の恐らく{{仮リンク|ヘリオポリス (古代エジプト)|label=ヘリオポリス|en|Heliopolis (Ancient Egypt)}}の聖なる艀の建設と、王によって定められた[[ラー]]、[[ハトホル]]、[[ネクベト]]、[[ウアジェト]]に対する日々の供物の正確な量、そして様々な神殿への寄進について述べている{{sfn|Breasted|1906|pp=108-110}}。
考古学的な証拠は、サフラーの建築活動が彼は自身のピラミッドを建設したアブシールに集中している事を示している。そのすぐそばに恐らく彼の太陽神殿が位置していた{{sfn|Verner|Zemina|1994|p=110}} 。この太陽神殿は第5王朝時代に作られた2番目の太陽神殿であり、未だ位置が特定されていない。その神殿はパレルモ石にある奉献碑文で知られており、「セケト・ラー(Sekhet Re)」とよばれていた。これは「ラーの平野」と言う意味である{{sfn|Breasted|1906|pp=108-110}}。かつて神殿を飾ったレリーフのある石灰岩のブロックが僅かにサフラーの4代後の後継者{{仮リンク|ニウセルラー|en|Nyuserre Ini}}の葬祭殿に埋め込まれているのが発見されている{{sfn|Verner|Zemina|1994|p=110}}。これは、石灰岩のブロックが太陽神殿の建設時に残っていたか、或いはそれが未完成であったためニウセルラーがサフラーの神殿を建設資材の採石場として利用していたことを示している{{sfn|Verner|Zemina|1994|p=110}}。

サフラーの「ウェトジェス・ネフェル・サフラー(Uetjes Neferu Sahure サフラーの栄光は天へと昇る)」と呼ばれていた王宮は、2011年2月に{{仮リンク|ネフェルエフラー|en|Neferefre}}の葬祭殿で発見された[[ヘット]]の容器に刻まれた碑文から知られている{{sfn|Verner|2012|pp=16-19}}。その神殿は恐らくアブシール湖の湖岸にあった{{sfn|Verner|2003|p=150}}。{{仮リンク|エルカブ|en|Elkab}}では2015年に王の名前を持つ彫像の断片が発見された<ref>[http://pastpreserversnews.tumblr.com/post/117598703598/photos-courtesy-of-the-ministry-of-antiquities Past Preserves News] Dirk Huyge: ''King Sahure in Elkab'', in ''Egyptian Archaeology'', 50, Spring 2017, pp. 41-43</ref>。

南エジプト、下[[ヌビア]]の[[アブシンベル]]の北西にある[[閃緑岩]]の採石場で、サフラーの名前がある碑文が発見された{{sfn|Smith|1971|p=167}}。更に南でも、サフラーのカルトゥーシュが、トゥマス(Tumas)の落書きや{{仮リンク|ナイル川第2急湍|en|Cataracts of the Nile}}の{{仮リンク|ブヘン|en|Buhen}}で発見された印影から見つかっている{{sfn|Petrie Museum, online catalog, seal UC 21997|2015}}{{sfn|Petrie Museum, online catalog, seal UC 11769|2015}}{{sfn|List of attestations of Sahure|2000}}。

== ピラミッド複合体 ==
{{main|サフラー王のピラミッド}}
[[Image:SahurePyramid.jpg|thumb|right|250px|サフラーのピラミッド跡をピラミッドの参道から見る]]
サフラーの葬祭複合体の主ピラミッドはその規模と品質におけるピラミッド建築の衰退を例示する。だが、付属する葬祭殿はその当時までに作られた最も洗練されたものであると考えられている{{sfn|Baker|2008|pp=343-345}}。
ヤシ柱の使用のような多くの建築的革新により、サフラーの複合体の全体的なレイアウトは、サフラーの治世以後、古王国の終焉まで300年余りにわたり、葬祭複合体建築のテンプレートとなった{{sfn|Lehner|2008|pp=142-144}}。

=== 位置 ===
サフラーは彼のピラミッドの建設場所に[[アブシール]]を選んだ。これによってその時まで王家のネクロポリスであった[[サッカラ]]と[[ギーザ]]はいずれも放棄された。このサフラーの決定はアブシールにあったウセルカフの太陽神殿に触発されたものである可能性がある{{sfn|Krecji|2003|p=281}}。

=== 葬祭殿 ===
サフラーの葬祭殿は推定10,000平方メートルにわたり精緻なレリーフで全面的に装飾されていた。神殿の壁を飾っていた残存する数多くのレリーフの断片は先行する葬祭殿よりも非常に高品質であり、遥かに精巧である{{sfn|Clayton|1994|pp=60-63}}{{sfn|Borchardt|1910|p=Plate (Blatt) 9}}。神殿と参道の複数のレリーフはエジプト美術の中でもユニークである。これらのレリーフはサフラーが彼の宮殿で家族の前でミルラの木を世話していることを描写し{{sfn|El Awady|2006b|p=37}} 、またヒグマを描いた物、主ピラミッドにピラミディオンを持っていく光景を描いた物、そして施設完成後のセレモニーを描いた物がある。葬祭殿と河岸神殿の数多くのレリーフはまた、{{仮リンク|セシャト|en|Seshat}}女神の横か正面で外国人を数えている姿や、エジプト船の[[アジア]]、つまり恐らくは[[ビュブロス]]からの帰還を描いている物が目を引く。赤い[[花崗岩]]でできた低層のレリーフ片のいくつかは、まだ現地にある{{sfn|Brinkmann|2010|location=Book abstract, English translation [http://artdaily.com/index.asp?int_sec=2&int_new=38807 available online]}}サフラーの礼拝のために作られた参道の上部部分を飾っていた、150人以上の葬儀区域の行列をかたどっているレリーフ群は、王達の葬儀のための洗練された経済システムの存在を実証している{{sfn|Khaled|2013}}。

この葬祭殿はエジプト初のヤシ柱の列柱{{sfn|Lehner|2008|pp=142-144}} 、銅が重ねられたサフラーの称号を刻んだ巨大な花崗岩の台輪{{訳語疑問点|date=2017年5月}}(architrave)、黒い玄武岩の床、花崗岩の腰羽目{{訳語疑問点|date=2017年5月}}(dados)を特徴とする{{sfn|Lehner|2008|pp=142-144}}。

