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'''布引電気鉄道'''(ぬのびきでんきてつどう)は、[[大正]]から[[昭和]]にかけて[[長野県]][[北佐久郡]]小諸町(現[[小諸市]])の[[小諸駅]]から北佐久郡北御牧村(現[[東御市]])の島川原駅までの7.4kmを結ぶ[[鉄道路線]]を運営していた[[鉄道事業者|鉄道会社]]である。


'''布引電気鉄道'''(ぬのびきでんきてつどう)は、かつて[[長野県]][[北佐久郡]][[小諸町]](当時)から同県同郡[[川辺村 (長野県北佐久郡)|川辺村]](当時)を経て同県同郡[[北御牧村]](当時)に至る[[鉄道路線]]を運営していた[[鉄道事業者]]である。
「'''安易な計画が祟って数年で挫折した私鉄'''」として、雑誌などの記事でもしばしば引き合いに出される鉄道であり、鉄道趣味者における知名度は、現在においても意外に高い。


[[1920年]]に[[信越本線]][[小諸駅]]から[[本牧町|本牧村]]望月までを結ぶ目的で設立され<ref name="rp433-111"/>、[[1926年]]に開業したが、経営不振が続き<ref name="rp433-110"/>、わずか8年後の[[1934年]]には休業し、そのまま廃止となった<ref name="rj196-136"/>。昭和初期の不況や[[日本のバス|バス]]の台頭によって休廃業した鉄道事業者の中でも「最も極端なケース」として紹介されることもある<ref name="rj196-136"/>。
本項では、布引電気鉄道とほぼ同時期に近接地域にいて建設が計画され、当鉄道との路線共用を条件に免許交付を受けた'''佐久諏訪電気鉄道'''についても記述する。


本項では、布引電気鉄道とほぼ同時期に近接地域において建設が計画され、当鉄道との路線共用を条件に免許交付を受けた'''佐久諏訪電気鉄道'''についても一部記述する。
== 概要 ==
[[ファイル:Shimagawara power station.jpg|thumb|島川原発電所]]
川西地区の開発と[[布引観音]]への参詣輸送を目的に設立され、ガス<ref>「瓦斯」は当時日本で鉄道動力に導入が検討されつつあった[[ガソリンエンジン]]を指した「[[ガソリン]](瓦斯倫)」の誤りの可能性もあるが文献により異同あり。気体としてのガスを鉄道車両の燃料とした事例は、1934年に[[流鉄流山線|流山鉄道]](現・流鉄流山線)が[[木炭]]ガス発生器搭載[[気動車]]を導入したのが日本での最初である。</ref>を動力に予定し、最初の名称は布引自働鉄道といった。小諸 - 望月間の免許を得て建設に取り掛かった。使用動力は布引鉄道設立までの間にガスを改め、[[蒸気機関車|蒸気]]を予定していたが、のちに電気に改め、社名も「布引鉄道」から「布引電気鉄道」に変更した。そして第一期区間となる小諸 - 島川原間を[[1926年]][[12月1日]]に開業させた。


== 歴史 ==
旅客輸送については沿線に人家が少ないことに加え折からの[[昭和金融恐慌]]と[[世界恐慌]]の影響で営業成績は思わしくなく、当初の目的であった布引観音への参詣輸送と会社が主催した花火大会などは賑わいを見せていたが、それ以外の時期は閑散とした状態で、電車が42人乗りの設計であったにもかかわらず[[運転士]]と[[車掌]]のみで運行していることが珍しくないことから、「始終(四十:しじゅう)二人乗り」「[[シジュウカラ]](始終空)の小鳥電車」<ref>運行開始した当初から乗客がほとんどおらず、小鳥の四十雀にかけた「シジュウカラ電車」と揶揄された不採算路線の事例には、ほかにも[[池田鉄道]]などがある。</ref>などとも揶揄された。
===創業の経緯===
長野県の[[佐久地域|佐久地方]]は古来経済活動が活発な地域であり、[[中山道]]や[[北国街道 (信越)|北国街道]]などの陸上交通路にも比較的恵まれていた<ref name="rj196-136"/>。[[1888年]]に官設鉄道として[[信越本線]]がこの地域にも通るようになり、[[1893年]]に[[碓氷峠]]に[[アプト式]]鉄道が開通することによって信越本線は全通した<ref name="rj196-136"/>。その後しばらくすると、信越本線から離れた地域でも鉄道を開設しようとする動きが出てきた<ref name="rj196-136"/>。[[1915年]]には小諸から[[中込町|中込]]まで[[小海線|佐久鉄道(当時)]]が開通し、[[1919年]]には[[小海村 (長野県)|小海]]まで延伸されている<ref name="rj196-136"/>。


しかし、中山道が経由していた、川西地方と称される[[蓼科山]]北麓の地域は、江戸や上方との結びつきが強かったにもかかわらず<ref name="rj196-136"/>、信越本線や佐久鉄道が開通した後も鉄道系交通機関からは取り残された状態で<ref name="rj196-136"/>、川西地方に鉄道を敷設することは地域社会の課題となっていた<ref name="rj196-137"/>。一方、民間資本による鉄道網の拡充を図る目的で、[[1910年]]には[[軽便鉄道法]]が公布されていた<ref name="rj196-136"/>。
しかし、1928年から1930年にかけては、島川原地区に建設が進められていた[[東信電気]][[西浦ダム|島河原発電所]](現:[[東京電力]]島川原発電所)の資材輸送により利益を上げていた。駅に貨車が入りきらず、線路上で資材を下ろしたこともあったという<ref>もっとも昭和4年度には1万トン近くの貨物量を記録したが、旅客収入の1/3以下であった「挫折した地方小鉄道」139頁</ref>。


