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保渡田古墳群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
保渡田古墳群
保渡田古墳群
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
種類古墳群
所在地群馬県高崎市保渡田町・井手町
座標北緯36度22分46.4秒 東経138度59分09.4秒 / 北緯36.379556度 東経138.985944度 / 36.379556; 138.985944座標: 北緯36度22分46.4秒 東経138度59分09.4秒 / 北緯36.379556度 東経138.985944度 / 36.379556; 138.985944
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300 m
井出明神山古墳
井出明神山古墳
井出地区遺跡群3号墳
井出地区遺跡群3号墳
道場1号墳
道場1号墳
二子山古墳
二子山古墳
八幡塚古墳
八幡塚古墳
薬師塚古墳
薬師塚古墳
古墳位置。
保渡田 古墳群の位置(群馬県内)
保渡田 古墳群
保渡田
古墳群
保渡田古墳群の位置

保渡田古墳群(ほどたこふんぐん/ほとだこふんぐん)は、群馬県高崎市保渡田町・井出町にある古墳群。国の史跡に指定されている。

八幡塚古墳

概要

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本古墳群は、榛名山の南麓の保渡田・井出の地に分布しており、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳が残っている。群の西南部に最大規模の二子山古墳があり、その東北方[1]に八幡塚古墳、その西北西[2]に薬師塚古墳がある。

築造年代は、5世紀代の後半も終わりに近い頃から6世紀前半代にかけてであり、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の順に造営されたと推定されている。

出土品や遺跡についての情報は、隣接するかみつけの里博物館で公開・展示されている。

規模・形状

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二子山古墳

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墳丘長108メートル、後円部径74メートル、高さ10メートル、墳丘部が三段築成で、前方部幅71メートル、高さ7メートル。周濠は馬蹄形で二重に造られており、内濠部に後円部を囲むようにくびれ部と斜面側後方部分に中島を4基配置している。墳丘・中島・中低部とも川原石で葺石としている。円筒埴輪列を巡らしている。墳丘北側の中堤部分の一角から外濠西北隅の外側部分に人物埴輪や飾馬(馬具を装着したウマ)・イノシシイヌ・盾・蓋(きぬがさ)・家などの形象埴輪[3]を配置した区画が見つかっている。

二子山古墳 墳頂(前方部)の全天球画像
360°インタラクティブパノラマで見る

八幡塚古墳

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墳丘長102メートル、後円部径56メートル、高さ現存約6メートル、前方部幅53メートル。高さは削平されて分からない。周濠は馬蹄形で二重に取り巻き、さらに外側を幅の狭い外周溝が巡る。内濠部のくびれ部と後円部後側に4基の中島が配置されている。墳丘には葺き石が葺かれ、円筒列が墳丘裾部、中島裾部、中堤縁に見られる。前方部前面の中堤上に円筒埴輪列で方形に区画された部分から人物類や、ウマニワトリなどの家畜イノシシ水鳥など狩猟鳥獣をモチーフとした形象埴輪が出土している。これらの動物埴輪は、埴輪祭祀の一つの表現様式として注目されている。

また、保渡田八幡塚古墳からは鵜形埴輪が出土しており、首を高く上げ口にをくわえ、首にのついた首紐が付けられた(う)の姿が表現されている[4]。鵜を用いて川漁を行う鵜飼は文献史料では古代中国の歴史書隋書』や『古事記』『日本書紀』において見られるが、保渡田八幡塚古墳出土の鵜形埴輪は古墳時代から儀礼・行事としての鵜飼が行われていた可能性を示す資料として注目されている[4]

薬師塚古墳

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墳丘部が西光寺の堂宇や墓地のため、南側から東側にかけてかなり削り取られている。墳丘長100メートルを超え、二重に周壕を巡らしていたと推定されている。葺石が葺かれ、埴輪類が配置されていた。埋葬施設は舟形石棺で、江戸時代に掘り出され、墳丘上に保存されている。

外濠には火山灰の堆積が見られるのに、内濠にはそれが見られないために、外濠が先に掘られ、内濠が掘られる前に榛名山の噴火に遭遇したとみられている。また、二子山・八幡塚の両古墳と比較して埴輪類の数が少なく、これも榛名山の噴火に伴う地域への人的・経済的な打撃が大きかったとする推測もある[5]

