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「毛野」の版間の差分

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[[ファイル:Ota Gunma Otatenjinyama Tumulus Panorama 1.JPG|thumb|280px|right|[[太田天神山古墳]]([[群馬県]][[太田市]])<br/>東日本最大の[[前方後円墳]]。毛野政権首長の墓と推定される。]]
'''毛野国'''・'''毛国'''(けのくに)は、[[律令制]]以前の日本の[[文化圏]]の一つである。単に'''毛野'''(けの)とも。
'''毛野'''(けの、誤って けぬ とも)は、[[律令制]]以前の日本における地域・文化圏の名称。[[群馬県]]と[[栃木県]]南部を合わせた地域を指す<ref name="世界大百科">『世界大百科事典』(平凡社)毛野項。</ref>。


== 概要 ==
律令制下では[[上野国]]と[[下野国]]が置かれ、合わせて、あるいはどちらかを'''毛州'''(もうしゅう)と呼ぶ。合わせて[[両毛]](りょうもう)とも言うが、現代ではこの語は上野と下野の境界付近の狭い地域を指すことが多い。
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; 毛野地域の変遷
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{{familytree|border=0|00|01| 00=<small>4世紀頃?</small>|01='''毛野'''}}
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{{familytree|border=0|00|01|02|03| 00=<small>5世紀末頃?</small>|01=[[上毛野国造|上毛野]]|02=[[下毛野国造|下毛野]]|03=[[那須国造|那須]]}}
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北関東の[[群馬県]]と[[栃木県]]南部を合わせた領域を指す地域名称、または[[ヤマト王権]]時代に同地域に築かれていたとされる勢力を指す名称である。


地域内には[[古墳時代]]に数多くの[[古墳]]が築かれたことが知られる。特に群馬県内では、東日本最大の'''[[太田天神山古墳]]'''(群馬県[[太田市]]、全長210mで全国26位)<ref group="注" name="東日本最大">なお、以前には太田天神山古墳以上の規模と推考される古墳の議論がなされていた。1つには、推定全長220m以上として雷電山古墳(栃木県宇都宮市)が挙げられることがあったが(『栃木県の地名』雷電山古墳項等)、1990年の調査で推定古墳跡地上で住居跡が見つかり、大規模古墳であることは否定されている<!--(『下野新聞』1990年4月12日記事):未確認-->。また、米山古墳(栃木県佐野市)も「米山丘陵全体が古墳」だとして全長約360mとする説があったが(現地説明板等)、現在はほぼ否定されている([http://www.tochigi-edu.ed.jp/center/bunkazai/2341027.htm 米山古墳](とちぎの文化財))。</ref>を始めとして、全長が80mを越す大型古墳が45基、総数では約1万基もの古墳が築かれた<ref group="注">1935年の調査で群馬県内では8,423基の古墳が確認されている(『上毛古墳綜覧』)。調査漏れや埋没古墳を含めると1万基を下らなかったとみられている(『群馬県の地名』総論 遺跡からみた原始・古代節)。</ref>。古墳時代の主な勢力には畿内のほかに毛野、[[尾張国|尾張]]・[[美濃国|美濃]]、[[吉備国|吉備]]、[[古代出雲|出雲]]、[[筑紫国|筑紫]]、[[日向国|日向]]が挙げられるが<ref>『詳説 日本史図録』(山川出版社、第5版)26p。</ref>、全長200m以上の古墳が築かれたのは畿内、吉備、毛野のみであった。加えて王者特有の[[石棺|長持形石棺]]が使われ、毛野の特筆性がうかがわれる。
== 沿革 ==
[[古墳時代]]、[[香取海]]に注ぐ[[鬼怒川|毛野川]]流域一帯には[[出雲神]]を祀る一大豪族([[豊城入彦命]]を祖とする)が、一つの文化圏・'''毛野王国'''を形成し[[ヤマト王権]]においても強大な発言力を有していたと考えられていたが、これは文化圏の一つであり、最近の研究によると[[群馬県|群馬]]の[[鏑川]]流域や井野川流域など幅広い範囲で独自の[[文化]]が形成されていることが判明している。


また『[[日本書紀]]』には、第10代[[崇神天皇]][[皇子]]・[[豊城入彦命]]に始まる独自の[[毛野氏]]伝承が記されている。その中で各人物は対[[蝦夷]]・対朝鮮の軍事・外交に携わっており、当地の豪族がヤマト王権に組み込まれた後も、王権内で重要な役割を担っていたことが示唆される(詳しくは「'''[[毛野氏]]'''」を参照)。
毛野国あるいは毛野氏の名称の由来は諸説ある。主なものを以下に挙げる。
*かつて[[ヤマト王権]]から[[蝦夷|毛人]]の住む地として毛の国、二字表記にして毛野の字が当てられた。
*毛は[[二毛作]]の毛、即ち禾本科の穀物を指す。昔この地域が穀物の産地であったことから毛野の名をなす。


史書には「毛野」の名称自体は使われていないが、'''上毛野'''(かみつけの)・'''下毛野'''(しもつけの)の呼称があり、毛野が分かれた後のものといわれる。のち、両地域は[[令制国]]として[[上野国]](こうずけ:[[群馬県]]領域)・[[下野国]](しもつけ:[[栃木県]]領域)と定められた。そのほか「[[東毛]]」「[[西毛]]」「[[両毛]]」という表現や、[[鬼怒川]]の読み「きぬがわ」が「毛野川」の派生とされるように<ref name="栃木県"/>、名残は地域内の随所に伝わっている。
この地は[[豪族]][[毛野氏]](けぬし)が治めていた。毛野氏は豊城入彦命の後裔とされる。[[吉備氏]]、[[筑紫氏]]と並ぶ大豪族だった<ref>{{Cite book|和書|author=[[武光誠]]|year=2001|title=県民性の日本地図|publisher=[[文藝春秋]]|pages=p.78|series=文春新書|isbn=4-16-660166-0}}</ref>。


== 「毛野」の由来と読み ==
毛野国は後に[[上毛野国造]](かみつけぬのくにのみやつこ)の領域(後の[[上野国]])と[[下毛野国造]](しもつけぬのくにのみやつこ)の領域(後の[[下野国]])に分けられたとされる。分けられた時期は不明。[[六国史]]など史料上では既に上毛野・下毛野と分かれた状態で記載され、両国が元は毛野国で1つであったと伝わるのみで「毛野」としての登場が無いためである。
=== 由来 ===
「毛野」の名称の由来には、以下のように諸説が提唱されている。
* 穀物の産地説
:: 当地が肥沃な地であったことに由来したとする説<ref name="栃木県"/>。その様子を表した「御食(みけ)」が地名になったという<ref>『毛野国の研究 古墳時代の解明 下』第四章 一節「毛野の名義について」。</ref>。また、「毛」が草木・五穀を意味したという説もある<ref name="光と風第一章">『光と風の大地から 下野古麻呂の生涯』第一章「毛野国分裂」。</ref>。
* 「[[蝦夷|毛人(蝦夷)]]」説
:: 「[[蝦夷]]」を古くは「毛人」と記したことから、「毛の国」、二字表記にして「毛野」の字が当てられたとする説。『[[宋書]]』倭国伝の[[上表文#倭の五王の上表文|倭王武の上表文]]には「東に毛人を征すること五十五国」という記述があり<ref group="原">『宋書』倭国伝。</ref>、この「毛人」との関係性が指摘されている<ref name="群馬県"/>。
* 「紀伊」説
:: [[豊城入彦命]]に代表される「紀の国」出身者が移住し、「きの」が転訛したとする説<ref name="栃木県"/>。『日本書紀』には豊城入彦命の母が紀伊出身である旨が明記されている。関連して、上毛野氏が歴史編纂にあたって祖先の名を「とよき(豊城入彦命)」・信仰する山の名を「あかき(赤城山)」とした、とする意見がある<ref>『群馬県の地名』赤城山項。</ref>。『常陸国風土記』には「筑波は昔は「紀の国」という」との記載もあり、北関東に紀伊からの移住があったことが示唆される。

