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「法解釈」の版間の差分

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'''法解釈'''(ほうかいしゃく)とは、各種の[[法源]]について、その内容を確定することをいう<ref>我妻(1965)27頁</ref>。
'''法解釈'''(ほうかいしゃく)とは[[法 (法学)|法]]を具体的事案に適用するに際して法の持つ意味内容を明らかにする作用のことをいう。立法に際して、現実に発生するすべての事態を想定することは困難または不可能であるから、その文言はある程度抽象的とならざるを得ない。したがって、法を適用するに際しては具体的事案と問題となる法との間にこれを適用しうる関係があることを示さねばならない。ここに法解釈の必要性が認められる。文献解釈としての論理的、そして言語上の整合性という事象論と、法の現実問題に対する適用性の目的論の対立が存在するため、法解釈の「客観性」がなんであるかは法哲学における根本的問題の一つである。


== 概要 ==
==法解釈の前提と原理==
[[文字]]に表された抽象的[[法]]則は、一見極めて明瞭なようでも、千変万化の具体的事象に適用するに当たっては、必然的に多くの[[解釈]]上の疑義を生む<ref>我妻(1965)27頁</ref>。故に、[[法律]]を[[暗記]]してもそれだけでは役に立たず、ここに法解釈の必要が生じる<ref>我妻(2005)1頁</ref>。
法解釈を行う前提として、まず文言に忠実な法令の適用が検討される。法令を制定する権限は[[立法権]]にあり、法を適用・運用する者には立法権者が定めた法令の文言に忠実な法の適用・運用が第一次的に求められる。その結果、文言が不明確・結果が不合理等の場合に初めて法解釈が問題となる。


===言語不明確性===
== 法解釈対象 ==
法源は[[法典]]を始めとする明文の制定法に限られないから、[[慣習法]]や[[判例法]]についても、解釈は必要である<ref>我妻(2005)139頁</ref>。{{main|法源}}
言語は本来的に不明確な面を持つ。たとえば「人」という文言がどこまでのものを指すのか、死者は「人」にあたるか、会社は「人」にあたるか、「人」という文言だけからは一義的には確定できない。法令の文言も本来的に不明確・あいまいな面を持っている。


===結果の不合理性===
=== 慣習法 ===
慣習法とは、[[慣習]]に基づいて成立する法のことをいう<ref>長谷川(2008)7頁</ref>。
法令を文言に忠実に適用したのでは不合理な結果が生じる場合も多い。立法者が世の中のあらゆる可能性を網羅できるわけではなく、時の経過により実態にそぐわなくなることを完全に追従して修正することは実質的に不可能である。立法者の当該法令の制定にあたっての意図(立法者意思)は解釈の際の1つの指針とはなるが、結果が不合理となる可能性から決定的要素とはいえない。


慣習法の解釈においては、慣習そのものが本来明確なものではないから、その存在、内容などをある程度はっきり確定させること、また成文法と調和させることが重要な仕事になる<ref>ラートブルフ(1964)45頁、我妻(2005)139頁、[[民法 (日本)|日本民法]]92条、[[法の適用に関する通則法]]3条等参照</ref>。(→[[#成文法]])
===実際上の必要性と条文上の許容性===
上記言語の不明確性と結果の不合理性が問題となった際に法令をどう解するのが適当かを探究・議論するのが法解釈である。解釈において何が好ましい結果なのか、どう解釈すれば好ましい結果をもたらすかは健全な理性によって検討される。好ましい結果を解釈によって導かなければならない状況を「実際上の必要性」であり、それが当該解釈の「実質的理由」となる。


慣習法と成文法の調和の仕方を巡っては、成文法の優位を説き法と道徳の峻別を重視する'''[[法実証主義]]'''と、成文法と慣習法の連続性を強調して両者の共通点に着目する'''[[自然法論]]'''の対立があると説明されることがあるが<ref>長谷川(2008)428頁</ref>、[[歴史法学]]の立場から自然法論を否定する論者が慣習法の尊重を説くこともあり<ref>星野(1970)165頁、穂積陳重「英佛獨法律思想の基礎」『穂積陳重遺文集第二冊』165頁([[岩波書店]]、1932年)</ref>、また逆に自然法論者が不文の慣習法の排除を説くこともあり、両者の対立が必ずしも対応するわけではない。<ref>星野(1970)166頁</ref>(→[[#反対解釈・類推解釈]])
しかし、法の適用・運用である以上、いかなる解釈も法令の文言に根拠を持たねばならず、実質的に正しいと判断されても文言との乖離が不合理に大きい場合には立法による解決が必要ではないかが問われる。解釈が条文上に根拠を持つといえる程度のものであるかを「条文上の許容性」といい、根拠があることを「形式的理由」という。


現に、自然法論の強い影響下にあった[[18世紀]]から[[19世紀]]にかけての[[フランス]]においては、紛争はことごとく法解釈の枠にはめて規律しようとしていた<ref>碧海(2000)149頁</ref>。一方、[[ドイツ]]においては、1794年に成立した[[プロイセン]]民法典が同様の見地から詳細かつ網羅的な立法を試みたが挫折し<ref>ラートブルフ(1964)181頁</ref>、法の歴史的必然性を強調する歴史法学派により、フランスとは逆に、自然の慣習法の発達に多くを委ねるべきとの立場が有力になった<ref>ラートブルフ(1964)46頁</ref>(→[[#立法的解釈の問題点]])。歴史法学派が[[法典論争]]で統一法典の編纂に反対したのはこのためである<ref>石坂(1919)93頁</ref>。ところが、19世紀末から[[20世紀]]にかけて、[[ナポレオン法典]]の老朽化と[[ドイツ民法典]]の制定によって、両国の解釈態度は逆転し始めたのである<ref>石坂(1919)93頁</ref>。(→[[#論理解釈]])
===司法権との関係===
他方で、法の適用に関する妥当性を判断する権限は[[司法権]]であり、司法権は一般に裁判所に属することから、裁判所が法解釈の最終的権限を有することとなる。


一方、英米法特にイギリス法は、このような大陸法における法典化運動、すなわち慣習法の全面的な制定法化には従わなかった。かつてドイツの歴史法学派が主張したように、成文法の制定は慣習法の個々の点について生じた誤りを是正するためにのみなされるべきだと考えられたのである<ref>ラートブルフ(1964)188頁</ref>。{{main|コモン・ロー}}
日本においては、[[日本国憲法|憲法]]上、法の適用について最終的な判断を行う権限は[[司法権]]の属する裁判所にあり、法解釈の最終的権限は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]にあると考えられる。このことから、少なくとも最高裁判所の[[判例]]がある問題については判例を視野に入れた議論を行わなければならない。


もし成文法を重視する主義に立てば、法源の明確さゆえに'''法的安定性'''の確保に資する一方、慣習法を重視する主義によれば、柔軟な解釈によって、より'''具体的妥当性'''を実現しやすいということはできる<ref>星野(1970)153-184頁</ref>。[[刑事法]]分野における[[罪刑法定主義]]の下では、慣習法や条理を独立の法源とすることは許されないが<ref>ラートブルフ(1964)162頁、大塚(2008)11頁、長谷川(2008)49頁</ref>、成文法規の解釈に当たって慣習や条理を考慮することまで排除されるわけではない<ref>[[裁判所職員総合研修所]]『刑法総論講義案』三訂補訂版18頁([[司法協会]]、2007年)</ref>。また[[行政法]]分野においても、現に存在している「法律による行政の原理」による国家権力のコントロールが重要になるから、慣習法の成立する余地は少なく<ref>藤田宙靖『行政法入門』第5版37-71頁(有斐閣、2007年)</ref>、特に[[税法]]分野では[[租税法律主義]]が妥当する<ref>長谷川(2008)49頁、[[日本国憲法第84条]]、[[日本国憲法第30条]]参照</ref>。租税法律主義の趣旨を損なわない範囲で、規定の細部を[[政令]]などに委任することが許されるだけである<ref>伊藤(1995)476頁</ref>。[[民事法]]分野においても、国民の権利や利益に関するものである以上<ref>伊藤(1995)560頁</ref>、[[裁判]]はなるべく[[立法]]府の適法な手続きによって制定された成文法によるべきではないのか、そもそも[[法]]とは何であるかの問題が横たわっている<ref>我妻(2005)135頁、石坂(1919)111-138頁</ref>。{{main|慣習法}}
===立法による解決===
法解釈により問題が一応解決するとしても根本的な解決は立法によってなされなければならない。[[権力分立]]制の下では、司法権による法解釈は立法権と抵触しない限度で立法の不十分さを補いうるに過ぎない。


==法解釈==
=== 判例 ===
裁判によって明らかにされた規範が法源としての効力を持つに至ったとき、これを判例という<ref>我妻(2005)127頁</ref>。判例の解釈については、個々の具体的[[裁判]]例から一般的に妥当する射程を明らかにし、類似の事案から[[帰納的]]に、一定の抽象的法則を構成することが必要である<ref>我妻(2005)139頁</ref>。
*立法者意思解釈・法律意思解釈
*[[概念法学]]・[[自由法学]]


