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「相生橋」の版間の差分

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{{橋
{{橋
|名称=相生橋
|名称=相生橋
|画像=[[ファイル:相生橋01.jpg|center|300px]]原爆ドームより<br />[[ファイル:AtomicEffects-p7a.jpg|center|300px]]原爆投下の市中央部<br />同心円の中心が爆心地ですぐ左上に相生橋
|画像=[[ファイル:相生橋01.jpg|center|300px]]原爆ドームより<br />[[ファイル:AtomicEffects-p7b.jpg|center|300px]]原爆投下の市中央部<br />同心円の中心が爆心地ですぐ左上に相生橋
|国=
|国=
|都市=[[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]
|都市=[[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]<br />東西-左岸:[[紙屋町・八丁堀|紙屋町]];右岸:[[十日市町・土橋|本川町]]<br />南北-起点:[[中島町 (広島市)|中島町]]慈仙寺鼻;終点:同町相生橋上
|水域=[[太田川]][[水系]][[旧太田川]]
|水域=[[太田川]][[水系]][[旧太田川]]
| 緯度度 = 34|緯度分 = 23|緯度秒 = 47
|位置情報=東西-左岸:[[紙屋町・八丁堀|紙屋町]];右岸:[[十日市町・土橋|本川町]]<br />南北-起点側:[[中島町 (広島市)|中島町]]慈仙寺鼻;終点側:中島町相生橋上<br/>{{ウィキ座標度分|34|23|47|N|132|27|9|E|}}
| 経度度 = 132|経度分 = 27|経度秒 = 9
|長さ=東西方向:129m、南北方向:53m
|最大支間長=
|幅=
|高さ=
|建築家と技術者=
|形式=東西方向:5径間連続鋼鈑桁橋<br />南北方向:単純鋼箱桁橋
|素材=上部工:[[鋼橋]]、下部工:[[鉄筋コンクリート構造|RC構造]]、基礎工:?
|建設=
}}
}}
{{Ja_Route_Sign|183|align=left}}
{{Ja_Route_Sign|183|align=left}}
{{Ja_Route_Sign|261|align=left}}
{{Ja_Route_Sign|261|align=left}}
{{Vertical_images_list
{{Vertical_images_list
|幅= 300px
|幅= 250px
| 1=相生橋02.jpg
| 1=Hiroshima map circa 1930.PNG
| 2=平和公園対岸より
| 2=1930年ごろの広島市の地図。この図では下手の旧橋が撤去されておらず、新造橋から中島方面への連絡橋も架けられていない。
| 3=相生橋04.jpg
| 3=Old Aioibashi ayahashira01.JPG
| 4=T路分岐
| 4=原爆ドーム横の初代親柱。1877年このあたりから慈仙寺鼻に向かってまっすぐ木橋が架けられた。
| 5=Old Aioibashi ayahashira02.JPG
| 6=中島町慈仙寺鼻にある2代目親柱。1932年併用橋架設時に現親柱位置に設置。1983年架替時に現在地に移設。
| 7=相生橋03.jpg
| 8=現親柱および橋面。写真は2005年のもの。
}}
}}
'''相生橋'''(あいおいばし)は、[[広島市]]中心部を流れる[[旧太田川|本川(旧太田川)]]と[[元安川]]の分岐点に架かる、[[相生通り]]と[[広島電鉄]]が通る[[橋|併用橋]]。全国的にも珍しいT字型の橋である。
'''相生橋'''(あいおいばし)は、[[広島県]][[広島市]]中心部を流れる[[旧太田川|本川(旧太田川)]]と[[元安川]]の分岐点に架かる、[[相生通り]]と[[広島電鉄]]が通る[[橋|併用橋]]。全国的にも珍しいT字型の橋である。


== 概要 ==
== 概要 ==
橋名の由来は、2つの橋が「相合う」ことから(詳細は下記歴史参照)。
橋名の由来は、2つの橋が「相合う」ことから<ref name="ひろしま通">{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.jp/keizai/fanclub/bn/181228.html|title=締切間近!第1回「ひろしま通」認定試験|publisher=広島市|accessdate=2011-05-01}}</ref>(詳細は下記歴史参照)。


[[原爆ドーム]]と[[広島平和記念公園]]を結ぶ橋の一つであり、その中で最も北に位置する。上流側に城南通り([[広島市道中広宇品線]])の[[空鞘橋]]、本川下流側に[[本川橋]]、元安川下流側に[[元安橋]]がある。
[[原爆ドーム]]と[[広島平和記念公園]]を結ぶ橋の一つであり、その中で最も北に位置する。上流側に城南通り([[広島市道中広宇品線]])の[[空鞘橋]]、本川下流側に[[本川橋]]、元安川下流側に[[元安橋]]がある。


東西方向(長手)に架かる橋は、[[国道183号]]・[[国道261号]]と[[広島電鉄本線]]が通る併用橋。南北方向(短手、市道中2区1号線)に架かる橋は「連絡橋」と呼ばれ、長手の橋中央で二叉し橋脚ではなく長手の橋桁に直接掛かっている。現在の橋は1983年に架けなおされたもの。
東西方向(長手)に架かる橋は、[[国道183号]]・[[国道261号]]と[[広島電鉄本線]]が通る併用橋。南北方向(短手)に架かる橋は「連絡橋」と呼ばれ、長手の橋中央で二叉し橋脚ではなく長手の橋桁に直接掛かっている。現在の橋は1983年に架けなおされたもの。橋自体は現在広島市が管理している


[[昭和]]初期から現在の形になり、広島名所として[[戦前]]の絵はがきで紹介されている。上空からも目立つため、[[広島市への原子爆弾投下]]の際には目標点とされた。(実際の[[爆心地]]は、この橋がある地点から300mに位置する[[島病院]]上空である)
[[昭和]]初期から現在の形になり、広島名所として[[戦前]]の絵はがきで紹介されている<ref name="oitachi">[[#平和資料館|平和資料館]]、相生橋の生い立ち</ref>。上空からも目立つため、[[広島市への原子爆弾投下]]の際には目標点とされた<ref name="oitachi" />


[[被爆]]当日に[[被爆者]]がこの橋付近で特に多く亡くなっており、元安川下流側で毎年8月6日夜に犠牲者を弔う[[灯篭流し]]が行われている。
[[被爆]]当日に[[被爆者]]がこの橋付近で特に多く亡くなっており、元安川下流側で毎年8月6日夜に犠牲者を弔う[[灯篭流し]]が行われている。