=== 読み ===
江戸時代以後、「毛野」は誤って「けぬ」と呼ばれていた<ref>『大辞林』(第三版)毛野項。</ref>。これは、当時の読みを伝える[[万葉仮名]]において、「努」の読みに2説があったためである。すなわち、『[[万葉集]]』では「毛野」の読みに「氣努」「氣乃」「氣野」「家野」「家努」の仮名があてられており<ref group="注">『万葉集』における仮名は以下の通り。()内は歌番号。'''上つ毛野''':「可美都氣努」(3404・3407・3415・3416・3417・3418・3420・3423)、「可美都氣努/可美都氣乃」(3405)、「可美都氣野」(3406)、「賀美都家野」(3412)、「可美都家野」(3434)。'''下つ毛野''':「之母都家野」(3424)、「志母都家努」(3425)([http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou.php 万葉集検索システム](山口大学教育学部)参照)。</ref>、うち「野」は「ノ(甲類)」、「乃」は「ノ(乙類)」の読みであるが、「努」には「ヌ」「ノ(甲類)」の2通りがあるとされていた<ref>「[[万葉仮名]]」参照。</ref>。しかしながら「ノ(甲類)」である論証がなされ<ref group="注">日本古典文学大系本『萬葉集 一』(岩波書店、昭和32年)において論証されている(『古代東国の王者 上毛野氏の研究』序文より)。</ref>、『万葉集』の訓読においては「努」は「ノ」と読むのが一般的である<ref>[http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou.php 万葉集検索システム](山口大学教育学部)、佐佐木信綱『新訓萬葉集』(岩波文庫)参照。</ref>。そのため現在では、「けの」が正しい読みとされる<ref>『古代東国の王者 上毛野氏の研究』序文。</ref>。

== 範囲 ==
[[ファイル:Kinu River viewing from Akutsu Ohashi in Utsunomiya.jpg|thumb|250px|right|[[鬼怒川]]([[栃木県]][[宇都宮市]]・[[さくら市]]流域)<br/>川名は「毛野川」の転訛といわれ、毛野の境界にあたるという。]]
「毛野」の範囲は、一般には{{underline|群馬県全域と栃木県南部}}と想定されている<ref name="世界大百科"/>。これは上毛野国(上野国)・下毛野国(下野国)の領域から那須地域(栃木県北部)を除いた地域にあたる。

那須地域はのちの下野国には含まれたが、「毛野」からは除かれて議論される場合が多い。『[[常陸国風土記]]』には[[新治郡]]・[[筑波郡]]・[[信太郡]]条に郡境として「毛野河」の記載があり、これを[[鬼怒川]](「毛野川」の転訛とされる<ref group="注">なお「鬼怒川」と表記されるのは明治以後で、それ以前は「毛野川」のほか「絹川」・「衣川」と表記されていた(「[[鬼怒川]]」参照)。</ref>)とその支流の[[小貝川]]を指すとして「毛野と那須との境」を表した名称とされる<ref name="群馬県">『角川日本地名大辞典 群馬県』(角川書店)毛野国項。</ref>。一方『国造本紀』には、12代景行天皇の時期に[[那須国造]]が設けられたと記されている。これは16代仁徳天皇の時期に設けられたとも記す下毛野国造に先行することから、那須国造の領域は毛野に含まれなかったと解されている<ref name="栃木県">『角川日本地名大辞典 栃木県』(角川書店)毛野国項。</ref>。そしてのちの令制国設置にあたり、下毛野と那須は新しい「下毛野国」としてまとめられたとされる<ref>『栃木県の地名』下野国節。</ref>。ただし、那須国造の存在を疑い、那須地域も含めて下毛野であったとする考えもある<ref group="注">この中で、那須国造碑の評価に対して、碑文の内容からは下毛野国と対等な那須国があったことは不明であるとしている(『古代東国の王者 上毛野氏の研究』第三章のうち「下毛野君の本拠地」節)。</ref>。

一方古墳の様相からは、埼玉県北西部・栃木県南部は群馬県のものに類似しており、それら一帯が同一文化圏にあったと見られている<ref name="上野国">『群馬県の地名』上野国節。</ref>。

== 特徴 ==
=== 性格 ===
{{underline|『古事記』『日本書紀』には地域名称として「毛野」の記載はなく}}、当初より「上毛野」「下毛野」として記載されている。そのため同書からは、毛野の実態ひいては毛野とヤマト王権の関係は明らかではない。一方『[[国造本紀]]』(『[[先代旧事本紀]]』第10巻)には「毛野国が上毛野国と下毛野国に分かれた」との記述があり<ref group="原" name="下毛野国造"/>、これをもって「'''毛野国'''(けののくに/けのくに、毛国とも)」という大国を想定し、それが強大なため分割されたという議論がなされていた<ref name="熊倉2001">「上毛野国から東国へ」(『群馬史再発見』)。</ref>。しかしながら「毛野国」の記述は史書の中でこの記載のみであること、『先代旧事本紀』自体が後世の潤色が多いとされていること、『古事記』『日本書紀』には分割された場合として「[[筑紫国|筑紫]]」「[[吉備国|吉備]]」の名があるのに「毛野」の名がないことなどから、その想定を否定する意見も強い<ref name="熊倉2001"/>。関連して「毛野」は単に「未開の沃野」という程度の一般名称であるという意見もある<ref name="梅澤"/>。また政治的勢力の呼称としては、毛野の内部の各地域毎に一定の政治的まとまりが見られることから、毛野地域の首長連合政権として「'''毛野政権'''」という表現を使う場合がある<ref name="梅澤"/>。

考古資料では、古墳時代前期には東海地方由来の[[前方後方墳]]が多く築かれたほか、同地方由来の「S字甕」と呼ばれる土器も多く出土しており、畿内に対する独自性が見られる<ref>『図解 古代史』(成美堂出版)33p。</ref>。しかしながらその後は畿内由来の[[前方後円墳]]に移行した。また、東日本最大の[[太田天神山古墳]]は築造当時では全国5位くらいの規模であり<ref name="白石">白石太一郎『考古学と古代史の間』(筑摩書房)第3章のうち「ヤマト王権と地域政権」節。</ref>、同古墳やお富士山古墳の石棺には、畿内王者特有の[[石棺|長持形石棺]]が用いられた。そこには畿内の石工の存在が明らかであり、それらをもって畿内と毛野の豪族は「同盟」の関係が想定されている<ref name="白石"/>。また、この毛野政権に加えて畿内政権・吉備政権などから構成された連合政権がヤマト王権である、という重層的な王権の実態が提唱されている<ref name="白石"/>。

なお、古くは『[[魏志倭人伝]]』に見える「[[狗奴国]](くなこく)」を「毛野国」にあてる説もあった。狗奴国とは[[邪馬台国]]の東にあり長年争ったという国である。しかしながら、遺跡調査から邪馬台国の時代にはまだ毛野地域の平野部の開拓はなされていなかったことが判明している。そのため、近年では狗奴と毛野は全く別のものと考えられるようになっている<ref>「群馬の県名の由来を尋ねて」(『群馬史再発見』)。</ref>。

=== 毛野の分裂 ===
毛野地域は、のちに[[渡良瀬川]]を境として上毛野(かみつけの)・下毛野(しもつけの)に分かれたという。この「上」「下」は、[[上総国]]・[[下総国]]同様、「都に近い方」を「上」としたものとされる。この上毛野・下毛野はのちに[[令制国]]と定められた(下毛野は那須を併合)。のち、[[713年]]([[和銅]]6年)頃に諸地名を好字二字と改めるという一環で、両国は[[上野国]](こうずけのくに)と[[下野国]](しもつけのくに)と改称した。この際「毛」の字は消えたものの「け」の読みを残している。

これに関して『国造本紀』によれば、第16代[[仁徳天皇]]の時代に上毛野・下毛野に分かれ、それぞれ[[上毛野国造]]・[[下毛野国造]]が支配したという<ref group="原">『国造本紀』上毛野国造条。</ref><ref group="原" name="下毛野国造">『国造本紀』下毛野国造条。</ref>。ただし『古事記』『日本書紀』には当初より上毛野・下毛野と記されており、この伝承の記載はない。加えて『先代旧事本紀』は後世の潤色が多いため、この記述には懐疑的な見解も強い<ref name="熊倉2001"/>。

一方近年では、考古資料による考察から上毛野・下毛野の{{underline|呼び分けの時期を5世紀末から6世紀初頭}}とする説が支持されている<ref name="かみつけの里">『よみがえる五世紀の世界』(かみつけの里博物館、常設展示解説書)。</ref>。この頃に栃木県域では、新興勢力として摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳を始めとした大型古墳が思川流域に出現した。その事からこの「新興勢力の領域」を「下毛野」と呼び、「旧来の毛野」を「上毛野」と呼び分けたと見られている<ref name="かみつけの里"/>。

