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「レオポルド2世 (ベルギー王)」の版間の差分

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|脚注 = [[ファイル:commons-logo.svg|12px|ウィキメディア・コモンズ]] '''[[Wikipedia:ウィキメディア・コモンズ|ウィキメディア・コモンズ]]'''には、'''レオポルド2世'''に関連する'''[[:commons:Leopold II of Belgium|マルチメディア]]'''および'''[[:commons:Category:Leopold II of Belgium|カテゴリ]]'''があります。
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'''レオポルド2世'''({{Lang|fr|'''Léopold II'''}}、[[1835年]][[4月9日]] - [[1909年]][[12月17日]])は、第2代[[ベルギー]][[ベルギー国王の一覧|国王]](在位:[[1865年]] - [[1909年]])。初代ベルギー国王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]の長男
'''レオポルド2世'''({{Lang|fr|'''Léopold II'''}}、[[1835年]][[4月9日]] - [[1909年]][[12月17日]])は、第2代[[ベルギー]][[ベルギー国王の一覧|国王]](在位:[[1865年]] - [[1909年]])。


== 概要 ==
初代[[ベルギー国王の一覧|ベルギー国王]][[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]の[[皇太子]]として生まれる。[[1865年]]に父王の[[崩御]]に伴って即位し、1909年の崩御まで在位した。レオポルド2世の治世の間、[[1884年]]までは{{仮リンク|自由党 (ベルギー)|label=自由党|nl|Liberale Partij (België)}}、それ以降は{{仮リンク|カトリック党 (ベルギー)|label=カトリック党|nl|Katholieke Partij (België)}}が政権を担当していた。ベルギー経済は父王の代から引き続いて急速に成長を遂げていたが、労働者階級の社会不安も増していき、治世の後半には{{仮リンク|ベルギー労働党|nl|Belgische Werkliedenpartij}}が台頭したことで様々な社会改革が行われている。

即位前から植民地獲得に強い関心を持ち、世界各地を物色していたが、やがて列強がいまだ侵食していない[[コンゴ]]に目を付け、[[コンゴ国際協会]]を創設してコンゴ探検を支援、先住民の部族長と条約を結ぶなどコンゴ支配の既成事実化に努めた。1884年の[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]においてコンゴを私有地として統治することを列強から認められた([[コンゴ自由国]])。

コンゴにおける治世の初期はコンゴに鉄道を敷設したり、[[アラブ人]]奴隷商人による奴隷狩りから黒人を守るなどコンゴ近代化に努めるものであったが、コンゴ経営が赤字になってくると利益の確保を急ぎ、先住民を酷使して[[ゴム#天然ゴム|天然ゴム]]の生産増を図るようになった。イギリス人などから先住民に対する残虐行為を手厳しく批判され、1908年にはコンゴをベルギー国家に委譲する事を余儀なくされた([[コンゴ自由国|王の私領]]から[[ベルギー領コンゴ|ベルギー植民地]]への転換)。

1909年に崩御した。[[嫡出子]]の男子がなかったため、王位は甥の[[アルベール1世 (ベルギー王)|アルベール1世]]が受け継いだ。
{{-}}
== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 皇太子時代 ===
即位前の[[1855年]]から上院議員として政治を実際に学んだ。王太子時代から植民地獲得に情熱を燃やし世界各地を旅行した。1865年に父レオポルド1世の後を継い30歳で国王となると海外植民地の物色を続けたがうまくいかなかった。しかし、イギリスの探検家キャメロンがコンゴ河流域について報告をするといち早く反応し[[1876年]]に「アフリカ探検・文明化国際協会」を組織した。そしてこれを作ったことを契機として[[1878年]]、[[ヘンリー・モートン・スタンリー|ヘンリー・スタンリー]]を支援して[[コンゴ川]]流域に派遣し、彼にコンゴ地方を探検させた。[[1884年]]、アフリカ分割を前提とした[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]に出席し、翌[[1885年]]に欧州列強の承認のもと、[[コンゴ自由国]]を建設した。
[[File:Leopold of Belgium, Duke of Brabant; Nicaise de Keyser.jpg|thumb|200px|1853年のレオポルド皇太子を描いた{{仮リンク|ニケーズ・ド・カイセル|fr|Nicaise de Keyser}}の絵画。]]
1835年4月9日に[[ベルギー王国]]首都[[ブリュッセル]]に初代ベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]とその后[[ルイーズ=マリー・ドルレアン|ルイーズ・マリー]](フランス王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の娘)の間の次男として生まれる<ref name="Monarchy">[http://www.monarchie.be/history/leopold-ii ベルギー王室公式サイト"The Belgian Monarchy"]</ref><ref name="世界伝記大事典(1981)12,291-292">[[#世界伝記大事典(1981)12|世界伝記大事典(1981)第12巻]] p.291-292</ref>。兄は前年に夭折していたため、皇太子となった<ref name="世界伝記大事典(1981)12,292">[[#世界伝記大事典(1981)12|世界伝記大事典(1981)第12巻]] p.292</ref>。


弟に[[フィリップ・ド・ベルジック (フランドル伯)|フィリップ]]王子([[フランドル伯]])、妹に[[シャルロッテ・フォン・ベルギエン|シャルロッテ]]王女(メキシコ皇帝[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]皇后)がいる。またイギリス女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]とその王配[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート]]とは従姉弟(従兄弟)の関係にあたる<ref>[[#ワイントラウブ(1993)下|ワイントラウブ(1993) 下巻]] p.334/522-523</ref>。
こうして[[コンゴ]]を事実上の[[植民地]]として支配下(ただしこのときは、国王の個人的支配)においた。当初は財政的に危機状態にあり一度はコンゴを手放すことを考えるほど追い詰められたが、同地で取れる原料[[ゴム#天然ゴム|ゴム]]の需要が急増したことにより解決した。レオポルド2世は巨額の収入を得て首都とその周辺に豪華な王室宮廷建築を次々と造営した。しかし、そのために原住民に過酷なゴム原料の採取労働を課し、ノルマを達成できなければ手を切り落とすなど暴虐的な統治を行ない、数百万人の原住民が死に追いやられ([[コンゴ大虐殺]])、20年間にコンゴの人口は2500万人から1500万人ちかくに激減したと推定されている。このコンゴの悲惨な状況は外部からは隠されていたため、アメリカやヨーロッパからは先住民の福祉を向上させている慈悲深い君主と思われていた。


9歳のときに[[ブラバント公]](以降ベルギーの王位継承者に与えられる爵位となる)に叙された<ref name="世界伝記大事典(1981)12,292">[[#世界伝記大事典(1981)12|世界伝記大事典(1981)第12巻]] p.292</ref>。
ジャーナリストの[[エドモンド・モレル (ジャーナリスト)|エドモンド・モレル]]が[[1900年]]からおこなった糾弾キャンペーンによって実態が暴露され列強から国際的な批判を受けた。そのため[[1908年]]には、国王はしぶしぶ同国を[[ベルギー領コンゴ]]としてベルギー議会の管轄下に置くこととなった。


1853年8月にオーストリア公・ハンガリー副王[[ヨーゼフ・アントン・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ・アントン]]の娘[[マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌ]]と結婚、彼女との間に3人の女子と1人の男子を儲けたが、男子[[レオポルド・ド・ベルジック|レオポルド]]は9歳にして夭折している<ref name="世界伝記大事典(1981)12,292">[[#世界伝記大事典(1981)12|世界伝記大事典(1981)第12巻]] p.292</ref>。当時のベルギーは女子の王位継承を認めていなかったので、長男レオポルドの薨去とともに直系の王位継承者を失った。
レオポルド2世は[[1906年]]と[[1907年]]に、愛人ブランシュ・ドラクロワとの間に2男をもうけ、ブランシュとは自身の死ぬ5日前に[[カトリック教会]]の流儀にのっとって結婚までしていた(法律婚ではないので、ベルギーの法律ではこの結婚は無効とみなされた)。