== 諸元 ==
以下、東西(長手)方向を併用橋、南北(短手)方向を連絡橋と表記する。
;現橋
* 路線名
** 併用橋:[[相生通り]]([[国道183号]]・[[国道261号]]と[[広島電鉄本線]])
** 連絡橋:広島市道中2区1号線<ref name="doukan">[http://doukan.douro.city.hiroshima.jp/MWIISapHrD/ 広島市路線網図提供システム]</ref>
* 橋種
** 併用橋:5径間連続鋼鈑桁橋
** 連絡橋:単純鋼箱桁橋
* 橋長 - 併用橋:129m、連絡橋:53m
* 幅員<ref name="doukan" /> - 併用橋:39.9m、連絡橋:11m

;旧橋
次に被爆当時の橋の諸元<ref name="jsce">[[#土木学会|土木学会]]</ref>を示す。
* 橋種
** 併用橋:7径間連結鋼鈑桁橋
** 連絡橋:4径間連結鋼鈑桁橋
* 橋長 - 併用橋:122m、連絡橋:62m
* 幅員 - 併用橋:22m、連絡橋:7.3m


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 被爆前 ===
=== 前 ===
{{Vertical_images_list
[[広島藩|藩政時代]]、防衛のため城下には架橋規制が引かれており、西部や北部から[[広島城]]への道は、本川橋から元安橋を渡るルートのみであった。
|幅= 350px
| 1=Hiroshima map circa 1930.PNG
| 2=1930年ごろの広島市の地図。この図では下手の旧橋が撤去されておらず、新造橋から中島方面への連絡橋も架けられていない。
| 3=AtomicEffects-p7a.jpg
| 4=1945年原爆投下前の市中央部<br />同心円の中心が爆心地ですぐ左上に相生橋
}}
[[広島藩|藩政時代]]、防衛のため城下には架橋規制が引かれており、[[西国街道]]を通って西から、[[可部街道|出雲石見街道]]を通って北から[[広島城]]への陸路は、西国街道筋の本川橋から元安橋を渡るルートのみであった{{#tag:ref|当時の城下町の状況は、広島城が所蔵する『広島城下絵屏風』や『芸州広島図』で確認できる<ref>{{Cite web|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya27.pdf|format=PDF|title=しろうや! しろうや! 広島城|publisher=広島城|accessdate=2011-05-01}}</ref>。|group="†"}}。


[[明治時代]]になり規制は解かれ、[[1877年]](明治10年)この付近の富豪により、猿楽町(現在の[[紙屋町・八丁堀|紙屋町]])から[[中島町 (広島市)|中島町]]の北たもと「慈仙寺鼻」(本川と元安川分岐の中洲頂点部)を経由し鍛冶屋町(現在の[[十日市町・土橋|本川町]])を結ぶ、「くの字型」の[[木橋]]が架けられた。当時、2つの橋が相合う様から「相合橋」と名がついたた、渡るときにその富豪が金を徴収したことから別名「銭取り橋」とも言われた。交通の要所として、西方向から[[鎮台|広島鎮台]](のちの[[第5師団 (日本軍)|第5師団]] / [[広島城]]内に位置していた)や練兵場(西練兵場 / 現在の[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]の位置)を結ぶ重要な橋となった。
[[明治時代]]になり規制は解かれ、[[1878年]](明治11年)この付近の富豪により、猿楽町(現在の[[紙屋町・八丁堀|紙屋町]])から[[中島町 (広島市)|中島町]]の北たもとの通称「慈仙寺鼻」(本川と元安川分岐の中洲頂点部)を経由し鍛冶屋町(現在の[[十日市町・土橋|本川町]])を結ぶ、「くの字型」の[[木橋]]が架けられた<ref name="oitachi" />。当時、2つの橋が相合う様から「相合橋」と名がついた<ref name="ひろし通" />。渡るときにその富豪が金を徴収したことから別名「銭取り橋」とも言われた<ref name="oitachi" />。交通の要所<ref name="oitachi" />として、西方向から[[鎮台|広島鎮台]](のちの[[第5師団 (日本軍)|第5師団]] / [[広島城]]内に位置していた)や西練兵場(右地図参照)を結ぶ重要な橋となった。


[[1912年]](大正元年)11月、[[広島駅]]から紙屋町を経由し相生橋まで伸びる「広島電気軌道」が開通。これに伴い、くの字型の木橋のやや上流(現在の併用橋の位置)に木橋の電車軌道専用橋が併設された。その後、[[水]]により落橋してしまったため、[[1932年]](昭和7年)に鋼桁の道路・軌道併用橋に架け直された。
[[1912年]](大正元年)11月、[[広島駅]]から紙屋町を経由し相生橋まで伸びる「広島電気軌道」が開通すると、くの字型の木橋のやや上流(現在の併用橋の位置)に木橋の電車軌道専用橋が併設された<ref name="oitachi" />。その後、電車専用橋が[[水]]により落橋してしまったため、[[1932年]](昭和7年)に鋼<ref name="jsce" />の道路・軌道併用橋に架け直された<ref name="oitachi" />


[[1934年]](昭和9年)、併用橋から慈仙寺鼻に向かって[[鉄筋コンクリート]]桁の連絡橋が完成、従来の相生橋と合わせて「H字型」の橋となった。[[1938年]](昭和13年)木橋は撤去され現在の「T字型」となった。
[[1934年]](昭和9年)、併用橋から慈仙寺鼻に向かって鋼鈑<ref name="jsce" />の連絡橋が完成、従来の相生橋と合わせて「H字型」の橋となった<ref name="oitachi" />。[[1940年]](昭和15年)まで木橋は撤去され現在の「T字型」となった<ref name="oitachi" />


南側に広がる中島本町は、幕末から明治・大正初期へかけて市内でも有数の繁華街であったが、大正中期に入ると繁華街の中心が市の東部へ移りはじめたので、往年の盛り場の雰囲気はなくなり、木造平屋の民家が広がる庶民的な街となった。このころ、橋の東詰には産業奨励館(現在の原爆ドーム)や[[商工会議所]]・[[日本赤十字社]]広島支部、西詰には本川小学校が存在していた。
南側に広がる中島本町は、幕末から明治・大正初期へかけて市内でも有数の繁華街であったが、大正中期に入ると繁華街の中心が市の東部へ移りはじめたので、往年の盛り場の雰囲気はなくなり、木造平屋の民家が広がる庶民的な街となった<ref>[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、275頁</ref>。このころ、橋の東詰には産業奨励館(現在の原爆ドーム)や[[広島護国神社]]、広島[[商工会議所]]・[[日本赤十字社]]広島支部や広電の櫓下変電所、西詰には[[広島市立本川小学校]]が存在していた<ref>[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、271頁</ref>。またこの橋近くの東北方向には[[広島城]]を中心に[[中国軍管区 (日本軍)|中国軍管区]]司令部など陸軍施設が密集し「軍都広島」の中心地だった<ref name="chugoku19990713">{{Cite web|date=1999-07-13|url=http://www.chugoku-np.co.jp/abom/99abom/kiroku/nakajima/index.html|title=標的にされた相生橋 「水の都」の繁華街 火災に崩れ落つ|publisher=中国新聞|accessdate=2011-05-02}}</ref>