なお、毛野分割を示唆する伝承として『[[日光山縁起]]』の「神戦譚」が知られる<ref name="毛野国の分割">『毛野国の研究 古墳時代の解明 下』第四章 五節「毛野国の分割について」。</ref>。これは[[男体山|日光男体山]]・[[赤城山]]に関する伝説で、男体山(栃木県)の神と赤城山(群馬県)の神がそれぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめたという<ref group="注">詳しくは「[[日光山縁起]]」、[http://akagi-yama.jp/archives/358 神戦「赤城と日光二荒山神戦」](赤城山ポータルサイト)参照。</ref>。以上から、毛野が分割されるにあたって激しい領地争いがあったとする説のほか、日光山側の助けについた鹿島の神([[鹿島神宮]]とされる)は畿内政権を象徴するとし、畿内から何らかの影響が及ぼされたとする説がある<ref name="毛野国の分割"/>。

== 文献 ==
=== 東国の位置づけ ===
前述のように『古事記』『日本書紀』には「毛野」の名称自体の記載はない。代わりに毛野含め関東諸地域は「'''東国'''」の名で記載される。『常陸国風土記』には、[[足柄峠]]以東は「我姫(あづま)」とみなされたこと、その分割が第36代[[孝徳天皇]]の時代に行われたことが記載されている<ref name="熊倉2001"/>。この認識は『日本書紀』[[大化]]2年([[646年]])の東国国司に対する詔の内容や<ref group="原">『日本書紀』大化2年3月条。</ref>、毛野出身諸氏族に対する「[[東国六腹朝臣]]」の表現からも明らかとされる<ref name="熊倉2001"/>。これらをもって、関東地方は古くは「東国」として1つのまとまりを持っており、律令国家形成の過程で8つに分割されたと指摘される<ref name="熊倉2001"/>。

また『古事記』では、「天語歌」の中で倭国を「天・東・夷」の3層構造と表現しており<ref group="原">『古事記』雄略天皇段。</ref>、東国は王権(天)とも化外(夷)とも異なる性格を持っていたとも指摘される<ref name="熊倉2001"/>。

=== ヤマト王権の東国統治 ===
『日本書紀』は東国の経営について、[[四道将軍]]、[[豊城入彦命]]、[[ヤマトタケル]]、[[御諸別王]](豊城入彦命三世孫)の各伝承を載せる。

[[四道将軍]]は、第10代[[崇神天皇]]10年に北陸・東海・西道・丹波の4方面に4人の将軍が派遣されたという伝承である<ref group="原">『日本書紀』崇神天皇10年条。</ref><ref group="注">なお『古事記』においては記載はあるが、4人は一括して取り扱われておらず「四道将軍」の名称もない(「[[四道将軍]]」参照)。</ref>。4人のうち[[大彦命]]は北陸道方面、武渟川別命は東海道方面に派遣され、2人は[[会津]]で合流したという。この過程において、毛野地域を含む東山道方面については記載がなく空白となっている。記載自体が伝承性の強いものであるが、考古資料と照らし合わせると、この時点では毛野は未開の地であったと考えられている<ref name="梅澤">「毛野の黎明-三~四世紀における地域形成のあゆみ」(『群馬史再発見』)。</ref>。

次いで崇神天皇48年、崇神天皇皇子の[[豊城入彦命]]が東国経営を命じられたという<ref group="原">『日本書紀』崇神天皇48年正月条。</ref>。豊城入彦命の付記として「上毛野君・下毛野君の祖」と記しており<ref group="原">『日本書紀』崇神天皇段。</ref>、その後も命の子孫が毛野に深く関係している。このことから、ヤマト王権が四道将軍の時には未開の地であった毛野の経営に着手したと解釈される。ただし、豊城入彦命とその孫・彦狭島王の時点までは、毛野の地に入っていないとみられている<ref name="概覧"/>。

第12代[[景行天皇]]の時代には、[[武内宿禰]]が北陸・東国に派遣されて地形・民情を調査し、翌々年に帰還している<ref group="原">『日本書紀』景行天皇25年7月条、同27年2月条。</ref>。そして景行天皇40年に東国が不穏となり蝦夷が反乱を起こすにあたって、景行天皇皇子の[[ヤマトタケル]]が東国討伐に派遣された<ref group="原">『日本書紀』景行天皇40年条、同51年条。</ref>。その東征ルートについて、毛野地域が外されていることが指摘される<ref name="終章">『古代東国の王者 上毛野氏の研究』終章「東国派遣伝承の実相」。</ref>。ヤマトタケルの遠征は毛野地域の本格的な経営に先立つ事業であったとみなす考えもある<ref name="梅澤"/>。

その後、景行天皇55年に[[彦狭島王]](豊城入彦命の孫)が東山道十五国都督に任じられたが<ref group="原">『日本書紀』景行天皇55年2月条。</ref>、途中で没したため[[御諸別王]](彦狭島王の子)が東国に赴いて善政をしき、蝦夷を討ったという<ref group="原">『日本書紀』景行天皇56年8月条。</ref>。これをもって、御諸別王を実質的な毛野経営の祖とみなす考えがある<ref name="概覧">[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/kenu1g.htm 毛野氏族概覧](古樹紀之房間 - 古代氏族研究会公認ホームページ)。</ref>。

以上のように、毛野地域は東国経営の後半期に進められたと見られている<ref name="梅澤"/>。加えて、東海道は「征討・帰還型」の派遣であるのに対し東山道は「治政・移住型」であることが指摘される<ref name="終章"/>。なお御諸別王の後は、対朝鮮・対蝦夷の軍事・外交に携わった[[毛野氏]]各人物の活躍が記述される。のち大化以後には、毛野出身の氏族として「[[東国六腹朝臣]]」と呼ばれる[[上毛野氏]]・[[下毛野氏]]・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷の中級貴族として活躍を見せた。

=== 武蔵国造の乱での関与 ===
『日本書紀』には、[[安閑天皇]]元年([[534年]]?)に起きたとされる[[无邪志国造|武蔵国造]]の笠原氏の内紛([[武蔵国造の乱]])において、上毛野氏の関与が記されている<ref group="原">『日本書紀』安閑天皇元年閏12月条。</ref>。この乱の中で、笠原使主は朝廷に援助を、笠原小杵は[[上毛野小熊]]に援助を求め、最終的に使主が勝利した。

上毛野小熊含め上毛野氏は上毛野国造であったと推測されており<ref name="上野国"/><ref group="注">ただし、『国造本紀』を除いて上毛野氏が上毛野国造を務めたという史料はない(『日本歴史地名体系 群馬県の地名』上野国節)。</ref>、古くから定説として「使主 - ヤマト王権」対「小杵 - 上毛野」という対立の構造が提唱されてきた<ref name="終章"/>。この中で、小杵の敗死とともに上毛野地域内に「緑野屯倉」が設けられ、その勢力が大きく削がれたと推測されている。ただし、上毛野小熊が助けの求めに応じたかは明らかでないこと、小熊は処罰を受けておらずむしろ小熊以降に上毛野氏の繁栄が見られること、緑野屯倉が事件に関わるという証拠がないことなどから反論もある<ref name="終章"/>。すなわち、上毛野勢力が畿内と対立関係にあったか協調関係にあったかは、依然議論がある。

考古資料においては、5世紀後半に上毛野の古墳が小型化する一方、武蔵の[[埼玉古墳群]]が成長するという傾向が見られる<ref name="かみつけの里"/>。伝承性の強い時期の記事で事実か創作かは明らかではないが、何らかの事実関係がうかがわれる。

== 考古資料 ==
=== 弥生時代 ===
[[弥生時代]]の日本列島では、各地で独自の[[墳丘墓]]が築かれ、地域色豊かな様相を示した。3世紀になると近畿地方において[[纏向遺跡]]に象徴される勢力が頭角を表し、3世紀中頃には[[箸墓古墳|箸中山古墳(箸墓古墳)]]に代表される大型[[前方後円墳]]が現れて古墳時代に入る。『魏志倭人伝』の記す時期もこの頃とされる。

こうした中で、毛野地域においては弥生時代に平野部の開拓はなされておらず、弥生時代中期から後期前半は北毛・西毛の谷地形の地域において竜見町式土器文化圏が形成されていた<ref name="梅澤"/>。代わって3世紀代(弥生時代後期)には樽式土器が広がったが、その文化圏も西毛地域から北毛地域で形成するにとどまった。