=== ピラミッド ===
サフラーはギザの南にあるアブシールにピラミッドを建造した。これは建設当時47メートルの高さであったことが判明しており、[[エジプト第4王朝|第4王朝]]の先行するピラミッド群に比べてかなり小さい。その中核部分は階段状に構築された荒く切り取られた石と、各部に充填された分厚い泥のモルタルで造られている。この建造技法は第4王朝時代の石造ベースの技術に比べてずっと安く早く施工することができたが、経年劣化は遥かに早かった。このため、サフラーのピラミッドは現在では、瓦礫の山と言うほどではないにせよ大きく崩壊している。また、このピラミッドは古代に外装材の石が盗まれたことで中枢を構成する粗末な破片とモルタルの充填材が露出している{{sfn|Lehner|2008|pp=142-144}}。石の小山のようになっているピラミッドであるが、周辺施設はドイツの考古学者ルートヴィヒ・ボルヒャルト率いる調査隊による修復作業が施され、中でも河岸神殿までの参道が再現されたことにより、ピラミッドを中心とするピラミッド複合的としての姿が明らかになっている。特に河岸神殿はかつての姿をとどめており、装飾が施された赤色花崗岩の柱などが当時の壮麗な装飾を現在に残す。

[[File:Sahure-Pyramid - Temple 05.jpg|thumb|left|300px|サフラー葬祭殿の中庭にある彼の称号が刻まれた巨大なピンク色の花崗岩製の台輪。]]
中核部の建設中、立坑の中への回廊は開かれていた。埋葬室{{訳語疑問点|date=2017年5月}}(grave chamber)は別に建造され、その後余った石塊と瓦礫で埋められた。この建設工程は後世の未完成のピラミッド群、特に{{仮リンク|ネフェルエフラー王のピラミッド|en|Pyramid of Neferefre}}からはっきりと見て取る事ができる{{sfn|Lehner|2008|pp=142-144}}。この技術はまた、第4王朝時代の[[ダハシュール]]とギーザの5つの大ピラミッドの建築家達によって一時的に放棄された[[エジプト第3王朝|第3王朝]]時代の古いスタイルに表面上は回帰していることを示している{{sfn|Lehner|2008|pp=142-144}}。

北側のエントランスは赤い花崗岩が並ぶ短い下り廊下に続いて、巨大な石灰岩の梁で構成される[[妻側|切妻屋根]]{{訳語疑問点|date=2017年5月}}(gabled roof comprising large limestone beams)の埋葬室で終わる廊下がある。現在、これらの梁は損傷を受けておりピラミッドの構造体は弱体化している。19世紀半ばに{{仮リンク|ジョン・シェイ・ペリング|en|John Shae Perring}}が初めて入った時、[[サルコファガス]](石棺)の断片がこの埋葬室で発見されている{{sfn|Lehner|2008|pp=142-144}}。サフラーの神殿の巨大な屋根のブロックはペリングの推定では約220トンの重量がある。彼は最も大きなブロックは10.6メートルx2.7メートルx3.6メートル(35 feet by 9 feet by 12 feet)の大きさがあると推定した。これらのブロックの先端部分は薄くなっており、推定容積は95立方メートルまたは、2.4トンである{{sfn|Edwards|1972|pp=175-176, 180-181 & 275}}。ピラミッド周辺の葬祭複合体はまた、この王の魂({{仮リンク|カー|en|Ancient Egyptian concept of the soul}})のために建てられた第二ピラミッドを含む。

== 宮廷の役人達 ==
サフラーが生きている間に仕えた数多くの役人達が、以下に示すように彼らの墓によって知られている。
*'''ニアンクセクメト'''(Niankhsekhmet):サフラーの主治医。彼は王に{{仮リンク|偽扉|en|False door}}を彼の墓に作る事を頼み、王は同意した。{{sfn|Breasted|1906|pp=108-109}} 。サフラーは{{仮リンク|トゥラ (エジプト)|label=トゥラ|en|Tura, Egypt}}産の石灰岩から切り出され、彼の名{{訳語疑問点|date=2017年5月}}を青く塗装した精緻な偽扉を持っていた<!-- 原文 carved and painted blue in his presence. 翻訳文として正しいか疑問です。his presenceがうまく日本語に訳せません。サフラーの偽扉は赤地の石灰岩に青地の文字が刻み込まれた物なので、his presence = 彼の存在 = 彼の名前 と訳しましたが識者の改訂を望みます。2017/05/28 -->{{sfn|Rice|1999|p=173}}{{sfn|Ghaliounghui|1983|p=69}}。王は彼の主治医の長寿を願い、「神々が余を愛するが故に、余の鼻孔が健康を楽しめるようにして下さる。そのためにそなたがこの墓地に入るのは敬われるべき老齢の時であろう。」と伝えている{{sfn|Breasted|1906|pp=108-109}}{{sfn|Sethe|1903|p=38}}。
*'''ペヘネウカイ'''(Pehenewkai):サフラーとネフェルイルカラー・カカイ治世時代のウセルカフの葬祭神官。後者の治世時には宰相になった{{sfn|Sethe|1903|p=48}}。
*'''ペルセン'''(Persen):'''ペリセン'''(Perisen)としても知られる。彼はサフラーの母親ネフェルヘテペスの葬儀の際の葬祭神官であった。彼の[[マスタバ]]墓はサッカラの{{仮リンク|ウセルカフ王のピラミッド|label=ネフェルヘテペスのピラミッド|en|Pyramid of Userkaf#Pyramid complex of Queen Neferhetepes}}の隣にある{{sfn|El Awady|2006a|pp=192-198}}{{sfn|Breasted|1906|pp=109-110}}{{sfn|Lauer|Flandrin|1992|p=122}}。
*'''{{仮リンク|プタハシェプセス|en|Ptahshepses}}''':恐らく[[メンカウラー]]の治世の間に生まれた。プタハシェプセスは[[プタハ]]大司祭であり王家の美容師{{訳語疑問点|date=2017年5月}}(royal manicure)であった。後にニウセルラー・イニ王の治世下で宰相へと昇った{{sfn|:en:Online catalog of the British Museum}}。
*'''{{仮リンク|セケムカラー (宰相)|label=セケムカラー|en|Sekhemkare (Vizier)}}''':王子。[[カフラー]]の息子であり、ウセルカフとサフラーの時代の宰相{{sfn|Redford|2001|location=entry "Fifth Dynasty"}}。
*'''ワシュプタハ'''(Washptah):サフラーが生きた時代には神官。後にネフェルイルカラー・カカイの{{仮リンク|宰相 (エジプト)|label=宰相|en|Vizier (Ancient Egypt)}}。サッカラのマスタバに埋葬された{{sfn|Sethe|1903|p=40}}。
*'''{{仮リンク|ウェルバウバ|en|Werbauba}}''':サフラー治世下の宰相。そのことは葬祭殿が証明している{{sfn|Schneider|2002|pp=243-244}}{{sfn|List of viziers|2000}} 。セケムカラーとは異なり、王族ではないと思われる。このことはサフラーが非王族を高官に抜擢するというウセルカフの方針を引き継いで追及していたことを示す{{sfn|Schneider|2002|pp=243-244}}{{sfn|Dorman|2014}}。