判例を法源としてどれだけ尊重し、判例法としての事実上又は[[法的拘束力|法的な拘束力]]を認めるかについては、どのような行為があればどのように法的に判断されるかについて一般人が不安をもつ必要のない状態、即ち'''法的安定性'''を脅かすことのないよう<ref>『新版新法律学辞典』1106頁(有斐閣、1967年)</ref>、かつ個々の事案についての'''具体的妥当性'''を実現させるという、矛盾・対立する要請をいかに調和させるかの問題でもある<ref>[[中野次雄]]編『判例とその読み方』改訂版16頁(有斐閣、2002年)</ref>。特に[[イギリス]]では法的安定性の確保のために上級審の判例遵守(stare decisis)の原則が立てられている<ref>ラートブルフ(1964)188頁</ref>。
==具体的方法==
法解釈にはその側面によって大きく文理解釈と論理解釈があり、両者の解釈は必要に応じてあわせて用いられる。


[[英米法]]では、勝訴・敗訴や違憲・合憲といった判決の結論それ自体や、判決文が言及する一般論の全てが法源としての拘束力を持つものとは考えられておらず、一般に、判例とは判決の結論を導くうえで重要な意味のある法的理由付け、即ち「判決理由」(レイシオ・デシデンダイ)のことを言い<ref>長谷川(2008)52頁、[[芦部信喜]]([[高橋和之]]補訂)『憲法』第4版374頁(岩波書店、2007年)</ref>、そのような意味を持たない[[傍論]]との区別の手法が発達している<ref>伊藤(1993)47頁</ref>。これに対し、大陸法においては直接の法源とはならないが<ref>伊藤(1993)43頁</ref>、成文法を補充するものとして、事実上の法源としての一定の拘束力を認めることができる<ref>伊藤(1993)44頁</ref>。この範囲には争いがあり、[[フランス法]]や[[ドイツ法]]と比べても[[最高裁判所]]の判例の拘束力を重視する[[日本法]]においても<ref>伊藤(1993)45頁</ref>、英米法と同様判例はレイシオ・デシデンダイのみに限られると解するのが通説であるが<ref>長谷川(2008)52頁、芦部・前掲憲法374頁、[[田宮裕]]『刑事訴訟法』新版492頁(有斐閣、1996年)、『最高裁判所判例解説刑事篇昭和二十九年』94頁(法曹会、1954年)</ref>、実際には厳密に区別されて運用されているわけではなく、最高裁判所の傍論もまた下級審の裁判実務に指導的な役割を果たし、事実上の法源として機能する事が少なくない<ref>伊藤(1993)44頁、『最高裁判所判例解説民事篇平成七年』912頁(法曹会、1995年)</ref>。
===文理解釈===
法令文の字句や修飾関係などを解釈する手法である。
法律制定直後にその意味を明らかにするため行われる。


   ''詳細は[[判例]]・[[傍論]]を参照''
===論理解釈===
解釈の技術としては拡張解釈、縮小解釈、勿論解釈、類推解釈、反対解釈などがある。


=== 条理 ===
解釈の手法としては次のようなものがある。ここではきわめて親しみが持てそうな身近な例として、「靴はきちんとそろえて置くこと」という張り紙がしてあった場合を想定して解説する(もちろんこれは国家制定法ではない)。
条理とは、物事の筋道であり、人間の理性に基づいて考えられるところのものをいう<ref>我妻(2005)133頁</ref>。


ある事件について適用すべき制定法の不備・[[欠缺]]があり、適当な慣習法も判例法も無い場合に、この条理に基づく裁判をすることができるかの問題が生じる<ref>長谷川(2008)52頁、我妻(2005)134頁</ref>(→[[#成文法]])。英米法において、[[ローマ法]]はしばしば条理として採用されたが<ref>前掲・穂積陳重遺文集第二冊93頁</ref>、成文法がある程度完備されている場合には、単独で条理を法源とすべきではなく、成文法の解釈の枠内で、論理解釈上条理を取り込むことによって、'''法的安定性'''と'''具体的妥当性'''の調和をはかることができる等と主張される<ref>石坂(1919)82頁</ref>。(→[[#論理解釈]])
====類推解釈====
[[類推]]解釈(るいすいかいしゃく)とは当該事項に関し直接規定する条文がない場合にほかの同種の条文を類推適用する技術をいう。


もっとも、[[スイス民法典|スイス民法]]1条等、明文で条理の法源性を認めている場合もある<ref>石坂(1919)82頁、我妻(2005)135頁</ref>。[[日本]]でも、[[明治8年]]には、[[民法典]]が制定されておらず、統一的・近代的な法慣習も無かったことから、明治八年太政官布告百三号第三条において、「民事ノ裁判二成文ノ法律ナキモノハ[[習慣]]二依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ」とされ、これに基づく裁判が為されたが<ref>我妻(2005)135頁</ref>、何をもって条理とすべきか紛糾した。フランス法系の法学校で学んだ者はフランス法を条理であるとし、[[イギリス法]]系の[[法学校]]で学んだ者はイギリス法を条理として援用し、その不統一が問題となったのである<ref>[[梅謙次郎]]「法典二関スル話」国家学会雑誌12巻134号336-338頁</ref>。実際に[[施行]]されることのなかった[[旧民法]]が[[公布]]されたときにおいても、裁判官や学者がこれを事実上の法源として利用・研究したのはこの太政官布告のためであった<ref>杉山直治郎『洋才和魂の法学者・ボアソナード尽瘁半生の生涯』帝国大学新聞昭和11年11月26日号</ref>。
今回の例の場合、[[サンダル]]履きの人や[[長靴]]履きの人がこのルールを守るべきかというのは法的には問題となる。サンダルや長靴が「靴」という概念に包摂されるかどうかは明らかではないからである。この場合、法律家は類推解釈という手法を使い、「靴はきちんとそろえて置くこと」というルールを類推適用する。このルールは要するに「脚下照顧(足元をきちんとせよ)」というより一般的な規範の一例であると考える。つまり、「靴は云々」から「脚下照顧」を導く。さらに、「脚下照顧」という規範からより具体的な「サンダルをきちんとそろえて置くこと」「長靴をきちんとそろえておくこと」などの規範を導く。こうして、法律家はサンダル履きの人や長靴履きの人にもルールを守らせるのである。もともと、[[パンデクテン方式|パンデクテン法学]]が多用した手法である。今日では[[民法]]の[[権利外観法理]]などでみられる。[[刑法]]では[[罪刑法定主義]]の観点から認められていない。
憲法解釈においては、類推適用をポジティブなもの、拡大解釈をネガティブなものとして扱うことがある。ただ、両者の境界線があいまいとなる場面が多く、学者によってその解釈が異なる。


====勿論解釈====
=== 成文法 ===
[[大陸法]]系において最も重要な任務は、[[文字]]によって明示され、一定の手続きを経て制定された[[成文法]](制定法)の解釈である<ref>我妻(2005)139頁、長谷川(2008)7頁</ref>。成文法規は、[[主権]]者の委任により、[[国会]]の[[立法権]]に基づき、判断の恣意性を排除し、客観性を保障する機能を持つべく制定されたものであり<ref>ラートブルフ(1964)170頁、伊藤(1995)560頁、[[日本国憲法前文]]・[[日本国憲法第1条|憲法1条]]・[[日本国憲法第43条|43条]]・[[日本国憲法第14条]]・[[日本国憲法第41条]]・[[日本国憲法第76条|第76条]]3項参照</ref>、法規自体がひとつの利益衡量に基づく結果の集積ともいえるものであるから、客観的な条文を離れていたずらに理論学説に走り、あるいは法律の立場を離れた生の価値判断、いわゆる'''裸の利益衡量'''のみによって法律を議論することは厳に慎まなくてはならないとしばしば警告される<ref>裁判所職員総合研修所『新訂民法概説』三訂版12頁(司法協会、2005年)、我妻栄「私法の方法論に関する一考察」『[[ジュリスト]]』563号180頁([[有斐閣]]、1980年)、我妻(2005)32-42頁、我妻(1953)536、560頁、星野英一「民法の解釈のしかたとその背景(上)」『[[法学教室]]』95号54頁(有斐閣、1988年)、[[加藤雅信]]『新民法大系I民法総則』第2版53頁(有斐閣、2005年)、石坂(1919)70-82頁、富井(1922)92、101頁、香城利麿「利用者から見た法解釈学説」『ジュリスト』655号299頁(有斐閣、1978年)</ref>。
勿論解釈(もちろんかいしゃく)は類推解釈の一種とされる。例えば、「靴はきちんとそろえて置くこと」と定められていた場合に、「それよりも大きくてかさばる長靴は、'''もちろんのこと'''そろえて置かなければならない」と解釈すると勿論解釈となる。


もっとも、立法府が制定した法律を補充するものとして、政令・[[規則]]等の[[命令 (法律)|命令]]や[[条例]]等があるから、これらを含めた[[法令]]全体が法解釈の対象になる<ref>長谷川(2008)7頁</ref>。
====反対解釈====
反対解釈(はんたいかいしゃく)とは、「靴をきちんとそろえて置かない者'''であれば'''、100円を罰金として徴収'''する'''」と定められていた場合に、反対に「靴をきちんとそろえて置かない者'''でなければ'''、100円を罰金として徴収'''しない'''」と解釈することである。あるいは「靴をきちんとそろえて置かない者'''だけ'''から、100円を罰金として徴収する」と解釈することでもある。