埋葬施設・副葬品

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二子山古墳の主体部は、後円部頂部のほぼ中央にあり、川原石積み竪穴式石室であり、舟形石棺を置いている。埋葬施設は撹乱され、盗掘されていたが、衝角付冑挂甲鉄鏃鉄矛、金製装飾具、金銅製飾履()、鉄製農工具、玉類、馬具、石製模造品、装飾大刀などが破片で見つかった。また、盗掘を考慮すれば、銅鏡も伴っていた可能性が高い。なお、石棺蓋石は見つかっていない。現在、保存のため石棺は後円部墳頂下1メートル付近に埋め戻されている。

八幡塚古墳は、後円部に舟形石棺と砂利層が露出しており、石槨が存在したと推測されているが、詳細は明らかでない。副葬品は鉄地金銅張f字形鏡板の轡と同剣菱形杏葉、小石槨から鉄刀片、甲冑片が出土したとの伝承がある。また、墳丘東側くびれ部の中島から高坏の土師器が出土しているが、初期須恵器高坏を模造したもので、古墳時代後期の初期と推測されている。

薬師塚古墳は、天和3年(1683年)に発掘されたとされる凝灰岩製の舟形石棺(長さ2.9メートル)が後円部頂部に保存されている。その時に出土した仿製(ぼうせい)内行花文鏡、鋳銅製馬具類[6]、玉類が西光寺に伝来・保管されており、重要文化財に指定されている。

文化財

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重要文化財(国指定)

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  • 上野国保渡田薬師塚古墳出土品(考古資料) - 明細は以下。西光寺所有、一部はかみつけの里博物館保管。1939年(昭和14年)9月8日指定[7]
    • 銅鏡 1面
    • 瑪瑙勾玉 3顆
    • 瑠璃勾玉 2顆 - 内1顆頭部欠損。
    • 碧玉管玉 9箇
    • 瑠璃丸玉 360箇
    • 銅製馬鐸 3口
    • 銅製轡鏡板 1対
    • 銅製三葉形杏葉 7枚
    • 銅製剣頭形杏葉(六鈴飾付) 2枚
    • 銅製剣頭形杏葉(大鈴飾付) 1枚
    • 銅製花弁形金具 2枚
    • 銅製十字形辻金具 1箇
    • 銅製轡鏡板形辻金具 1箇

国の史跡

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  • 保渡田古墳群 - 1985年(昭和60年)9月3日指定、2003年(平成15年)8月27日に史跡範囲の追加指定[8]

群馬県指定文化財

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  • 重要文化財(有形文化財)
    • 保渡田VII遺跡出土遺物(考古資料) - 1998年(平成10年)3月24日指定。

復元された八幡塚古墳の外観

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墳頂
前方部
360°インタラクティブパノラマで見る
くびれ部
360°インタラクティブパノラマで見る
後円部
360°インタラクティブパノラマで見る
人物・動物埴輪群像
西側
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南側
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東側
360°インタラクティブパノラマで見る
中段
前方部(南側)
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くびれ部(西側)
360°インタラクティブパノラマで見る
くびれ部(東側)
360°インタラクティブパノラマで見る
後円部(西側)
360°インタラクティブパノラマで見る
後円部(東側)
360°インタラクティブパノラマで見る

脚注

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  1. ^ 後円部中心間の距離は約320メートル。
  2. ^ 後円部中心間の距離は約290メートル。
  3. ^ これらは埴輪人物像出現期の古墳の特徴である。
  4. ^ a b 『鵜飼 甲斐の川漁と鵜飼をめぐる伝説』(山梨県立博物館、2015年)
  5. ^ 若狭徹「前方後円墳の社会的機能に関する一考察」吉村武彦 編『律令制国家の理念と実像』八木書店、2022年 ISBN 978-4-8406-2257-8 P109-110.
  6. ^ 鈴付f字形鏡板の轡、鈴付杏葉、馬鐸、辻金具
  7. ^ 上野国保渡田薬師塚古墳出土品 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  8. ^ 保渡田古墳群 - 国指定文化財等データベース(文化庁

参考文献

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  • 梅沢重昭 著「保渡田」、文化庁文化財保護部史跡研究会監修 編『図説 日本の史跡 第2巻 原始2』同朋舎出版、1991年。ISBN 978-4-8104-0925-3 

関連項目

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外部リンク

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