1919年には佐久地方において2つの鉄道免許申請があった。そのうちの1つが'''布引自<!--誤変換にあらず-->働鉄道'''<ref group="注釈">この自働鉄道については1921年発行の[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946125/703 『運輸五十年史』]に四鉄道が出願中とあり、矢沼商店([http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954304/15 『官報』1919年11月22日])が自動車を改造した車両を使用することになっていた。</ref>で、同年7月23日に軽便鉄道法による鉄道の免許が出願された<ref name="rp433-110"/>。布引自<!--誤変換にあらず-->働鉄道は小諸から望月までを結ぶという計画で、小諸町の繁栄策として「鉄道事業を興すことによって小諸の商圏を拡大する」という考えに基づいたもので<ref name="rj196-137"/>、発起人も小諸町の商人が中心であった<ref name="rj196-137"/>。布引自<!--誤変換にあらず-->働鉄道では当初はガス力<ref group="注釈">「瓦斯」は当時日本で鉄道動力に導入が検討されつつあった[[ガソリンエンジン]]を指した「[[ガソリン]](瓦斯倫)」の誤りの可能性もあるが文献により異同あり。気体としてのガスを鉄道車両の燃料とした事例は、1934年に[[流鉄流山線|流山鉄道]](現・流鉄流山線)が[[木炭]]ガス発生器搭載[[気動車]]を導入したのが日本での最初である。</ref>による動力方式を検討していた<ref name="rp433-110"/>が、経常費用の面で不都合があると考えられ、蒸気動力へ変更することとし、名称も'''布引鉄道'''に変更されている<ref name="rp433-110"/>。もう1つは川西地方の交通問題を打開するのを主な目的として、同年11月22日に出願された'''佐久諏訪電気鉄道'''で<ref name="rp433-116"/><ref>1920年5月29日鉄道免許状下付[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954461/15 「鉄道免許状下付」『官報』1920年6月1日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>、こちらは[[小県郡]][[田中町|県村]]の信越本線[[田中駅]]と[[諏訪郡]][[ちの町|永明村]]の[[中央本線]][[茅野駅]]を結ぶ計画<ref name="rp433-116"/>、発起人は川西地方の有力者であった<ref name="rj196-137"/>。
発電所が完成するとわずかな旅客収入のみとなり、経営的には非常に厳しい状況となった。電気料金も支払いの遅れが目立つようになり、末期にはモーター故障と称してしばしば運休となることがあったが、実際には送電停止による運休だったといわれている。最終的には電気料金の支払いが不可能になり、運行を無期限で休止した。この際に、当時の[[鉄道省]](のち[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]→[[運輸省]]、現在は[[国土交通省]])に諮らずに運行休止したことが後に発覚、同省が鉄道免許を取り消した結果、[[廃線]]となるという異例の事態であった。


布引鉄道の出願を受けて、鉄道員の技師が実地視察を行った。その報告内容では、建設費は94万1千円が見込まれた<ref name="rp433-112"/>ほか、「全線にわたって田圃の中を通るものの、地形の起伏があるため、40分の1[[勾配]](25[[パーミル]]勾配)と半径8鎖([[チェーン (単位)|チェーン]]・約161[[メートル]])の曲線を使用しても、土木工事は少なくない」<ref name="rp433-111"/>「布引観音は1年間に6万人の客が訪れるが、小諸までの距離は2[[マイル]]半(約4[[キロメートル]])しかなく、鉄道収入は多くを見込めない」<ref name="rp433-111"/>という点が指摘されていた。
廃線直後、沿線住民や会社の幹部が無断で運行停止したとして、当時の社長を刑事告発し、結果的に社長が逮捕されるという泥仕合が展開され、最後は運行会社自体が解散するという、醜態と呼ばざるを得ない結末を迎えている。


布引鉄道は[[1920年]]1月29日には免許を受け<ref name="rp433-110"/><ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954358/2 「鉄道免許状下付」『官報』1920年1月30日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>、同年5月29日には佐久諏訪電気鉄道も免許を取得した<ref name="rp433-116"/>。
== 沿革 ==

* [[1919年]](大正8年) 小諸から本牧まで14.7kmの敷設免許を申請
===会社創立===
* [[1920年]](大正9年)[[10月30日]] 免許交付により'''布引鉄道'''設立
免許取得を受け、布引鉄道は同年10月30日に[[資本金]]100万円で会社の設立を行った<ref name="rp433-112"/><ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190630/49 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。初代社長には小諸商工会会長の平野五兵衛が就任し<ref name="rj196-137"/>、重役も小諸商工会の会員で占められていた<ref name="rj196-137"/>。その後、工事施工認可の申請を行い、[[1922年]]5月13日に蒸気鉄道として認可されたが、これには佐久諏訪電気鉄道と線路共用の協議を行うことや、[[小諸駅]]構内での佐久鉄道の用地使用承認や、信越本線変更する箇所の工事協定を結ぶことなどが条件とされていた<ref name="rp433-112"/>。このうち、線路共用の協議というのは、佐久諏訪電気鉄道の免許において「工事施工認可申請マデニ布引鉄道発起人ト合同ヲナスカ 又ハ協定ノ上同鉄道ト並行セル部分ハ両者共用ニ適当ナル一線路ヲ選定スベシ」という条件がつけられていた<ref name="rp433-116"/>。つまり、布引鉄道の発起人と合同の企業とするか、2社で同じ線路を共用するように、ということである。布引鉄道は1922年5月19日に佐久諏訪電気鉄道と線路共用の契約を締結<ref name="rp433-117"/>、この翌日に佐久諏訪電気鉄道も資本金500万円で会社設立に至っている<ref name="rp433-116"/>。
* [[1923年]](大正12年) '''布引電気鉄道'''と改称

* [[1926年]](大正15年)[[12月1日]] 小諸 - 島川原間開業
この時点では、布引鉄道では蒸気動力を使用する([[蒸気機関車]]が牽引する列車による運行)予定であったが、このためには勾配を25パーミルから34パーミルに抑える必要があり、途中に2箇所の[[スイッチバック]]を設ける予定であった<ref name="rp433-112"/>。しかし、これは列車の運転には不利と予想されたため、最急勾配を40パーミルとすることにしてスイッチバックの設置を回避した<ref name="rp433-112"/>。このため動力方式を電気動力([[電車]]による運行)に切り替えることとし、[[1922年]]12月に電気動力への変更認可を取得、[[1923年]]5月には社名も'''布引電気鉄道'''に改めている<ref name="rp433-112"/><ref>11月27日社名変更届出[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/974248/478 『鉄道省鉄道統計資料. 大正12年度』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。
** この年に地方鉄道補助法による補助金申請を行なったが却下。