なお、[[行政]]機関が統一的取り扱いの確立のために発する[[訓令]]・[[通達]]などのいわゆる[[先例]]は、一定の権威を有し、実務上無視できない大きな機能を果たすものの、法的には行政庁の内部規範に過ぎないことから、裁判官を拘束する法令には含まれない<ref>長谷川(2008)60-62頁</ref>。もっとも、行政庁における長年にわたる取扱例が、広く一般[[国民]]の間に法的確信を得るに至った場合、行政先例法と呼ぶ一種の慣習法として、一定の法的拘束力が認められる場合がある<ref>長谷川(2008)50頁</ref>。(→[[#慣習法]]){{main|法令}}
反対解釈は他の論理解釈と比較して法令文の字句に忠実であることから文理解釈に含める見解もある。


[[日本語]]で法解釈というと通常は成文の法令解釈を意味するため<ref>長谷川(2008)4頁</ref>、以下では大陸法を中心に記述する。
形式的な解釈手法であるため法的安定性に資する。


法令解釈の方法については、論者によりバリエーションがあり用語法も一定しないが、概ね以下のように分類することができる<ref>我妻(1965)27頁を中心に、石坂(1919)33頁、富井(1922)91頁、松波ほか(1896)47頁、デルンブルヒ(1911)30頁、鳩山(1923)14頁</ref>。
なお、[[論理学]]ではこのような形式の推論を「前件否定の虚偽」と呼び、「正しくない(=恒真命題ではない)論理」とみなす。例えば「[[ネズミ]]は[[哺乳類]]である。ゆえにネズミではないなら哺乳類ではない」は偽となる。


====拡張解釈====
== 立法的解釈 ==
立法的解釈<ref>富井(1922)91頁、松波ほか(1896)47頁</ref>、有権的解釈<ref>デルンブルヒ(1911)30頁、石坂(1919)85頁、鳩山(1923)14頁</ref>、法規的解釈とは<ref>長谷川(2008)404頁</ref>、[[立法]]者自ら(立法によって)ある法律の意義を確定することをいう。
拡張解釈(かくちょうかいしゃく)とは法文中の言葉を通常の意味以上に拡張して解釈する手法をいう。'''拡大解釈'''(かくだいかいしゃく)とも呼ばれる。


いわば解釈の立法的解決である<ref>長谷川(2008)404頁</ref>。[[ドイツ民法|ドイツの民法典]]大改正はその典型例である<ref>[[内田貴]]『債権法の新時代「債権法改正の基本方針」の概要』32頁(商事法務、2009年)</ref>。[http://www.ron.gr.jp/law/law/minpo_se.htm 民法施行法]による場合など、当該法律制定後になされることが多く、その目的は規定の法律がその後付加した意義を最初から有していたものとして[[裁判官]]を拘束することにあり、実際に最初からそのような意味を有していたかどうかは問題ではないため、[[訴訟]]の未確定の場合においても遡及すると考えられている<ref>デルンブルヒ(1911)32頁、富井(1922)91頁</ref>。ただし、罪刑法定主義の下においては、遡及処罰禁止の原則が妥当する<ref>ラートブルフ(1964)162頁、大塚(2008)11頁、裁判所職員総合研修所・前掲刑法総論講義案21頁、[[日本国憲法第39条]]</ref>。
刑法では、「厳格な法律なくては刑罰なし(nulla poena sine lege stricta)」という[[罪刑法定主義]]があるため類推解釈は禁止されている。先ほどの規範に刑罰を加え、「靴をきちんとそろえて置かない者からは、100円を罰金として徴収する」とする。こうなると、サンダルの人、長靴の人にルールを守らせるのは難しい。なぜなら、彼らは、「靴を云々」から、「靴以外をきちんとそろえて置かない者からは、罰金を徴収しない」という反対のテーゼを導くからである。このような状態は由々しいと考えた法律家は拡張解釈という手法をとる。それには、日常の用法を若干離れて、靴の本質に思考をめぐらし、「靴とは、足に履くものをいう」と定義する。そうすれば、サンダルも長靴も「靴」になる。こうして、法律家はサンダル履きの人や長靴履きの人にもルールを守らせることができる。


=== 立法的解釈の問題点 ===
第二次世界大戦前は拡大解釈を多用し不当に人権を侵害したことの反省から、拡大解釈をネガティブな言葉として使い分けしている学者もいる。
立法的解釈を重視するか、後述する学理的解釈に多くを委ねるべきかは成文法を中心とする大陸法における根本問題の一つである<ref>穂積(1890)第5編第6章</ref>。(→[[#学理的解釈]])


なぜなら、立法的解釈は、'''法的安定性'''の確保に資する一方<ref>[[大谷實]]=[[前田雅英]]「形式的犯罪論と実質的犯罪論」『法学教室』193号70頁(有斐閣、1996年)</ref>、過度に多用すると裁判実務における柔軟な解釈・運用が阻害されて'''具体的妥当性'''を害し<ref>内田・債権法の新時代72頁</ref>、更には[[学問]]の発展の妨げとなり<ref>杉山直治郎編『富井[[男爵]]追悼集』162頁富井発言(有斐閣、1936年)、[[富井政章]]の項参照</ref>、また条文が複雑化し、無用に長大なものとなって、かえって一般[[国民]]はおろか法律の専門家にさえ理解困難なものになってしまうおそれがあるからである<ref>民法改正研究会=加藤雅信『民法改正と世界の民法典』12頁(信山社、2009年)、富井男爵追悼集・166頁</ref>。特に、[[日本]]の[[会社法]]や[[旧民法]]については、立法的解釈への過度の傾斜であるとの批判が強い<ref>富井(1922)69頁、前掲富井男爵追悼集155-169頁、穂積(1890)23頁、梅・前掲国家学会雑誌12巻134号349頁、仁井田益太郎=穂積重遠=[[平野義太郎]]「仁井田博士に民法典編纂事情を聞く座談会」[[法律時報]]10巻7号25頁、[[龍田節]]『会社法大要』はしがき2頁(有斐閣、2007年)</ref>。もっとも、[[商法]]などの先端的・技術的な法律については、ある程度までは迅速・複雑な立法的解釈を重視せざるをえない面もあることが指摘されている<ref>穂積(1890)第五編第六章</ref>。特に税法の場合、前述のように租税法律主義が妥当するため、その規定は他の法律に比べ著しく詳細かつ具体的なものとならざるをえない<ref>伊藤(1995)476頁</ref>。(→[[#慣習法]])
====縮小解釈====
縮小解釈(しゅくしょうかいしゃく)は拡大解釈の反対の手法である。「靴はきちんとそろえて置くこと」と定められていた場合に、「靴」を革靴とスニーカーだけに限定した場合などは縮小解釈となる。いわゆる[[合憲限定解釈]]もこの縮小解釈の一種と考えられる。


== 学理的解釈 ==
縮小解釈の例には、ほかにも、「[[日本国憲法第9条]]のいう『戦力』には、自衛のための最低限の実力は含まれない」という憲法解釈などがある。
学理的解釈とは、'''[[学者]]'''をはじめとする学問上の努力によって、個々の解釈者が法令の意味を判断し、明らかにすることをいい、普通に法令の解釈といえば成文法規の学理的解釈を意味する<ref>長谷川(2008)404頁、我妻(2005)140頁</ref>。[[アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー|ティボー]]によれば、文字解釈([[ドイツ語|独]]:sprachliche Auslegung)と'''論理解釈'''(独:logische Auslegung)とがあると分析される<ref>石坂(1919)33頁</ref>。


====変更解釈====
=== 学理的解釈の問題点 ===
[[司法]]権は一般に[[裁判所]]の専権であるから<ref>伊藤(1995)559頁、[[日本国憲法第76条]]1項</ref>、個々の解釈者も現実社会において実際に通用している'''判例'''を無視して議論することはできないが、これをどこまで尊重すべきかは論者によって大きく異なる<ref>大谷=前田・前掲法学教室193号73-74頁</ref>。判例・実務の立場とかけ離れた学理的解釈は机上の空論となりがちであるし、反面、判例を追認するだけでは、新しい問題に対応できず、また学問の進歩も望めないからである<ref>香城・前掲ジュリスト655号298-299頁、我妻(2005)133頁、[[田宮裕]]「クラスルーム刑事訴訟法〔2〕刑事訴訟法における判例と学説」『法学教室』75号38-44頁(有斐閣、1986年)</ref>。学問は必ずしも現実の紛争を解決することを主たる目的とするわけではないので、学問と実務が一致するとは限らない<ref>香城・前掲ジュリスト655号299頁、藤田(2002)178頁、伊藤(1993年)19頁、伊藤(1995)初版はしがき</ref>。
変更解釈(へんこうかいしゃく)とは法令文の字句を多少変更した意味にとって解釈する手法である。法令の改廃が行われずにあまりにも事情が変わってしまったときに行われることがあるが、理想的には適切な改廃作業が第一に求められ、むやみにするものではないとされている。


=== 文理解釈 ===
例えば、玄関の前に「ここで、靴をきちんとそろえて置くこと」と張り紙がしてあったが工事によって玄関がその先に移動してしまったとする。その際に「ここ」を「その先の玄関」として解釈すると変更解釈となる。
文字解釈とは、文典解釈又は'''文理解釈'''(独:sprachwissenschaftliche Auslegung)ともいい、当該条文の文字の普通の意味に従うものである<ref>我妻(1965)27頁、石坂(1919)33頁</ref>。