1855年に[[元老院 (ベルギー)|上院議員]]となり、政治の世界へ入った<ref name="世界伝記大事典(1981)12,292"/>。
内政面においては[[1885年]]、[[社会主義]]や[[社会民主主義]]の派閥などが統一されて労働党が結成され、社会不安が増大する一方で、国民から[[普通選挙]]を求める声が上がった。このため[[1893年]]、成年男子に限る[[普通選挙法]]が制定された。


ベルギーは1830年にオランダから独立したばかりの新興国であり、父王レオポルド1世の立憲君主の枠を越えた強力な指導の下に、他の国に先駆けて1836年に鉄道を完成させ、オランダとともに飛躍的な経済発展を遂げていた<ref name="デュモン(1997)65-71">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.65-71</ref>。それでも国土が狭く人口も少ないベルギーはヨーロッパの中では小国にすぎなかったが、レオポルド皇太子はいつまでもベルギーをその立場に甘んじさせるつもりはなかった<ref name="ルイス(2010,2)279">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.279</ref>。隣国オランダが[[コーヒー]]ブームに乗って植民地[[ジャワ]]から莫大な利益を吸い上げているのを見て、ベルギーにも植民地が不可欠と確信するようになったという<ref name="宮本(1997)332">[[#宮本(1997)|宮本、松田(1997)]] p.332</ref>。
1909年、74歳で死去した。王位は弟フランドル伯爵[[フィリップ・ド・ベルジック (フランドル伯)|フィリップ]]の子[[アルベール1世 (ベルギー王)|アルベール1世]]が継いだ。

植民地を物色するために[[中近東]]や[[北アフリカ]]、[[セイロン島]]、[[清]]などを旅行してまわった<ref name="トウェイン(1968)32">[[#トウェイン(1968)|トウェイン(1968)]] p.32</ref>。帰国後、上院において植民地獲得を熱心に訴えたが、植民地に関心を持つ上院議員はあまりいなかったという。[[グアテマラ]]植民地化の失敗以来、ベルギー国民も議会も帝国主義政策を支持していなかったのである<ref name="デュモン(1997)73">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.73</ref>。

それでもレオポルド皇太子の植民地への熱意は消えず、1860年には「外に向かって膨張すべき時期が来ている。もはや最良の条件 ―我が国より冒険的な国々によってすでに奪われてしまった― を待っているべき時ではない。」と語っている<ref name="トウェイン(1968)32">[[#トウェイン(1968)|トウェイン(1968)]] p.32</ref>。ベルギーが植民地化できる可能性のある場所を手当たり次第に物色し、1865年には「[[清]]か[[日本]]への遠征が成功すればベルギーは巨大な帝国となるだろう。人間が同じ人間を搾取することは許されないが、ヨーロッパの出現を東洋が救済と考えないと誰が言えるだろうか」と語り、日本の植民地化にも興味を示している<ref name="トウェイン(1968)33">[[#トウェイン(1968)|トウェイン(1968)]] p.33</ref><ref name="宮本(1997)332">[[#宮本(1997)|宮本、松田(1997)]] p.332</ref>。
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{{Gallery
|File:Leopold II. Litho.jpg|幼少期のレオポルド皇太子
|File:Leopold.I.family.jpg|ベルギー王室一家。左からレオポルド皇太子、父王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]、妹[[シャルロッテ・フォン・ベルギエン|シャルロッテ]]王女、母[[ルイーズ=マリー・ドルレアン|ルイーズ・マリー]]、弟[[フィリップ・ド・ベルジック (フランドル伯)|フィリップ]]王子
|File:DucDeBrabant.jpg|1860年頃に作られた[[口髭]]のみで[[顎鬚]]を生やしてない頃のレオポルド皇太子の[[胸像]]。
}}

=== ベルギー国王に即位 ===
[[File:Leopold II gravure.jpg|thumb|200px|[[中年]]期のベルギー王レオポルド2世]]
父王レオポルド1世が1865年12月10日に崩御したのに伴い、17日にレオポルド2世としてベルギー国王に即位した。以降1909年12月17日の崩御まで在位した<ref name="Monarchy"/><ref name="秦(2001)269">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.269</ref>。

=== 内政 ===
1857年より政権を担っている[[自由主義]]政党{{仮リンク|自由党 (ベルギー)|label=自由党|nl|Liberale Partij (België)}}は、学校教育の無宗教化を支援するフムベーク法を1879年に可決させた<ref name="世界伝記大事典(1981)12,292">[[#世界伝記大事典(1981)12|世界伝記大事典(1981)第12巻]] p.292</ref><ref name="デュモン(1997)72">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.72</ref><ref name="森田(1998)384">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.384</ref>。野党{{仮リンク|カトリック党 (ベルギー)|label=カトリック党|nl|Katholieke Partij (België)}}はこれに激しく反発し、しまいには[[バチカン]]がベルギーとの国交を断絶する騒ぎにまで発展した<ref name="デュモン(1997)72"/>。レオポルド2世は宗教論争に巻き込まれないようこの問題については超然とした態度をとっていた<ref name="デュモン(1997)72"/>。

フムベーク法をめぐる対立の激化や自由貿易主義に対する農民の反発、軍拡・教育改革に伴う負担増への批判などから、結局1884年の選挙において自由党は大敗し、カトリック党が政権を掌握したため(以降[[第一次世界大戦]]の挙国一致内閣まで同党が単独で政権を掌握)、フムベーク法は改正されて宗教教育が復活した<ref name="世界伝記大事典(1981)12,292">[[#世界伝記大事典(1981)12|世界伝記大事典(1981)第12巻]] p.292</ref><ref name="今来(1972)440">[[#今来(1972)|今来(1972)]] p.440</ref><ref name="森田(1998)384-386">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.384-386</ref>。

経済はレオポルド1世の治世から引き続いて飛躍的な成長を続いていた。19世紀後半のベルギーは、農業の収益率においてヨーロッパ随一であり、また鉄道の密度は世界一を誇っていた。石炭産出、鉄鋼生産も急上昇していた<ref name="今来(1972)441">[[#今来(1972)|今来(1972)]] p.441</ref>。不況などものともせず、英仏などと通商条約を結んで自由貿易を推進した<ref name="森田(1998)386">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.386</ref>。経済についてのみいうならばベルギーはすでに経済大国と化していた<ref name="今来(1972)441">[[#今来(1972)|今来(1972)]] p.441</ref>。

しかし急速な経済成長に伴う小経営から大規模工場制への転換によって、労働者階級の環境は悪化していった<ref name="森田(1998)392">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.392</ref>。そうした国民の社会不安を背景に[[1885年]]には[[社会主義]]や[[社会民主主義]]の派閥などが統一されて{{仮リンク|ベルギー労働党|nl|Belgische Werkliedenpartij}}が結成され、同党が影響力を拡大させるようになった<ref name="世界伝記大事典(1981)12,292">[[#世界伝記大事典(1981)12|世界伝記大事典(1981)第12巻]] p.292</ref><ref name="森田(1998)393-394">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.393-394</ref>。1886年には[[リエージュ]]や[[シャルルロワ]]での労働者のストライキが暴動に発展し、軍隊が投入される騒ぎとなった<ref name="森田(1998)394">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.394</ref>。