* [[1928年]](昭和3年) 東信電気島川原発電所の工事開始
1920年の[[戦後恐慌#1920年の戦後恐慌|恐慌]]以後の不況の中、資金調達は難航した<ref name="rj196-137"/>。1925年上期の時点で、布引電気鉄道の資本金100万円のうち、66万円ほどが未払い込みという有様であった<ref name="rj196-139"/>。これは佐久諏訪電気鉄道でも同様の状況で、佐久諏訪電気鉄道では[[1924年]]11月22日に一部工事施工の認可を得ていた<ref name="rp433-117"/>が、当時の農村では総額500万円の株式払い込みの資金は到底動員できないほどの過大な負担であった<ref name="rp433-117"/>。しかし、布引電気鉄道の沿線である島川原に[[東信電気]]第二[[発電所]]の建設が具体化し<ref name="rp433-113"/>、東信電気は「資材輸送の役に立つなら資金援助をしてもよい」と表明した<ref name="rj196-137"/>。この資金援助は表面には出ていない<ref name="rp433-113"/>が、布引電気鉄道と東信電気の間で資金面の話がまとまり<ref name="rj196-137"/>、まず小諸から島川原までを第1期線として開業させることになった<ref name="rj196-137"/>。
** 完成まで貨物輸送は隆盛。

* [[1930年]](昭和5年) 東信電気島川原発電所が完成
その一方で、布引電気鉄道では小諸町に対しても補助金を申請した<ref name="rj196-137"/>が、申請書に添付された参考書の内容は、小諸駅利用者の10分の1、田中駅などの利用者の半分を川西地方の関係者とみなし<ref name="rj196-139"/>、それらがそのまま布引電気鉄道の利用者になるかのごとくほのめかした<ref name="rj196-137"/>上、「各地の官私設鉄道の営業実績を見ると、前年度に比べて1割から2割程度の増加が見られており、川西地方の状態から考えれば増加の程度の推察できる」と述べるという代物であった<ref name="rj196-139"/>{{refnest|group="注釈"|鉄道史研究会会員の山田俊明は、これを「敷設さえすればあとは何とかなるといった姿勢だったといってよい」としている<ref name="rj196-139"/>。}}。
* [[1934年]](昭和9年)[[6月1日]] 送電停止により運行停止

** これまでにも何度か一時的な送電停止による運休はあった。
地形に起因する難工事と、[[関東大震災]]による市中経済の混乱によって<ref name="rp433-113"/>、第1期線の開通工事には4年あまりを要した<ref name="rp433-112"/>。なお、[[1924年]]7月には社長に白沢治太右衛門が就任した<ref name="rp433-112"/>が、開業間近となった[[1926年]]4月には、[[アルピコ交通|筑摩電気鉄道(当時)]]の創設者でもある[[上條信]]が社長に就任している<ref name="rp433-112"/><ref>[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077355/567 『日本全国諸会社役員録. 第35回』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>{{refnest|group="注釈"|これは、鉄道運営には素人だった小諸商工会の要請によるものとみられている<ref name="rj196-137"/>。}}。
* [[1936年]](昭和11年)[[10月28日]] 無認可の運行停止に対する処分として免許取り消しにより廃業

この時期、佐久諏訪電気鉄道でも1924年11月28日から工事に着手していたが、用地買収に難航し、進捗は芳しくなかった<ref name="rp433-117"/>。

===開業後===
1926年12月1日、布引電気鉄道は小諸から島川原までの区間において、営業運行を開始した<ref name="rp433-113"/><ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956437/10 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年12月7日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>。[[信濃毎日新聞]]には小さく広告が掲載され、同年12月6日までは運賃が半額となるサービスを行った<ref name="rj196-137"/>。

開業翌年の[[1927年]]の利用者数はわずかに年間約7万人程度で、1日あたり194人に過ぎなかった<ref name="rj196-138"/>。旅客輸送が最も多かった[[1928年]]でも年間利用者数は約13万人程度で<ref name="rj196-138"/>、しかも途中の[[釈尊寺|布引観音]]への参詣客が多かったため、全線通しの利用者が少なかった<ref name="rp433-114"/>。そもそも、開業した区間の沿線の集落は布下・島川原とも50戸足らずで、沿線人口が極度に少なかった<ref name="rj196-138"/>。このような状況から、列車によっては乗客が全くいないこともあり、[[運転士]]と[[車掌]]が「42人乗りならぬシジュウフタリノリ(始終、2人乗り)」と苦笑していたという<ref name="rj196-138"/><ref group="注釈">運行開始した当初から乗客がほとんどおらず、小鳥の四十雀にかけた「シジュウカラ電車」と揶揄された不採算路線の事例には、ほかにも[[池田鉄道]]などがある。</ref>。旅客誘致のため、夏に[[千曲川]]の河川敷で[[花火]]大会を催したりもした<ref name="rj196-138"/>。また、1927年1月には、地方鉄道補助法による補助金を申請しているが、省営鉄道の並行路線である上、遊覧鉄道の性質が顕著であるという理由で却下されている<ref name="rp433-114"/>。1928年には社長に再び白沢治太右衛門が就任した<ref name="rp433-112"/>。

そもそも、開業の動機が東信電気第二発電所の建設に便乗したものであり<ref name="rj196-138"/>、発電所の建設が本格化した[[1929年]]から[[1930年]]にかけては、貨物輸送は盛況となった<ref name="rj196-139"/>。昼間の列車にはどの列車も貨車を増結して走るほどで<ref name="rp433-114"/>、島川原での荷下ろしが間に合わず、貨車を線路上に停車させて[[セメント]]袋を投げ下ろすことすらあったという<ref name="rj196-139"/>。ピーク時の1929年には年間1万[[トン]]の輸送があったが<ref name="rp433-114"/>、貨物輸送では経費も多額となるため、経営にはあまり寄与していなかった<ref name="rp433-114"/>{{refnest|group="注釈"|旅客収入の1/3以下(旅客16,415円に対して貨物5,234円)であった<ref name="rj196-139"/>。}}。

その一方、佐久諏訪電気鉄道は1927年3月に[[破産]]宣告を受けており、1929年2月に強制[[和解]]によって債務を弁済していた<ref name="rp433-117"/>。1930年2月19日には'''中信電気鉄道'''に社名変更している<ref name="rp433-117"/><ref>[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1022014/10 『鉄道統計資料. 昭和4年』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。