もとより条文の解釈に当たっては、その文言の素直な[[国語]]的意味を尊重すべきであるが<ref>我妻(2005)140頁、星野(1970)11頁</ref>、立法に当たっては法文に意味内容を慎重に凝縮したものであるから、一言一句に十分注意して解釈しなければならないのは勿論<ref>松波ほか(1896)48頁</ref>、[[19世紀]][[フランス註釈学派]]等と異なり法の不完全性を認める以上<ref>富井(1922)71頁、富井政章『民法原論第三巻債権総論上』85頁(有斐閣書房、1924年)、[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946651/50 石坂(1919)78頁]</ref>、他の条文との整合性及び制度の趣旨・目的等を考慮した、後述する論理解釈をも併用しなければ解釈は完成しないと考えられている<ref>石坂(1919)33-36頁、松波ほか(1896)49頁、富井(1922)94頁、我妻(2005)142頁、デルンブルヒ(1911)34頁、星野(1970)8頁</ref>。

==== 文理解釈の問題点 ====
文理解釈にも問題はある。まず、もしもっぱら通俗的な語のみを法文に用いると、法令が漠然・冗長・不明瞭なものとなり余計な紛争を招きかねないために<ref>穂積(1890)第5編第6章</ref>、法令の用語は日常用語とは異なり、特有の専門用語も少なくない<ref>星野英一『民法概論I』改訂版51頁(良書普及会、1993年)</ref>。そのため、文理解釈においてもしばしば歴史的'''[[沿革]]'''に遡って字義を確定しなければならず、言語の多義性・抽象性と相まって<ref>長谷川(2008)409頁、碧海(2000)98-132、163頁</ref>、国語的な文理解釈が必ずしも容易かつ明確であるとは言えない<ref>富井(1922)93頁</ref>。

また、法令を字句のとおり厳格に解釈しようとする傾向は、古今東西を問わず特に新法実施に伴い発生しやすい[[現象]]であるが(→[[#慣習法]])、かえって'''具体的妥当性'''を欠いて当事者の[[権利]]を不当に害し、法律の趣旨を損なうおそれがあると指摘されている<ref>デルンブルヒ(1911)30頁、鳩山秀夫『債権法における信義誠実の原則』序文2頁(我妻栄執筆)(有斐閣、1955年)</ref>。論理解釈が必要とされる所以である<ref>富井(1922)94頁</ref>。

=== 論理解釈 ===
論理解釈とは、法令の文字のみにとらわれることなく、色々な道理、理屈を取り入れて解釈することをいう<ref>長谷川(2008)412頁</ref>。[[ローマ帝政]]時代において、[[ローマ共和制]]時代における厳格な文理解釈に相対して認められ、かつ発達したものである<ref>デルンブルヒ(1911)36頁</ref>。

論理解釈の内容は論者により微妙な違いがあるが<ref>星野・法学教室95号56、57頁</ref>、例えば、法律を一つの論理'''[[体系]]'''に構成し、各条文をそれぞれしかるべき地位において、これと調和するような内容を与えようとするものであるなどと定義される<ref>我妻(1965)27頁</ref>。すなわち、法令は、個別の法規が機械的に集合したものではなく、互いに有機的に結び付き、全体として一個の統一体を形成しているものとみるときは、その全体の関係より推理される原理は個別の成文法規を補完する書かれざる法にほかならず、この原理を取り入れて解釈することが論理解釈であるということになる<ref>富井(1922)99頁</ref>。

もっとも、[[客観]]的な条文と実際生活の実状との乖離が極度に進行し、法令の改正(立法的解釈)もまた困難であるとき、論理解釈・類推解釈の形式によること無く、直ちに裁判官の自由探求によって法の不備を補うべきであるとの考えも出てくる。これが、[[20世紀]]の[[フランス]]私法学で主流をなした自由法学派の主張する'''自由法論'''である<ref>石坂(1919)2頁、[[牧野英一]]『民法の基本問題』3頁以下、梅謙次郎述『民法総則(自第一章至第三章)』305頁([[法政大学]]、1907年)、碧海(2000)155-161頁</ref>。自由法論は、法の文言のみからでは導かれえない国民ないし[[臣民]]の自由保障や権利の実現を進めようとする、実践的なものとして各国に一定の影響を与えた<ref>藤田(2002)135頁</ref>。前述のスイス民法1条はこの自由法運動を受けたものである<ref>ラートブルフ(1964)184頁</ref>(→[[#慣習法]])。何よりも、自由法論最大の功績は、[[倫理]]的・[[政治]]的な主観的評価を厳しく排除して法解釈の客観性を保つことに腐心した従前の[[註釈学派 (フランス法)|註釈学派]]や[[概念法学]]に対し、社会統制の技術としての法解釈の実践的側面を明らかにし、[[法社会学]]の出現を促したことにあると考えられている<ref>碧海(2000)149-151頁、石坂(1919)95頁</ref>。もっとも、自由法論の騎手であった[[ルドルフ・フォン・イェーリング|イェーリング]]によると、このような法の社会性の強調は、(一般に概念法学の象徴とみなされがちな)[[ベルンハルト・ヴィントシャイト|ヴィントシャイト]]の内に既に見られるものであったという<ref>[[勝田有恒]]=[[山内進]]編『近世・近代のヨーロッパの法学者たち――グラーティアヌスからカール・シュミットまで――』329頁([[ミネルヴァ書房]]、2008年)</ref>。

自由法論に対しては、その実践的性格の故に主観的・場当たり的な[[御都合主義|ご都合主義]]に堕する危険があり、'''法的安定'''を害するという批判がなされる<ref>富井(1922)101頁、石坂(1919)75頁、藤田(2002)178頁</ref>。このため、制定法が良く整備されているならなるべく論理解釈を駆使して客観的な法文解釈の枠に収めるべきであり、あえて自由法論を採るべき必然性は無いとも主張されている<ref>富井(1922)100-101頁、梅謙次郎「法律ノ解釈」[[太陽 (博文館)|太陽]]9巻2号56-62頁([[博文館]]、1903年)</ref>。また、自由法論による法の社会性の強調は、当初こそ強い反発があったたが、その後あまりにも多くの賛同者を得たため、あっけなく法律学上の常識として受け入れられ、陳腐化して盛りを過ぎてしまったとも言われ、ドイツ法系の国々では自由法学は概念法学との統合・[[止揚]]の方向へ向かう<ref>ラートブルフ(1964)184頁</ref>。そこで、自由法論も、法文解釈の枠組みによる論理操作までは完全に否定せず<ref>碧海(2000)158頁</ref>、概念法学において無意識的に行われていた目的解釈を正面から正当化し、社会的な裏付けを与える方向に進む者と、なお類推解釈の形式を否定して利益衡量によるべきことを説く[[利益法学]]との差を生じたのである<ref>碧海(2000)160頁、石坂(1919)93-110頁</ref>。(→[[#反対解釈・類推解釈]])

このようにして、フランスと異なり、高度に抽象化された[[パンデクテン方式]]を基礎とするドイツ法系においては、批判と修正を受けながらも論理解釈が大いに発達した(論理法学)<ref>石坂(1919)2-4頁</ref>。ここに、論理解釈の前提たる「論理体系」なるものは、法の体系的な整合性を重視して形式論理的に構成することもでき、また目的的な論理に従って構成することもできる<ref>我妻(1965)28頁</ref>。そこで後者を'''目的解釈'''(独:teleogische Auslegung)、目的論的解釈として前者の形式論的な論理解釈と区別することができる<ref>石坂(1919)43頁</ref>。

==== 論理解釈の問題点 ====
文理解釈と論理解釈のいずれに重きをおくかは論者によって異なり、個別的な文理解釈を重視し、論理解釈と相対する独立別個の解釈方法と捉えるか、体系的な論理解釈を重視し、両者を不可分一体のものと考えるかという差異が生まれる<ref>石坂(1919)33頁</ref>。

文理解釈を重視する立場からは、国語的な文理解釈と体系的・目的的な論理解釈の結果の乖離が進行すると、一般国民にとっては理解が困難となり[[法治主義]]の観点から問題であるから、解釈に疑義のある場合は、積極的な立法的解釈によって解決すべきと主張される<ref>内田・債権法の新時代15頁、星野英一「日本民法典の全面改正」ジュリスト1339号90-102頁(有斐閣、2007年)</ref>。なお、この立場からは、形式論と目的論の不可分性よりも対立性が強調されるため、目的解釈は論理解釈と区別され、目的解釈は文理解釈・論理解釈とは対立するものであるとも主張される<ref>星野・前掲法学教室95号61頁</ref>。この立場にいう論理解釈とは、専ら論理的操作によって導かれる帰結を確定しようとする形式的論理解釈を意味している<ref>このために実質的考慮をせざるを得ない拡張・縮小解釈は論理解釈のカテゴリーから除外される。星野(1970)14頁</ref>。

これに対し、いかに成文法が改正されても、その度に新しい判例法と慣習法が出現し、これらを無視することはできないのだから、むしろ成文法はより簡明にして理解を容易にしつつ<ref>[[穂積重遠]]『民法読本』16頁(日本評論社、1927年)</ref>、論理解釈を重視して広範な学理的解釈の発達に委ねるべきであり<ref>梅・前掲国家学会雑誌12巻134号348頁、馬場定二郎編『修正法典質疑要録』4頁梅発言(1896年)、梅・前掲太陽9巻2号56-62頁、梅謙次郎述『民法総則(自第一章至第三章)』304頁-309頁([[法政大学]]、1907年)、穂積陳重・前掲遺文集二冊419頁</ref>、それが法治主義の観点からも望ましいとの主張も見られる<ref>穂積(1890)第五編第六章</ref>(→[[#立法的解釈の問題点]])。