=== 被爆 ===
=== 被爆 ===
==== 被爆状況 ====
相生橋のT字型という珍しい特徴は、上空からも非常に目立つため、原爆投下の際に目標点とされた。[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]、この橋を目印として[[原子爆弾]]『[[リトルボーイ]]』が投下され、午前8時15分(爆発時間については諸説あり)に橋の上空付近で炸裂した。
{{Rquote|right|完璧な照準点|爆撃機[[エノラ・ゲイ]]機長[[ポール・ティベッツ]]|<ref name="chugoku19990713" />}}
相生橋のT字型という特徴は上空からも非常に目立つため、原爆投下の際に目標点とされた<ref name="oitachi" />。[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]、この橋を目印として[[原子爆弾]]『[[リトルボーイ]]』が投下され、[[島病院]]上空を[[爆心地]]として炸裂した<ref>[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、35頁-36頁</ref>。相生橋はそこから約300mに位置した<ref name="壊滅記録">{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0702/exh070205.html|title=ヒロシマ壊滅の記録|publisher=広島市|accessdate=2011-05-01}}</ref>。


同時刻にこの付近にいた人間は、高熱線を浴び衝撃波によって吹き飛ばされ、多数が即死{{#tag:ref|橋上で被爆した後、他の人を救護していた最中に絶命した人物もいる<ref>[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、174頁</ref>。住友銀行広島支店「人影の石」から原爆による熱線で人体が蒸発したという風説が存在するが、少なくとも[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]にはこの橋上でその現象が起きたと記載されていない。[[米国戦略爆撃調査団]]の報告書では「爆心地付近の死体は熱線で炭化していた」<ref name="chugoku19990713" />のみで、消え去ったとまで書かれていない。|group="†"}}した<ref name="sensai262">[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、262頁</ref>。
原爆により発生した衝撃波はこの橋に7万[[パスカル]]もの圧力をかけ、橋は板バネのように大きく曲がり、桁は変形した。コンクリート製高欄の柱に埋め込まれていたI型鋼はせん断され、高欄は橋の両側に押し広げられ北側のものは川に落下した。川面に反射した衝撃波により橋の下からも圧力を受け、併用橋歩道部床版が約2メートルほど吹き上げられた。橋の周辺は火と煙が充満し全滅状態、{{要出典範囲|date=2010年9月|同時刻に橋を渡っていた人々は熱線により即死し、続いて発生した衝撃波によって死体が吹き飛ばされたと想定され}}、後には火熱から逃れ川まで避難してきた被爆者が力尽きて息絶えた死体が累々と横たわった。橋の下では流されてきた死体によって水面も見えないほどであったといわれる。しかし比較的頑丈に作られていたために落橋は免れたうえに、本川橋が渡れない状況となったため、西部あるいは北部へ向かって、大勢の被爆者が渡って逃げた。
橋の周辺は火と煙が充満し<ref name="sensai280">[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、280頁</ref>壊滅状態で凄惨を極め<ref name="sensai261">[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、261頁</ref>、後には火熱から逃れ川まで避難してきた被爆者が力尽きて息絶えた死体が累々と横たわった<ref name="sensai262" />。橋の下では流されてきた死体によって水面も見えないほどであった{{#tag:ref|[[建設省]](当時)は1977年から1999年まで周辺の護岸整備工事を行ったが、河床や護岸から遺骨は発見されていない<ref name="chugoku20070625">{{Cite web|date=2007-06-25|url=http://www.chugoku-np.co.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20070625.html|title=川に今も被爆者の遺骨あるの?|publisher=中国新聞|accessdate=2011-05-02}}</ref>。被爆後河原で死体が焼かれたが、地元住民がほとんどの遺骨を[[原爆供養塔]]に納めていたため発見されなかったと指摘されている<ref name="chugoku20070625" />。|name="gogan"|group="†"}}<ref name="sensai261" />。


この際、相生橋は落橋から免れたうえに何とか通行出来る状況であった<ref>[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、278頁</ref>ことに加え、下流側の本川橋が渡れない状況<ref name="sensai252">[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、252頁</ref>となったため、西部あるいは北部へ向かって、大勢の被爆者が渡って逃げた<ref name="sensai252" />。中島町の燃料会館(現在の[[レストハウス (広島市)|広島市レストハウス]])地下にいて、被爆直後における爆心地附近の状況を知るほとんど唯一の生き証人となった人物は、この橋の連絡橋を渡り西へ逃げている<ref name="sensai280" />。[[福屋八丁堀本店|福屋百貨店]](爆心地から710m)付近で被爆した[[李グウ|李{{lang|zh|鍝}}]]{{#tag:ref|[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]では李{{lang|zh|鍝}}が被爆したのは相生橋付近とされている<ref>[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、226頁</ref>。|group="†"}}は西進してこの橋を渡り本川橋西詰(橋桁の下とも)で力尽きてうずくまった。彼はその後[[似島]]の病院に収容されたが、翌7日午後4時過ぎに絶命した。被爆当日[[中国軍管区 (日本軍)|中国軍管区]]司令部に収監されていたアメリカ人捕虜の死体は、この橋の東詰めの電柱に括り付けられ晒し者にされた<ref name="sensai71">[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、71頁</ref><ref>{{Cite web|date=1997-07-28|url=http://www.chugoku-np.co.jp/abom/97abom/sarugaku/970728.html|title=爆死した米兵捕虜目撃|publisher=中国新聞|accessdate=2011-05-02}}</ref>。その後彼は葬られ、[[原爆供養塔]]に遺骨が納められた<ref name="sensai71" />。
同年9月に上陸した[[枕崎台風]]と同年10月の[[阿久根台風]]による水害により本川が相次いで増水、下流側の本川橋・新大橋(現在の[[西平和大橋]])・[[住吉橋 (広島市)|住吉橋]]が落橋してしまい、市の西部から中心部への道はこの橋のみとなった。被爆後から復旧工事を開始、[[1949年]](昭和24年)に全面復旧した。同年、[[広島平和記念都市建設法]]が公布・施行、その後市内交通網が整備された。