== 遺産 ==
=== 古王国時代 ===
サフラーが最初に残した遺産は彼の葬祭儀式である。これは彼の死後古王国が終焉を迎えるまで300年以上続いた。この儀式に必要な物資を供給するため、合計22の農場が設立された{{sfn|Schneider|2002|pp=243-244}} 。第5王朝の後半と第6王朝の間、この葬祭儀式かサフラーの太陽神殿に仕えていた何人もの神官達が、サッカラとアブシールにある墓の碑文や製品のおかげで知られている{{sfn|Wildung|2010|pp=275-276}}。

*'''アトジェマ'''(Atjema):[[エジプト第6王朝|第6王朝]]時代のサフラーの太陽神殿の神官{{sfn|Allen ''et al.''|1999|pp=456-457}}。
*'''クウイエムスネウィ'''(Khuyemsnewy):ネフェルイルカラー・カカイとニウセルラー・イニの治世下でサフラーに奉じた神官。彼はまたネフェルイルカラー・カカイの太陽神殿のラーと[[ハトホル]]の神官であり、ネフェルイルカラーの神官、ニウセルラー・イニとネフェルイルカラー・カカイのピラミッド複合体の神官、「二つの穀物庫の長官{{訳語疑問点|date=2017年5月}}(Overseer of the Two Granaries)」でもあった{{sfn|Hayes|1978|p=106}}。
*'''ニカラー'''(Nikare):サフラーの葬儀神官及び第5王朝時代の穀物管理官の長{{訳語疑問点|date=2017年5月}}(overseer of the scribes of the granary)であった。
*'''セネウアンク'''(Senewankh):ウセルカフとサフラーの葬儀神官。サッカラのマスタバに埋葬された{{sfn|Sethe|1903|p=36}}。
*'''セドゥアグ'''(Sedaug):サフラーの葬儀神官、ウセルカフの太陽神殿のラー神官であり王の知人の称号を持つ。ギーザに埋葬された{{sfn|Junker|1950|pp=107-118}}。
*'''テペムアンク'''(Tepemankh):第4王朝とウセルカフとサフラーを含む第5王朝初期の王達の葬儀神官。アブシールのマスタバに埋葬された{{sfn|Allen ''et al.''|1999|p=404}}{{sfn|Strudwick|2005|p=248, text number 173}}{{sfn|Sethe|1903|p=33}}。
サフラーの別の遺産は彼のピラミッド複合体である。そのレイアウトはその後の古王国のピラミッド複合体のテンプレートとなり、ヤシ柱のような建築要素はエジプト建築の特徴となった{{sfn|Lehner|2008|pp=142-144}}{{sfn|Hayes|1978|p=68}}{{efn|group=注釈|サフラーのピラミッド複合体における標準的な研究成果はブルシャルト(Borchardt)の発掘報告書である。これはオンラインで全て取得することができる{{sfn|Borchardt|1910}}。}}。

=== 中王国時代 ===
[[File:Sahure Karnak.png|thumb|right|250px|{{仮リンク|センウセルト1世|en|Senusret I}}によって建造が命じられた玉座に座るサフラーの像。]]
[[エジプト第12王朝|第12王朝]](前1991-前1802)の初期、[[エジプト中王国|中王国時代]]が始まった時、ファラオ・{{仮リンク|センウセルト1世|en|Senusret I}}(前1971-前1926)はサフラーの像を造らせた。この像は[[カルナック]]の神殿にあり、恐らく亡き王達の群像の一部であったであろう{{sfn|Wildung|1969|pp=60-63}}{{efn|group=注釈|この群像の別の像が{{仮リンク|大アンテフ|en|Intef the Elder}} の像である{{sfn|Legrain|1906|pp=4-5 & pl. III}}。}}。

このサフラー像は現在[[カイロ]]の[[エジプト考古学博物館]]にある(カタログナンバー CG42004)。像は黒い[[花崗岩]]でできており、50センチメートルの高さである。サフラーはプリーツスカートとラウンドカーリーの付け毛を身に着けて玉座に座っている。玉座の両サイドにサフラーの彫像を造らせたのがセンウセルト1世であることを示す碑文がある{{sfn|Legrain|1906|pp=3-4}}。

サフラーが中王国時代の間忘れ去られる事がなかった証は[[ウェストカー・パピルス]]であり、これは第12王朝時代に書かれた。このパピルスは第5王朝の起源についての神話的な物語を伝えており、ウセルカフ、サフラー、ネフェルイルカラー・カカイを[[ラー]]と{{仮リンク|ラーデジェト|en|Rededjet}}と言う名の女性の間の3人兄弟として登場させている{{sfn|Lichteim|2000|pp=215-220}}。

=== 新王国時代とその後 ===
{{Commons category|Sahure}}
{{Commons category|Pyramid of Sahure}}
故王として、サフラーは新王国時代も引き続き宗教的供物を受けた。これを最も良く示す証拠は、[[エジプト第18王朝|第18王朝]]のトトメス3世の時代にカルナック神殿の壁に刻まれた王の祖先のリストである「カルナック王名表」である。古代エジプトの他の王名表とは異なり、このリストは年代順に並べられていない。その理由はこのリストの目的が歴史の記録ではなく純粋に宗教的な物、即ちカルナック神殿でかつての王達の名を尊崇の対象とすることであったことである{{sfn|Wildung|1969|pp=60-63}}。

第19王朝時代、[[ラムセス2世]]の王子{{仮リンク|カエムワセト1世|en|Khaemwaset}}は、エジプト全土の荒廃したピラミッドと神殿の修復作業を請け負った。サフラーのピラミッドの覆いの石にある碑文は、それがこの時に修復されたことを示している{{sfn|Wildung|2010|pp=275-276}}{{sfn|Wildung|1969|p=170}} 。これは第18王朝の半ばから、サフラーの葬祭殿が[[セクメト]]女神の聖域となったことによる可能性がある{{sfn|Verner|2001|p=393}}。第18王朝の後半と第19王朝の時代、数々の訪問者が神殿内に碑文、石碑、像を残した。{{sfn|Borchardt|1910|p=101}} 、[[エジプト第26王朝|第26王朝]](前664-前525)から[[プトレマイオス朝]](前332-前30)までの落書きによって示されるように、この慣習は長い間この地で続いたように思われる{{sfn|Wildung|2010|pp=275-276}}{{sfn|Wildung|1969|p=198}}。