===破局===
[[ファイル:Shimagawara power station.jpg|thumb|東信電気第二発電所([[東京電力]]島川原発電所)]]
発電所が完成すると貨物輸送量は激減し、布引電気鉄道はわずかな旅客を頼りに営業せざるを得なくなった<ref name="rj196-139"/>。この時期の営業収入が1日50円程度であるのに対し、諸経費と利息で1日当たり100円の支払いが必要という有様であった<ref name="rj196-139"/>。株金の払い込みが遅れた分を毎期ごとに25万円もの借入金でまかなっていた<ref name="rp433-114"/>ため、金利の支払いなどがかさんだのである。

この状況を打開するためには、当初の目的地であった望月までの延長を急ぐ以外になかった<ref name="rj196-139"/>。しかし、[[昭和金融恐慌]]と[[世界恐慌]]による不況のさなか、資金調達は以前にも増して困難であった<ref name="rj196-139"/>。ようやく資金調達の目途がついたとして、島川原から切久保までの工事に着手しようとしたが、予定線の通る地域の地形は急峻であり、難工事が予測された<ref name="rp433-114"/>。しかも、予定線の延長線上には東信電気第二発電所の送水管が設置されており<ref name="rp433-114"/>、これを迂回するにも多額の工事費が必要であった<ref name="rp433-114"/>。1931年7月22日には「指定の期限までに工事竣功の見込みなし」という理由により、島川原から先の免許について取消処分を受けてしまった<ref name="rp433-114"/><ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957839/8 「鉄道免許取消」『官報』1931年7月25日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>。布引電気鉄道は同年8月に再免許を申請し、同年12月23日には認可された<ref name="rp433-114"/><ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957972/7 「鉄道免許状下付」『官報』1932年1月7日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>が、これには「工事資金について未払込株金を整理し、調達方法について誓約書を提出すること」「中信電気鉄道より線路の共用や会社の合併などの申し出があったら応じること」という条件がつけられていた<ref name="rp433-114"/>。

しかし、資金の回転に事欠き、従業員の給料支払いさえ困難となった<ref name="rj196-139"/>。その上、1932年には[[長野電灯]]への電気料の滞納額が5800円に達し、「(同年)4月中に支払いのない場合は送電を停止する」という通告があり<ref name="rj196-139"/>、ついに同年5月から運行を休止せざるを得なくなった<ref name="rj196-139"/>。小諸町ではこの事態に黙っているわけにも行かず、更正委員会を設置して世論を喚起するに至った<ref name="rj196-139"/>。布引電気鉄道でも有力者を通じて融資を募り、同年7月13日から運行を再開した<ref name="rj196-139"/>。この年の8月29日、中信電気鉄道では鉄道起業の廃止と会社解散を決議し、翌年1月25日にその認可を得て免許は失効となり<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958293/10 「鉄道起業廃止許可」『官報』1933年1月28日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>、佐久と諏訪を結ぶという構想は崩れ去っていた<ref name="rp433-117"/>。

運行再開後も経営は好転せず、この時期の1日の電気料が15円であったのに対し、収入は14円未満であった<ref name="rj196-139"/>。1934年2月以降は「[[電動機|モーター]]の故障」と称してしばしば運休するようになったが、実際には電気料の不払いによる送電の停止であった<ref name="rj196-139"/>。蒸気・内燃鉄道として再起すべく、動力変更・ガソリン動力車の設計も出願していたが実現していない<ref name="rp433-115"/>。最終的には電気料金の支払いが不可能になり<ref name="rp433-114"/>、1934年6月18日以降、ついに電車の運行は休止したままの状態となった<ref name="rp433-114"/>。1934年9月11日からは正式に営業休止の許可を受けた<ref name="rj196-139"/>が、その後の手続きは行われず、1935年5月1日以降は「地方鉄道法に定める許可を得ない状態での営業休止」となり<ref name="rp433-114"/>、1936年10月28日付けで開業区間と予定線はともに免許取消し処分となり<ref>鉄道免許失効(北佐久郡北御牧村-同郡本牧村間 工事施工ノ認可ヲ得サルタメ)[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959432/9 「鉄道免許失効」『官報』1936年10月30日]、鉄道免許取消(北佐久郡小諸町-同郡北御牧村間 [[地方鉄道法]]37条ノ規程ニヨリ[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959432/9 「鉄道免許取消」『官報』1936年10月30日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>、正式に廃止となった<ref name="rp433-114"/>。

営業中最後の社長だった白沢は不当競売工作により横領罪で起訴され、さらに株券偽造事件で逮捕されるという始末であった<ref name="rj196-139"/>。また、運行休止以後はレールや橋桁などが売却され、廃止状態と変わらない有様であった<ref name="rp433-114"/>。


== 路線 ==
== 路線 ==

=== 路線データ ===
=== 路線データ ===
* 路線距離:小諸 - 島川原間7.42km
* 路線距離:小諸 - 島川原間7.42km
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* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* 電化区間:全線(600V[[直流電化]])
* 電化区間:全線(600V[[直流電化]])

=== 運行状況 ===
1930年4月1日改正当時
* 運行本数:小諸 - 嶋川原間日16往復(6:30 - 21:00、その他夜間に2往復不定期便あり)
* 全線所要時間:27分
* 全線通し運賃:24銭


=== 駅一覧 ===
=== 駅一覧 ===
77行目: 94行目:


布引駅、島川原駅は[[鉄道省<!--日本国有鉄道-->|国鉄]]との[[連絡運輸]]対象駅
布引駅、島川原駅は[[鉄道省<!--日本国有鉄道-->|国鉄]]との[[連絡運輸]]対象駅

=== 運行状況 ===
以下は一例である<ref name="rp433-116"/>。
;1927年7月1日改正:1日18往復(不定期列車3往復を含む)、小諸発は5時8分発から22時30分発まで、島川原発は5時6分発から22時33分発まで
;1931年4月1日改正:1日18往復(不定期列車2往復を含む)、小諸発は6時30分発から22時30分発まで、島川原発は6時32分発から22時33分発まで
全線所要時間は27分で、全線通し運賃は24銭であった<ref name="rp433-116"/>。布引駅で上下列車が交換していた<ref name="rp433-116"/>。


=== 接続路線 ===
=== 接続路線 ===
* 小諸駅:[[信越本線]]・佐久鉄道線(現・[[小海線]])
* 小諸駅:[[信越本線]]・佐久鉄道線(現・[[小海線]])