=== 古墳時代 ===
==== 黎明から最盛期 ====<!--底本は梅澤重昭「毛野の黎明」(2013年7月段階)-->
[[ファイル:石田川式土器.JPG|thumb|110px|left|石田川式土器<br/><small>群馬県立歴史博物館展示。</small>]]
[[File:Maebashi-yahatayama-kofun-2.JPG|thumb|200px|right|前橋八幡山古墳(群馬県前橋市)<br/><small>東日本最大(全国4位)の[[前方後方墳]]。</small>]]
[[古墳時代]]にはヤマト王権の強大化が進む。中国の史書には3世紀中頃から5世紀代まで記載がないため「謎の4世紀」と呼ばれる時期において、王権は鉄器や農耕具をもって列島に展開した。東国では千葉県市原市の神門古墳群(東日本最古と位置づけられる)や会津の[[会津大塚山古墳]]に見られるように、畿内由来の[[前方後円墳]]が東海道側で展開した<ref name="梅澤"/>。

毛野地域では、4世紀代に入ると突如として空白の平野部に古墳が築造されるようになった。その分布には高崎市・前橋市周辺と太田市周辺の2つの中心地域が認められるほか<ref name="群馬県の歴史1章2節">『群馬県の歴史』(山川出版社)1章 2節「古代東国の中心地」。</ref>、その展開の特徴として東海地方由来の'''[[前方後方墳]]'''であることが挙げられる。特に、前橋八幡山古墳(群馬県前橋市)は全長130mに及び、前方後方墳では全国4位の大きさであった。

こうした様相は、古墳周辺から出土する土器「石田川式土器」にも表れている。この土器は口縁部がS字になっている「S字甕」で、その他の特徴からも東海地方の影響を強く受けたものとされる<ref name="梅澤"/>。このような石田川式土器文化圏の形成には、同地方からの組織的かつ大規模な移住があったものと見られ、こうした人々により未開の平野部が開拓されていったと見られている<ref name="梅澤"/>。

4世紀中葉以降、古墳の墳形は前方後円墳へと移り、前橋市には前橋天神山古墳が築かれた。この古墳からは[[三角縁神獣鏡]]2面が出土しており、畿内との関わりの深さを物語っている<ref name=Q2>『あなたの知らない群馬県の歴史』(歴史新書)Q2。</ref>。同様に太田市周辺にも前方後円墳が築かれるようになり、前橋・高崎、太田の2大勢力が前方後方墳時期に引き続いて併存したとされる<ref name=Q2/>。このような前方後円墳の展開の要因には畿内との結びつきの強化があると見られ、それを背景として首長が連合し毛野の地域政権が強化されていったと見られている<ref name="梅澤"/>。

[[ファイル:お富士山古墳石棺(復元).JPG|thumb|200px|right|[[石棺|長持形石棺]](お富士山古墳出土棺の複製)<br/><small>[[国立歴史民俗博物館]]展示。</small>]]
5世紀に入ると古墳の大型化が進み、浅間山古墳(群馬県高崎市、171.5m)や宝泉茶臼山古墳(群馬県太田市、168m)が築かれた。そして5世紀中頃に東日本最大の'''[[太田天神山古墳]]'''(群馬県[[太田市]]、210m)<ref group="注" name="東日本最大"/>が築かれた。当古墳は同時期の上毛野の古墳中では群を抜いており、太田の勢力が前橋・高崎の勢力を呑み込む形で発展したことを物語っている<ref name=Q2/>。なお同古墳は全国では26位であるが、築造当時では全国約5位に位置づけられる<ref name="白石">白石太一郎『考古学と古代史の間』(筑摩書房)第3章のうち「ヤマト王権と地域政権」節。</ref>。また同古墳やお富士山古墳(群馬県[[伊勢崎市]]、125m)の石棺には[[石棺|長持形石棺]]が用いられており、畿内の石工による築造が明らかである。この長持形石棺は畿内王者特有のもので、関東での使用例は3例しかない<ref group="注">あと1例は高柳銚子塚古墳(千葉県木更津市)。</ref>。こうした様相から、毛野地域が大きな地域連合体に発展したことが示唆されるとともに、太田天神山古墳の被葬者はヤマト王権から地位を保証されていたと推測される<ref name=Q2/>。このように太田天神山古墳に結実した古墳文化であるが、以後太田市付近には大型の古墳は見られなくなる。代わって上毛野全域において大型古墳が林立するようになる。

一方、これらの上毛野における古墳の質・量における充実に対して、下毛野では古墳の数は極端に減少した。

; 主な古墳
* 4世紀<ref group="注">古墳のデータは『群馬県の歴史』・『栃木県の歴史』(山川出版社)、『群馬史再発見』(あさを社)等による。</ref>
** 前方後方墳
*** 元島名将軍塚古墳 (群馬県高崎市) - 全長90.0m(前方後方墳では全国19位)
*** 前橋八幡山古墳 (群馬県前橋市) - 全長130.0m(前方後方墳では全国4位)
*** 藤本観音山古墳 (栃木県足利市) - 全長116.5m(前方後方墳では全国5位)
*** 山王寺大桝塚古墳 (栃木県栃木市) - 全長96.0m(前方後方墳では全国15位)
** 前方後円墳
*** 前橋天神山古墳(群馬県前橋市) - 全長126mで群馬県最古の前方後円墳(初期では東国最大)、三角縁四神四獣鏡2面含む銅鏡5面のほか副葬品多数出土
*** 朝子塚古墳(群馬県太田市) - 全長123m
* 5世紀
** [[浅間山古墳 (高崎市倉賀野町)|浅間山古墳]](群馬県高崎市) - 5世紀前半、全長171.5m
** 宝泉茶臼山古墳(群馬県太田市) - 5世紀前半、全長168m
** 太田天神山古墳(群馬県太田市) - 5世紀中頃、全長210m、東日本最大(全国26位)

==== 上毛野 ====
[[File:Hodota-kofungun Hachimanzuka-kofun-1.JPG|thumb|200px|right|[[保渡田古墳群]]の八幡塚古墳<br/>(群馬県高崎市)]]
[[File:Mitsudera I iseki.JPG|thumb|200px|right|三ツ寺I遺跡(群馬県高崎市)<br/><small>古墳を営んだ豪族の居館跡で、高架下に所在。</small>]]
5世紀後半になると、太田天神山古墳のような突出した古墳は築かれなくなり、前方後円墳のなかった地域にも100m級の古墳が築かれるようになる<ref name="群馬県の歴史1章2節"/>。大きくは太田、前橋、高崎、藤岡地区に集中し、領域ごとに消長が見られる<ref name="かみつけの里"/>。これら各地に豪族が割拠していたと見られるほか、古墳が交互に造営されたことから、各豪族が交互に上毛野の首長の座に就いたと見られる<ref name="白石"/>。また朝鮮半島由来の副葬品や多様な人物・動物埴輪など、古墳文化の更なる高まりがうかがわれる。

5世紀後半に至っても多くの前方後円墳が築かれた上毛野は特異的で、それ以外の地域では前方後円墳の数は大きく減少している<ref name="群馬県の歴史1章2節"/>。この減少の背景には、各地域の王権への従属度が増して円墳を造るようになったことにある<ref name="群馬県の歴史1章2節"/>。実際にヤマト王権の中央集権化は強まりを見せ、勢力の拡大は[[金錯銘鉄剣|稲荷山古墳出土鉄剣]]([[埼玉県]][[行田市]])や[[鉄剣・鉄刀銘文#江田船山古墳出土の鉄刀|江田船山古墳出土鉄刀]]([[熊本県]][[玉名郡]][[和水町]])の「獲加多支鹵大王」銘からもうかがわれる<ref>『図解 古代史』(成美堂出版)40p。</ref>。このような状況でも上毛野には前方後円墳が築かれ続けたことから、王権が上毛野に強い関心を持っていたと考えられている<ref name="群馬県の歴史1章2節"/>。

7世紀になると前橋市の総社古墳群が急成長して大型方墳を築き、のちその周辺に上野国の国府・国分寺が営まれるに至った<ref name="かみつけの里"/>。

; 主な古墳
* 前橋地区
** 朝倉古墳群
** 大室古墳群
** 総社古墳群
* 高崎地区
** [[保渡田古墳群]]
** 綿貫古墳群 - [[綿貫観音山古墳]]など
** 正六古墳群
* 藤岡地区
** 白石古墳群 - 白石稲荷山古墳、[[七輿山古墳]]など