== 注釈 ==
{{notelist|group=注釈}}

== 脚注 ==
{{Reflist|30em}}

== 参考文献 ==
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*{{cite book|last=Wilkinson|first=Toby|author-link=:en:Toby Wilkinson|year=2000|title=Royal Annals of Ancient Egypt|publisher=Columbia University Press|isbn=978-0-7103-0667-8|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=ジョイス・ティルディスレイ |authorlink=:en:Joyce Tyldesley |others=[[吉村作治]]監修、月森左知訳 |title=古代エジプト女王・王妃歴代誌 |publisher=[[創元社]] |date=2008-06 |isbn=978-4-422-21519-8 |ref=ティルディスレイ 2008 }}


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2017年6月14日 (水) 13:56時点における版

サフラー
セフレス (マネト)
片麻岩製のサフラー像頭部。ニューヨーク、メトロポリタン美術館ギャラリー103番。[1][2][3]
片麻岩製のサフラー像頭部。ニューヨーク、メトロポリタン美術館ギャラリー103番。[1][2][3]
古代エジプト ファラオ
統治期間 期間:13年5ヶ月12日間、紀元前25世紀初頭。[注釈 1]第5王朝
前王 ウセルカフ
次王 ネフェルイルカラー・カカイ
配偶者 メレトネブティ英語版[16]
子息 ラーネフェル (ネフェルイルカラー・カカイとして即位した), ネチェルイルエンラー (恐らくシェプセスカフと同一人物)、ホルエムサフ、ラーエムサフ、カカラー、ネブアンクラー[17]
ウセルカフ
ネフェルヘテペス2世英語版
埋葬地 サフラー王のピラミッド英語版
記念物 サフラー王のピラミッド英語版 「立ち上るサフラーのバー[18]アブシール
太陽神殿 「ラー神の平野」"
宮殿 「サフラーの栄光は天へと上る」
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サフラー(ラー神の傍にある者、の意)は第5王朝2代目の古代エジプトファラオ。彼は紀元前25世紀初頭に12年間前後統治した。 サフラーはエジプト古王国の王の中で最も重要な王の一人であると考えられている。彼の治世は第5王朝の政治的、経済的な絶頂期であった[19]。彼は恐らく前王ウセルカフと王妃ネフェルヘテペス2世英語版の息子である。また、彼の地位は息子のネフェルイルカラー・カカイによって継承された。

サフラーの在位中、エジプトはレヴァント海岸と重要な貿易関係を持っていた。サフラーは貴重な杉や人々(恐らく奴隷)や珍奇な品々を得るために、現在のレバノンへ複数回の海上遠征を実施している。彼はまた、プント国への遠征を命じた。この遠征は実際に実施された事が証明されているプント国への遠征の中では最も古い。これによって膨大な量の没薬(ミルラ myrrh)、マラカイトエレクトラム英語版が持ち帰られた。サフラーはこの冒険の成功を彼の葬祭殿にあるレリーフの中で祝賀している。そのレリーフには、「サフラーの栄光は天へと昇る」と名付けられた彼の宮殿の庭で、ミルラの木の世話をする彼の姿が描かれている。これはエジプトの美術において王がガーデニングをする姿を描いた唯一の物である。サフラーは更にシナイにあるトルコ石の鉱山へ遠征隊を送った。彼はまた、恐らく西部砂漠のリビア人の酋長に対する軍事遠征を命じ、家畜をエジプトに連れ帰っている。

サフラーはアブシールに自身のピラミッド築き、前任者達がピラミッド群を建設したサッカラギーザの王室のネクロポリスは放棄された。この決定は恐らく、アブシールにあるウセルカフの太陽神殿に触発されたものである。ウセルカフの太陽神殿は、第5王朝で建設された最初の太陽神殿である。サフラー王のピラミッド英語版は先行する第4王朝のピラミッド群に比べて遥かに小さいが、付属する葬祭殿の装飾はより精巧になっている。彼のピラミッド複合体の参道と葬祭殿はかつて10,000平方メートル以上の精緻なレリーフで飾られており、そのことで古代では有名になっていた。サフラーのピラミッド複合体の建築家達はヤシ柱(ヤシの葉を模した柱頭がある柱)の列柱を導入した。これはすぐに古代エジプトの建造物を特徴づける物となった。サフラーはまた「ラー神の平野」と呼ばれる太陽神殿を建設したことが知られているが、ピラミッド同様にアブシールにあるであろうその場所は未だ特定されていない。

家族

両親

ウェストカー・パピルス第17王朝時代の物であるが、恐らく原本が書かれたのは第12王朝の頃であろう。第5王朝の起源についての神話を伝えている。

サフラーの父はウセルカフ、母親はケンタカウエス1世英語版であると推定されてきた[20][21]。この説ではケンタカウエス1世は第4王朝の最後の王シェプセスカフの王妃であり、その後ウセルカフと再婚してサフラーの母となったとされた[注釈 2] 。しかしこれは複数の解釈が可能な碑文に基づいたものであり、確証はなかった[24][21]。この説は2000年代の発見によって過去の物であると考えられている[25]

ミロスラヴ・ヴェルナー英語版とタレク・エル=アワディ(Tarek El-Awady)の指導の下、2000年代に行われたアブシールサフラー王のピラミッド英語版での発掘調査で、第5王朝初期の王家の姿を明らかになった。特に、ピラミッド複合体の河岸神殿と葬祭殿に繋がる参道のレリーフ群によって、サフラーの母親が王妃ネフェルヘテペス2世英語版[25] であることが判明した。彼女のピラミッドがウセルカフのピラミッドの真横にある事が示すように、ネフェルヘテペス2世はウセルカフの王妃である[26]。また、このことからほぼ確実にウセルカフはサフラーの父であり、ウセルカフの葬祭殿からサフラーのカルトゥーシュが発見されていることで更に確証が取れている。これは恐らくサフラーが彼の父によって始められた建設事業を完了させたことを示している[26]