こうした社会情勢から秩序を回復するためにカトリック政府も譲歩を余儀なくされ、労働者保護政策が打ち出された。1887年に給料の現物支給が禁止され、1889年には女性や児童の労働が制限された。1900年には老齢年金の制度が導入され、1905年には日曜日労働が禁止されている<ref name="森田(1998)394">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.394</ref>。また労働党の組織した労働組合による[[ゼネスト]]の圧力で[[1893年]]には男子[[普通選挙法]]が制定されるに至っている<ref name="世界伝記大事典(1981)12,292">[[#世界伝記大事典(1981)12|世界伝記大事典(1981)第12巻]] p.292</ref><ref name="森田(1998)395-396">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.395-396</ref>。

1902年には王妃マリー・アンリエットに先立たれた<ref name="Monarchy"/>。

崩御3日前の1909年12月14日には新しい兵役法に署名し、一家族につき一人を兵隊に出すことを義務化した{{#tag:ref|これによりこれまで横行していた、くじで徴兵されることになった裕福な者が、くじで徴兵を逃れた貧しい者を雇って身代わりに兵隊へ行かせるといったことは禁止された<ref name="デュモン(1997)89">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.89</ref>。|group=注釈}}。

{{Gallery
|File:Jonge Leoplold II -buste.jpg|顎鬚を生やしたレオポルド2世の胸像。
|File:Leopold ii belgien.jpg|老年のレオポルド2世。
}}
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=== コンゴ獲得 ===
[[File:Stanleyhenrymorton01.jpg|thumb|200px|コンゴ探検家[[ヘンリー・モートン・スタンリー|ヘンリー・スタンリー]]と先住民の少年。]]
レオポルド2世は即位するや上院で植民地獲得の必要性を訴え、[[フィリピン]]、[[モザンビーク]]、[[ボルネオ]]、[[清]]、[[モロッコ]]、[[エチオピア]]などの植民地化を狙って策動したが、先に手を付けている列強に阻止されて失敗が続いた<ref name="森田(1998)391">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.391</ref><ref name="ルイス(2010,2)279">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.279</ref>。そんな中、[[中央アフリカ]]の[[コンゴ]]に植民地獲得のチャンスを見出すようになった。コンゴは、[[ゴム#天然ゴム|天然ゴム]]、[[象牙]]、[[ダイヤモンド]]、[[金]]、[[銀]]、[[銅]]など魅力的な資源が数多くあるにもかかわらず、ヨーロッパ人の「発見」が遅れたため、いまだ列強の手がほとんど付けられていない「空白地帯」だった<ref name="宮本(1997)332">[[#宮本(1997)|宮本、松田(1997)]] p.332</ref><ref name="ルイス(2010,2)279">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.279</ref>。

レオポルド2世は[[1876年]]9月にアフリカ探検と「文明化」について話し合う会議を[[ブリュッセル]]において開催した<ref name="デュモン(1997)73">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.73</ref><ref name="ルイス(2010,2)280">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.280</ref>。その会議でコンゴ探検を支援する「{{仮リンク|国際アフリカ協会|fr|Association internationale africaine}}」創設を決議し、レオポルド2世自らがその執行委員会委員長に就任した<ref name="デュモン(1997)73">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.73</ref>。1879年には上コンゴ研究委員会、さらに1882年には[[コンゴ国際協会]]に改組した<ref name="森田(1998)391">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.391</ref><ref name="トウェイン(1968)33-34">[[#トウェイン(1968)|トウェイン(1968)]] p.33-34</ref>。「国際」と名付けられているが、実質的にはレオポルド2世の私的機関も同然であった<ref name="トウェイン(1968)34">[[#トウェイン(1968)|トウェイン(1968)]] p.34</ref>。

イギリスで[[パトロン]]を見つけられなかった探検家[[ヘンリー・モートン・スタンリー|ヘンリー・スタンリー]]のパトロンとなり、1879年から1883年にかけてスタンリーに[[コンゴ川]]流域を探検させ、そこに数々の中継地を作らせるとともに、先住民部族の部族長たちと独占的な貿易協定を締結した<ref name="小田(1986)47">[[#小田(1986)|小田(1986)]] p.47</ref><ref name="宮本(1997)333">[[#宮本(1997)|宮本、松田(1997)]] p.333</ref><ref name="デュモン(1997)74">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.74</ref>。

レオポルド2世の積極的なコンゴ植民地化政策を警戒した[[ポルトガル王国|ポルトガル]]は15世紀に[[コンゴ王国]]と関係を持って以来のポルトガルの権利であるとしてコンゴ川河口周辺に主権を主張するようになり、イギリスがポルトガルの立場を支持した。一方植民地問題で英仏を対立させようと目論む[[ドイツ帝国]]宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]はフランスと結託してレオポルド2世の立場を支持した<ref name="小田(1986)47-48">[[#小田(1986)|小田(1986)]] p.47-48</ref>。

コンゴをめぐってヨーロッパ諸国の対立が深まる中の1884年、利害関係調整のためにビスマルクの主催で欧米14カ国による[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]が開催された。コンゴに中立の立場をとらせること、[[門戸開放政策|門戸を開放]]してコンゴを自由貿易の地にすることを条件としてコンゴがレオポルド2世の個人的私有地であることが認められた<ref name="今来(1972)442">[[#今来(1972)|今来(1972)]] p.442</ref><ref name="デュモン(1997)74">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.74</ref>。
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=== コンゴ統治 ===
[[File:Congo leopold II cartoon.gif|thumb|200px|手を切り落とされるコンゴ人を尻目にコンゴで儲けるレオポルド2世を批判した風刺画。]]
こうして創られたのがレオポルド2世の私領「[[コンゴ自由国]]」であった。ベルギー議会は相変わらず植民地支配に関心がなく、「コンゴ統治はベルギー国家とは関係なく、レオポルド2世の私的行為として行われているのであるから、ベルギーの国費をコンゴ統治に使ってはならない」という条件のもとにレオポルド2世のコンゴ統治を承認した<ref name="デュモン(1997)75">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.75</ref><ref name="トウェイン(1968)35">[[#トウェイン(1968)|トウェイン(1968)]] p.35</ref>。

レオポルド2世はベルギー本国では立憲君主として憲法上の縛りがあるが、私領であるコンゴではそのような権力の制限は一切なく、専制君主として君臨した。コンゴ統治を委ねられた直後のレオポルド2世は巨額の私費や国内外の投資家の投資を募ってコンゴの近代化を推進した。ベルギー本国の75倍もの国土があり、かつ[[ジャングル]]や[[山岳]]のせいで踏破が困難なコンゴの地に[[マタディ・キンシャサ鉄道|マタディ・レオポルドヴィル鉄道]]をはじめとする近代的な鉄道網を敷設した{{#tag:ref|一方でこの鉄道建設にあたってもコンゴ先住民や近隣諸国住民、清などから集められた労働者に過酷な労働が課せられたとする批判がある<ref name="トウェイン(1968)36">[[#トウェイン(1968)|トウェイン(1968)]] p.36</ref><ref name="小田(1986)54-55">[[#小田(1986)|小田(1986)]] p.54-55</ref>。また先住民に個人所有の概念がなかった事を利用して土地を勝手に無主地として接収して行われた事業であるとする批判もある<ref name="小田(1986)54">[[#小田(1986)|小田(1986)]] p.54</ref>。|group=注釈}}。