=== 廃線跡 ===
[[信濃川|千曲川]]の橋脚などがいまだに残存している。


== 輸送・収支実績 ==
== 輸送・収支実績 ==
鉄道統計資料、鉄道統計各年度版および、[[#谷口433|『鉄道ピクトリアル』通巻433号(1984年6月号) p.113]]に記載の「布引電気鉄道成績表」による。
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*地方鉄道補助法による補助の申請をしたが省線と並行しており、さらに遊覧鉄道とみなされ許可されなかった「失われた鉄道・軌道を訪ねて」114頁
*鉄道統計資料、鉄道統計各年度版より


== 車両 ==
== 車両 ==
開業にあわせて筑摩電気鉄道(後の[[アルピコ交通|松本電気鉄道]][[松本電気鉄道浅間線|浅間線]])から4輪単車の電車3両(デハ1-3)と電動貨車1両(デワ1)を譲り受け、運行休止まで使用。廃止後はすべてブローカーの手に渡っている
開業にあわせて[[アルピコ交通|筑摩電気鉄道(当時)]]から譲り受けたもので、運行休止まで使用され<ref name="rp433-115"/>
;デハ1-3<ref name="rp433-115"/>:1921年7月に名古屋電車製作所で製造された木造車体の二軸電車である<ref name="rp433-115"/>。当初は筑摩電気鉄道の[[アルピコ交通上高地線|鉄道線(当時)]]で使用されていたが、1924年4月に[[松本電気鉄道浅間線|軌道線(当時)]]が開業した際に転属した<ref name="rp433-115"/>。1926年11月13日認可により布引電気鉄道に1両あたり約14,700円で譲渡された<ref name="rp433-115"/>。定員は42名、主電動機は出力40英馬力のものを2基搭載し、ブレーキ装置は手ブレーキのみである<ref name="rp433-115"/>。
;デワ2<ref name="rp433-115"/>:1924年9月に[[日本車輌製造]]東京支店で製造された、木造車体の二軸電車である<ref name="rp433-115"/>。筑摩電気鉄道では鉄道線で使用されていた<ref name="rp433-115"/>。1926年11月13日認可により布引電気鉄道に1両あたり約8,000円で譲渡された<ref name="rp433-115"/>。荷重は12トン、主電動機は出力60英馬力のものを2基搭載し、ブレーキ装置は空気ブレーキと手ブレーキの併用である<ref name="rp433-115"/>。
休止後はモーターや機器類が売却された状態で小諸車庫に放置されており、再起は不可能な状態であった<ref name="rp433-115"/>。


このほか、筑摩電気鉄道からはもう1両、デハ4も譲り受ける予定であったが、筑摩電気鉄道側の都合により実現していない<ref name="rp433-115"/>。また、当時の従業員によればハニフと呼ばれる車両も存在したという<ref name="rj196-139"/>が、布引電気鉄道に入った形跡はない<ref name="rp433-115"/>。
== 佐久諏訪電気鉄道 ==
[[1919年]][[1月12日]]には「佐久諏訪電気鉄道」として[[信越本線]][[田中駅]]と[[中央本線]][[茅野駅]]を結ぶ鉄道の免許申請が出されている。製糸業者からの出資を目論み[[諏訪湖]]南岸を通り、中央本線[[岡谷駅]]までも計画していたがこちらは免許が下りていない。


== 廃線跡 ==
この時、既に免許を受けていた布引電気鉄道とルートが重なるため、路線の共用(相互乗り入れのことと思われる)を条件に免許を受けることになった。
廃止から50年近くが経過した[[1984年]]時点でも、[[信濃川|千曲川]]の橋脚などが残存していた<ref name="rp433-117"/>ほか、線路敷が[[県道]]や[[町道]]、[[農道]]として利用されていた<ref name="rp433-117"/>。


== 脚注 ==
急峻な山岳地帯を越える厳しい条件のルートであり、全通させるまでの建設費が莫大になることは避けられなかった。工事は第一期着工区間として、諏訪から豊平までの区間の工事が始められたが、資金繰りは苦しく、強引に工事を進めたことにより地権者との間に不信感が広まった上、用地買収代金の未払いなどにより行き詰まり、[[1927年]]には会社は破産宣告を受けてしまった。その後工事再開を目論んだものの、資金調達の目途が立たないまま、[[1931年]]に免許が取り消され、2年後に会社解散となった。佐久と諏訪を結ぶ鉄道という、壮大な計画は崩れ去ったのである。

== 注釈 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* {{cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = 日本鉄道旅行地図帳 | volume = 6 北信越 | publisher = [[新潮社]] | year = 2008 | id = ISBN 978-4-10-790024-1 }}
* {{cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = 日本鉄道旅行地図帳 | volume = 6 北信越 | publisher = [[新潮社]] | year = 2008 | id = ISBN 978-4-10-790024-1 }}
=== 雑誌記事 ===
* {{cite journal | 和書 | author = 谷口良忠 |journal = 鉄道ピクトリアル | volume = 通巻433号 | issue = 1984年6月号 | title = 失われた鉄道・軌道を訪ねて/布引電気鉄道 }}
* {{cite journal | 和書 |author = 山田俊明 | journal = 鉄道ジャーナル | volume = 通巻196号 | issue = 1983年6月号 | title = 挫折し地方小鉄道 }}
* {{cite journal|和書|author= 谷口良忠 |journal = [[鉄道ピクトリア]] |year=1984 |month=6 |issue = 433 |title = 失われた鉄道・軌道を訪ねて (53) 布引電気鉄道 |pages= 110-118 |publisher=[[電気車研究会]] |ref = 谷口433}}
* {{cite journal|和書|author= 山田俊明 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |year=1983 |month=6|issue = 196 |title = 鉄道史研究第3回 挫折した地方小鉄道 |pages= 136-139 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 山田196}}

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2013年9月28日 (土) 20:32時点における版

布引電気鉄道
千曲川橋梁跡(押出 - 布引)
千曲川橋梁跡(押出 - 布引)
千曲川橋梁跡(押出 - 布引)
路線総延長7.6 km
軌間1067 mm
電圧600 V 架空電車線方式直流
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
STR
国鉄信越本線
ABZrg
国鉄:小海線(佐久鉄道)
BHF exKBHFa
0.0 小諸
ÜWc2 ÜWor exBHF
1.1 花川
ÜWo+l ÜWc4 exBHF
2.8 押出
STR WASSERrg exWBRÜCKE
千曲川橋梁 千曲川
STR WASSER exBHF
4.0 布引
STR WASSER exBHF
6.3 布下
HST WASSER exSTR
滋野
STR WASSER exKBHFe
7.6 島川原