この橋東詰は通行に困難な状況であったが被爆同日から瓦礫撤去作業が行われている<ref name="sensai71" />。市内は大きな建物は壊滅していたため、約3km離れている皆実からこの橋が間近で見れる状況だった<ref>[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、413頁</ref>。
老朽化に伴い[[1983年]](昭和58年)10月、併用橋は新しく鋼鈑桁橋で、連絡橋は鋼箱桁橋で架け替えられた。このとき撤去された旧橋の桁の一部が現在[[広島平和記念資料館]]に保存されている。また、広電の架線柱がT字型のセンターポールに変更されている。(現在、広電市内線において、センターポール方式の架線が引かれているのは、この橋の上と宇品線の一部区間だけである)

==== 橋の被害状況 ====
{{Vertical_images_list
|幅= 250px
| 1=Hiroshima museum.JPG
| 2=被爆後のジオラマ。球体は爆心を表す。
| 3=Bridge structure_2_NT.PNG
| 4=一般的な鈑桁橋の断面。<br />1.全幅 2.有効幅員 3.高欄 4.地覆<br />5.歩道 6.縁石 7.路肩 8.車道<br />9.舗装 10. 床版 11.主桁
}}
その当時市内に架橋されていた主要41橋のうち唯一この橋だけ<ref name="sensai40">[[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]、40頁</ref>、欄干が破壊され川に落下すると同時に、[[鉄筋コンクリート]]床版が最大で1.5mほど浮き上がって破壊<ref name="jsce" />される現象が起きている。そこから今日では、被爆当時発生した衝撃波は橋を上から圧迫しただけでなく、本川の水面に反射し下からも圧迫し{{#tag:ref|他にも、爆発に伴い爆心が真空状態となり吸引力が発生したとも推測された<ref name="jsce" />が、現在は川面反射説で統一されている。|group="†"}}ため、波打つ挙動となったと考えられている<ref>[[#平和資料館|平和資料館]]、衝撃波と橋</ref>。

ちなみに、これは相生橋が爆心地から近距離だったことに加え当時の橋の構造に原因がある。軌道と車道および歩道の4つの境界部分で床版内の横方向の鉄筋が当初から分断されていて<ref name="jsce" />、衝撃波による外圧がかかった時に境界部分の床版は鉄筋で耐えることが出来ず破断し{{#tag:ref|爆心地に最も近い[[元安橋]](爆心地から130m)は上からのみ衝撃波がかかる位置であったため床版は無事だった。同じく爆心地近くの[[本川橋]](爆心地から410m)は衝撃波により橋全体が動き橋台から桁が外れた<ref name="sensai252" />ため、もし相生橋も床版が破断せず橋全体が浮き上がり主桁まで動いていたら更に被害が拡大した可能性もある。|group="†"}}、車道・歩道がおのおの浮き上がる現象が発生した。主な破壊状況は以下のとおり。
;併用橋
* 車道および歩道の床版は浮き上がり上流側に移動し落下した<ref name="jsce" />。
** 上流側:歩道部分は1.2m、車道部分は0.4m上流側に移動。一部は1.5m浮き上がる。
** 下流側:歩道部分は0.4m上流側に移動、車道上に落下した。車道部分は移動せず。
* 軌道部分の床版は主桁上部に定着していたため移動は無かったが、無数の亀裂が発生していた。電車運転再開後は振動により亀裂がさらに進行し危険な状況だった<ref name="jsce" />。
* 欄干(高欄)は、埋め込まれたI型鋼がせん断され<ref name="sensai252" />、両側共に川に落下した<ref name="jsce" />。
* 一部支点部分の主桁が若干S字状に変形した{{#tag:ref|変形した旧橋の桁の一部は現在[[広島平和記念資料館]]に保存されている<ref>[[#平和資料館|平和資料館]]</ref>。|name="kyukyo"|group="†"}}<ref name="jsce" />が、主桁自体はほとんど無事だった。よってその後の復旧工事の際に桁の補修はされていない<ref name="jsce" />。
* 一部に亀裂が生じたが橋脚の被害はほとんどなく<ref name="jsce" />、この付近のみ[[間知石]]積の護岸が6箇所崩壊したものの橋台も被害はなかった<ref name="sensai40" />。
;連絡橋
* [[#原爆戦災誌|原爆戦災誌]]および[[#土木学会|土木学会誌]]共に破壊状況が記述されていないことや被爆後に渡った人物がいること、当時の記録映像で欄干がなくなっていると確認できることから、欄干は併用橋と同様に川に落下したものの、その他は深刻な被害はなかったようである。

==== 復旧工事 ====
{{Vertical_images_list
|幅= 250px
| 1=A bomb dome hiroshima sunset.jpg
| 2=夕焼けの相生橋と原爆ドーム(2008年)。
| 3=Japan Hiroshima ABomb.jpg
| 4=護岸整備前の元安川(1996年)。当時はこの位置にボート屋があった。
| 5=20070924hiroden807.jpg
| 6=相生橋を通る路面電車(2007年)。
}}
{{main2|[[戦災復興都市計画#広島の戦災復興計画]]も合わせて}}
この橋は市内有数の交通の要地であったことから早急に復旧を開始、同年9月7日には広電本線が八丁堀から己斐間まで再開した<ref name="壊滅記録" />ため、広電を通しながらの工事が行われた<ref name="jsce" />。工事手順<ref name="jsce" />として、
#下流側車道に仮設の単線軌道を敷設、電車と歩行者を下流側で通行させ、車は全面通行止め。
#上流側歩車道および既存複線軌道を撤去、鉄筋コンクリート床版を新規施工し、複線軌道を新規敷設。
#電車を全面開通、歩行者は上流側歩道で通行させ、車は全面通行止め。
#下流側の仮設単線軌道を撤去、残り下流側歩車道の鉄筋コンクリート床版を新規施工。

「原爆と平和」を象徴する橋として市民から要望された<ref name="jsce" />ことに加え、「原爆記念保存物」として観光利用も期待されていた<ref>{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/hpcf/heiwabunka/pcj172/Japanese/04J.html|title=広島の復興と原爆遺跡|publisher=広島市|accessdate=2011-05-02}}</ref>こともあり、欄干や親柱に[[原爆死没者慰霊碑]]にも用いられた[[庵治石]]が採用される<ref>{{Cite web|date=1999-05-18|url=http://www.chugoku-np.co.jp/setouti/seto/5/970518.htm|title=復興の礎/被爆の街に庵治の技|publisher=中国新聞|accessdate=2011-05-02}}</ref>など復旧費用がかさみ、事業費は跳ね上がった。工事は戦災都市復興事業として行われ、[[1949年]](昭和24年)に全面復旧した<ref name="jsce" />。補修総事業費は当時で530万円<ref name="jsce" />。