==== 下毛野 ====
[[File:Biwazuka-kofun zenkei.JPG|thumb|200px|right|摩利支天塚古墳([[栃木県]][[小山市]])]]
[[File:Marishitenzuka-kofun zenkei.JPG|thumb|200px|right|琵琶塚古墳(栃木県小山市)<br/><small>栃木県最大。</small>]]
古墳時代中期に古墳が大型化した上毛野の一方、下毛野では古墳の数は減少していた。しかし5世紀末から6世紀前半に入り、[[思川]]流域において摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳という新興勢力による大型古墳2基が築かれた。琵琶塚古墳は全長約123mで、栃木県内では最大の大きさである。一説では、この新興勢力の出現をもって「下毛野」となし、「旧来の毛野」を「上毛野」と呼び分けたとする考えがある<ref name="かみつけの里"/>。

しかしこれらの大型古墳は2代で終わり、代わってやや北方の[[壬生町]]南部に、両古墳とは性格の異なる「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が築かれた。この古墳は特徴として、石室が後円部でなく前方部にあり、墳丘は基壇の上に造られている<ref>『あなたの知らない栃木県の歴史』(洋泉社)Q4。</ref>。これら下野型古墳は[[下毛野氏]]一族の墓と解されてる<ref>『栃木県の歴史』(山川出版社)1章 3節「下毛野の王者」。</ref>。また、古墳群は山王塚古墳(6世紀末から7世紀初頭)まで続いたのち円墳に変化することから、この頃にヤマト王権の東国支配が完了し下毛野氏一族は中央に居を移したと指摘される<ref>福田三男『光と風の大地から 下野古麻呂の生涯』第三章 下野国成立。</ref>。のちこの周辺には、下野国の国府・国分寺が営まれた。

; 主な古墳
* 摩利支天塚古墳 (小山市) - 5世紀末から6世紀初頭、全長約120m
* 琵琶塚古墳 (小山市) - 6世紀前半、全長約123mで栃木県最大
* 下野型古墳
** 吾妻古墳 (栃木市・壬生町) - 全長約86m
** 国分寺愛宕塚古墳 (壬生町) - 全長約75m
** 茶臼山古墳 (壬生町) - 全長約75m
** 山王塚古墳 (下野市) - 全長約50m


== 脚注 ==
== 脚注 ==
; 注釈
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; 原典
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; 出典
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== 参考文献 ==
; 百科事典
* 『日本古代史大辞典』([[大和書房]])毛野国項
* 『国史大辞典』([[吉川弘文館]])毛野国項
* 『世界大百科事典』([[平凡社]])毛野項 - 朝日新聞社コトバンクに[http://kotobank.jp/word/%E6%AF%9B%E9%87%8E 該当記事](部分)
* 『日本歴史地名体系 群馬県の地名』(平凡社)上野国節、『日本歴史地名体系 栃木県の地名』(平凡社)下野国節
* 『角川日本地名大辞典 群馬県』([[角川書店]])毛野国項、『角川日本地名大辞典 栃木県』(角川書店)毛野国項

; 文献
* 前沢輝政『毛野国の研究 古墳時代の解明 上・下』([[現代思潮社]]、1982年)
* 福田三男『光と風の大地から 下野古麻呂の生涯』([[随想舎]]、1998年)
* 近藤義雄「群馬の県名の由来を尋ねて」(『群馬史再発見』(あさを社、2001年) ISBN 4-87024-333-4)
* 梅澤重昭「毛野の黎明-三~四世紀における地域形成のあゆみ」(『群馬史再発見』(あさを社、2001年) ISBN 4-87024-333-4)
* 熊倉浩靖「上毛野国から東国へ」(『群馬史再発見』(あさを社、2001年) ISBN 4-87024-333-4)
* 熊倉浩靖『古代東国の王者 上毛野氏の研究』([[雄山閣]]、2008年改訂増補版 ISBN 978-4-639-02007-3)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[吉見百穴]]
* [[毛野氏]]
*[[埼玉古墳群]]
* [[鬼怒川]]
*[[総社古墳群]]
*[[令制国一覧]]
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2013年7月2日 (火) 13:34時点における版

ファイル:Ota Gunma Otatenjinyama Tumulus Panorama 1.JPG
太田天神山古墳群馬県太田市
東日本最大の前方後円墳。毛野政権首長の墓と推定される。

毛野(けの、誤って けぬ とも)は、律令制以前の日本における地域・文化圏の名称。群馬県栃木県南部を合わせた地域を指す[1]

概要

北関東の群馬県栃木県南部を合わせた領域を指す地域名称、またはヤマト王権時代に同地域に築かれていたとされる勢力を指す名称である。

地域内には古墳時代に数多くの古墳が築かれたことが知られる。特に群馬県内では、東日本最大の太田天神山古墳(群馬県太田市、全長210mで全国26位)[注 1]を始めとして、全長が80mを越す大型古墳が45基、総数では約1万基もの古墳が築かれた[注 2]。古墳時代の主な勢力には畿内のほかに毛野、尾張美濃吉備出雲筑紫日向が挙げられるが[2]、全長200m以上の古墳が築かれたのは畿内、吉備、毛野のみであった。加えて王者特有の長持形石棺が使われ、毛野の特筆性がうかがわれる。

また『日本書紀』には、第10代崇神天皇皇子豊城入彦命に始まる独自の毛野氏伝承が記されている。その中で各人物は対蝦夷・対朝鮮の軍事・外交に携わっており、当地の豪族がヤマト王権に組み込まれた後も、王権内で重要な役割を担っていたことが示唆される(詳しくは「毛野氏」を参照)。

史書には「毛野」の名称自体は使われていないが、上毛野(かみつけの)・下毛野(しもつけの)の呼称があり、毛野が分かれた後のものといわれる。のち、両地域は令制国として上野国(こうずけ:群馬県領域)・下野国(しもつけ:栃木県領域)と定められた。そのほか「東毛」「西毛」「両毛」という表現や、鬼怒川の読み「きぬがわ」が「毛野川」の派生とされるように[3]、名残は地域内の随所に伝わっている。

「毛野」の由来と読み

由来

「毛野」の名称の由来には、以下のように諸説が提唱されている。

  • 穀物の産地説
当地が肥沃な地であったことに由来したとする説[3]。その様子を表した「御食(みけ)」が地名になったという[4]。また、「毛」が草木・五穀を意味したという説もある[5]
蝦夷」を古くは「毛人」と記したことから、「毛の国」、二字表記にして「毛野」の字が当てられたとする説。『宋書』倭国伝の倭王武の上表文には「東に毛人を征すること五十五国」という記述があり[原 1]、この「毛人」との関係性が指摘されている[6]
  • 「紀伊」説
豊城入彦命に代表される「紀の国」出身者が移住し、「きの」が転訛したとする説[3]。『日本書紀』には豊城入彦命の母が紀伊出身である旨が明記されている。関連して、上毛野氏が歴史編纂にあたって祖先の名を「とよき(豊城入彦命)」・信仰する山の名を「あかき(赤城山)」とした、とする意見がある[7]。『常陸国風土記』には「筑波は昔は「紀の国」という」との記載もあり、北関東に紀伊からの移住があったことが示唆される。

読み

江戸時代以後、「毛野」は誤って「けぬ」と呼ばれていた[8]。これは、当時の読みを伝える万葉仮名において、「努」の読みに2説があったためである。すなわち、『万葉集』では「毛野」の読みに「氣努」「氣乃」「氣野」「家野」「家努」の仮名があてられており[注 3]、うち「野」は「ノ(甲類)」、「乃」は「ノ(乙類)」の読みであるが、「努」には「ヌ」「ノ(甲類)」の2通りがあるとされていた[9]。しかしながら「ノ(甲類)」である論証がなされ[注 4]、『万葉集』の訓読においては「努」は「ノ」と読むのが一般的である[10]。そのため現在では、「けの」が正しい読みとされる[11]

範囲

鬼怒川栃木県宇都宮市さくら市流域)
川名は「毛野川」の転訛といわれ、毛野の境界にあたるという。

「毛野」の範囲は、一般には群馬県全域と栃木県南部と想定されている[1]。これは上毛野国(上野国)・下毛野国(下野国)の領域から那須地域(栃木県北部)を除いた地域にあたる。