布引電気鉄道(ぬのびきでんきてつどう)は、かつて長野県北佐久郡小諸町(当時)から同県同郡川辺村(当時)を経て同県同郡北御牧村(当時)に至る鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。

1920年信越本線小諸駅から本牧村望月までを結ぶ目的で設立され[1]1926年に開業したが、経営不振が続き[2]、わずか8年後の1934年には休業し、そのまま廃止となった[3]。昭和初期の不況やバスの台頭によって休廃業した鉄道事業者の中でも「最も極端なケース」として紹介されることもある[3]

本項では、布引電気鉄道とほぼ同時期に近接地域において建設が計画され、当鉄道との路線共用を条件に免許交付を受けた佐久諏訪電気鉄道についても一部記述する。

歴史

創業の経緯

長野県の佐久地方は古来経済活動が活発な地域であり、中山道北国街道などの陸上交通路にも比較的恵まれていた[3]1888年に官設鉄道として信越本線がこの地域にも通るようになり、1893年碓氷峠アプト式鉄道が開通することによって信越本線は全通した[3]。その後しばらくすると、信越本線から離れた地域でも鉄道を開設しようとする動きが出てきた[3]1915年には小諸から中込まで佐久鉄道(当時)が開通し、1919年には小海まで延伸されている[3]

しかし、中山道が経由していた、川西地方と称される蓼科山北麓の地域は、江戸や上方との結びつきが強かったにもかかわらず[3]、信越本線や佐久鉄道が開通した後も鉄道系交通機関からは取り残された状態で[3]、川西地方に鉄道を敷設することは地域社会の課題となっていた[4]。一方、民間資本による鉄道網の拡充を図る目的で、1910年には軽便鉄道法が公布されていた[3]

1919年には佐久地方において2つの鉄道免許申請があった。そのうちの1つが布引自働鉄道[注釈 1]で、同年7月23日に軽便鉄道法による鉄道の免許が出願された[2]。布引自働鉄道は小諸から望月までを結ぶという計画で、小諸町の繁栄策として「鉄道事業を興すことによって小諸の商圏を拡大する」という考えに基づいたもので[4]、発起人も小諸町の商人が中心であった[4]。布引自働鉄道では当初はガス力[注釈 2]による動力方式を検討していた[2]が、経常費用の面で不都合があると考えられ、蒸気動力へ変更することとし、名称も布引鉄道に変更されている[2]。もう1つは川西地方の交通問題を打開するのを主な目的として、同年11月22日に出願された佐久諏訪電気鉄道[5][6]、こちらは小県郡県村の信越本線田中駅諏訪郡永明村中央本線茅野駅を結ぶ計画[5]、発起人は川西地方の有力者であった[4]

布引鉄道の出願を受けて、鉄道員の技師が実地視察を行った。その報告内容では、建設費は94万1千円が見込まれた[7]ほか、「全線にわたって田圃の中を通るものの、地形の起伏があるため、40分の1勾配(25パーミル勾配)と半径8鎖(チェーン・約161メートル)の曲線を使用しても、土木工事は少なくない」[1]「布引観音は1年間に6万人の客が訪れるが、小諸までの距離は2マイル半(約4キロメートル)しかなく、鉄道収入は多くを見込めない」[1]という点が指摘されていた。

布引鉄道は1920年1月29日には免許を受け[2][8]、同年5月29日には佐久諏訪電気鉄道も免許を取得した[5]

会社創立

免許取得を受け、布引鉄道は同年10月30日に資本金100万円で会社の設立を行った[7][9]。初代社長には小諸商工会会長の平野五兵衛が就任し[4]、重役も小諸商工会の会員で占められていた[4]。その後、工事施工認可の申請を行い、1922年5月13日に蒸気鉄道として認可されたが、これには佐久諏訪電気鉄道と線路共用の協議を行うことや、小諸駅構内での佐久鉄道の用地使用承認や、信越本線変更する箇所の工事協定を結ぶことなどが条件とされていた[7]。このうち、線路共用の協議というのは、佐久諏訪電気鉄道の免許において「工事施工認可申請マデニ布引鉄道発起人ト合同ヲナスカ 又ハ協定ノ上同鉄道ト並行セル部分ハ両者共用ニ適当ナル一線路ヲ選定スベシ」という条件がつけられていた[5]。つまり、布引鉄道の発起人と合同の企業とするか、2社で同じ線路を共用するように、ということである。布引鉄道は1922年5月19日に佐久諏訪電気鉄道と線路共用の契約を締結[10]、この翌日に佐久諏訪電気鉄道も資本金500万円で会社設立に至っている[5]

この時点では、布引鉄道では蒸気動力を使用する(蒸気機関車が牽引する列車による運行)予定であったが、このためには勾配を25パーミルから34パーミルに抑える必要があり、途中に2箇所のスイッチバックを設ける予定であった[7]。しかし、これは列車の運転には不利と予想されたため、最急勾配を40パーミルとすることにしてスイッチバックの設置を回避した[7]。このため動力方式を電気動力(電車による運行)に切り替えることとし、1922年12月に電気動力への変更認可を取得、1923年5月には社名も布引電気鉄道に改めている[7][11]

1920年の恐慌以後の不況の中、資金調達は難航した[4]。1925年上期の時点で、布引電気鉄道の資本金100万円のうち、66万円ほどが未払い込みという有様であった[12]。これは佐久諏訪電気鉄道でも同様の状況で、佐久諏訪電気鉄道では1924年11月22日に一部工事施工の認可を得ていた[10]が、当時の農村では総額500万円の株式払い込みの資金は到底動員できないほどの過大な負担であった[10]。しかし、布引電気鉄道の沿線である島川原に東信電気第二発電所の建設が具体化し[13]、東信電気は「資材輸送の役に立つなら資金援助をしてもよい」と表明した[4]。この資金援助は表面には出ていない[13]が、布引電気鉄道と東信電気の間で資金面の話がまとまり[4]、まず小諸から島川原までを第1期線として開業させることになった[4]

その一方で、布引電気鉄道では小諸町に対しても補助金を申請した[4]が、申請書に添付された参考書の内容は、小諸駅利用者の10分の1、田中駅などの利用者の半分を川西地方の関係者とみなし[12]、それらがそのまま布引電気鉄道の利用者になるかのごとくほのめかした[4]上、「各地の官私設鉄道の営業実績を見ると、前年度に比べて1割から2割程度の増加が見られており、川西地方の状態から考えれば増加の程度の推察できる」と述べるという代物であった[12][注釈 3]