=== 以降 ===
戦後、補修しながらも長く供用されていた。[[1977年]](昭和52年)から国の太田川高潮対策事業に伴い護岸整備が始まった<ref group="†" name="gogan" /><ref name="chugoku20070625" />。

老朽化と高潮対策事業に伴う護岸整備に伴い[[1983年]](昭和58年)10月新しく架け替えられた<ref group="†" name="kyukyo" /><ref>{{Cite web|url=http://www.hiroshima-shinbun.com/photo_sp/psp1945080622b.html|title=今日の相生橋|publisher=ヒロシマ新聞|accessdate=2011-05-02}}</ref>。この際、橋脚を全撤去し併用橋側は6基から4基に連絡橋側は橋脚なしとなり、併用橋は新しく鋼鈑桁橋で、連絡橋は支間長が長くなることから剛性を高めるため鋼箱桁橋に変更され、2橋共に幅員が拡幅された。また、広電の架線柱がT字型のセンターポールに変更されている。(現在、広電市内線において、センターポール方式の架線が引かれているのは、この橋の上と宇品線の一部区間だけである)


[[2008年]](平成20年)[[4月1日]]、道路管理者が[[国土交通省]]から市に移管され、[[国道54号]]から[[国道183号]]に変更された。
[[2008年]](平成20年)[[4月1日]]、道路管理者が[[国土交通省]]から市に移管され、[[国道54号]]から[[国道183号]]に変更された。

== 親柱/橋碑 ==
{{multiple image
| header = 親柱3代
| align = left
| width = 250
| image1 = Old Aioibashi ayahashira01.JPG
| caption1 = 初代親柱(右側)と旧相生橋碑(左側)。
| image2 = Old Aioibashi ayahashira02.JPG
| caption2 = 2代目親柱。
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| caption3 = 現親柱および橋面。
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[[ファイル:HiroshimaAioiBridge6802.jpg|right|thumb|250px|橋名板碑]]
親柱が3つとも現存している。
# 初代:原爆ドーム横の初代の木橋が架けられた場所に初代親柱と旧相生橋碑が建立されている。初代親柱は1978年架橋の際に建立、初代の木橋はここから慈仙寺鼻に向かってまっすぐ架けられた。旧相生橋碑は木橋が完全撤去された1940年建立<ref>{{Cite web|date=2008-04-23|url=http://www.chugoku-np.co.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20080323.html|title=平和公園 被爆前からある物は?|publisher=中国新聞|accessdate=2011-05-02}}</ref>。共に被爆遺構で被爆により一時は紛失したが見つかり現在位置に戻された。
# 2代:中島町慈仙寺鼻にある2代目親柱。これは1945年被爆後、復旧工事の際に現親柱の位置に再建されたものである。1983年現橋架替時に現在地に移設。
# 3代(現在):1983年現橋架け替え時に設置。橋名は[[灘尾弘吉]]の[[揮毫]]。写真は2005年のもの。
原爆ドーム横の初代親柱の傍らには「橋名板碑」が置かれている。これは被爆後に補修された2代目の橋の橋名板を、現橋架け替えの際に再利用したものである。


== 周辺 ==
== 周辺 ==
{{wide image|HiroshimaPeaceMemorialPanorama-2.jpg|800px|相生橋(左)と原爆ドームと元安橋(右)}}
東詰に原爆ドーム・広島市民球場・広島商工会議所・広電[[原爆ドーム前駅]]などがある。護岸整備されており、こちら側のみ橋の下をアンダーパスで歩いて通れる。上流側は市民球場跡地再開発に伴い、再整備が予定されている。道沿いにそのまま東へ進むと市内中心部である[[紙屋町交差点]]となる。
東詰に原爆ドーム・広島商工会議所・[[広島市中央公園]]・広電[[原爆ドーム前駅]]などがある。護岸整備されており、こちら側のみ橋の下をアンダーパスで歩いて通れる。上流側は[[広島市民球場 (初代)|市民球場]]跡地再開発に伴い、再整備が予定されている。道沿いにそのまま東へ進むと市内中心部である[[紙屋町交差点]]となる。


西詰に[[広島市立本川小学校]]・広電[[本川町駅]]などがある。南詰は広島平和記念公園へと続く。
西詰に[[広島市立本川小学校]]・広電[[本川町駅]]などがある。南詰は広島平和記念公園へと続く。


元安川下流側に河川遊覧船乗り場があり、船でこの橋の下を通る遊覧コースがある。
{{wide image|HiroshimaPeaceMemorialPanorama-2.jpg|800px|相生橋(左)と原爆ドームと元安橋(右)}}

<gallery>
== 脚注 ==
ファイル:相生橋02.jpg|相生橋 平和公園対岸より
{{脚注ヘルプ}}
ファイル:相生橋04.jpg|相生橋 T路分岐

ファイル:HiroshimaAioiBridge6802.jpg|原爆ドーム横の石碑。元々は先代親柱の橋名板。
;注釈
ファイル:20070924hiroden807.jpg|相生橋を通る路面電車
<references group="†" />
</gallery>

;出典
{{Reflist|2}}

== 参考資料 ==
* {{Cite book|和書
|author =被爆建造物調査研究会
|year =1996
|title =被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る-未来への記録
|publisher = 、広島平和記念資料館
|ref =
}}
* {{Cite book|和書
|author = 広島市
|title = 広島原爆戦災誌
|origdate = 1971
|url = http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/bookdownload/sensai0.pdf
|format=PDF
|accessdate = 2011-05-01
|edition = 改良版
|date = 2005
|ref = 原爆戦災誌
}}
* {{Cite book|和書
|author=広島平和記念資料館
|title=相生橋
|origdate =
|url = http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/vit_ex/vit_ex8.html
|accessdate = 2011-05-01
|ref = 平和資料館
}}
* {{Cite journal|和書
|author=角田孝志
|year=1950年
|month=9月
|title=広島市相生橋の原爆被害について
|journal=土木学会誌
|volume=35
|issue=
|pages=412頁-413頁
|publisher=土木学会
|url=http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/35-09/35-9-13438.pdf
|format=PDF
|accessdate=2011-05-02
|ref = 土木学会
}}
* [http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/lib_draw/2009_Doken/Pages/0303.html 相生/太田川橋 図面および写真] - 土木学会
* [http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/page2g1x07.html 相生橋]