那須地域はのちの下野国には含まれたが、「毛野」からは除かれて議論される場合が多い。『常陸国風土記』には新治郡筑波郡信太郡条に郡境として「毛野河」の記載があり、これを鬼怒川(「毛野川」の転訛とされる[注 5])とその支流の小貝川を指すとして「毛野と那須との境」を表した名称とされる[6]。一方『国造本紀』には、12代景行天皇の時期に那須国造が設けられたと記されている。これは16代仁徳天皇の時期に設けられたとも記す下毛野国造に先行することから、那須国造の領域は毛野に含まれなかったと解されている[3]。そしてのちの令制国設置にあたり、下毛野と那須は新しい「下毛野国」としてまとめられたとされる[12]。ただし、那須国造の存在を疑い、那須地域も含めて下毛野であったとする考えもある[注 6]

一方古墳の様相からは、埼玉県北西部・栃木県南部は群馬県のものに類似しており、それら一帯が同一文化圏にあったと見られている[13]

特徴

性格

『古事記』『日本書紀』には地域名称として「毛野」の記載はなく、当初より「上毛野」「下毛野」として記載されている。そのため同書からは、毛野の実態ひいては毛野とヤマト王権の関係は明らかではない。一方『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)には「毛野国が上毛野国と下毛野国に分かれた」との記述があり[原 2]、これをもって「毛野国(けののくに/けのくに、毛国とも)」という大国を想定し、それが強大なため分割されたという議論がなされていた[14]。しかしながら「毛野国」の記述は史書の中でこの記載のみであること、『先代旧事本紀』自体が後世の潤色が多いとされていること、『古事記』『日本書紀』には分割された場合として「筑紫」「吉備」の名があるのに「毛野」の名がないことなどから、その想定を否定する意見も強い[14]。関連して「毛野」は単に「未開の沃野」という程度の一般名称であるという意見もある[15]。また政治的勢力の呼称としては、毛野の内部の各地域毎に一定の政治的まとまりが見られることから、毛野地域の首長連合政権として「毛野政権」という表現を使う場合がある[15]

考古資料では、古墳時代前期には東海地方由来の前方後方墳が多く築かれたほか、同地方由来の「S字甕」と呼ばれる土器も多く出土しており、畿内に対する独自性が見られる[16]。しかしながらその後は畿内由来の前方後円墳に移行した。また、東日本最大の太田天神山古墳は築造当時では全国5位くらいの規模であり[17]、同古墳やお富士山古墳の石棺には、畿内王者特有の長持形石棺が用いられた。そこには畿内の石工の存在が明らかであり、それらをもって畿内と毛野の豪族は「同盟」の関係が想定されている[17]。また、この毛野政権に加えて畿内政権・吉備政権などから構成された連合政権がヤマト王権である、という重層的な王権の実態が提唱されている[17]

なお、古くは『魏志倭人伝』に見える「狗奴国(くなこく)」を「毛野国」にあてる説もあった。狗奴国とは邪馬台国の東にあり長年争ったという国である。しかしながら、遺跡調査から邪馬台国の時代にはまだ毛野地域の平野部の開拓はなされていなかったことが判明している。そのため、近年では狗奴と毛野は全く別のものと考えられるようになっている[18]

毛野の分裂

毛野地域は、のちに渡良瀬川を境として上毛野(かみつけの)・下毛野(しもつけの)に分かれたという。この「上」「下」は、上総国下総国同様、「都に近い方」を「上」としたものとされる。この上毛野・下毛野はのちに令制国と定められた(下毛野は那須を併合)。のち、713年和銅6年)頃に諸地名を好字二字と改めるという一環で、両国は上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)と改称した。この際「毛」の字は消えたものの「け」の読みを残している。

これに関して『国造本紀』によれば、第16代仁徳天皇の時代に上毛野・下毛野に分かれ、それぞれ上毛野国造下毛野国造が支配したという[原 3][原 2]。ただし『古事記』『日本書紀』には当初より上毛野・下毛野と記されており、この伝承の記載はない。加えて『先代旧事本紀』は後世の潤色が多いため、この記述には懐疑的な見解も強い[14]

一方近年では、考古資料による考察から上毛野・下毛野の呼び分けの時期を5世紀末から6世紀初頭とする説が支持されている[19]。この頃に栃木県域では、新興勢力として摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳を始めとした大型古墳が思川流域に出現した。その事からこの「新興勢力の領域」を「下毛野」と呼び、「旧来の毛野」を「上毛野」と呼び分けたと見られている[19]

なお、毛野分割を示唆する伝承として『日光山縁起』の「神戦譚」が知られる[20]。これは日光男体山赤城山に関する伝説で、男体山(栃木県)の神と赤城山(群馬県)の神がそれぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめたという[注 7]。以上から、毛野が分割されるにあたって激しい領地争いがあったとする説のほか、日光山側の助けについた鹿島の神(鹿島神宮とされる)は畿内政権を象徴するとし、畿内から何らかの影響が及ぼされたとする説がある[20]

文献

東国の位置づけ

前述のように『古事記』『日本書紀』には「毛野」の名称自体の記載はない。代わりに毛野含め関東諸地域は「東国」の名で記載される。『常陸国風土記』には、足柄峠以東は「我姫(あづま)」とみなされたこと、その分割が第36代孝徳天皇の時代に行われたことが記載されている[14]。この認識は『日本書紀』大化2年(646年)の東国国司に対する詔の内容や[原 4]、毛野出身諸氏族に対する「東国六腹朝臣」の表現からも明らかとされる[14]。これらをもって、関東地方は古くは「東国」として1つのまとまりを持っており、律令国家形成の過程で8つに分割されたと指摘される[14]

また『古事記』では、「天語歌」の中で倭国を「天・東・夷」の3層構造と表現しており[原 5]、東国は王権(天)とも化外(夷)とも異なる性格を持っていたとも指摘される[14]

ヤマト王権の東国統治

『日本書紀』は東国の経営について、四道将軍豊城入彦命ヤマトタケル御諸別王(豊城入彦命三世孫)の各伝承を載せる。

四道将軍は、第10代崇神天皇10年に北陸・東海・西道・丹波の4方面に4人の将軍が派遣されたという伝承である[原 6][注 8]。4人のうち大彦命は北陸道方面、武渟川別命は東海道方面に派遣され、2人は会津で合流したという。この過程において、毛野地域を含む東山道方面については記載がなく空白となっている。記載自体が伝承性の強いものであるが、考古資料と照らし合わせると、この時点では毛野は未開の地であったと考えられている[15]

次いで崇神天皇48年、崇神天皇皇子の豊城入彦命が東国経営を命じられたという[原 7]。豊城入彦命の付記として「上毛野君・下毛野君の祖」と記しており[原 8]、その後も命の子孫が毛野に深く関係している。このことから、ヤマト王権が四道将軍の時には未開の地であった毛野の経営に着手したと解釈される。ただし、豊城入彦命とその孫・彦狭島王の時点までは、毛野の地に入っていないとみられている[21]

第12代景行天皇の時代には、武内宿禰が北陸・東国に派遣されて地形・民情を調査し、翌々年に帰還している[原 9]。そして景行天皇40年に東国が不穏となり蝦夷が反乱を起こすにあたって、景行天皇皇子のヤマトタケルが東国討伐に派遣された[原 10]。その東征ルートについて、毛野地域が外されていることが指摘される[22]。ヤマトタケルの遠征は毛野地域の本格的な経営に先立つ事業であったとみなす考えもある[15]

その後、景行天皇55年に彦狭島王(豊城入彦命の孫)が東山道十五国都督に任じられたが[原 11]、途中で没したため御諸別王(彦狭島王の子)が東国に赴いて善政をしき、蝦夷を討ったという[原 12]。これをもって、御諸別王を実質的な毛野経営の祖とみなす考えがある[21]

以上のように、毛野地域は東国経営の後半期に進められたと見られている[15]。加えて、東海道は「征討・帰還型」の派遣であるのに対し東山道は「治政・移住型」であることが指摘される[22]。なお御諸別王の後は、対朝鮮・対蝦夷の軍事・外交に携わった毛野氏各人物の活躍が記述される。のち大化以後には、毛野出身の氏族として「東国六腹朝臣」と呼ばれる上毛野氏下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷の中級貴族として活躍を見せた。

武蔵国造の乱での関与

『日本書紀』には、安閑天皇元年(534年?)に起きたとされる武蔵国造の笠原氏の内紛(武蔵国造の乱)において、上毛野氏の関与が記されている[原 13]。この乱の中で、笠原使主は朝廷に援助を、笠原小杵は上毛野小熊に援助を求め、最終的に使主が勝利した。