また、特に自由法論の立場から、論理解釈が形式論理に偏するときは、実際生活に適合しない不当な結論を生み、個別の事案についての'''具体的妥当性'''を実現できない[[概念法学]]であるとの批判がある<ref>我妻(1965)29頁、石坂(1919)74頁、富井(1922)101頁</ref>。そのため、論理解釈に依るときは、体系的な形式論のみならず、'''[[社会]]'''的な目的論と不可分一体として解釈することが望まれる<ref>石坂(1919)76-78頁、我妻栄『物権法(民法講義II)』序文(岩波書店、初版1932年、新訂1983年)</ref>。

===== 論理解釈における沿革の考慮 =====
なお、論理解釈においても歴史的'''沿革'''を考慮に入れた解釈をすることができるが<ref>富井(1922)95頁</ref>、その方法論を巡る問題がある。

例えば、[[民法 (日本)|日本の民法典]]は、主に[[ドイツ民法]]草案を母体として[[フランス法]]系の[[旧民法]]を根本的に改修したものであることは起草当事者の一致した見解であり<ref>梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号671頁以下、穂積陳重「獨逸民法論序」『穂積陳重遺文集第二冊』421頁、富井(1922)序5頁、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号24頁、[[仁保亀松]]『国民教育法制通論』19頁(金港堂書籍、1904年)、仁保亀松講述『民法総則』5頁(京都法政学校、1904年)、松波ほか(1896)8頁</ref>、そこにドイツ法思想の民法解釈学ができる必然性がある<ref>梅・前掲太陽9巻2号56-62頁、梅・前掲民法総則(自第一章至第三章)304頁-309頁、[[瀬川信久]]「梅・富井の民法解釈方法論と法思想」『北大法学論集』41巻5-6号402、423頁(北海道大学、1991年)、穂積陳重「獨逸法学の日本に及ぼせる影響」『穂積陳重遺文集第三冊』621頁、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号24頁</ref>。この点、[[イタリア]]民法学が、[[フランス民法典]]を継受して成立したイタリア民法典を、ドイツ民法学説を継受して解釈し直したのとは事情が異なる<ref>石坂(1919)94頁</ref>。

しかし、日本民法典においても部分的にはなおフランス法系の規定も残存しており<ref>梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法(続)」『法典質疑録』9号779頁以下(1896年)、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号23頁、井上正一「仏国民法ノ我国二及ボシタル影響」仏蘭西民法百年紀年論集60頁以下</ref>、ドイツ法系とフランス法系の異質な規定が混在したために両者の矛盾が問題となって解釈者をしばしば悩ませた<ref>前掲富井男爵追悼集・83頁</ref>。その故に、この不調和を解釈によって是正して、民法をして矛盾なき統一的体たらしめることが学説・判例の一大目標となった<ref>前掲富井男爵追悼集・84頁</ref>。ここにおいて、ドイツ法の学理を徹底してフランス法系を不純物として軽視する発想<ref>[[和仁陽]]「[[岡松参太郎]]――法比較と学理との未完の綜合――」『法学教室』183号79頁</ref>、これに対して立法者はあえてそのような規定を残したのだから部分的には尊重されるべきとする発想<ref>我妻栄『民法研究V』81頁(有斐閣、1968年)</ref>、或いはむしろ旧民法を通して[[フランス民法典]]の方が主要な母体(母法)であるとする発想<ref>星野(1970)71頁、[[内田貴]]『民法I総則物権総論』第4版25頁(東京大学出版会、2008年)、[[潮見佳男]]『民法総則講義』24頁(有斐閣、2005年)</ref>、社会の変遷をより重視して、母法及び過去の歴史的沿革の極端な尊重に疑問を呈する発想<ref>石坂(1919)41頁、鳩山(1923)14頁、[[末弘厳太郎]]『物権法上巻』序文(有斐閣、1921年)</ref>、といった解釈態度の立場の違いが生み出されたのである<ref>同様の問題は、ドイツ法系の法律に英米法流の思想を接木して根本的改修を図った日本[[刑事訴訟法]]にも存在する。[[団藤重光]]「刑事訴訟法の40年」ジュリスト930号5頁(有斐閣、1989年)。またドイツ民法典についても、ローマ法系とゲルマン法系の調和の問題がある。石坂(1919)95-97頁</ref>。{{main|民法 (日本)}}

以上をまとめれば次のようにいうことができる。

{{quotation|真の解釈のためには為すべきことが多い。諸外国の類似の制度を顧み、且'''沿革'''に遡って現行制度の特質を理解することがその一である。'''判例'''を明かにして条規の文字の実際に有する活きた意味を知ることがその二である。'''社会'''生活の実際に即して法規の作用を検討し、人類文化の発達に対して現行法の営む促進的或は阻止的な作用を理解し、進んでその批判を努むべきことがその三である。社会生活の変遷に順応した、しかも現行法の'''体系'''として矛盾なき統一的解釈理論を構成することがその四である。而して、その何れの場合にも先進の'''学者'''の説に学ぶべきことは謂うまでもない。これをその五とする<ref>我妻・講義II序文、星野英一『民法論集第五巻』218頁(有斐閣、1970年)</ref>。|我妻栄}}

==== 反対解釈・類推解釈 ====
類似した甲乙二つの事実のうち、甲についてだけ規定のある場合に、甲について反対の結果を認めるものが、'''反対解釈'''([[ラテン語|羅]]:argumentum a contrario)であり<ref>類推解釈の体系的な位置付けについては諸説あり、その実質は新たな立法に等しく、もはや解釈とは言えないとする説も主張されている。石坂(1919)58-62、102頁</ref>、乙についても甲と同様の結果を認めるものが'''類推解釈'''(独:Analogie;仏:analogie)である<ref>我妻(1965)28頁、鳩山(1923)15頁</ref>。類推解釈は、自然法論に相対する後期[[歴史法学]]派により、社会生活は可能な限り成文法規の解釈の形式によって規律されるべきとする法実証主義から説かれたものである<ref>石坂(1919)2頁</ref>(→[[#慣習法]])。

[[刑法]]においては[[罪刑法定主義]]が妥当するため類推解釈は原則的に禁止されるから<ref>ラートブルフ(1964)162頁、大塚(2008)11頁、我妻(2005)152頁、[[日本国憲法第31条]]</ref>、反対解釈と後述する拡張解釈のいずれが妥当するかを巡ってしばしば対立が起きるが<ref>大塚(2008)12頁</ref>、民事事件においては、類推解釈と反対解釈は相反する関係に立つ<ref>我妻(2005)147頁</ref>。形式論を重視すれば反対解釈に結び付きやすいが文理解釈同様具体的妥当性を欠くおそれがあり<ref>長谷川(2008)418頁</ref>、目的論を重視すれば類推解釈に結び付きやすいが法的安定を害するおそれがある<ref>我妻(1965)29頁</ref>。そこで、どちらの解釈によるべきかは、特に当該制度・法規の'''趣旨'''・目的を考慮しなければならない<ref>我妻(2005)148頁</ref>。甲についての制度趣旨(立法趣旨)が、乙についても妥当するもので、たまたま甲を典型的な場合として挙げたに過ぎないとすれば乙について類推解釈(類推適用)が導かれるし、あえて甲のみについて規定した趣旨だと理解すれば反対解釈が導かれる事になる<ref>我妻(2005)147頁</ref>。{{main|準用・類推適用}}

なお、類推解釈を採るべきことが極めて明白な場合を'''勿論解釈'''(羅:argumentum a fortiori)ということがある<ref>長谷川(2008)424頁、碧海(2000)153頁</ref>。

例えば、日本民法第738条は、「[[成年被後見人]]が[[婚姻]]をするには、その成年後見人の同意を要しない」と規定しており、事理弁識能力を欠く成年被後見人についてのみ規定し、その能力が著しく不十分である[[被保佐人]]については規定していないが、行為能力の欠ける程度の高い成年被後見人ですら成年後見人の同意が不要であることから、それより行為能力の欠ける程度が低いに過ぎない被保佐人については、論ずるまでもなく、保佐人の同意は必要ないと解釈されている<ref>長谷川(2008)424頁、裁判所職員総合研修所『親族法相続法講義案』6訂再訂版4頁(2007年、司法協会)</ref>。

==== 拡張解釈・縮小解釈 ====
制度の趣旨に鑑みることで、文理解釈の場合に比べて個々の条文の文理を多少拡張的に解釈することを拡大解釈又は'''拡張解釈'''(羅:interpretatio extensiva)、縮小して解釈することを'''縮小解釈'''(羅:interpretatio restrictiva)という<ref>我妻(2005)144頁、[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946651/37 石坂(1919)52頁]</ref>。

拡張解釈は類推解釈と似ているが、類推解釈は、文字の意味に含ませえないものに拡張する場合であるのに対し、拡張解釈は、文字の意味に含ませる場合である<ref>我妻(2005)148頁</ref>。

例えば、[[鳥獣保護法]]において[[弓]]矢を使用する方法による「捕獲」が禁止されている場合に、[[鳥]]獣の保護という制度趣旨の論理的文脈に鑑みて、実際に'''「捕獲」する'''ことのみならず、'''「捕獲」しようとする'''行為をも含む意味に解釈する場合<ref>最判平成8年2月8日刑集50巻2号221頁</ref>、これを拡張解釈(拡大解釈)の一例と評価することができるが<ref>大塚(2008)12頁</ref>、罪刑法定主義及び刑法の[[自由]]保障機能を重視する立場からは、このような拡張解釈はできるだけ避けるべきであり、矢が全然当たらなくても「捕獲」だというのは、社会常識の範囲を逸脱しているとの批判がなされることになる<ref>大谷實=前田雅英『エキサイティング刑法総論』18頁大谷発言(有斐閣、1999年)</ref>。