== 関連情報 ==
* 広島原爆関連作品に数多く登場する。詳細は[[広島原爆をテーマとした作品]]参照。
* 『相生橋で』[[庄野真代]]、作詞: 田村和男/補作詞: [[石本美由起]]/作曲: 庄野真代/編曲: [[小野崎孝輔]]
::第6回[[広島平和音楽祭]] ゴールデン・メイプル賞。 庄野公式webのディスコグラフィには掲載されていない。「ゴールデン・メイプル賞」は、同音楽祭を主催した[[広島テレビ放送]]により一般から公募された詩の最優秀作に授与されたものだった。ジャケット写真には同音楽祭で歌唱した際の物が使われた。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Aioi Bridge|相生橋}}
{{Commons|Category:Aioi Bridge|相生橋}}
* [http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/vit_ex/vit_ex8.html 相生橋](平和記念資料館)- 上空からの位置関係および被爆し変形した桁を見ることができる。
* [http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/hiroshima/spot/0476.html 相生橋] - 広島県観光
* [http://www.tobunken-archives.jp/DigitalArchives/search/?lang=&m=1&t=0&pager.offset=0&len=20&orderBy=recordId&order=ASC&title=&submit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&x=56&y=12&keyword=%E7%9B%B8%E7%94%9F%E6%A9%8B&area1=0&area2=0&area3=0&area4=0&theme1=0&theme2=0 戦前の絵葉書アーカイブ] - 東北芸術工科大学。相生橋の絵葉書が数枚ある。
* {{PDFlink|[http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDF/sensai2.pdf 広島原爆戦災誌 第二巻第二編]}}(広島市)
* [http://www.rcc-tv.jp/kioku/back/0410.htm 相生橋] - 中国放送。日本映画社が撮影した被爆後の相生橋の動画がある。
* [http://www.city.hiroshima.jp/keizai/fanclub/bn/181228.html 締切間近!第1回「ひろしま通」認定試験](広島市) - 橋名の由来


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[[Category:広島市の橋]]
[[Category:広島市の橋]]

2011年5月5日 (木) 14:12時点における版

相生橋
原爆ドームより
原爆投下後の市中央部
同心円の中心が爆心地ですぐ左上に相生橋
基本情報
所在地 広島県広島市中区
東西-左岸:紙屋町;右岸:本川町
南北-起点:中島町慈仙寺鼻;終点:同町相生橋上
交差物件 太田川水系旧太田川
座標 北緯34度23分47秒 東経132度27分9秒 / 北緯34.39639度 東経132.45250度 / 34.39639; 132.45250
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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国道183号標識
国道183号標識
国道261号標識
国道261号標識
平和公園対岸より
平和公園対岸より
T路分岐
T路分岐

相生橋(あいおいばし)は、広島県広島市中心部を流れる本川(旧太田川)元安川の分岐点に架かる、相生通り広島電鉄が通る併用橋。全国的にも珍しいT字型の橋である。

概要

橋名の由来は、2つの橋が「相合う」ことから[1](詳細は下記歴史参照)。

原爆ドーム広島平和記念公園を結ぶ橋の一つであり、その中で最も北に位置する。上流側に城南通り(広島市道中広宇品線)の空鞘橋、本川下流側に本川橋、元安川下流側に元安橋がある。

東西方向(長手)に架かる橋は、国道183号国道261号広島電鉄本線が通る併用橋。南北方向(短手)に架かる橋は「連絡橋」と呼ばれ、長手の橋中央で二叉し橋脚ではなく長手の橋桁に直接掛かっている。現在の橋は1983年に架けなおされたもの。橋自体は現在広島市が管理している。

昭和初期から現在の形になり、広島名所として戦前の絵はがきで紹介されている[2]。上空からも目立つため、広島市への原子爆弾投下の際には目標点とされた[2]

被爆当日に被爆者がこの橋付近で特に多く亡くなっており、元安川下流側で毎年8月6日夜に犠牲者を弔う灯篭流しが行われている。

諸元

以下、東西(長手)方向を併用橋、南北(短手)方向を連絡橋と表記する。

現橋
旧橋

次に被爆当時の橋の諸元[4]を示す。

  • 橋種
    • 併用橋:7径間連結鋼鈑桁橋
    • 連絡橋:4径間連結鋼鈑桁橋
  • 橋長 - 併用橋:122m、連絡橋:62m
  • 幅員 - 併用橋:22m、連絡橋:7.3m

歴史

戦前

1930年ごろの広島市の地図。この図では下手の旧橋が撤去されておらず、新造橋から中島方面への連絡橋も架けられていない。
1930年ごろの広島市の地図。この図では下手の旧橋が撤去されておらず、新造橋から中島方面への連絡橋も架けられていない。
1945年原爆投下前の市中央部 同心円の中心が爆心地ですぐ左上に相生橋
1945年原爆投下前の市中央部
同心円の中心が爆心地ですぐ左上に相生橋

藩政時代、防衛のため城下には架橋規制が引かれており、西国街道を通って西から、出雲石見街道を通って北から広島城への陸路は、西国街道筋の本川橋から元安橋を渡るルートのみであった[† 1]

明治時代になり規制は解かれ、1878年(明治11年)この付近の富豪により、猿楽町(現在の紙屋町)から中島町の北たもとの通称「慈仙寺鼻」(本川と元安川分岐の中洲頂点部)を経由し鍛冶屋町(現在の本川町)を結ぶ、「くの字型」の木橋が架けられた[2]。当時、2つの橋が相合う様から「相合橋」と名がついた[1]。渡るときにその富豪が金を徴収したことから別名「銭取り橋」とも言われた[2]。交通の要所[2]として、西方向から広島鎮台(のちの第5師団 / 広島城内に位置していた)や西練兵場(右地図参照)を結ぶ重要な橋となった。

1912年(大正元年)11月、広島駅から紙屋町を経由し相生橋まで伸びる「広島電気軌道」が開通すると、くの字型の木橋のやや上流(現在の併用橋の位置)に木橋の電車軌道専用橋が併設された[2]。その後、電車専用橋が洪水により落橋してしまったため、1932年(昭和7年)に鋼鈑桁[4]の道路・軌道併用橋に架け直された[2]

1934年(昭和9年)、併用橋から慈仙寺鼻に向かって鋼鈑桁[4]の連絡橋が完成、従来の相生橋と合わせて「H字型」の橋となった[2]1940年(昭和15年)まで木橋は撤去され現在の「T字型」となった[2]

南側に広がる中島本町は、幕末から明治・大正初期へかけて市内でも有数の繁華街であったが、大正中期に入ると繁華街の中心が市の東部へ移りはじめたので、往年の盛り場の雰囲気はなくなり、木造平屋の民家が広がる庶民的な街となった[6]。このころ、橋の東詰には産業奨励館(現在の原爆ドーム)や広島護国神社、広島商工会議所日本赤十字社広島支部や広電の櫓下変電所、西詰には広島市立本川小学校が存在していた[7]。またこの橋近くの東北方向には広島城を中心に中国軍管区司令部など陸軍施設が密集し「軍都広島」の中心地だった[8]