上毛野小熊含め上毛野氏は上毛野国造であったと推測されており[13][注 9]、古くから定説として「使主 - ヤマト王権」対「小杵 - 上毛野」という対立の構造が提唱されてきた[22]。この中で、小杵の敗死とともに上毛野地域内に「緑野屯倉」が設けられ、その勢力が大きく削がれたと推測されている。ただし、上毛野小熊が助けの求めに応じたかは明らかでないこと、小熊は処罰を受けておらずむしろ小熊以降に上毛野氏の繁栄が見られること、緑野屯倉が事件に関わるという証拠がないことなどから反論もある[22]。すなわち、上毛野勢力が畿内と対立関係にあったか協調関係にあったかは、依然議論がある。

考古資料においては、5世紀後半に上毛野の古墳が小型化する一方、武蔵の埼玉古墳群が成長するという傾向が見られる[19]。伝承性の強い時期の記事で事実か創作かは明らかではないが、何らかの事実関係がうかがわれる。

考古資料

弥生時代

弥生時代の日本列島では、各地で独自の墳丘墓が築かれ、地域色豊かな様相を示した。3世紀になると近畿地方において纏向遺跡に象徴される勢力が頭角を表し、3世紀中頃には箸中山古墳(箸墓古墳)に代表される大型前方後円墳が現れて古墳時代に入る。『魏志倭人伝』の記す時期もこの頃とされる。

こうした中で、毛野地域においては弥生時代に平野部の開拓はなされておらず、弥生時代中期から後期前半は北毛・西毛の谷地形の地域において竜見町式土器文化圏が形成されていた[15]。代わって3世紀代(弥生時代後期)には樽式土器が広がったが、その文化圏も西毛地域から北毛地域で形成するにとどまった。

古墳時代

黎明から最盛期

石田川式土器
群馬県立歴史博物館展示。
前橋八幡山古墳(群馬県前橋市)
東日本最大(全国4位)の前方後方墳

古墳時代にはヤマト王権の強大化が進む。中国の史書には3世紀中頃から5世紀代まで記載がないため「謎の4世紀」と呼ばれる時期において、王権は鉄器や農耕具をもって列島に展開した。東国では千葉県市原市の神門古墳群(東日本最古と位置づけられる)や会津の会津大塚山古墳に見られるように、畿内由来の前方後円墳が東海道側で展開した[15]

毛野地域では、4世紀代に入ると突如として空白の平野部に古墳が築造されるようになった。その分布には高崎市・前橋市周辺と太田市周辺の2つの中心地域が認められるほか[23]、その展開の特徴として東海地方由来の前方後方墳であることが挙げられる。特に、前橋八幡山古墳(群馬県前橋市)は全長130mに及び、前方後方墳では全国4位の大きさであった。

こうした様相は、古墳周辺から出土する土器「石田川式土器」にも表れている。この土器は口縁部がS字になっている「S字甕」で、その他の特徴からも東海地方の影響を強く受けたものとされる[15]。このような石田川式土器文化圏の形成には、同地方からの組織的かつ大規模な移住があったものと見られ、こうした人々により未開の平野部が開拓されていったと見られている[15]

4世紀中葉以降、古墳の墳形は前方後円墳へと移り、前橋市には前橋天神山古墳が築かれた。この古墳からは三角縁神獣鏡2面が出土しており、畿内との関わりの深さを物語っている[24]。同様に太田市周辺にも前方後円墳が築かれるようになり、前橋・高崎、太田の2大勢力が前方後方墳時期に引き続いて併存したとされる[24]。このような前方後円墳の展開の要因には畿内との結びつきの強化があると見られ、それを背景として首長が連合し毛野の地域政権が強化されていったと見られている[15]

長持形石棺(お富士山古墳出土棺の複製)
国立歴史民俗博物館展示。

5世紀に入ると古墳の大型化が進み、浅間山古墳(群馬県高崎市、171.5m)や宝泉茶臼山古墳(群馬県太田市、168m)が築かれた。そして5世紀中頃に東日本最大の太田天神山古墳(群馬県太田市、210m)[注 1]が築かれた。当古墳は同時期の上毛野の古墳中では群を抜いており、太田の勢力が前橋・高崎の勢力を呑み込む形で発展したことを物語っている[24]。なお同古墳は全国では26位であるが、築造当時では全国約5位に位置づけられる[17]。また同古墳やお富士山古墳(群馬県伊勢崎市、125m)の石棺には長持形石棺が用いられており、畿内の石工による築造が明らかである。この長持形石棺は畿内王者特有のもので、関東での使用例は3例しかない[注 10]。こうした様相から、毛野地域が大きな地域連合体に発展したことが示唆されるとともに、太田天神山古墳の被葬者はヤマト王権から地位を保証されていたと推測される[24]。このように太田天神山古墳に結実した古墳文化であるが、以後太田市付近には大型の古墳は見られなくなる。代わって上毛野全域において大型古墳が林立するようになる。

一方、これらの上毛野における古墳の質・量における充実に対して、下毛野では古墳の数は極端に減少した。

主な古墳
  • 4世紀[注 11]
    • 前方後方墳
      • 元島名将軍塚古墳 (群馬県高崎市) - 全長90.0m(前方後方墳では全国19位)
      • 前橋八幡山古墳 (群馬県前橋市) - 全長130.0m(前方後方墳では全国4位)
      • 藤本観音山古墳 (栃木県足利市) - 全長116.5m(前方後方墳では全国5位)
      • 山王寺大桝塚古墳 (栃木県栃木市) - 全長96.0m(前方後方墳では全国15位)
    • 前方後円墳
      • 前橋天神山古墳(群馬県前橋市) - 全長126mで群馬県最古の前方後円墳(初期では東国最大)、三角縁四神四獣鏡2面含む銅鏡5面のほか副葬品多数出土
      • 朝子塚古墳(群馬県太田市) - 全長123m
  • 5世紀
    • 浅間山古墳(群馬県高崎市) - 5世紀前半、全長171.5m
    • 宝泉茶臼山古墳(群馬県太田市) - 5世紀前半、全長168m
    • 太田天神山古墳(群馬県太田市) - 5世紀中頃、全長210m、東日本最大(全国26位)

上毛野

保渡田古墳群の八幡塚古墳
(群馬県高崎市)
三ツ寺I遺跡(群馬県高崎市)
古墳を営んだ豪族の居館跡で、高架下に所在。

5世紀後半になると、太田天神山古墳のような突出した古墳は築かれなくなり、前方後円墳のなかった地域にも100m級の古墳が築かれるようになる[23]。大きくは太田、前橋、高崎、藤岡地区に集中し、領域ごとに消長が見られる[19]。これら各地に豪族が割拠していたと見られるほか、古墳が交互に造営されたことから、各豪族が交互に上毛野の首長の座に就いたと見られる[17]。また朝鮮半島由来の副葬品や多様な人物・動物埴輪など、古墳文化の更なる高まりがうかがわれる。

5世紀後半に至っても多くの前方後円墳が築かれた上毛野は特異的で、それ以外の地域では前方後円墳の数は大きく減少している[23]。この減少の背景には、各地域の王権への従属度が増して円墳を造るようになったことにある[23]。実際にヤマト王権の中央集権化は強まりを見せ、勢力の拡大は稲荷山古墳出土鉄剣埼玉県行田市)や江田船山古墳出土鉄刀熊本県玉名郡和水町)の「獲加多支鹵大王」銘からもうかがわれる[25]。このような状況でも上毛野には前方後円墳が築かれ続けたことから、王権が上毛野に強い関心を持っていたと考えられている[23]

7世紀になると前橋市の総社古墳群が急成長して大型方墳を築き、のちその周辺に上野国の国府・国分寺が営まれるに至った[19]

主な古墳

下毛野

摩利支天塚古墳(栃木県小山市
琵琶塚古墳(栃木県小山市)
栃木県最大。

古墳時代中期に古墳が大型化した上毛野の一方、下毛野では古墳の数は減少していた。しかし5世紀末から6世紀前半に入り、思川流域において摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳という新興勢力による大型古墳2基が築かれた。琵琶塚古墳は全長約123mで、栃木県内では最大の大きさである。一説では、この新興勢力の出現をもって「下毛野」となし、「旧来の毛野」を「上毛野」と呼び分けたとする考えがある[19]