また他の列強とも協力のうえで要塞を建設し、黒人を捕らえて売却しようと企む[[アラブ人]]奴隷商人の取り締まりを強化した<ref name="デュモン(1997)75">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.75</ref><ref name="ルイス(2010,2)281">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.281</ref>。レオポルド2世はこうした活動のために私財のほとんどをつぎ込んでおり、生活も切り詰めなければならないほどだった<ref name="デュモン(1997)75">[[#デュモン(1997)|デュモン(1997)]] p.75</ref>。

だがまもなくレオポルド2世は利益の回収を最優先にするようになった。1891年と1892年の勅令によって最も収入が期待できる[[象牙]]と[[ゴム#天然ゴム|天然ゴム]]を自分の独占事業にし、とりわけ1890年代半ばから急速に需要が高まっていた天然ゴムの採取を急がせた。1893年まで250トン足らずだった天然ゴムの生産量を1901年までに6000トンにまで高めさせた<ref name="宮本(1997)335-336">[[#宮本(1997)|宮本、松田(1997)]] p.335-336</ref><ref name="森田(1998)392">[[#森田(1998)|森田(1998)]] p.392</ref><ref name="ルイス(2010,2)281">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.281</ref>。しかしそれは先住民の過酷な労働の上に成り立っていた<ref name="ルイス(2010,2)281">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.281</ref><ref name="宮本(1997)336">[[#宮本(1997)|宮本、松田(1997)]] p.336</ref>。最も重要な資源である天然ゴムには[[ノルマ]]制が設けられ、生産量が足りない場合には手足切断などの罰が加えられた<ref name="ルイス(2010,2)283-284">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.283-284</ref><ref name="小田(1986)57">[[#小田(1986)|小田(1986)]] p.57</ref>。過酷な圧政によってコンゴの人口は1885年にコンゴ自由国が建設された時点(3000万人)と比べて70%減少し、900万人にまで減少したといわれる<ref name="ルイス(2010,2)288">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.288</ref>。こうした残虐行為を行っていたのはレオポルド2世の私軍である[[公安軍 (コンゴ)|公安軍]]であった。この部隊は士官は白人だが、兵士は[[ナイジェリア]]や西アフリカ諸国の黒人を中心に構成されていた<ref name="トウェイン(1968)37">[[#トウェイン(1968)|トウェイン(1968)]] p.37</ref><ref name="小田(1986)55-56">[[#小田(1986)|小田(1986)]] p.55-56</ref>。

イギリス・[[ローデシア]]植民地の[[セシル・ローズ]]が進出してくる懸念からコンゴ南部の[[カタンガ州|カタンガ]]進出にも力を入れた<ref name="小田(1986)56">[[#小田(1986)|小田(1986)]] p.56</ref>。

一方{{仮リンク|イギリス植民地省|en|Secretary of State for the Colonies}}はコンゴ自由国内における残虐行為の報告を集めていた。またコンゴに滞在する宣教師もそうした報告を『[[タイムズ]]』紙をはじめとする新聞に公表するようになり、ヨーロッパ中でレオポルド2世批判が強まっていった<ref name="ルイス(2010,2)281-282">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.281-282</ref>。1903年には[[イギリス下院]]が「コンゴ自由国はベルリン条約違反して先住民に対して過酷な圧政を行っている」と批判する決議を出している<ref name="小田(1986)58">[[#小田(1986)|小田(1986)]] p.58</ref>。[[エドモンド・モレル (ジャーナリスト)|エドモンド・モレル]]の『赤いゴム』、[[マーク・トウェイン]]の『レオポルド王の独白』などレオポルド2世批判の著作も続々と出版された<ref name="小田(1986)59">[[#小田(1986)|小田(1986)]] p.59</ref>。

もっともこうした報告には誇張やデマなどの類も多かったという<ref name="ルイス(2010,2)288">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.288</ref>。こうした批判が始まった背景には、イギリスをはじめとした各国政府や資本家がレオポルド2世の中世じみた恣意的統治を嫌い、もっと合理的な近代植民地統治に置き換えたがっていたことがある<ref name="トウェイン(1968)39">[[#トウェイン(1968)|トウェイン(1968)]] p.39</ref>。従って必ずしもベルギーからコンゴを奪い取ろうと意図された物ではなく、むしろコンゴをレオポルド2世の私領からベルギー国家の植民地に転換させて責任を持った統治をさせる意図があった<ref name="宮本(1997)337">[[#宮本(1997)|宮本、松田(1997)]] p.337</ref>。

だがレオポルド2世はこうした批判について、イギリスの陰謀と疑っていた<ref name="ルイス(2010,2)289-293">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.289-293</ref>。コンゴ統治にほとんど関心を持たなかったベルギー国民も突然始まったレオポルド2世批判キャンペーンに疑念を持ち、「イギリス人は[[ボーア戦争]]で[[ボーア人]]から財産を奪い、次はコンゴを狙っている」と批判する者が多かった<ref name="宮本(1997)337">[[#宮本(1997)|宮本、松田(1997)]] p.337</ref>。

イギリスに付け入る隙を与えないため、レオポルド2世はコンゴ植民地大臣エドモン・ヴァン・エトヴァルド男爵に対して「本当に残虐行為が行われているならば止めなければならない。そうした残虐行為が続くならコンゴ自由国の崩壊を招く。」と語って、先住民保護委員会を組織させた。同委員会は調査権に様々な制限が加えられていたので、大きな成果はあげられなかったが<ref name="ルイス(2010,2)282-283">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.282-283</ref><ref name="トウェイン(1968)39">[[#トウェイン(1968)|トウェイン(1968)]] p.39</ref>、一応、強制労働の緩和、先住民部族に一定の自治権を認めるなどの改革が行われるきっかけにはなった<ref name="小田(1986)60">[[#小田(1986)|小田(1986)]] p.60</ref>。

それでも収まらない国際的批判に耐えかねたベルギー政府はレオポルド2世がコンゴの状況を改善できないなら、コンゴを国王の私領からベルギー国家の植民地へ転換させるべきであると主張し、1906年に議会にそれを諮った。一方レオポルド2世は「(コンゴ自由国は)私の個人的な努力の結晶である。(略)コンゴ併合を要求する者たちは支配体制を変えることで今進行している事業を妨害し、その残骸から利益を漁ろうとしている者たちである。」と批判し、コンゴをベルギー国家に譲ることを拒否した<ref name="ルイス(2010,2)293">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.293</ref>。

しかしベルギー議会はレオポルド2世にコンゴを手放すよう決議した。イギリスやアメリカなど国外からの批判も相変わらず激しく、レオポルド2世もついにコンゴ個人領有を諦めた。1908年10月18日にベルギー国家にコンゴを譲渡する旨の文書に署名している<ref name="Monarchy"/><ref name="ルイス(2010,2)293-295">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.293-295</ref>。
{{Gallery
|File:Congo spoorwegen.gif|レオポルド2世による私的統治や続くベルギー政府による植民地統治によって整備されたコンゴ鉄道網
|File:MutilatedChildrenFromCongo.jpg|手を切り落とされたコンゴ人たち
|File:Punch congo rubber cartoon.jpg|レオポルド2世に締めあげられるコンゴ人を風刺した『[[パンチ (雑誌)|パンチ誌]]』の絵。
}}
{{-}}

=== 崩御 ===
レオポルド2世の望み通り、コンゴを保有したベルギーは列強の一国に数えられるようになったが、レオポルド2世自身の名声はコンゴ統治のために地に堕ちた。彼は妻や娘にまで疎んじられるようになったという<ref name="ルイス(2010,2)295">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.295</ref>。