子供

サフラーの王位を継承したのはネフェルイルカラー・カカイ[注釈 3]であることが知られている。彼は2005年までサフラーの兄弟であると考えられてきた[27]が、現在は異なる。かつてサフラー王のピラミッドの参道を飾っていたレリーフに、サフラーがラーネフェルとネチェルイルエンラーと言う名の二人の息子の前に座っている姿が描かれているのが、エジプト学者ミロスラヴ・ヴェルナー英語版とタレク・エル=アワディ(Tarek El-Awady)によって発見された[28]。ラーネフェルの名前の隣には、「上下エジプトの王ネフェルイルカラー・カカイ」と言うテキストが付け加えられていることから、ラーネフェルがサフラーの息子であり、「ネフェルイルカラー・カカイ」と言う名前で父の死後に即位したことが想定される[25] 。ラーネフェルとネチェルイルエンラーはともに「王の長男」という称号を与えられている。ヴェルナーとエル=アワディは、彼等が恐らく双子であり、ネチェルイルエンラーは後に短期間王位を手にしたシェプセスカラーであろうと推測している[29]。同じレリーフには更に王妃メレトネブティ英語版が描かれている[30]。故に彼女はサフラーの配偶者であり、ラーネフェル(ネフェルイルカラー・カカイ)とネチェルイルエンラーの母であろう[28]。更に3人の息子、ホルエムサフ、ハカラー(Khakare)、ネブアンクラーがサフラーの葬祭殿のレリーフ群に描かれているが、彼等の母親は特定されていない[16]

治世

年代学

シリアから帰還するエジプト船を描いたサフラーの葬祭殿のレリーフ。

サフラーの相対年代は歴史的記録と同時代の製品により十分に確立されている。これらの記録はサフラーがウセルカフの跡を継ぎ、サフラーの地位はネフェルイルカラー・カカイが継承したことを示している[31]ラムセス時代(前1292-前1189)初期の第19王朝の時に作られたトリノ王名表は、サフラーに12年5ヶ月12日間の統治年数を割り当てている。一方、パレルモ石として知られる第5王朝の同時代に近い時期の年代記は、彼の治世第2、3、5、6年が記録されており、同様に在位最後の年と、命日としてシェム II英語版月(9月)28日が記載されている[32][33]。この文書は6回か7回の畜牛頭数調査英語版を記録する。この年代記は第5王朝の初期の物であると考えられるので、古王国時代の畜牛頭数調査が隔年(2年に1回)行われていたとするならば、この記録は少なくても12年間の在位期間があったことを示唆する[34][注釈 4]。もしこの仮定が正しいとし、ウィルキンソンが考えるようにサフラー治世の証明可能な最も新しい年次は7回目ではなく、6回目の畜牛頭数調査の後の年とするならば[35] 、これはサフラーが彼の治世第13年に死去した事を意味し、彼には13年5ヶ月12日の治世年数が割り当てられるべきである。この数字はトリノ王名表の12年という数値より1年長いだけである。また、紀元前3世紀にマネトが記したエジプトの歴史書『エジプト史』の13年と言う数字に近い[35]

サフラーは更に二つの歴史記録に登場する。トトメス3世(前1479-前1425)中に作成されたカルナック王名表英語版の3番目と、ラムセス2世(前1279-前1213)時代のサッカラ王名表英語版の26番目にサフラーの名前が記載されているのである[9]。この二つの資料はどちらも彼の治世年数を記載していない。サフラーの治世の絶対年代ははっきりしないが、大多数の学者は紀元前25世紀の前半に位置付けている[注釈 5][9]

対外活動

交易と貢物
ワジ・マグハレフ英語版にあるサフラーのレリーフ[36][37]

歴史的記録と現存する建造物によって、サフラーの治世に外国との接触が数多くあったことが示されている。付け加えて、これらの接触は本質的には軍事的な支配では無く、大部分経済的な動機を持つものであったように思われる。彼のピラミッド複合体のレリーフから、彼が100キュビット(約50メートル)のロングボートの船団を含む海軍を保有していた事を読み取ることができ、そのうちの一部は貴重なレバノン杉の丸太を満載してレバノンから帰還している姿が描かれている[18] 。別の船団は「アジア系[注釈 6] 」の大人と子供を乗せている事が表されている。彼らは恐らく奴隷である[6][9][38]。一つのユニークなレリーフは恐らく同様に海軍遠征隊がレヴァント海岸から連れ帰って来たレリーフは数匹のシリアヒグマ英語版を描いている。この熊たちはシリアからの12個の赤く塗装された片手付壺と関連付けられていることから、貢物の一部であろう[39][40]

ビュブロスとの貿易上の接触はサフラーの治世中のことであり、バーラト・ゲバル英語版の神殿の発掘調査では裏付けとなるサフラーの名前を刻んだアラバスター製の鉢が見つかっている[9]。第5王朝時代のエジプトとレヴァントとの広範な貿易は更に別の証拠、レバノンから見つかったこの王朝の王のカルトゥーシュを刻んだ多数の石船によって裏付けられている。最後に、サフラーのカルトゥーシュを持った木製の玉座に張り付けられていた薄い金の欠片がある。これはトルコでの違法な発掘の際に見つかり、「ドラクの宝物」として知られる宝物群の一部であると主張されている[6][41] 。しかし現在ではこの宝物の存在は疑わしいとされている[42]

彼の在位最後の年、サフラーは伝説のプント国への記録に残る最初[43]の遠征隊を派遣した[44]。この遠征隊は80,000尺[訳語疑問点](measures)の没薬(ミルラ myrrh)と共にマラカイトエレクトラム英語版を持ち帰ったと言われている[9]。このため、サフラーはエジプト海軍を創設したとされる事がよくある。しかしながら、現在では先行するエジプトの王達も外洋海軍を持っていた事が知られている。特にクフの時代には知られている限り最も古い紅海の港、ワジ・アル=ジャルフ英語版が運用されていた[45]。それでも、サフラー王のピラミッド複合体の遺構から見つかったレリーフ群は、「エジプトの海上船舶の初めての明確な描写(first definite depictions of seagoing ships in Egypt)」(シェリー・ワクスマン Shelley Wachsmann)である[46]

彼の在位最後の年、サフラーは別の国外遠征隊も派遣している。これはシナイにあるワジ・マグハレフ英語版[36][47] とワジ・ハリト(Wadi Kharit)のトルコ石の鉱山へのものであった。この地への遠征は少なくても第3王朝時代に始められて以来続いていた[48]。この遠征隊は6,000ユニット[訳語疑問点](Units)の銅をエジプトへ持ち帰り、またシナイに二つのレリーフを作った。片方はサフラーがアジア人[9]を打ち据える伝統的な描写のものであり、もう片方は「偉大な神が全てのアジアの国々を討った」と誇示している[49]