しかしこれらの大型古墳は2代で終わり、代わってやや北方の壬生町南部に、両古墳とは性格の異なる「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が築かれた。この古墳は特徴として、石室が後円部でなく前方部にあり、墳丘は基壇の上に造られている[26]。これら下野型古墳は下毛野氏一族の墓と解されてる[27]。また、古墳群は山王塚古墳(6世紀末から7世紀初頭)まで続いたのち円墳に変化することから、この頃にヤマト王権の東国支配が完了し下毛野氏一族は中央に居を移したと指摘される[28]。のちこの周辺には、下野国の国府・国分寺が営まれた。

主な古墳
  • 摩利支天塚古墳 (小山市) - 5世紀末から6世紀初頭、全長約120m
  • 琵琶塚古墳 (小山市) - 6世紀前半、全長約123mで栃木県最大
  • 下野型古墳
    • 吾妻古墳 (栃木市・壬生町) - 全長約86m
    • 国分寺愛宕塚古墳 (壬生町) - 全長約75m
    • 茶臼山古墳 (壬生町) - 全長約75m
    • 山王塚古墳 (下野市) - 全長約50m

脚注

注釈
  1. ^ a b なお、以前には太田天神山古墳以上の規模と推考される古墳の議論がなされていた。1つには、推定全長220m以上として雷電山古墳(栃木県宇都宮市)が挙げられることがあったが(『栃木県の地名』雷電山古墳項等)、1990年の調査で推定古墳跡地上で住居跡が見つかり、大規模古墳であることは否定されている。また、米山古墳(栃木県佐野市)も「米山丘陵全体が古墳」だとして全長約360mとする説があったが(現地説明板等)、現在はほぼ否定されている(米山古墳(とちぎの文化財))。
  2. ^ 1935年の調査で群馬県内では8,423基の古墳が確認されている(『上毛古墳綜覧』)。調査漏れや埋没古墳を含めると1万基を下らなかったとみられている(『群馬県の地名』総論 遺跡からみた原始・古代節)。
  3. ^ 『万葉集』における仮名は以下の通り。()内は歌番号。上つ毛野:「可美都氣努」(3404・3407・3415・3416・3417・3418・3420・3423)、「可美都氣努/可美都氣乃」(3405)、「可美都氣野」(3406)、「賀美都家野」(3412)、「可美都家野」(3434)。下つ毛野:「之母都家野」(3424)、「志母都家努」(3425)(万葉集検索システム(山口大学教育学部)参照)。
  4. ^ 日本古典文学大系本『萬葉集 一』(岩波書店、昭和32年)において論証されている(『古代東国の王者 上毛野氏の研究』序文より)。
  5. ^ なお「鬼怒川」と表記されるのは明治以後で、それ以前は「毛野川」のほか「絹川」・「衣川」と表記されていた(「鬼怒川」参照)。
  6. ^ この中で、那須国造碑の評価に対して、碑文の内容からは下毛野国と対等な那須国があったことは不明であるとしている(『古代東国の王者 上毛野氏の研究』第三章のうち「下毛野君の本拠地」節)。
  7. ^ 詳しくは「日光山縁起」、神戦「赤城と日光二荒山神戦」(赤城山ポータルサイト)参照。
  8. ^ なお『古事記』においては記載はあるが、4人は一括して取り扱われておらず「四道将軍」の名称もない(「四道将軍」参照)。
  9. ^ ただし、『国造本紀』を除いて上毛野氏が上毛野国造を務めたという史料はない(『日本歴史地名体系 群馬県の地名』上野国節)。
  10. ^ あと1例は高柳銚子塚古墳(千葉県木更津市)。
  11. ^ 古墳のデータは『群馬県の歴史』・『栃木県の歴史』(山川出版社)、『群馬史再発見』(あさを社)等による。
原典
  1. ^ 『宋書』倭国伝。
  2. ^ a b 『国造本紀』下毛野国造条。
  3. ^ 『国造本紀』上毛野国造条。
  4. ^ 『日本書紀』大化2年3月条。
  5. ^ 『古事記』雄略天皇段。
  6. ^ 『日本書紀』崇神天皇10年条。
  7. ^ 『日本書紀』崇神天皇48年正月条。
  8. ^ 『日本書紀』崇神天皇段。
  9. ^ 『日本書紀』景行天皇25年7月条、同27年2月条。
  10. ^ 『日本書紀』景行天皇40年条、同51年条。
  11. ^ 『日本書紀』景行天皇55年2月条。
  12. ^ 『日本書紀』景行天皇56年8月条。
  13. ^ 『日本書紀』安閑天皇元年閏12月条。
出典
  1. ^ a b 『世界大百科事典』(平凡社)毛野項。
  2. ^ 『詳説 日本史図録』(山川出版社、第5版)26p。
  3. ^ a b c d 『角川日本地名大辞典 栃木県』(角川書店)毛野国項。
  4. ^ 『毛野国の研究 古墳時代の解明 下』第四章 一節「毛野の名義について」。
  5. ^ 『光と風の大地から 下野古麻呂の生涯』第一章「毛野国分裂」。
  6. ^ a b 『角川日本地名大辞典 群馬県』(角川書店)毛野国項。
  7. ^ 『群馬県の地名』赤城山項。
  8. ^ 『大辞林』(第三版)毛野項。
  9. ^ 万葉仮名」参照。
  10. ^ 万葉集検索システム(山口大学教育学部)、佐佐木信綱『新訓萬葉集』(岩波文庫)参照。
  11. ^ 『古代東国の王者 上毛野氏の研究』序文。
  12. ^ 『栃木県の地名』下野国節。
  13. ^ a b 『群馬県の地名』上野国節。
  14. ^ a b c d e f g 「上毛野国から東国へ」(『群馬史再発見』)。
  15. ^ a b c d e f g h i j 「毛野の黎明-三~四世紀における地域形成のあゆみ」(『群馬史再発見』)。
  16. ^ 『図解 古代史』(成美堂出版)33p。
  17. ^ a b c d e 白石太一郎『考古学と古代史の間』(筑摩書房)第3章のうち「ヤマト王権と地域政権」節。
  18. ^ 「群馬の県名の由来を尋ねて」(『群馬史再発見』)。
  19. ^ a b c d e f 『よみがえる五世紀の世界』(かみつけの里博物館、常設展示解説書)。
  20. ^ a b 『毛野国の研究 古墳時代の解明 下』第四章 五節「毛野国の分割について」。
  21. ^ a b 毛野氏族概覧(古樹紀之房間 - 古代氏族研究会公認ホームページ)。
  22. ^ a b c d 『古代東国の王者 上毛野氏の研究』終章「東国派遣伝承の実相」。
  23. ^ a b c d e 『群馬県の歴史』(山川出版社)1章 2節「古代東国の中心地」。
  24. ^ a b c d 『あなたの知らない群馬県の歴史』(歴史新書)Q2。
  25. ^ 『図解 古代史』(成美堂出版)40p。
  26. ^ 『あなたの知らない栃木県の歴史』(洋泉社)Q4。
  27. ^ 『栃木県の歴史』(山川出版社)1章 3節「下毛野の王者」。
  28. ^ 福田三男『光と風の大地から 下野古麻呂の生涯』第三章 下野国成立。

参考文献

百科事典
  • 『日本古代史大辞典』(大和書房)毛野国項
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)毛野国項
  • 『世界大百科事典』(平凡社)毛野項 - 朝日新聞社コトバンクに該当記事(部分)
  • 『日本歴史地名体系 群馬県の地名』(平凡社)上野国節、『日本歴史地名体系 栃木県の地名』(平凡社)下野国節
  • 『角川日本地名大辞典 群馬県』(角川書店)毛野国項、『角川日本地名大辞典 栃木県』(角川書店)毛野国項
文献
  • 前沢輝政『毛野国の研究 古墳時代の解明 上・下』(現代思潮社、1982年)
  • 福田三男『光と風の大地から 下野古麻呂の生涯』(随想舎、1998年)
  • 近藤義雄「群馬の県名の由来を尋ねて」(『群馬史再発見』(あさを社、2001年) ISBN 4-87024-333-4
  • 梅澤重昭「毛野の黎明-三~四世紀における地域形成のあゆみ」(『群馬史再発見』(あさを社、2001年) ISBN 4-87024-333-4
  • 熊倉浩靖「上毛野国から東国へ」(『群馬史再発見』(あさを社、2001年) ISBN 4-87024-333-4
  • 熊倉浩靖『古代東国の王者 上毛野氏の研究』(雄山閣、2008年改訂増補版 ISBN 978-4-639-02007-3

関連項目