これに対し、縮小解釈の例として、日本民法177条の「第三者」の解釈論が有名である<ref>最判昭和43年8月2日民集22巻8号1571頁、最判平成10年2月13日民集52巻1号65頁</ref>。[[合憲限定解釈]]もこの縮小解釈の一種と考えられる<ref>伊藤(1995)396頁</ref>。縮小解釈の例には、ほかにも、[[日本国憲法第9条]]のいう「戦力」には、自衛のための最低限の実力は含まれないという憲法解釈などがある<ref>伊藤(1995)177頁</ref>。

上記四つはいずれも論理解釈の一種である<ref>デルンブルヒ(1911)36頁</ref>。拡張解釈・縮小解釈は、類推解釈同様目的的論理を重視した解釈であり、形式的な文理解釈とは乖離した結論を導くから、法的安定を害することなく具体的妥当性を実現するためには、これらの解釈を正当化する体系的な許容性と、目的論の合理性とを厳密に検証しなければならない<ref>我妻(1965)29頁</ref>。さもなくばご都合主義に堕してしまうからである<ref>ラートブルフ(1964)182頁</ref>。

==== 変更解釈 ====
なお、論理解釈の内、文理解釈と明らかに異なる別の意味に解する場合、類推解釈と別にこれを'''変更解釈'''ということがある<ref>石坂(1919)53頁</ref>。

例えば、条文が改正されたとき、単純な立法ミスによって関係法令相互の齪齪が生じ、改正後の制度を改正前の制度に当てはめて解釈せざるをえないような場合がその典型である<ref>長谷川(2008)415頁</ref>。

== 立法者意思説と法律意思説 ==
前述のとおり(→[[#反対解釈・類推解釈]])、いかなる解釈が妥当するかは、なぜ当該制度・条文が存在するかという制度趣旨・立法趣旨に遡った説明が必要になるが、その手法については、既に述べたように体系的な制度趣旨を重視するのか、個別の条文についての立法趣旨を重視するのかという論理解釈を巡っての立場の違いがある他(→[[#論理解釈の問題点]])、制度趣旨・立法趣旨の確定方法についても、立法当時の立法者及び起草者の意思をどの程度考慮すべきかについて、[[民法]]を中心に古くから議論がある。この点、20世紀以降の[[ドイツ]]及び日本の通説は、論理解釈を重視しつつも、[[三権分立]]の原則からは、法の解釈は解釈時におけるをも含めた法律そのものの意義を明らかにすることであって、過去の立法者の思想を明らかにすることに尽きるものではないとする'''法律意思説'''に立つ。代表的論者として、[[イェーリング]]、[[石坂音四郎]]がいる<ref>[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946651/52 石坂(1919)83]-92頁</ref>。この立場からは、法律そのものではない起草委員の説明、議事録等のいわゆる'''立法資料'''は解釈に当たっての参考資料となりうるにすぎず、[[裁判官]]に対する[[法的拘束力]]は無いことになる<ref>デルンブルヒ(1911)48頁、石坂(1919)39、87頁、富井(1922)94頁、鳩山(1923)14頁、ラートブルフ(1964)286頁</ref><ref>日本憲法76条3項の規定する、裁判官を拘束する「法律」は、形式的意味の「法律」([[日本国憲法第59条]])に限られず、[[政令]]・[[規則]]・[[条例]]・慣習法などを含む意味に解されているが、立法資料まで含まれるとは説かれない。伊藤(1995)578頁、[[佐藤幸治]]『憲法』第3版328頁([[青林書院]]、1995年)、[[長谷部恭男]]『憲法』第4版327頁([[新世社]]、2008年)</ref>。

ところが、19世紀のフランス・ドイツにおいては、これと相反する'''立法者意思説'''が通説であり、[[ベルンハルト・ヴィントシャイト|ヴィントシャイト]]が強調したように、立法者たる'''[[議会]]の尊重によって裁判官の不当な自由裁量を防ぎ、社会的弱者が害されることを防ぐ'''べきことが主張されていた<ref>勝田=山内・前掲近世・近代のヨーロッパの法学者たち331頁</ref>。特に[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]は権力者たる裁判官への不信から、裁判官をして法を語る口たらしめるべきことを主張し<ref>碧海(2000)149頁</ref>、また[[サヴィニー]]においては、フランス法学と異なり論理解釈を重視しつつも(→[[#論理解釈]])、法の解釈・研究は専ら[[古典]][[文学]]を研究するのと同様の[[文献学]]的方法によるべしと主張されていた<ref>石坂(1919)35、85頁</ref>。(→[[#慣習法]]){{main|古典的自由主義}}

しかし、19世紀末から20世紀にかけて、[[資本主義]]の発展に伴う社会の変動・複雑化が立法者意思説の維持を困難にした<ref>[[潮見俊隆]]=[[利谷信義]]編『日本の法学者』[[法学セミナー]]増刊33頁([[日本評論社]]、1974年)</ref>。「'''立法者が如何なる意思を有したるかの歴史的事実に膠着するは社会をして法律の犠牲たらしむるもの'''」であると指摘されたのである<ref>鳩山(1923)14頁</ref>。

ここにおいて、[[註釈学派 (フランス法)|註釈学派]]や概念法学の硬直を打破しようとするイェーリングや[[フランソワ・ジェニー|ジェニー]]、[[レイモン・サレイユ|サレイユ]]らの自由法論が台頭したこともあって法律意思説が通説化し、更に法律意思説も結局は解釈者個人の[[主観]]的価値判断を盛り込まざるをえないことから、立法過程及び制定当時の社会状況を踏まえ、現在の状況と比較することによって、法解釈に[[客観]]的な歴史的裏付けを与えようとする[[フィリップ・ヘック|ヘック]]や[[オイゲン・エールリッヒ|エールリッヒ]]らの見解が有力化した<ref>広中俊雄『新版民法綱要第一巻総論』64頁(創文社、2006年)</ref>。自由法論により提起された問題意識を受け止め、法解釈の実践的性格を認めるなら、立法当初とは異なる価値判断を法解釈に盛り込まざるをえないから<ref>石坂(1919)24、48、76頁、藤田(2002)138頁</ref>、いかなる形で法解釈の客観性が保たれるかが法律家を長年にわたって悩ませたのである<ref>碧海(2000)134頁、[[平井宜雄]]「戦後日本における法解釈論の再検討(2)――法律学基礎論覚書(2)――」『ジュリスト』918号102頁(有斐閣、1988年)</ref>。

今日では、幾度かの論争を経て、他の[[解釈学]]等の諸[[科学]]におけると同様<ref>藤田(2002)156頁</ref>、唯一絶対の正しい法解釈を具体的に観念することは不可能ないしは極めて困難であるとして<ref>石坂(1919)110頁、星野(1970)4、26頁、[[川島武宜]]『科學としての法律學』(弘文堂、1955年)20頁。なお、抽象的に観念することは可能であるとの主張(客観説)もある。星野(1970)42頁、[[ロナルド・ドウォーキン]]の項目も参照</ref>、法律意思説を基本に各説の長所を採り入れようとする傾向が有力である<ref>広中・前掲新版民法綱要第一巻総論64頁、石坂(1919)1-110頁</ref><ref>立法資料研究の必要を説くものにも様々なニュアンスがある。我妻栄『民法研究V』81頁(有斐閣、1968年)、デルンブルヒ(1911)48頁、星野・法学教室95号57頁、[[池田真朗]]「論文批評における方法論の問題――道垣内助教授の批判に応えて――」法律時報62巻12号118頁(1990年)</ref>。

なお、注意すべきは、単に「立法者意思」の尊重と言っても、その内容は論者によって一様でないことである<ref>石坂(1919)88、91頁</ref>。例えば、[[ハインリヒ・デルンブルヒ|デルンブルヒ]]や[[梅謙次郎]]、[[川名兼四郎]]のように体系的な論理解釈を重視すれば、具体的・個別的な起草者意思から切り離された抽象的・包括的な立法者意思を観念することになり<ref>デルンブルヒ(1911)34頁、梅謙次郎「法律の解釈」[[太陽 (博文館)|太陽]]9巻2号61頁([[博文館]]、1903年)、川名兼四郎『日本民法総論』訂正再版12頁(金刺芳流堂、1912年)、[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/792068/24 川名兼四郎述『改訂増補民法総論』訂正再版27]-28頁(金刺芳流堂、1904年)</ref>、その実質は法律意思説と同一になるし<ref>デルンブルヒ(1911)48頁</ref>、[[星野英一]]のように個別的な文理解釈を重視すれば、起草者の原案が委員総会及び議会での根本的修正を受けていない場合に、立法者意思を起草者意思に近づけて理解することになる<ref>星野(1970)74、80頁、この立場からは、素朴な文理解釈及び立法者・起草者意思解釈の結果が現在の社会に適合しないときに、利益考量による修正が必要になると説かれる。星野(1970)3-67頁</ref>。そもそも[[近代]]社会における法律とは何であるかを巡っての理解の差であるということもできるが<ref>法律は議会というより[[主権者]]の命令であるとの立場も有力である。松波ほか(1896年)3頁。[[石坂音四郎#人物|石坂音四郎]]の項目も参照</ref>、極端な起草者意思・歴史的沿革の尊重には批判が強く<ref>安達三季生「法解釈学(実定法学)方法論と債権譲渡の異議を留めない承諾――池田真朗教授の続稿に因んで――」『法学志林』91巻4号74頁(法政大学、1994年)、安達「指名債権譲渡における異議を留めない承諾、再論――池田真朗教授および石田・西村両教授の批判に答えて――」法学志林89巻3・4号133頁、[[道垣内弘人]]「(民法学のあゆみ)池田真朗「指名債権譲渡における異議を留めない承諾(一)~(三・完)」法律時報62巻10号78頁(1990年)</ref>、法律は起草者の著作物ではないから<ref>富井(1922)7頁、石坂(1919)86頁</ref>、法の解釈は特定の起草者個人の思想・見解を明らかにすることに尽きる(起草者意思説)ものではないという点において世界的にほぼ異論は無い<ref>星野は、「外国にも「立法者意思説」はありますが、「起草者意思説」はないようです」と発言している。星野・法学教室95号59頁。一方、「学者は通常立法者を立法権を有する者の意義に解す是固より正当なりと雖も或は法律の起草者を以て立法者と解する者あり」との指摘もある。石坂(1919)88頁</ref>。