軍事遠征
サフラー王の銀製シリンダーシール。ウォルターズ美術館[5]

サフラーの軍歴は主として彼の葬祭殿のレリーフから知られている。それは明らかに西部砂漠でのリビア人に対する軍事遠征が描かれている。この軍事遠征では様々な家畜を奪い、サフラーが現地の酋長を打つ姿がレリーフに描かれている。パレルモ石はこれらの出来事を裏付け、またシナイと異国の地プントへの遠征に言及する。しかしながら、これらと同じリビア人を攻撃する場面が200年後のペピ2世(前2284-前2184 BC)の葬祭殿と、サフラーの生きていた時代から大体1800年後のカワ英語版にあるタハルカの神殿でも使用されている。特に現地の酋長達には同じ名前が使用されている。従って、サフラーもまた、より昔の同じ場面をコピーしていた可能性がある[50][51]

エジプト国内での活動

パレルモ石に記録されているエジプト国内でのサフラーの行動の大半は本質的に宗教に関するものである。石は彼の治世第5年の恐らくヘリオポリス英語版の聖なる艀の建設と、王によって定められたラーハトホルネクベトウアジェトに対する日々の供物の正確な量、そして様々な神殿への寄進について述べている[49]。 考古学的な証拠は、サフラーの建築活動が彼は自身のピラミッドを建設したアブシールに集中している事を示している。そのすぐそばに恐らく彼の太陽神殿が位置していた[52] 。この太陽神殿は第5王朝時代に作られた2番目の太陽神殿であり、未だ位置が特定されていない。その神殿はパレルモ石にある奉献碑文で知られており、「セケト・ラー(Sekhet Re)」とよばれていた。これは「ラーの平野」と言う意味である[49]。かつて神殿を飾ったレリーフのある石灰岩のブロックが僅かにサフラーの4代後の後継者ニウセルラーの葬祭殿に埋め込まれているのが発見されている[52]。これは、石灰岩のブロックが太陽神殿の建設時に残っていたか、或いはそれが未完成であったためニウセルラーがサフラーの神殿を建設資材の採石場として利用していたことを示している[52]

サフラーの「ウェトジェス・ネフェル・サフラー(Uetjes Neferu Sahure サフラーの栄光は天へと昇る)」と呼ばれていた王宮は、2011年2月にネフェルエフラーの葬祭殿で発見されたヘットの容器に刻まれた碑文から知られている[53]。その神殿は恐らくアブシール湖の湖岸にあった[54]エルカブ英語版では2015年に王の名前を持つ彫像の断片が発見された[55]

南エジプト、下ヌビアアブシンベルの北西にある閃緑岩の採石場で、サフラーの名前がある碑文が発見された[56]。更に南でも、サフラーのカルトゥーシュが、トゥマス(Tumas)の落書きやナイル川第2急湍英語版ブヘン英語版で発見された印影から見つかっている[57][58][59]

ピラミッド複合体

サフラーのピラミッド跡をピラミッドの参道から見る

サフラーの葬祭複合体の主ピラミッドはその規模と品質におけるピラミッド建築の衰退を例示する。だが、付属する葬祭殿はその当時までに作られた最も洗練されたものであると考えられている[9]。 ヤシ柱の使用のような多くの建築的革新により、サフラーの複合体の全体的なレイアウトは、サフラーの治世以後、古王国の終焉まで300年余りにわたり、葬祭複合体建築のテンプレートとなった[18]

位置

サフラーは彼のピラミッドの建設場所にアブシールを選んだ。これによってその時まで王家のネクロポリスであったサッカラギーザはいずれも放棄された。このサフラーの決定はアブシールにあったウセルカフの太陽神殿に触発されたものである可能性がある[60]

葬祭殿

サフラーの葬祭殿は推定10,000平方メートルにわたり精緻なレリーフで全面的に装飾されていた。神殿の壁を飾っていた残存する数多くのレリーフの断片は先行する葬祭殿よりも非常に高品質であり、遥かに精巧である[6][61]。神殿と参道の複数のレリーフはエジプト美術の中でもユニークである。これらのレリーフはサフラーが彼の宮殿で家族の前でミルラの木を世話していることを描写し[62] 、またヒグマを描いた物、主ピラミッドにピラミディオンを持っていく光景を描いた物、そして施設完成後のセレモニーを描いた物がある。葬祭殿と河岸神殿の数多くのレリーフはまた、セシャト女神の横か正面で外国人を数えている姿や、エジプト船のアジア、つまり恐らくはビュブロスからの帰還を描いている物が目を引く。赤い花崗岩でできた低層のレリーフ片のいくつかは、まだ現地にある[19]サフラーの礼拝のために作られた参道の上部部分を飾っていた、150人以上の葬儀区域の行列をかたどっているレリーフ群は、王達の葬儀のための洗練された経済システムの存在を実証している[63]

この葬祭殿はエジプト初のヤシ柱の列柱[18] 、銅が重ねられたサフラーの称号を刻んだ巨大な花崗岩の台輪[訳語疑問点](architrave)、黒い玄武岩の床、花崗岩の腰羽目[訳語疑問点](dados)を特徴とする[18]

ピラミッド

サフラーはギザの南にあるアブシールにピラミッドを建造した。これは建設当時47メートルの高さであったことが判明しており、第4王朝の先行するピラミッド群に比べてかなり小さい。その中核部分は階段状に構築された荒く切り取られた石と、各部に充填された分厚い泥のモルタルで造られている。この建造技法は第4王朝時代の石造ベースの技術に比べてずっと安く早く施工することができたが、経年劣化は遥かに早かった。このため、サフラーのピラミッドは現在では、瓦礫の山と言うほどではないにせよ大きく崩壊している。また、このピラミッドは古代に外装材の石が盗まれたことで中枢を構成する粗末な破片とモルタルの充填材が露出している[18]。石の小山のようになっているピラミッドであるが、周辺施設はドイツの考古学者ルートヴィヒ・ボルヒャルト率いる調査隊による修復作業が施され、中でも河岸神殿までの参道が再現されたことにより、ピラミッドを中心とするピラミッド複合的としての姿が明らかになっている。特に河岸神殿はかつての姿をとどめており、装飾が施された赤色花崗岩の柱などが当時の壮麗な装飾を現在に残す。