被爆

被爆状況

完璧な照準点

—爆撃機エノラ・ゲイ機長ポール・ティベッツ[8]

相生橋のT字型という特徴は上空からも非常に目立つため、原爆投下の際に目標点とされた[2]1945年(昭和20年)8月6日、この橋を目印として原子爆弾リトルボーイ』が投下され、島病院上空を爆心地として炸裂した[9]。相生橋はそこから約300mに位置した[10]

同時刻にこの付近にいた人間は、高熱線を浴び衝撃波によって吹き飛ばされ、多数が即死[† 2]した[12]。 橋の周辺は火と煙が充満し[13]壊滅状態で凄惨を極め[14]、後には火熱から逃れ川まで避難してきた被爆者が力尽きて息絶えた死体が累々と横たわった[12]。橋の下では流されてきた死体によって水面も見えないほどであった[† 3][14]

この際、相生橋は落橋から免れたうえに何とか通行出来る状況であった[16]ことに加え、下流側の本川橋が渡れない状況[17]となったため、西部あるいは北部へ向かって、大勢の被爆者が渡って逃げた[17]。中島町の燃料会館(現在の広島市レストハウス)地下にいて、被爆直後における爆心地附近の状況を知るほとんど唯一の生き証人となった人物は、この橋の連絡橋を渡り西へ逃げている[13]福屋百貨店(爆心地から710m)付近で被爆した[† 4]は西進してこの橋を渡り本川橋西詰(橋桁の下とも)で力尽きてうずくまった。彼はその後似島の病院に収容されたが、翌7日午後4時過ぎに絶命した。被爆当日中国軍管区司令部に収監されていたアメリカ人捕虜の死体は、この橋の東詰めの電柱に括り付けられ晒し者にされた[19][20]。その後彼は葬られ、原爆供養塔に遺骨が納められた[19]

この橋東詰は通行に困難な状況であったが被爆同日から瓦礫撤去作業が行われている[19]。市内は大きな建物は壊滅していたため、約3km離れている皆実からこの橋が間近で見れる状況だった[21]

橋の被害状況

被爆後のジオラマ。球体は爆心を表す。
被爆後のジオラマ。球体は爆心を表す。
一般的な鈑桁橋の断面。 1.全幅 2.有効幅員 3.高欄 4.地覆 5.歩道 6.縁石 7.路肩 8.車道 9.舗装 10. 床版 11.主桁
一般的な鈑桁橋の断面。
1.全幅 2.有効幅員 3.高欄 4.地覆
5.歩道 6.縁石 7.路肩 8.車道
9.舗装 10. 床版 11.主桁

その当時市内に架橋されていた主要41橋のうち唯一この橋だけ[22]、欄干が破壊され川に落下すると同時に、鉄筋コンクリート床版が最大で1.5mほど浮き上がって破壊[4]される現象が起きている。そこから今日では、被爆当時発生した衝撃波は橋を上から圧迫しただけでなく、本川の水面に反射し下からも圧迫し[† 5]ため、波打つ挙動となったと考えられている[23]

ちなみに、これは相生橋が爆心地から近距離だったことに加え当時の橋の構造に原因がある。軌道と車道および歩道の4つの境界部分で床版内の横方向の鉄筋が当初から分断されていて[4]、衝撃波による外圧がかかった時に境界部分の床版は鉄筋で耐えることが出来ず破断し[† 6]、車道・歩道がおのおの浮き上がる現象が発生した。主な破壊状況は以下のとおり。

併用橋
  • 車道および歩道の床版は浮き上がり上流側に移動し落下した[4]
    • 上流側:歩道部分は1.2m、車道部分は0.4m上流側に移動。一部は1.5m浮き上がる。
    • 下流側:歩道部分は0.4m上流側に移動、車道上に落下した。車道部分は移動せず。
  • 軌道部分の床版は主桁上部に定着していたため移動は無かったが、無数の亀裂が発生していた。電車運転再開後は振動により亀裂がさらに進行し危険な状況だった[4]
  • 欄干(高欄)は、埋め込まれたI型鋼がせん断され[17]、両側共に川に落下した[4]
  • 一部支点部分の主桁が若干S字状に変形した[† 7][4]が、主桁自体はほとんど無事だった。よってその後の復旧工事の際に桁の補修はされていない[4]
  • 一部に亀裂が生じたが橋脚の被害はほとんどなく[4]、この付近のみ間知石積の護岸が6箇所崩壊したものの橋台も被害はなかった[22]
連絡橋
  • 原爆戦災誌および土木学会誌共に破壊状況が記述されていないことや被爆後に渡った人物がいること、当時の記録映像で欄干がなくなっていると確認できることから、欄干は併用橋と同様に川に落下したものの、その他は深刻な被害はなかったようである。

復旧工事

夕焼けの相生橋と原爆ドーム(2008年)。
夕焼けの相生橋と原爆ドーム(2008年)。
護岸整備前の元安川(1996年)。当時はこの位置にボート屋があった。
護岸整備前の元安川(1996年)。当時はこの位置にボート屋があった。
相生橋を通る路面電車(2007年)。
相生橋を通る路面電車(2007年)。

この橋は市内有数の交通の要地であったことから早急に復旧を開始、同年9月7日には広電本線が八丁堀から己斐間まで再開した[10]ため、広電を通しながらの工事が行われた[4]。工事手順[4]として、

  1. 下流側車道に仮設の単線軌道を敷設、電車と歩行者を下流側で通行させ、車は全面通行止め。
  2. 上流側歩車道および既存複線軌道を撤去、鉄筋コンクリート床版を新規施工し、複線軌道を新規敷設。
  3. 電車を全面開通、歩行者は上流側歩道で通行させ、車は全面通行止め。
  4. 下流側の仮設単線軌道を撤去、残り下流側歩車道の鉄筋コンクリート床版を新規施工。

「原爆と平和」を象徴する橋として市民から要望された[4]ことに加え、「原爆記念保存物」として観光利用も期待されていた[25]こともあり、欄干や親柱に原爆死没者慰霊碑にも用いられた庵治石が採用される[26]など復旧費用がかさみ、事業費は跳ね上がった。工事は戦災都市復興事業として行われ、1949年(昭和24年)に全面復旧した[4]。補修総事業費は当時で530万円[4]

