常盤橋 (広島市)

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常盤橋
東詰から見た常盤橋
基本情報
日本の旗 日本
所在地 広島県広島市
左岸:南区大須賀町 - 右岸:中区東白島町
交差物件 太田川水系京橋川
座標 北緯34度24分13.14秒 東経132度28分3.47秒 / 北緯34.4036500度 東経132.4676306度 / 34.4036500; 132.4676306
構造諸元
形式 4径間連続鈑桁橋
材料 上部工:鋼橋;下部工:RC構造;基礎工:?
28.6m
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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広島県道37号標識
広島県道84号標識
1930年ごろの広島市。京橋川を渡る鉄道橋の下流側が常盤橋。
1930年ごろの広島市。京橋川を渡る鉄道橋の下流側が常盤橋。
1945年被爆後の広島市。上地図と位置関係を確認。落橋していないとわかる。
1945年被爆後の広島市。上地図と位置関係を確認。落橋していないとわかる。

常盤橋(ときわばし)は、広島県広島市京橋川に架かる道路橋

概要[編集]

JR広島駅から市内中心部へ向かうときに渡る橋の1つ。

城北通り筋(広島県道37号広島三次線および広島県道84号東海田広島線)にかかる橋。西詰は市内中心部の白島にあたり、最寄に広島電鉄白島線白島停留場がある。

上流にJR山陽新幹線および山陽本線の鉄橋があり、右岸護岸は東部河岸緑地が広がる。下流に縮景園、少し先に下ると被爆橋梁の栄橋がある。

正式表記は「常盤橋」であるが、#原爆戦災誌などの被爆資料や橋銘板では旧橋名の「常葉橋」が用いられているため、現在でも常葉橋のほうも多く使われている。また、市の資料などでは「常磐橋」も使われている。

歴史[編集]

藩政時代、防犯のため城下には架橋規制がしかれており[1]、京橋川には上流にある神田橋と下流にある京橋のみであった。また当時、本川(現・旧太田川)分流点から下流にある猿猴川分流点までの京橋川は「神田川」と呼ばれていた。この位置には渡し場が設けられていた[2]

明治時代に入ると架橋規制は解かれ、1879年(明治12年)この地に木橋として架橋[2]、「常葉橋」と名前が付いた。大正時代に入ると地元では「常盤橋」の名が使われるようになる。1911年(明治44年)に架け替えられたが[3]1923年(大正12年)6月洪水により破損した[4]

1928年(昭和3年)6月に水害により流出してしまった[5]ため、翌1929年(昭和4年)に鉄筋コンクリート桁橋として再架橋される[2]。その後、西詰に広島市警防団白島分団本部が置かれるようになる[6]。当初は鉄製高欄を用いていたが、太平洋戦争にはいると金属類回収令によりすべて軍事供出され、石製高欄に替えられた[2]

1945年(昭和20年)8月6日原爆被災(爆心地より約1.55km)。橋床のアスファルトが熱線により自然発火、石製高欄は川へ落ちたものの、落橋はしなかったため、避難者はここを渡って市内中心部から東へと逃げて行った[7]。ただ、西詰の警防団本部にあったガソリンが炎上し猛火となったため、一時渡れないときもあった[7]

その後修理され使われていたが掛け替えが決定、1975年(昭和50年)に一部供用を開始、2年後に旧橋が全撤去され、1978年(昭和53年)に現在の形となった。

周辺空中写真[編集]

1974年架橋工事中。下流側が新橋で上流側が旧橋。
1981年架橋後。現橋。
常盤橋周辺。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。下が常盤橋で上がJR山陽本線および山陽新幹線。

脚注[編集]

  1. ^ しろうや!広島城 第20号” (PDF). 広島城公式. 2014年3月13日閲覧。
  2. ^ a b c d 広島の歴史的風景” (PDF). 広島県立文書館. 2014年3月13日閲覧。
  3. ^ 広島案内記』吉田直次郎、1913年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9478022014年6月20日閲覧 
  4. ^ 太田川水系の流域および河川の概要” (PDF). 国土交通省河川局. 2014年3月13日閲覧。
  5. ^ 太田川放水路”. 中国建設弘済会. 2014年3月13日閲覧。
  6. ^ 原爆戦災誌, p. 317.
  7. ^ a b 原爆戦災誌, p. 320.

参考資料[編集]

関連項目[編集]