サフラー葬祭殿の中庭にある彼の称号が刻まれた巨大なピンク色の花崗岩製の台輪。

中核部の建設中、立坑の中への回廊は開かれていた。埋葬室[訳語疑問点](grave chamber)は別に建造され、その後余った石塊と瓦礫で埋められた。この建設工程は後世の未完成のピラミッド群、特にネフェルエフラー王のピラミッド英語版からはっきりと見て取る事ができる[18]。この技術はまた、第4王朝時代のダハシュールとギーザの5つの大ピラミッドの建築家達によって一時的に放棄された第3王朝時代の古いスタイルに表面上は回帰していることを示している[18]

北側のエントランスは赤い花崗岩が並ぶ短い下り廊下に続いて、巨大な石灰岩の梁で構成される切妻屋根[訳語疑問点](gabled roof comprising large limestone beams)の埋葬室で終わる廊下がある。現在、これらの梁は損傷を受けておりピラミッドの構造体は弱体化している。19世紀半ばにジョン・シェイ・ペリング英語版が初めて入った時、サルコファガス(石棺)の断片がこの埋葬室で発見されている[18]。サフラーの神殿の巨大な屋根のブロックはペリングの推定では約220トンの重量がある。彼は最も大きなブロックは10.6メートルx2.7メートルx3.6メートル(35 feet by 9 feet by 12 feet)の大きさがあると推定した。これらのブロックの先端部分は薄くなっており、推定容積は95立方メートルまたは、2.4トンである[64]。ピラミッド周辺の葬祭複合体はまた、この王の魂(カー)のために建てられた第二ピラミッドを含む。

宮廷の役人達

サフラーが生きている間に仕えた数多くの役人達が、以下に示すように彼らの墓によって知られている。

  • ニアンクセクメト(Niankhsekhmet):サフラーの主治医。彼は王に偽扉英語版を彼の墓に作る事を頼み、王は同意した。[65] 。サフラーはトゥラ英語版産の石灰岩から切り出され、彼の名[訳語疑問点]を青く塗装した精緻な偽扉を持っていた[7][66]。王は彼の主治医の長寿を願い、「神々が余を愛するが故に、余の鼻孔が健康を楽しめるようにして下さる。そのためにそなたがこの墓地に入るのは敬われるべき老齢の時であろう。」と伝えている[65][67]
  • ペヘネウカイ(Pehenewkai):サフラーとネフェルイルカラー・カカイ治世時代のウセルカフの葬祭神官。後者の治世時には宰相になった[68]
  • ペルセン(Persen):ペリセン(Perisen)としても知られる。彼はサフラーの母親ネフェルヘテペスの葬儀の際の葬祭神官であった。彼のマスタバ墓はサッカラのネフェルヘテペスのピラミッド英語版の隣にある[25][69][70]
  • プタハシェプセス英語版:恐らくメンカウラーの治世の間に生まれた。プタハシェプセスはプタハ大司祭であり王家の美容師[訳語疑問点](royal manicure)であった。後にニウセルラー・イニ王の治世下で宰相へと昇った[71]
  • セケムカラー英語版:王子。カフラーの息子であり、ウセルカフとサフラーの時代の宰相[4]
  • ワシュプタハ(Washptah):サフラーが生きた時代には神官。後にネフェルイルカラー・カカイの宰相英語版。サッカラのマスタバに埋葬された[72]
  • ウェルバウバ英語版:サフラー治世下の宰相。そのことは葬祭殿が証明している[73][74] 。セケムカラーとは異なり、王族ではないと思われる。このことはサフラーが非王族を高官に抜擢するというウセルカフの方針を引き継いで追及していたことを示す[73][75]

遺産

古王国時代

サフラーが最初に残した遺産は彼の葬祭儀式である。これは彼の死後古王国が終焉を迎えるまで300年以上続いた。この儀式に必要な物資を供給するため、合計22の農場が設立された[73] 。第5王朝の後半と第6王朝の間、この葬祭儀式かサフラーの太陽神殿に仕えていた何人もの神官達が、サッカラとアブシールにある墓の碑文や製品のおかげで知られている[76]

  • アトジェマ(Atjema):第6王朝時代のサフラーの太陽神殿の神官[77]
  • クウイエムスネウィ(Khuyemsnewy):ネフェルイルカラー・カカイとニウセルラー・イニの治世下でサフラーに奉じた神官。彼はまたネフェルイルカラー・カカイの太陽神殿のラーとハトホルの神官であり、ネフェルイルカラーの神官、ニウセルラー・イニとネフェルイルカラー・カカイのピラミッド複合体の神官、「二つの穀物庫の長官[訳語疑問点](Overseer of the Two Granaries)」でもあった[78]
  • ニカラー(Nikare):サフラーの葬儀神官及び第5王朝時代の穀物管理官の長[訳語疑問点](overseer of the scribes of the granary)であった。
  • セネウアンク(Senewankh):ウセルカフとサフラーの葬儀神官。サッカラのマスタバに埋葬された[79]
  • セドゥアグ(Sedaug):サフラーの葬儀神官、ウセルカフの太陽神殿のラー神官であり王の知人の称号を持つ。ギーザに埋葬された[80]
  • テペムアンク(Tepemankh):第4王朝とウセルカフとサフラーを含む第5王朝初期の王達の葬儀神官。アブシールのマスタバに埋葬された[81][82][83]

サフラーの別の遺産は彼のピラミッド複合体である。そのレイアウトはその後の古王国のピラミッド複合体のテンプレートとなり、ヤシ柱のような建築要素はエジプト建築の特徴となった[18][84][注釈 7]

中王国時代

センウセルト1世によって建造が命じられた玉座に座るサフラーの像。

第12王朝(前1991-前1802)の初期、中王国時代が始まった時、ファラオ・センウセルト1世(前1971-前1926)はサフラーの像を造らせた。この像はカルナックの神殿にあり、恐らく亡き王達の群像の一部であったであろう[86][注釈 8]

このサフラー像は現在カイロエジプト考古学博物館にある(カタログナンバー CG42004)。像は黒い花崗岩でできており、50センチメートルの高さである。サフラーはプリーツスカートとラウンドカーリーの付け毛を身に着けて玉座に座っている。玉座の両サイドにサフラーの彫像を造らせたのがセンウセルト1世であることを示す碑文がある[88]