家族との疎遠のためか、1900年頃からブランシュ・ドラクロワと愛人関係になり、彼女との間に[[私生児]]の男子を二人儲けている。だがこの愛人関係も国民の批判の的となり、レオポルド2世の人望は更に低下した<ref name="ルイス(2010,2)295">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.295</ref>。

1909年12月初め、[[腸閉塞]]で重体となった。死期を悟ったレオポルド2世はカトリック[[司祭]]を召集して愛人ブランシュとの結婚を強行した<ref name="ルイス(2010,2)295">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.295</ref>。その結婚から数日後、ブランシュが見守る中、74歳で[[崩御]]した。しかしベルギーの法律ではこの結婚は無効とみなされており、ブランシュはレオポルド2世の崩御後ただちに宮廷を追われている<ref name="ルイス(2010,2)295">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.295</ref>。

王位は弟フランドル伯爵[[フィリップ・ド・ベルジック (フランドル伯)|フィリップ]]の子[[アルベール1世 (ベルギー王)|アルベール1世]]が継いだ<ref name="世界伝記大事典(1981)12,292">[[#世界伝記大事典(1981)12|世界伝記大事典(1981)第12巻]] p.292</ref>。

レオポルド2世は葬儀は地味に、葬列も省略するよう[[遺言]]していたが、伯父から甥へという微妙な王位継承であったので、前王を粗末に扱ったという批判が起こるのを恐れて、アルベール1世は盛大な国葬を挙行させた。だが国民からほとんど敬意をもたれなかったレオポルド2世の葬列は群衆のブーイングに晒され、中にはレオポルド2世の棺に唾を吐きかける者もあったという<ref name="ルイス(2010,2)296">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.296</ref>。
{{Gallery
|File:The death of Leopold II.jpg|レオポルド2世の崩御
|File:Solemn Funeral of King Leopold II.jpg|レオポルド2世の葬列。
}}
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== 人物 ==
[[File:Léopold II Bruxelles.JPG|thumb|200px|[[ブリュッセル]]にあるレオポルド2世の銅像(2008年撮影)。]]
コンゴ統治で悪名を馳せ、「ヨーロッパ最悪の宗主」と呼ばれた<ref name="ワイントラウブ(1993)下334">[[#ワイントラウブ(1993)下|ワイントラウブ(1993) 下巻]] p.334</ref>。しかし彼は本来野蛮な行為を嫌う人物であり、黒人に暴力を振るわないよう地元行政官にたびたび命令を下していた(前述したようにアラブ人奴隷商人による奴隷狩りから黒人を守ってもいたが、これも黒人を囲って酷使するための方便に過ぎない)。だがそうした暴力が振るわれる原因が彼の天然ゴムの生産率へのこだわりにあることは認めようとしないという[[ナイーブ]]な「慈善家」であった<ref name="宮本(1997)336">[[#宮本(1997)|宮本、松田(1997)]] p.336</ref>。

健康にこだわりがあり、顎鬚を雨から守るための特別製のカバーを作らせていた<ref name="ルイス(2010,2)286">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.286</ref>。また病人が自分に近づいてくることを極度に嫌がり、侍従が[[風邪]]を引けば回復するまで宮廷への出仕を禁じた。侍従たちの間ではレオポルド2世のこうした性格を利用して仮病で休暇を取るのが流行ったという<ref name="ルイス(2010,2)286">[[#ルイス(2010,2)|ルイス(2010)2巻]] p.286</ref>。
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== 家族 ==
== 家族 ==
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* [[ステファニー・ド・ベルジック|ステファニー]](1864年 - 1945年) [[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]皇太子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]妃
* [[ステファニー・ド・ベルジック|ステファニー]](1864年 - 1945年) [[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]皇太子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]妃
* [[クレマンティーヌ・ド・ベルジック|クレマンティーヌ]](1872年 - 1955年) [[ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト]]夫人
* [[クレマンティーヌ・ド・ベルジック|クレマンティーヌ]](1872年 - 1955年) [[ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト]]夫人
{{Gallery
|File:Maria Hendrika of Austria and Leopod of Belgium.jpg|レオポルド2世と王妃[[マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌ|マリー=アンリエット]]
|File:Stephanie rudolf.jpg|次女[[ステファニー・ド・ベルジック|ステファニー]]とオーストリア皇太子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]との結婚。左端がオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]、その隣がレオポルド2世、椅子に座っているのはオーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]とマリー=アンリエット。
}}
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|1}}</div>
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[今来陸郎]]|date=1972年(昭和47年)|title=中欧史|series=世界各国史 7|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634410701|ref=今来(1972)}}
*{{Cite book|和書|author=[[小田英郎]]|date=1986年(昭和56年)|title=アフリカ現代史|series=世界現代史15|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634421509|ref=小田(1986)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジョルジュ=アンリ・デュモン]]|translator=[[村上直久]]|date=1997年(平成9年)|title=ベルギー史|series=文庫クセジュ790|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560057902|ref=デュモン(1997)}}
*{{Cite book|和書|author=[[マーク・トウェイン]]|translator=[[佐藤喬]]|date=1968年(昭和43年)|title=レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護|publisher=[[理論社]]|asin=B000JBKXHU|ref=トウェイン(1968)}}
*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[宮本正興]]、[[松田素二]]|date=1997年(平成9年)|title=新書アフリカ史|series=[[講談社現代新書]]1366|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061493667|ref=宮本(1997)}}
*{{Cite book|和書|author=[[森田安一]]|date=1998年(平成10年)|title=スイス・ベネルクス史|series=世界各国史14|publisher=[[山川出版社]]|asin=978-4634414402|ref=森田(1998)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ブレンダ・ラルフ・ルイス|en|Brenda Ralph Lewis}}|date=2010年(平成22年)|title=ダークヒストリー2 図説 ヨーロッパ王室史|translator=[[中村佐千江]]、樺山紘一|publisher=原書房|isbn=978-4562045785|ref=ルイス(2010,2)}}
*{{Cite book|和書|date=1981年(昭和56年)|title=世界伝記大事典 世界編 12巻 ランーワ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7VF4O|ref=世界伝記大事典(1981)12}}
*{{Cite book|和書|author=スタンリー・ワイントラウブ|date=2007年(平成19年)|title=ヴィクトリア女王〈下〉|translator=平岡緑|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120022432|ref=ワイントラウブ(1993)下}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[王立中央アフリカ博物館]]
* [[王立中央アフリカ博物館]]
* [[レオポルド王の霊]]
* [[レオポルド王の霊]]

== 参考文献 ==
* [[マーク・トウェイン]]著、 佐藤喬 訳『レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護』理論社
* [[アダム・ホックシールド|Hochschild, Adam]]著 [[レオポルド王の霊|''King Leopold's Ghost'']], [[出版]]:[[:en:Pan Macmillan|Pan Macmillan]], [[1998年]], [[ISBN]] 0-330-49233-0

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[[sl:Leopold II. Belgijski]]
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2012年8月14日 (火) 17:28時点における版