以降

戦後、補修しながらも長く供用されていた。1977年(昭和52年)から国の太田川高潮対策事業に伴い護岸整備が始まった[† 3][15]

老朽化と高潮対策事業に伴う護岸整備に伴い1983年(昭和58年)10月新しく架け替えられた[† 7][27]。この際、橋脚を全撤去し併用橋側は6基から4基に連絡橋側は橋脚なしとなり、併用橋は新しく鋼鈑桁橋で、連絡橋は支間長が長くなることから剛性を高めるため鋼箱桁橋に変更され、2橋共に幅員が拡幅された。また、広電の架線柱がT字型のセンターポールに変更されている。(現在、広電市内線において、センターポール方式の架線が引かれているのは、この橋の上と宇品線の一部区間だけである)

2008年(平成20年)4月1日、道路管理者が国土交通省から市に移管され、国道54号から国道183号に変更された。

親柱/橋碑

親柱3代
初代親柱(右側)と旧相生橋碑(左側)。
2代目親柱。
現親柱および橋面。
橋名板碑

親柱が3つとも現存している。

  1. 初代:原爆ドーム横の初代の木橋が架けられた場所に初代親柱と旧相生橋碑が建立されている。初代親柱は1978年架橋の際に建立、初代の木橋はここから慈仙寺鼻に向かってまっすぐ架けられた。旧相生橋碑は木橋が完全撤去された1940年建立[28]。共に被爆遺構で被爆により一時は紛失したが見つかり現在位置に戻された。
  2. 2代:中島町慈仙寺鼻にある2代目親柱。これは1945年被爆後、復旧工事の際に現親柱の位置に再建されたものである。1983年現橋架替時に現在地に移設。
  3. 3代(現在):1983年現橋架け替え時に設置。橋名は灘尾弘吉揮毫。写真は2005年のもの。

原爆ドーム横の初代親柱の傍らには「橋名板碑」が置かれている。これは被爆後に補修された2代目の橋の橋名板を、現橋架け替えの際に再利用したものである。

周辺

相生橋(左)と原爆ドームと元安橋(右)

東詰に原爆ドーム・広島商工会議所・広島市中央公園・広電原爆ドーム前駅などがある。護岸整備されており、こちら側のみ橋の下をアンダーパスで歩いて通れる。上流側は市民球場跡地再開発に伴い、再整備が予定されている。道沿いにそのまま東へ進むと市内中心部である紙屋町交差点となる。

西詰に広島市立本川小学校・広電本川町駅などがある。南詰は広島平和記念公園へと続く。

元安川下流側に河川遊覧船乗り場があり、船でこの橋の下を通る遊覧コースがある。

脚注

注釈
  1. ^ 当時の城下町の状況は、広島城が所蔵する『広島城下絵屏風』や『芸州広島図』で確認できる[5]
  2. ^ 橋上で被爆した後、他の人を救護していた最中に絶命した人物もいる[11]。住友銀行広島支店「人影の石」から原爆による熱線で人体が蒸発したという風説が存在するが、少なくとも原爆戦災誌にはこの橋上でその現象が起きたと記載されていない。米国戦略爆撃調査団の報告書では「爆心地付近の死体は熱線で炭化していた」[8]のみで、消え去ったとまで書かれていない。
  3. ^ a b 建設省(当時)は1977年から1999年まで周辺の護岸整備工事を行ったが、河床や護岸から遺骨は発見されていない[15]。被爆後河原で死体が焼かれたが、地元住民がほとんどの遺骨を原爆供養塔に納めていたため発見されなかったと指摘されている[15]
  4. ^ 原爆戦災誌では李が被爆したのは相生橋付近とされている[18]
  5. ^ 他にも、爆発に伴い爆心が真空状態となり吸引力が発生したとも推測された[4]が、現在は川面反射説で統一されている。
  6. ^ 爆心地に最も近い元安橋(爆心地から130m)は上からのみ衝撃波がかかる位置であったため床版は無事だった。同じく爆心地近くの本川橋(爆心地から410m)は衝撃波により橋全体が動き橋台から桁が外れた[17]ため、もし相生橋も床版が破断せず橋全体が浮き上がり主桁まで動いていたら更に被害が拡大した可能性もある。
  7. ^ a b 変形した旧橋の桁の一部は現在広島平和記念資料館に保存されている[24]
出典
  1. ^ a b 締切間近!第1回「ひろしま通」認定試験”. 広島市. 2011年5月1日閲覧。
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  3. ^ a b 広島市路線網図提供システム
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 土木学会
  5. ^ しろうや! しろうや! 広島城” (PDF). 広島城. 2011年5月1日閲覧。
  6. ^ 原爆戦災誌、275頁
  7. ^ 原爆戦災誌、271頁
  8. ^ a b c 標的にされた相生橋 「水の都」の繁華街 火災に崩れ落つ”. 中国新聞 (1999年7月13日). 2011年5月2日閲覧。
  9. ^ 原爆戦災誌、35頁-36頁
  10. ^ a b ヒロシマ壊滅の記録”. 広島市. 2011年5月1日閲覧。
  11. ^ 原爆戦災誌、174頁
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  13. ^ a b 原爆戦災誌、280頁
  14. ^ a b 原爆戦災誌、261頁
  15. ^ a b c 川に今も被爆者の遺骨あるの?”. 中国新聞 (2007年6月25日). 2011年5月2日閲覧。
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  17. ^ a b c d 原爆戦災誌、252頁
  18. ^ 原爆戦災誌、226頁
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  20. ^ 爆死した米兵捕虜目撃”. 中国新聞 (1997年7月28日). 2011年5月2日閲覧。
  21. ^ 原爆戦災誌、413頁
  22. ^ a b 原爆戦災誌、40頁
  23. ^ 平和資料館、衝撃波と橋
  24. ^ 平和資料館
  25. ^ 広島の復興と原爆遺跡”. 広島市. 2011年5月2日閲覧。
  26. ^ 復興の礎/被爆の街に庵治の技”. 中国新聞 (1999年5月18日). 2011年5月2日閲覧。
  27. ^ 今日の相生橋”. ヒロシマ新聞. 2011年5月2日閲覧。
  28. ^ 平和公園 被爆前からある物は?”. 中国新聞 (2008年4月23日). 2011年5月2日閲覧。

参考資料

関連情報

第6回広島平和音楽祭 ゴールデン・メイプル賞。 庄野公式webのディスコグラフィには掲載されていない。「ゴールデン・メイプル賞」は、同音楽祭を主催した広島テレビ放送により一般から公募された詩の最優秀作に授与されたものだった。ジャケット写真には同音楽祭で歌唱した際の物が使われた。

関連項目

外部リンク