こうして、かつて19世紀の大陸法学を支配した、法解釈の任務は唯一の正解の確認にあるとの信念が否定され<ref>碧海(2000)149頁</ref>、法解釈学の創造的性格が認識されるようになると、その指針となるべき[[法哲学]]、[[比較法学]]、[[法政策学]]、法社会学等の関連諸科学の重要性が強調されるようになる<ref>ラートブルフ(1964)185頁、石坂(1919)67頁</ref>。そして、いかなる解釈をすべきか明らかにするためには、当該法文の文言を尊重しつつも、制度の趣旨・目的・社会の実態等を広く考慮しつつ<ref>[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946651/49 石坂(1919)76頁]、鳩山・債権法における信義誠実の原則444頁(我妻栄執筆)、星野(1970)13頁</ref>、極端な杓子定規にもご都合主義にも陥らないよう、'''法的安定性と具体的妥当性の調和'''<ref>刑法においては、自由保障機能と法益保護機能の調和の問題となって現れる。大塚(2008)3頁、[[日本国憲法第31条]]、</ref><ref>[[刑事訴訟法]]においては、特に[[適正手続]]と真実発見の調和の問題となって現れる。[[団藤重光]]『新刑事訴訟法』7訂版27-29頁([[創文社]]、1967年)、日本刑事訴訟法第1条</ref>、換言すれば、理屈と人情の調和を目指して解釈しなければならないと考えられている<ref>我妻栄『法律における理窟と人情』2版4頁(日本評論社、1987年)、我妻栄『民法研究X』4頁(有斐閣、1971年)、我妻(1965)28頁、我妻(2005)153頁、我妻(1953)534頁、我妻「私法の方法論に関する一考察」ジュリスト563号183頁</ref>。

以上をまとめれば次のようにいうことができる。

{{quotation|[[法律学]]は、「[[法哲学|実現すべき理想の攻究]]」を伴はざる限り[[盲目]]であり、「[[法社会学|法律中心の実有的攻究]]」を伴はざる限り空虚であり、「[[法解釈学|法律的構成]]」を伴はざる限り無力である<ref>我妻・ジュリスト563号187頁、我妻(1953)560頁</ref>。|我妻栄}}

== 脚注 ==
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>

== 主要参考文献 ==
*石坂音四郎[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946651/2 『改纂民法研究上巻』]([[有斐閣]]、1919年)
*長谷川彰一『改訂法令解釈の基礎』([[ぎょうせい]]、2008年)
*[[我妻栄]]『新訂民法總則(民法講義I)』([[岩波書店]]、1965年)
*我妻栄([[遠藤浩]]・[[川井健]]補訂)『民法案内1私法の道しるべ』([[勁草書房]]、2005年)
*我妻栄『近代法における債權の優越的地位』(有斐閣、1953年)
*[http://homepage1.nifty.com/ksk-s/minpogenron1.htm [[富井政章]]『訂正増補民法原論第一巻總論』]第17版(有斐閣書房、1922年)
*[[ハインリヒ・デルンブルヒ]]著・坂本一郎=池田龍一=津軽英麿共訳[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/792209 『獨逸新民法論上巻』]([[早稲田大学]]出版部、1911年)
*[http://homepage1.nifty.com/ksk-s/hotenron.htm [[穂積陳重]]『法典論』](哲学書院、1890年、新青出版、2008年)
*[[松波仁一郎]]=[[仁保亀松]]=[[仁井田益太郎]]合著・穂積陳重=富井政章=[[梅謙次郎]]校閲『帝國民法正解』1巻([[日本法律学校]]、1896年、[[信山社]]、1997年)
*[[鳩山秀夫]][http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980851/8 『日本民法總論上巻』](岩波書店、1923年)
*星野英一『民法論集第一巻』(有斐閣、1970年)
*[[大塚裕史]]『刑法総論の思考方法』新版補訂版(早稲田経営出版、2008年)
*[[伊藤正己]]『裁判官と学者の間』(有斐閣、1993年)
*伊藤正己『憲法』第3版([[弘文堂]]、1995年)
*[[藤田宙靖]]『行政法学の思考形式』増補版([[木鐸社]]、2002年)
*[[碧海純一]]『法哲学概論』全訂第2版補正板(弘文堂、2000年)
*グスターフ・ラートブルフ著・碧海純一訳『ラートブルフ著作集3 法学入門』改訂版([[東京大学出版会]]、1964年)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[法学]]
*[[法哲学]]
*[[法哲学]]
*[[法社会学]]
*[[純粋法学]]
*[[法学方法論]]
*[[法学方法論]]
*[[法 (法)]]
*[[法と経済学]]
*[[概念法学]]
*[[解釈主義]]


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2011年7月22日 (金) 22:37時点における版

法解釈(ほうかいしゃく)とは、各種の法源について、その内容を確定することをいう[1]

概要

文字に表された抽象的則は、一見極めて明瞭なようでも、千変万化の具体的事象に適用するに当たっては、必然的に多くの解釈上の疑義を生む[2]。故に、法律暗記してもそれだけでは役に立たず、ここに法解釈の必要が生じる[3]

法解釈の対象

法源は法典を始めとする明文の制定法に限られないから、慣習法判例法についても、解釈は必要である[4]

慣習法

慣習法とは、慣習に基づいて成立する法のことをいう[5]

慣習法の解釈においては、慣習そのものが本来明確なものではないから、その存在、内容などをある程度はっきり確定させること、また成文法と調和させることが重要な仕事になる[6]。(→#成文法

慣習法と成文法の調和の仕方を巡っては、成文法の優位を説き法と道徳の峻別を重視する法実証主義と、成文法と慣習法の連続性を強調して両者の共通点に着目する自然法論の対立があると説明されることがあるが[7]歴史法学の立場から自然法論を否定する論者が慣習法の尊重を説くこともあり[8]、また逆に自然法論者が不文の慣習法の排除を説くこともあり、両者の対立が必ずしも対応するわけではない。[9](→#反対解釈・類推解釈

現に、自然法論の強い影響下にあった18世紀から19世紀にかけてのフランスにおいては、紛争はことごとく法解釈の枠にはめて規律しようとしていた[10]。一方、ドイツにおいては、1794年に成立したプロイセン民法典が同様の見地から詳細かつ網羅的な立法を試みたが挫折し[11]、法の歴史的必然性を強調する歴史法学派により、フランスとは逆に、自然の慣習法の発達に多くを委ねるべきとの立場が有力になった[12](→#立法的解釈の問題点)。歴史法学派が法典論争で統一法典の編纂に反対したのはこのためである[13]。ところが、19世紀末から20世紀にかけて、ナポレオン法典の老朽化とドイツ民法典の制定によって、両国の解釈態度は逆転し始めたのである[14]。(→#論理解釈

一方、英米法特にイギリス法は、このような大陸法における法典化運動、すなわち慣習法の全面的な制定法化には従わなかった。かつてドイツの歴史法学派が主張したように、成文法の制定は慣習法の個々の点について生じた誤りを是正するためにのみなされるべきだと考えられたのである[15]

もし成文法を重視する主義に立てば、法源の明確さゆえに法的安定性の確保に資する一方、慣習法を重視する主義によれば、柔軟な解釈によって、より具体的妥当性を実現しやすいということはできる[16]刑事法分野における罪刑法定主義の下では、慣習法や条理を独立の法源とすることは許されないが[17]、成文法規の解釈に当たって慣習や条理を考慮することまで排除されるわけではない[18]。また行政法分野においても、現に存在している「法律による行政の原理」による国家権力のコントロールが重要になるから、慣習法の成立する余地は少なく[19]、特に税法分野では租税法律主義が妥当する[20]。租税法律主義の趣旨を損なわない範囲で、規定の細部を政令などに委任することが許されるだけである[21]民事法分野においても、国民の権利や利益に関するものである以上[22]裁判はなるべく立法府の適法な手続きによって制定された成文法によるべきではないのか、そもそもとは何であるかの問題が横たわっている[23]

判例法

裁判によって明らかにされた規範が法源としての効力を持つに至ったとき、これを判例という[24]。判例の解釈については、個々の具体的裁判例から一般的に妥当する射程を明らかにし、類似の事案から帰納的に、一定の抽象的法則を構成することが必要である[25]