レオポルド2世
Léopold II
ベルギー国王 (その他)
レオポルド2世

首相
先代 レオポルド1世
次代 アルベール1世

出生 (1835-04-09) 1835年4月9日
ベルギー王国ブリュッセル
死亡 (1909-12-17) 1909年12月17日(74歳没)
ブリュッセルラーケンラーケン宮殿
埋葬 ブリュッセルラーケンラーケン・ノートルダム教会
実名 Léopold Louis Philippe Marie Victor
レオポルド・ルイ・フィリップ・マリー・ヴィクトル
王室 サクス=コブール・エ・ゴータ家
父親 レオポルド1世
母親 ルイーズ=マリー・ドルレアン
王妃 マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌ
子女
居所 ブリュッセル王宮
信仰 キリスト教カトリック教会

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レオポルド2世Léopold II1835年4月9日 - 1909年12月17日)は、第2代ベルギー国王(在位:1865年 - 1909年)。

概要

初代ベルギー国王レオポルド1世皇太子として生まれる。1865年に父王の崩御に伴って即位し、1909年の崩御まで在位した。レオポルド2世の治世の間、1884年までは自由党オランダ語版、それ以降はカトリック党オランダ語版が政権を担当していた。ベルギー経済は父王の代から引き続いて急速に成長を遂げていたが、労働者階級の社会不安も増していき、治世の後半にはベルギー労働党オランダ語版が台頭したことで様々な社会改革が行われている。

即位前から植民地獲得に強い関心を持ち、世界各地を物色していたが、やがて列強がいまだ侵食していないコンゴに目を付け、コンゴ国際協会を創設してコンゴ探検を支援、先住民の部族長と条約を結ぶなどコンゴ支配の既成事実化に努めた。1884年のベルリン会議においてコンゴを私有地として統治することを列強から認められた(コンゴ自由国)。

コンゴにおける治世の初期はコンゴに鉄道を敷設したり、アラブ人奴隷商人による奴隷狩りから黒人を守るなどコンゴ近代化に努めるものであったが、コンゴ経営が赤字になってくると利益の確保を急ぎ、先住民を酷使して天然ゴムの生産増を図るようになった。イギリス人などから先住民に対する残虐行為を手厳しく批判され、1908年にはコンゴをベルギー国家に委譲する事を余儀なくされた(王の私領からベルギー植民地への転換)。

1909年に崩御した。嫡出子の男子がなかったため、王位は甥のアルベール1世が受け継いだ。

生涯

皇太子時代

1853年のレオポルド皇太子を描いたニケーズ・ド・カイセルの絵画。

1835年4月9日にベルギー王国首都ブリュッセルに初代ベルギー王レオポルド1世とその后ルイーズ・マリー(フランス王ルイ・フィリップの娘)の間の次男として生まれる[1][2]。兄は前年に夭折していたため、皇太子となった[3]

弟にフィリップ王子(フランドル伯)、妹にシャルロッテ王女(メキシコ皇帝マクシミリアン皇后)がいる。またイギリス女王ヴィクトリアとその王配アルバートとは従姉弟(従兄弟)の関係にあたる[4]

9歳のときにブラバント公(以降ベルギーの王位継承者に与えられる爵位となる)に叙された[3]

1853年8月にオーストリア公・ハンガリー副王ヨーゼフ・アントンの娘マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌと結婚、彼女との間に3人の女子と1人の男子を儲けたが、男子レオポルドは9歳にして夭折している[3]。当時のベルギーは女子の王位継承を認めていなかったので、長男レオポルドの薨去とともに直系の王位継承者を失った。

1855年に上院議員となり、政治の世界へ入った[3]

ベルギーは1830年にオランダから独立したばかりの新興国であり、父王レオポルド1世の立憲君主の枠を越えた強力な指導の下に、他の国に先駆けて1836年に鉄道を完成させ、オランダとともに飛躍的な経済発展を遂げていた[5]。それでも国土が狭く人口も少ないベルギーはヨーロッパの中では小国にすぎなかったが、レオポルド皇太子はいつまでもベルギーをその立場に甘んじさせるつもりはなかった[6]。隣国オランダがコーヒーブームに乗って植民地ジャワから莫大な利益を吸い上げているのを見て、ベルギーにも植民地が不可欠と確信するようになったという[7]

植民地を物色するために中近東北アフリカセイロン島などを旅行してまわった[8]。帰国後、上院において植民地獲得を熱心に訴えたが、植民地に関心を持つ上院議員はあまりいなかったという。グアテマラ植民地化の失敗以来、ベルギー国民も議会も帝国主義政策を支持していなかったのである[9]

それでもレオポルド皇太子の植民地への熱意は消えず、1860年には「外に向かって膨張すべき時期が来ている。もはや最良の条件 ―我が国より冒険的な国々によってすでに奪われてしまった― を待っているべき時ではない。」と語っている[8]。ベルギーが植民地化できる可能性のある場所を手当たり次第に物色し、1865年には「日本への遠征が成功すればベルギーは巨大な帝国となるだろう。人間が同じ人間を搾取することは許されないが、ヨーロッパの出現を東洋が救済と考えないと誰が言えるだろうか」と語り、日本の植民地化にも興味を示している[10][7]

ベルギー国王に即位

中年期のベルギー王レオポルド2世

父王レオポルド1世が1865年12月10日に崩御したのに伴い、17日にレオポルド2世としてベルギー国王に即位した。以降1909年12月17日の崩御まで在位した[1][11]

内政

1857年より政権を担っている自由主義政党自由党オランダ語版は、学校教育の無宗教化を支援するフムベーク法を1879年に可決させた[3][12][13]。野党カトリック党オランダ語版はこれに激しく反発し、しまいにはバチカンがベルギーとの国交を断絶する騒ぎにまで発展した[12]。レオポルド2世は宗教論争に巻き込まれないようこの問題については超然とした態度をとっていた[12]

フムベーク法をめぐる対立の激化や自由貿易主義に対する農民の反発、軍拡・教育改革に伴う負担増への批判などから、結局1884年の選挙において自由党は大敗し、カトリック党が政権を掌握したため(以降第一次世界大戦の挙国一致内閣まで同党が単独で政権を掌握)、フムベーク法は改正されて宗教教育が復活した[3][14][15]

経済はレオポルド1世の治世から引き続いて飛躍的な成長を続いていた。19世紀後半のベルギーは、農業の収益率においてヨーロッパ随一であり、また鉄道の密度は世界一を誇っていた。石炭産出、鉄鋼生産も急上昇していた[16]。不況などものともせず、英仏などと通商条約を結んで自由貿易を推進した[17]。経済についてのみいうならばベルギーはすでに経済大国と化していた[16]

しかし急速な経済成長に伴う小経営から大規模工場制への転換によって、労働者階級の環境は悪化していった[18]。そうした国民の社会不安を背景に1885年には社会主義社会民主主義の派閥などが統一されてベルギー労働党オランダ語版が結成され、同党が影響力を拡大させるようになった[3][19]。1886年にはリエージュシャルルロワでの労働者のストライキが暴動に発展し、軍隊が投入される騒ぎとなった[20]

こうした社会情勢から秩序を回復するためにカトリック政府も譲歩を余儀なくされ、労働者保護政策が打ち出された。1887年に給料の現物支給が禁止され、1889年には女性や児童の労働が制限された。1900年には老齢年金の制度が導入され、1905年には日曜日労働が禁止されている[20]。また労働党の組織した労働組合によるゼネストの圧力で1893年には男子普通選挙法が制定されるに至っている[3][21]

1902年には王妃マリー・アンリエットに先立たれた[1]

崩御3日前の1909年12月14日には新しい兵役法に署名し、一家族につき一人を兵隊に出すことを義務化した[注釈 1]