地形に起因する難工事と、関東大震災による市中経済の混乱によって[13]、第1期線の開通工事には4年あまりを要した[7]。なお、1924年7月には社長に白沢治太右衛門が就任した[7]が、開業間近となった1926年4月には、筑摩電気鉄道(当時)の創設者でもある上條信が社長に就任している[7][14][注釈 4]

この時期、佐久諏訪電気鉄道でも1924年11月28日から工事に着手していたが、用地買収に難航し、進捗は芳しくなかった[10]

開業後

1926年12月1日、布引電気鉄道は小諸から島川原までの区間において、営業運行を開始した[13][15]信濃毎日新聞には小さく広告が掲載され、同年12月6日までは運賃が半額となるサービスを行った[4]

開業翌年の1927年の利用者数はわずかに年間約7万人程度で、1日あたり194人に過ぎなかった[16]。旅客輸送が最も多かった1928年でも年間利用者数は約13万人程度で[16]、しかも途中の布引観音への参詣客が多かったため、全線通しの利用者が少なかった[17]。そもそも、開業した区間の沿線の集落は布下・島川原とも50戸足らずで、沿線人口が極度に少なかった[16]。このような状況から、列車によっては乗客が全くいないこともあり、運転士車掌が「42人乗りならぬシジュウフタリノリ(始終、2人乗り)」と苦笑していたという[16][注釈 5]。旅客誘致のため、夏に千曲川の河川敷で花火大会を催したりもした[16]。また、1927年1月には、地方鉄道補助法による補助金を申請しているが、省営鉄道の並行路線である上、遊覧鉄道の性質が顕著であるという理由で却下されている[17]。1928年には社長に再び白沢治太右衛門が就任した[7]

そもそも、開業の動機が東信電気第二発電所の建設に便乗したものであり[16]、発電所の建設が本格化した1929年から1930年にかけては、貨物輸送は盛況となった[12]。昼間の列車にはどの列車も貨車を増結して走るほどで[17]、島川原での荷下ろしが間に合わず、貨車を線路上に停車させてセメント袋を投げ下ろすことすらあったという[12]。ピーク時の1929年には年間1万トンの輸送があったが[17]、貨物輸送では経費も多額となるため、経営にはあまり寄与していなかった[17][注釈 6]

その一方、佐久諏訪電気鉄道は1927年3月に破産宣告を受けており、1929年2月に強制和解によって債務を弁済していた[10]。1930年2月19日には中信電気鉄道に社名変更している[10][18]

破局

東信電気第二発電所(東京電力島川原発電所)

発電所が完成すると貨物輸送量は激減し、布引電気鉄道はわずかな旅客を頼りに営業せざるを得なくなった[12]。この時期の営業収入が1日50円程度であるのに対し、諸経費と利息で1日当たり100円の支払いが必要という有様であった[12]。株金の払い込みが遅れた分を毎期ごとに25万円もの借入金でまかなっていた[17]ため、金利の支払いなどがかさんだのである。

この状況を打開するためには、当初の目的地であった望月までの延長を急ぐ以外になかった[12]。しかし、昭和金融恐慌世界恐慌による不況のさなか、資金調達は以前にも増して困難であった[12]。ようやく資金調達の目途がついたとして、島川原から切久保までの工事に着手しようとしたが、予定線の通る地域の地形は急峻であり、難工事が予測された[17]。しかも、予定線の延長線上には東信電気第二発電所の送水管が設置されており[17]、これを迂回するにも多額の工事費が必要であった[17]。1931年7月22日には「指定の期限までに工事竣功の見込みなし」という理由により、島川原から先の免許について取消処分を受けてしまった[17][19]。布引電気鉄道は同年8月に再免許を申請し、同年12月23日には認可された[17][20]が、これには「工事資金について未払込株金を整理し、調達方法について誓約書を提出すること」「中信電気鉄道より線路の共用や会社の合併などの申し出があったら応じること」という条件がつけられていた[17]

しかし、資金の回転に事欠き、従業員の給料支払いさえ困難となった[12]。その上、1932年には長野電灯への電気料の滞納額が5800円に達し、「(同年)4月中に支払いのない場合は送電を停止する」という通告があり[12]、ついに同年5月から運行を休止せざるを得なくなった[12]。小諸町ではこの事態に黙っているわけにも行かず、更正委員会を設置して世論を喚起するに至った[12]。布引電気鉄道でも有力者を通じて融資を募り、同年7月13日から運行を再開した[12]。この年の8月29日、中信電気鉄道では鉄道起業の廃止と会社解散を決議し、翌年1月25日にその認可を得て免許は失効となり[21]、佐久と諏訪を結ぶという構想は崩れ去っていた[10]

運行再開後も経営は好転せず、この時期の1日の電気料が15円であったのに対し、収入は14円未満であった[12]。1934年2月以降は「モーターの故障」と称してしばしば運休するようになったが、実際には電気料の不払いによる送電の停止であった[12]。蒸気・内燃鉄道として再起すべく、動力変更・ガソリン動力車の設計も出願していたが実現していない[22]。最終的には電気料金の支払いが不可能になり[17]、1934年6月18日以降、ついに電車の運行は休止したままの状態となった[17]。1934年9月11日からは正式に営業休止の許可を受けた[12]が、その後の手続きは行われず、1935年5月1日以降は「地方鉄道法に定める許可を得ない状態での営業休止」となり[17]、1936年10月28日付けで開業区間と予定線はともに免許取消し処分となり[23]、正式に廃止となった[17]

営業中最後の社長だった白沢は不当競売工作により横領罪で起訴され、さらに株券偽造事件で逮捕されるという始末であった[12]。また、運行休止以後はレールや橋桁などが売却され、廃止状態と変わらない有様であった[17]

路線

路線データ

  • 路線距離:小諸 - 島川原間7.42km
  • 軌間:1067mm
  • 駅数:5
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:全線(600V直流電化

駅一覧

小諸駅 - 花川駅 - 押出駅 - 布引駅 - 布下駅 - 島川原駅

布引駅、島川原駅は国鉄との連絡運輸対象駅

運行状況

以下は一例である[5]