サフラーが中王国時代の間忘れ去られる事がなかった証はウェストカー・パピルスであり、これは第12王朝時代に書かれた。このパピルスは第5王朝の起源についての神話的な物語を伝えており、ウセルカフ、サフラー、ネフェルイルカラー・カカイをラーラーデジェト英語版と言う名の女性の間の3人兄弟として登場させている[23]

新王国時代とその後

故王として、サフラーは新王国時代も引き続き宗教的供物を受けた。これを最も良く示す証拠は、第18王朝のトトメス3世の時代にカルナック神殿の壁に刻まれた王の祖先のリストである「カルナック王名表」である。古代エジプトの他の王名表とは異なり、このリストは年代順に並べられていない。その理由はこのリストの目的が歴史の記録ではなく純粋に宗教的な物、即ちカルナック神殿でかつての王達の名を尊崇の対象とすることであったことである[86]

第19王朝時代、ラムセス2世の王子カエムワセト1世英語版は、エジプト全土の荒廃したピラミッドと神殿の修復作業を請け負った。サフラーのピラミッドの覆いの石にある碑文は、それがこの時に修復されたことを示している[76][89] 。これは第18王朝の半ばから、サフラーの葬祭殿がセクメト女神の聖域となったことによる可能性がある[90]。第18王朝の後半と第19王朝の時代、数々の訪問者が神殿内に碑文、石碑、像を残した。[91]第26王朝(前664-前525)からプトレマイオス朝(前332-前30)までの落書きによって示されるように、この慣習は長い間この地で続いたように思われる[76][92]

注釈

  1. ^ サフラーの在位年として提案されている説: 前2506-前2492,[4] 前2496-前2483,[5] 前2491-前2477,[6] 前2487-前2475,[7][8][9][10] 前2471-前2458,[11] 前2458-前2446,[1][12] 前2428-前2416,[13]
  2. ^ この場合, ケンタカウエスは恐らく彼女の最初の夫の死後にウセルカフと再婚したとし[22]、サフラーと彼の王位継承者ネフェルイルカラー・カカイの母となったとする[7] 。この説はケンタカウエスがmwt nswt bity nswt bityと言う称号を負っているという事実に基づいている。この称号は「二人の王の母」と翻訳することができる。付け加えて、ウェストカー・パピルスの物語で、魔法使いがクフ王に対し、彼の王家が終わりラー神とラージェデト英語版と名付けられた女から生まれる3人の兄弟のために終わる事、そして彼等が第5王朝の最初の3人の王として君臨するという未来の予言をしている[23]。何人かのエジプト学者は、ケンタカウエスはサフラーの母であり、ラーデジェトのモデルになった歴史上の人物であるという説を唱えた。ヴェルナーとエル=アワディのアブシールでの発見の後この説は放棄されたが、ケンタカウエスの本当の役割は確定困難な問題として残った。これは部分的には彼女の称号の翻訳に問題があり、また第4王朝から第5王朝への移行過程の詳細が未だ明瞭ではないためである。シェプセスカフとウセルカフの治世の間に一時的にファラオとなったと見られるジェドエフプタハについては特にそうである[22]
  3. ^ 最初の王名は即位名であり"上下エジプトの王"と呼ばれる。他方は彼の誕生名であり"ラーの子"と呼ばれる
  4. ^ 畜牛頭数調査は、納税額を確定するために行われていたもので、古王国時代は2年に1回実施されていたと考えられている。
  5. ^ サフラーの在位年として提案されている説: 前2506-前2492,[4] 前2496-前2483,[5] 前2491-前2477,[6] 前2487-前2475,[7][8][9][10] 前2471-前2458,[11] 前2458-前2446,[1][12] 前2428-前2416,[13]
  6. ^ エジプト学の文脈において、「アジア系」と言う用語はカナン、つまり現在のレバノンと現代のトルコ南岸の人々に言及する際に使用される。
  7. ^ サフラーのピラミッド複合体における標準的な研究成果はブルシャルト(Borchardt)の発掘報告書である。これはオンラインで全て取得することができる[85]
  8. ^ この群像の別の像が大アンテフ英語版 の像である[87]

脚注

  1. ^ a b c MET 2015.
  2. ^ Allen et al. 1999, pp. 329–330.
  3. ^ Online archive 2014.
  4. ^ a b c Redford 2001.
  5. ^ a b c Walters Art Museum website 2015.
  6. ^ a b c d e Clayton 1994, pp. 60–63.
  7. ^ a b c d Rice 1999, p. 173.
  8. ^ a b Malek 2000, pp. 83–85.
  9. ^ a b c d e f g h i Baker 2008, pp. 343–345.
  10. ^ a b Sowada 2009, p. 3.
  11. ^ a b von Beckerath 1999, p. 283.
  12. ^ a b Allen et al. 1999, p. XX.
  13. ^ a b Hornung 2012, p. 491.
  14. ^ a b Leprohon 2013, p. 38.
  15. ^ Allen et al. 1999, p. 337.
  16. ^ a b Dodson & Hilton 2004, pp. 62–69.
  17. ^ El Awady 2006a, pp. 214–216.
  18. ^ a b c d e f g h i j Lehner 2008, pp. 142–144.
  19. ^ a b Brinkmann 2010.
  20. ^ ドドソン, ヒルトン 2012, pp. 64-66
  21. ^ a b ティルディスレイ 2008, pp. 64-65
  22. ^ a b Hayes 1978, pp. 66-68 & p. 71.
  23. ^ a b Lichteim 2000, pp. 215–220.
  24. ^ ドドソン, ヒルトン 2012, p. 65
  25. ^ a b c d El Awady 2006a, pp. 192–198.
  26. ^ a b Labrousse & Lauer 2000.
  27. ^ Verner 2002, p. 268.
  28. ^ a b El Awady 2006a, pp. 208–213.
  29. ^ El Awady 2006a, pp. 213–214.
  30. ^ El Awady 2006a, pp. 198–203.
  31. ^ von Beckerath 1999, pp. 56–57.
  32. ^ Wilkinson 2000, p. 259.
  33. ^ Breasted 1906, p. 70.
  34. ^ Verner 2001, p. 391.
  35. ^ a b Wilkinson 2000, p. 168.
  36. ^ a b Gardiner, Peet & Černý 1955, p. 15.
  37. ^ Sethe 1903, p. 32.
  38. ^ Hayes 1978, pp. 66–67.
  39. ^ Sowada 2009, p. 160 and Fig. 39.
  40. ^ Smith 1971, p. 233.
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参考文献

先代
ウセルカフ
エジプト第5王朝
2代
紀元前2491年-紀元前2477年
次代
ネフェルイルカラー