コンゴ獲得

コンゴ探検家ヘンリー・スタンリーと先住民の少年。

レオポルド2世は即位するや上院で植民地獲得の必要性を訴え、フィリピンモザンビークボルネオモロッコエチオピアなどの植民地化を狙って策動したが、先に手を付けている列強に阻止されて失敗が続いた[23][6]。そんな中、中央アフリカコンゴに植民地獲得のチャンスを見出すようになった。コンゴは、天然ゴム象牙ダイヤモンドなど魅力的な資源が数多くあるにもかかわらず、ヨーロッパ人の「発見」が遅れたため、いまだ列強の手がほとんど付けられていない「空白地帯」だった[7][6]

レオポルド2世は1876年9月にアフリカ探検と「文明化」について話し合う会議をブリュッセルにおいて開催した[9][24]。その会議でコンゴ探検を支援する「国際アフリカ協会フランス語版」創設を決議し、レオポルド2世自らがその執行委員会委員長に就任した[9]。1879年には上コンゴ研究委員会、さらに1882年にはコンゴ国際協会に改組した[23][25]。「国際」と名付けられているが、実質的にはレオポルド2世の私的機関も同然であった[26]

イギリスでパトロンを見つけられなかった探検家ヘンリー・スタンリーのパトロンとなり、1879年から1883年にかけてスタンリーにコンゴ川流域を探検させ、そこに数々の中継地を作らせるとともに、先住民部族の部族長たちと独占的な貿易協定を締結した[27][28][29]

レオポルド2世の積極的なコンゴ植民地化政策を警戒したポルトガルは15世紀にコンゴ王国と関係を持って以来のポルトガルの権利であるとしてコンゴ川河口周辺に主権を主張するようになり、イギリスがポルトガルの立場を支持した。一方植民地問題で英仏を対立させようと目論むドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクはフランスと結託してレオポルド2世の立場を支持した[30]

コンゴをめぐってヨーロッパ諸国の対立が深まる中の1884年、利害関係調整のためにビスマルクの主催で欧米14カ国によるベルリン会議が開催された。コンゴに中立の立場をとらせること、門戸を開放してコンゴを自由貿易の地にすることを条件としてコンゴがレオポルド2世の個人的私有地であることが認められた[31][29]

コンゴ統治

手を切り落とされるコンゴ人を尻目にコンゴで儲けるレオポルド2世を批判した風刺画。

こうして創られたのがレオポルド2世の私領「コンゴ自由国」であった。ベルギー議会は相変わらず植民地支配に関心がなく、「コンゴ統治はベルギー国家とは関係なく、レオポルド2世の私的行為として行われているのであるから、ベルギーの国費をコンゴ統治に使ってはならない」という条件のもとにレオポルド2世のコンゴ統治を承認した[32][33]

レオポルド2世はベルギー本国では立憲君主として憲法上の縛りがあるが、私領であるコンゴではそのような権力の制限は一切なく、専制君主として君臨した。コンゴ統治を委ねられた直後のレオポルド2世は巨額の私費や国内外の投資家の投資を募ってコンゴの近代化を推進した。ベルギー本国の75倍もの国土があり、かつジャングル山岳のせいで踏破が困難なコンゴの地にマタディ・レオポルドヴィル鉄道をはじめとする近代的な鉄道網を敷設した[注釈 2]

また他の列強とも協力のうえで要塞を建設し、黒人を捕らえて売却しようと企むアラブ人奴隷商人の取り締まりを強化した[32][37]。レオポルド2世はこうした活動のために私財のほとんどをつぎ込んでおり、生活も切り詰めなければならないほどだった[32]

だがまもなくレオポルド2世は利益の回収を最優先にするようになった。1891年と1892年の勅令によって最も収入が期待できる象牙天然ゴムを自分の独占事業にし、とりわけ1890年代半ばから急速に需要が高まっていた天然ゴムの採取を急がせた。1893年まで250トン足らずだった天然ゴムの生産量を1901年までに6000トンにまで高めさせた[38][18][37]。しかしそれは先住民の過酷な労働の上に成り立っていた[37][39]。最も重要な資源である天然ゴムにはノルマ制が設けられ、生産量が足りない場合には手足切断などの罰が加えられた[40][41]。過酷な圧政によってコンゴの人口は1885年にコンゴ自由国が建設された時点(3000万人)と比べて70%減少し、900万人にまで減少したといわれる[42]。こうした残虐行為を行っていたのはレオポルド2世の私軍である公安軍であった。この部隊は士官は白人だが、兵士はナイジェリアや西アフリカ諸国の黒人を中心に構成されていた[43][44]

イギリス・ローデシア植民地のセシル・ローズが進出してくる懸念からコンゴ南部のカタンガ進出にも力を入れた[45]

一方イギリス植民地省英語版はコンゴ自由国内における残虐行為の報告を集めていた。またコンゴに滞在する宣教師もそうした報告を『タイムズ』紙をはじめとする新聞に公表するようになり、ヨーロッパ中でレオポルド2世批判が強まっていった[46]。1903年にはイギリス下院が「コンゴ自由国はベルリン条約違反して先住民に対して過酷な圧政を行っている」と批判する決議を出している[47]エドモンド・モレルの『赤いゴム』、マーク・トウェインの『レオポルド王の独白』などレオポルド2世批判の著作も続々と出版された[48]

もっともこうした報告には誇張やデマなどの類も多かったという[42]。こうした批判が始まった背景には、イギリスをはじめとした各国政府や資本家がレオポルド2世の中世じみた恣意的統治を嫌い、もっと合理的な近代植民地統治に置き換えたがっていたことがある[49]。従って必ずしもベルギーからコンゴを奪い取ろうと意図された物ではなく、むしろコンゴをレオポルド2世の私領からベルギー国家の植民地に転換させて責任を持った統治をさせる意図があった[50]

だがレオポルド2世はこうした批判について、イギリスの陰謀と疑っていた[51]。コンゴ統治にほとんど関心を持たなかったベルギー国民も突然始まったレオポルド2世批判キャンペーンに疑念を持ち、「イギリス人はボーア戦争ボーア人から財産を奪い、次はコンゴを狙っている」と批判する者が多かった[50]

イギリスに付け入る隙を与えないため、レオポルド2世はコンゴ植民地大臣エドモン・ヴァン・エトヴァルド男爵に対して「本当に残虐行為が行われているならば止めなければならない。そうした残虐行為が続くならコンゴ自由国の崩壊を招く。」と語って、先住民保護委員会を組織させた。同委員会は調査権に様々な制限が加えられていたので、大きな成果はあげられなかったが[52][49]、一応、強制労働の緩和、先住民部族に一定の自治権を認めるなどの改革が行われるきっかけにはなった[53]

それでも収まらない国際的批判に耐えかねたベルギー政府はレオポルド2世がコンゴの状況を改善できないなら、コンゴを国王の私領からベルギー国家の植民地へ転換させるべきであると主張し、1906年に議会にそれを諮った。一方レオポルド2世は「(コンゴ自由国は)私の個人的な努力の結晶である。(略)コンゴ併合を要求する者たちは支配体制を変えることで今進行している事業を妨害し、その残骸から利益を漁ろうとしている者たちである。」と批判し、コンゴをベルギー国家に譲ることを拒否した[54]

しかしベルギー議会はレオポルド2世にコンゴを手放すよう決議した。イギリスやアメリカなど国外からの批判も相変わらず激しく、レオポルド2世もついにコンゴ個人領有を諦めた。1908年10月18日にベルギー国家にコンゴを譲渡する旨の文書に署名している[1][55]