1927年7月1日改正
1日18往復(不定期列車3往復を含む)、小諸発は5時8分発から22時30分発まで、島川原発は5時6分発から22時33分発まで
1931年4月1日改正
1日18往復(不定期列車2往復を含む)、小諸発は6時30分発から22時30分発まで、島川原発は6時32分発から22時33分発まで

全線所要時間は27分で、全線通し運賃は24銭であった[5]。布引駅で上下列車が交換していた[5]

接続路線

輸送・収支実績

鉄道統計資料、鉄道統計各年度版および、『鉄道ピクトリアル』通巻433号(1984年6月号) p.113に記載の「布引電気鉄道成績表」による。

年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他損金(円) 支払利子(円)
1927 70,722 1,225 16,284 36,263 ▲ 19,979 雑損110 25,077
1928 130,321 3,005 42,448 41,732 716 22,228
1929 122,951 9,988 35,329 40,350 ▲ 5,021 23,362
1930 94,570 6,172 27,227 24,698 2,529 11,209
1931 66,879 898 11,093 23,966 ▲ 12,873 10,407
1932 42,838 73 5,163 16,725 ▲ 11,562 11,426
1933 57,821 2,191 7,712 11,121 ▲ 3,409 4,222
1934 19,277 670 13,764 14,282 ▲ 518

車両

開業にあわせて筑摩電気鉄道(当時)から譲り受けたもので、運行休止まで使用された[22]

デハ1-3[22]
1921年7月に名古屋電車製作所で製造された木造車体の二軸電車である[22]。当初は筑摩電気鉄道の鉄道線(当時)で使用されていたが、1924年4月に軌道線(当時)が開業した際に転属した[22]。1926年11月13日認可により布引電気鉄道に1両あたり約14,700円で譲渡された[22]。定員は42名、主電動機は出力40英馬力のものを2基搭載し、ブレーキ装置は手ブレーキのみである[22]
デワ2[22]
1924年9月に日本車輌製造東京支店で製造された、木造車体の二軸電車である[22]。筑摩電気鉄道では鉄道線で使用されていた[22]。1926年11月13日認可により布引電気鉄道に1両あたり約8,000円で譲渡された[22]。荷重は12トン、主電動機は出力60英馬力のものを2基搭載し、ブレーキ装置は空気ブレーキと手ブレーキの併用である[22]

休止後はモーターや機器類が売却された状態で小諸車庫に放置されており、再起は不可能な状態であった[22]

このほか、筑摩電気鉄道からはもう1両、デハ4も譲り受ける予定であったが、筑摩電気鉄道側の都合により実現していない[22]。また、当時の従業員によればハニフと呼ばれる車両も存在したという[12]が、布引電気鉄道に入った形跡はない[22]

廃線跡

廃止から50年近くが経過した1984年時点でも、千曲川の橋脚などが残存していた[10]ほか、線路敷が県道町道農道として利用されていた[10]

脚注

注釈

  1. ^ この自働鉄道については1921年発行の『運輸五十年史』に四鉄道が出願中とあり、矢沼商店(『官報』1919年11月22日)が自動車を改造した車両を使用することになっていた。
  2. ^ 「瓦斯」は当時日本で鉄道動力に導入が検討されつつあったガソリンエンジンを指した「ガソリン(瓦斯倫)」の誤りの可能性もあるが文献により異同あり。気体としてのガスを鉄道車両の燃料とした事例は、1934年に流山鉄道(現・流鉄流山線)が木炭ガス発生器搭載気動車を導入したのが日本での最初である。
  3. ^ 鉄道史研究会会員の山田俊明は、これを「敷設さえすればあとは何とかなるといった姿勢だったといってよい」としている[12]
  4. ^ これは、鉄道運営には素人だった小諸商工会の要請によるものとみられている[4]
  5. ^ 運行開始した当初から乗客がほとんどおらず、小鳥の四十雀にかけた「シジュウカラ電車」と揶揄された不採算路線の事例には、ほかにも池田鉄道などがある。
  6. ^ 旅客収入の1/3以下(旅客16,415円に対して貨物5,234円)であった[12]

出典

  1. ^ a b c 谷口 (1984) p.111
  2. ^ a b c d e 谷口 (1984) p.110
  3. ^ a b c d e f g h i 山田 (1983) p.136
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 山田 (1983) p.137
  5. ^ a b c d e f g h 谷口 (1984) p.116
  6. ^ 1920年5月29日鉄道免許状下付「鉄道免許状下付」『官報』1920年6月1日(国立国会図書館デジタル化資料)
  7. ^ a b c d e f g h i j 谷口 (1984) p.112
  8. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1920年1月30日(国立国会図書館デジタル化資料)
  9. ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  10. ^ a b c d e f g h i 谷口 (1984) p.117
  11. ^ 11月27日社名変更届出『鉄道省鉄道統計資料. 大正12年度』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 山田 (1983) p.139
  13. ^ a b c d 谷口 (1984) p.113
  14. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第35回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  15. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年12月7日(国立国会図書館デジタル化資料)
  16. ^ a b c d e f 山田 (1983) p.138
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 谷口 (1984) p.114
  18. ^ 『鉄道統計資料. 昭和4年』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  19. ^ 「鉄道免許取消」『官報』1931年7月25日(国立国会図書館デジタル化資料)
  20. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1932年1月7日(国立国会図書館デジタル化資料)
  21. ^ 「鉄道起業廃止許可」『官報』1933年1月28日(国立国会図書館デジタル化資料)
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 谷口 (1984) p.115
  23. ^ 鉄道免許失効(北佐久郡北御牧村-同郡本牧村間 工事施工ノ認可ヲ得サルタメ)「鉄道免許失効」『官報』1936年10月30日、鉄道免許取消(北佐久郡小諸町-同郡北御牧村間 地方鉄道法37条ノ規程ニヨリ「鉄道免許取消」『官報』1936年10月30日(国立国会図書館デジタル化資料)

参考文献

書籍

雑誌記事

  • 谷口良忠「失われた鉄道・軌道を訪ねて (53) 布引電気鉄道」『鉄道ピクトリアル』第433号、電気車研究会、1984年6月、110-118頁。 
  • 山田俊明「鉄道史研究第3回 挫折した地方小鉄道」『鉄道ジャーナル』第196号、鉄道ジャーナル社、1983年6月、136-139頁。