崩御

レオポルド2世の望み通り、コンゴを保有したベルギーは列強の一国に数えられるようになったが、レオポルド2世自身の名声はコンゴ統治のために地に堕ちた。彼は妻や娘にまで疎んじられるようになったという[56]

家族との疎遠のためか、1900年頃からブランシュ・ドラクロワと愛人関係になり、彼女との間に私生児の男子を二人儲けている。だがこの愛人関係も国民の批判の的となり、レオポルド2世の人望は更に低下した[56]

1909年12月初め、腸閉塞で重体となった。死期を悟ったレオポルド2世はカトリック司祭を召集して愛人ブランシュとの結婚を強行した[56]。その結婚から数日後、ブランシュが見守る中、74歳で崩御した。しかしベルギーの法律ではこの結婚は無効とみなされており、ブランシュはレオポルド2世の崩御後ただちに宮廷を追われている[56]

王位は弟フランドル伯爵フィリップの子アルベール1世が継いだ[3]

レオポルド2世は葬儀は地味に、葬列も省略するよう遺言していたが、伯父から甥へという微妙な王位継承であったので、前王を粗末に扱ったという批判が起こるのを恐れて、アルベール1世は盛大な国葬を挙行させた。だが国民からほとんど敬意をもたれなかったレオポルド2世の葬列は群衆のブーイングに晒され、中にはレオポルド2世の棺に唾を吐きかける者もあったという[57]

人物

ブリュッセルにあるレオポルド2世の銅像(2008年撮影)。

コンゴ統治で悪名を馳せ、「ヨーロッパ最悪の宗主」と呼ばれた[58]。しかし彼は本来野蛮な行為を嫌う人物であり、黒人に暴力を振るわないよう地元行政官にたびたび命令を下していた(前述したようにアラブ人奴隷商人による奴隷狩りから黒人を守ってもいたが、これも黒人を囲って酷使するための方便に過ぎない)。だがそうした暴力が振るわれる原因が彼の天然ゴムの生産率へのこだわりにあることは認めようとしないというナイーブな「慈善家」であった[39]

健康にこだわりがあり、顎鬚を雨から守るための特別製のカバーを作らせていた[59]。また病人が自分に近づいてくることを極度に嫌がり、侍従が風邪を引けば回復するまで宮廷への出仕を禁じた。侍従たちの間ではレオポルド2世のこうした性格を利用して仮病で休暇を取るのが流行ったという[59]

家族

1853年オーストリア大公女マリー=アンリエットと結婚し、1男3女を儲けた。

脚注

注釈

  1. ^ これによりこれまで横行していた、くじで徴兵されることになった裕福な者が、くじで徴兵を逃れた貧しい者を雇って身代わりに兵隊へ行かせるといったことは禁止された[22]
  2. ^ 一方でこの鉄道建設にあたってもコンゴ先住民や近隣諸国住民、清などから集められた労働者に過酷な労働が課せられたとする批判がある[34][35]。また先住民に個人所有の概念がなかった事を利用して土地を勝手に無主地として接収して行われた事業であるとする批判もある[36]

出典

  1. ^ a b c d ベルギー王室公式サイト"The Belgian Monarchy"
  2. ^ 世界伝記大事典(1981)第12巻 p.291-292
  3. ^ a b c d e f g h i 世界伝記大事典(1981)第12巻 p.292
  4. ^ ワイントラウブ(1993) 下巻 p.334/522-523
  5. ^ デュモン(1997) p.65-71
  6. ^ a b c ルイス(2010)2巻 p.279
  7. ^ a b c 宮本、松田(1997) p.332
  8. ^ a b トウェイン(1968) p.32
  9. ^ a b c デュモン(1997) p.73
  10. ^ トウェイン(1968) p.33
  11. ^ 秦(2001) p.269
  12. ^ a b c デュモン(1997) p.72
  13. ^ 森田(1998) p.384
  14. ^ 今来(1972) p.440
  15. ^ 森田(1998) p.384-386
  16. ^ a b 今来(1972) p.441
  17. ^ 森田(1998) p.386
  18. ^ a b 森田(1998) p.392
  19. ^ 森田(1998) p.393-394
  20. ^ a b 森田(1998) p.394
  21. ^ 森田(1998) p.395-396
  22. ^ デュモン(1997) p.89
  23. ^ a b 森田(1998) p.391
  24. ^ ルイス(2010)2巻 p.280
  25. ^ トウェイン(1968) p.33-34
  26. ^ トウェイン(1968) p.34
  27. ^ 小田(1986) p.47
  28. ^ 宮本、松田(1997) p.333
  29. ^ a b デュモン(1997) p.74
  30. ^ 小田(1986) p.47-48
  31. ^ 今来(1972) p.442
  32. ^ a b c デュモン(1997) p.75
  33. ^ トウェイン(1968) p.35
  34. ^ トウェイン(1968) p.36
  35. ^ 小田(1986) p.54-55
  36. ^ 小田(1986) p.54
  37. ^ a b c ルイス(2010)2巻 p.281
  38. ^ 宮本、松田(1997) p.335-336
  39. ^ a b 宮本、松田(1997) p.336
  40. ^ ルイス(2010)2巻 p.283-284
  41. ^ 小田(1986) p.57
  42. ^ a b ルイス(2010)2巻 p.288
  43. ^ トウェイン(1968) p.37
  44. ^ 小田(1986) p.55-56
  45. ^ 小田(1986) p.56
  46. ^ ルイス(2010)2巻 p.281-282
  47. ^ 小田(1986) p.58
  48. ^ 小田(1986) p.59
  49. ^ a b トウェイン(1968) p.39
  50. ^ a b 宮本、松田(1997) p.337
  51. ^ ルイス(2010)2巻 p.289-293
  52. ^ ルイス(2010)2巻 p.282-283
  53. ^ 小田(1986) p.60
  54. ^ ルイス(2010)2巻 p.293
  55. ^ ルイス(2010)2巻 p.293-295
  56. ^ a b c d ルイス(2010)2巻 p.295
  57. ^ ルイス(2010)2巻 p.296
  58. ^ ワイントラウブ(1993) 下巻 p.334
  59. ^ a b ルイス(2010)2巻 p.286

参考文献

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  • 小田英郎『アフリカ現代史』山川出版社〈世界現代史15〉、1986年(昭和56年)。ISBN 978-4634421509 
  • ジョルジュ=アンリ・デュモン 著、村上直久 訳『ベルギー史』白水社〈文庫クセジュ790〉、1997年(平成9年)。ISBN 978-4560057902 
  • マーク・トウェイン 著、佐藤喬 訳『レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護』理論社、1968年(昭和43年)。ASIN B000JBKXHU 
  • 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220 
  • 宮本正興松田素二『新書アフリカ史』講談社講談社現代新書1366〉、1997年(平成9年)。ISBN 978-4061493667 
  • 森田安一『スイス・ベネルクス史』山川出版社〈世界各国史14〉、1998年(平成10年)。ASIN 978-4634414402 
  • ブレンダ・ラルフ・ルイス英語版 著、中村佐千江、樺山紘一 訳『ダークヒストリー2 図説 ヨーロッパ王室史』原書房、2010年(平成22年)。ISBN 978-4562045785 
  • 『世界伝記大事典 世界編 12巻 ランーワ』ほるぷ出版、1981年(昭和56年)。ASIN B000J7VF4O 
  • スタンリー・ワイントラウブ 著、平岡緑 訳『ヴィクトリア女王〈下〉』中央公論新社、2007年(平成19年)。ISBN 978-4120022432 

関連項目