判例を法源としてどれだけ尊重し、判例法としての事実上又は法的な拘束力を認めるかについては、どのような行為があればどのように法的に判断されるかについて一般人が不安をもつ必要のない状態、即ち法的安定性を脅かすことのないよう[26]、かつ個々の事案についての具体的妥当性を実現させるという、矛盾・対立する要請をいかに調和させるかの問題でもある[27]。特にイギリスでは法的安定性の確保のために上級審の判例遵守(stare decisis)の原則が立てられている[28]

英米法では、勝訴・敗訴や違憲・合憲といった判決の結論それ自体や、判決文が言及する一般論の全てが法源としての拘束力を持つものとは考えられておらず、一般に、判例とは判決の結論を導くうえで重要な意味のある法的理由付け、即ち「判決理由」(レイシオ・デシデンダイ)のことを言い[29]、そのような意味を持たない傍論との区別の手法が発達している[30]。これに対し、大陸法においては直接の法源とはならないが[31]、成文法を補充するものとして、事実上の法源としての一定の拘束力を認めることができる[32]。この範囲には争いがあり、フランス法ドイツ法と比べても最高裁判所の判例の拘束力を重視する日本法においても[33]、英米法と同様判例はレイシオ・デシデンダイのみに限られると解するのが通説であるが[34]、実際には厳密に区別されて運用されているわけではなく、最高裁判所の傍論もまた下級審の裁判実務に指導的な役割を果たし、事実上の法源として機能する事が少なくない[35]

   詳細は判例傍論を参照

条理

条理とは、物事の筋道であり、人間の理性に基づいて考えられるところのものをいう[36]

ある事件について適用すべき制定法の不備・欠缺があり、適当な慣習法も判例法も無い場合に、この条理に基づく裁判をすることができるかの問題が生じる[37](→#成文法)。英米法において、ローマ法はしばしば条理として採用されたが[38]、成文法がある程度完備されている場合には、単独で条理を法源とすべきではなく、成文法の解釈の枠内で、論理解釈上条理を取り込むことによって、法的安定性具体的妥当性の調和をはかることができる等と主張される[39]。(→#論理解釈

もっとも、スイス民法1条等、明文で条理の法源性を認めている場合もある[40]日本でも、明治8年には、民法典が制定されておらず、統一的・近代的な法慣習も無かったことから、明治八年太政官布告百三号第三条において、「民事ノ裁判二成文ノ法律ナキモノハ習慣二依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ」とされ、これに基づく裁判が為されたが[41]、何をもって条理とすべきか紛糾した。フランス法系の法学校で学んだ者はフランス法を条理であるとし、イギリス法系の法学校で学んだ者はイギリス法を条理として援用し、その不統一が問題となったのである[42]。実際に施行されることのなかった旧民法公布されたときにおいても、裁判官や学者がこれを事実上の法源として利用・研究したのはこの太政官布告のためであった[43]

成文法

大陸法系において最も重要な任務は、文字によって明示され、一定の手続きを経て制定された成文法(制定法)の解釈である[44]。成文法規は、主権者の委任により、国会立法権に基づき、判断の恣意性を排除し、客観性を保障する機能を持つべく制定されたものであり[45]、法規自体がひとつの利益衡量に基づく結果の集積ともいえるものであるから、客観的な条文を離れていたずらに理論学説に走り、あるいは法律の立場を離れた生の価値判断、いわゆる裸の利益衡量のみによって法律を議論することは厳に慎まなくてはならないとしばしば警告される[46]

もっとも、立法府が制定した法律を補充するものとして、政令・規則等の命令条例等があるから、これらを含めた法令全体が法解釈の対象になる[47]

なお、行政機関が統一的取り扱いの確立のために発する訓令通達などのいわゆる先例は、一定の権威を有し、実務上無視できない大きな機能を果たすものの、法的には行政庁の内部規範に過ぎないことから、裁判官を拘束する法令には含まれない[48]。もっとも、行政庁における長年にわたる取扱例が、広く一般国民の間に法的確信を得るに至った場合、行政先例法と呼ぶ一種の慣習法として、一定の法的拘束力が認められる場合がある[49]。(→#慣習法

日本語で法解釈というと通常は成文の法令解釈を意味するため[50]、以下では大陸法を中心に記述する。

法令解釈の方法については、論者によりバリエーションがあり用語法も一定しないが、概ね以下のように分類することができる[51]

立法的解釈

立法的解釈[52]、有権的解釈[53]、法規的解釈とは[54]立法者自ら(立法によって)ある法律の意義を確定することをいう。

いわば解釈の立法的解決である[55]ドイツの民法典大改正はその典型例である[56]民法施行法による場合など、当該法律制定後になされることが多く、その目的は規定の法律がその後付加した意義を最初から有していたものとして裁判官を拘束することにあり、実際に最初からそのような意味を有していたかどうかは問題ではないため、訴訟の未確定の場合においても遡及すると考えられている[57]。ただし、罪刑法定主義の下においては、遡及処罰禁止の原則が妥当する[58]

立法的解釈の問題点

立法的解釈を重視するか、後述する学理的解釈に多くを委ねるべきかは成文法を中心とする大陸法における根本問題の一つである[59]。(→#学理的解釈

なぜなら、立法的解釈は、法的安定性の確保に資する一方[60]、過度に多用すると裁判実務における柔軟な解釈・運用が阻害されて具体的妥当性を害し[61]、更には学問の発展の妨げとなり[62]、また条文が複雑化し、無用に長大なものとなって、かえって一般国民はおろか法律の専門家にさえ理解困難なものになってしまうおそれがあるからである[63]。特に、日本会社法旧民法については、立法的解釈への過度の傾斜であるとの批判が強い[64]。もっとも、商法などの先端的・技術的な法律については、ある程度までは迅速・複雑な立法的解釈を重視せざるをえない面もあることが指摘されている[65]。特に税法の場合、前述のように租税法律主義が妥当するため、その規定は他の法律に比べ著しく詳細かつ具体的なものとならざるをえない[66]。(→#慣習法

学理的解釈

学理的解釈とは、学者をはじめとする学問上の努力によって、個々の解釈者が法令の意味を判断し、明らかにすることをいい、普通に法令の解釈といえば成文法規の学理的解釈を意味する[67]ティボーによれば、文字解釈(:sprachliche Auslegung)と論理解釈(独:logische Auslegung)とがあると分析される[68]

学理的解釈の問題点

司法権は一般に裁判所の専権であるから[69]、個々の解釈者も現実社会において実際に通用している判例を無視して議論することはできないが、これをどこまで尊重すべきかは論者によって大きく異なる[70]。判例・実務の立場とかけ離れた学理的解釈は机上の空論となりがちであるし、反面、判例を追認するだけでは、新しい問題に対応できず、また学問の進歩も望めないからである[71]。学問は必ずしも現実の紛争を解決することを主たる目的とするわけではないので、学問と実務が一致するとは限らない[72]

文理解釈

文字解釈とは、文典解釈又は文理解釈(独:sprachwissenschaftliche Auslegung)ともいい、当該条文の文字の普通の意味に従うものである[73]

もとより条文の解釈に当たっては、その文言の素直な国語的意味を尊重すべきであるが[74]、立法に当たっては法文に意味内容を慎重に凝縮したものであるから、一言一句に十分注意して解釈しなければならないのは勿論[75]19世紀フランス註釈学派等と異なり法の不完全性を認める以上[76]、他の条文との整合性及び制度の趣旨・目的等を考慮した、後述する論理解釈をも併用しなければ解釈は完成しないと考えられている[77]

文理解釈の問題点

文理解釈にも問題はある。まず、もしもっぱら通俗的な語のみを法文に用いると、法令が漠然・冗長・不明瞭なものとなり余計な紛争を招きかねないために[78]、法令の用語は日常用語とは異なり、特有の専門用語も少なくない[79]。そのため、文理解釈においてもしばしば歴史的沿革に遡って字義を確定しなければならず、言語の多義性・抽象性と相まって[80]、国語的な文理解釈が必ずしも容易かつ明確であるとは言えない[81]

また、法令を字句のとおり厳格に解釈しようとする傾向は、古今東西を問わず特に新法実施に伴い発生しやすい現象であるが(→#慣習法)、かえって具体的妥当性を欠いて当事者の権利を不当に害し、法律の趣旨を損なうおそれがあると指摘されている[82]。論理解釈が必要とされる所以である[83]

論理解釈

論理解釈とは、法令の文字のみにとらわれることなく、色々な道理、理屈を取り入れて解釈することをいう[84]ローマ帝政時代において、ローマ共和制時代における厳格な文理解釈に相対して認められ、かつ発達したものである[85]

論理解釈の内容は論者により微妙な違いがあるが[86]、例えば、法律を一つの論理体系に構成し、各条文をそれぞれしかるべき地位において、これと調和するような内容を与えようとするものであるなどと定義される[87]。すなわち、法令は、個別の法規が機械的に集合したものではなく、互いに有機的に結び付き、全体として一個の統一体を形成しているものとみるときは、その全体の関係より推理される原理は個別の成文法規を補完する書かれざる法にほかならず、この原理を取り入れて解釈することが論理解釈であるということになる[88]

もっとも、客観的な条文と実際生活の実状との乖離が極度に進行し、法令の改正(立法的解釈)もまた困難であるとき、論理解釈・類推解釈の形式によること無く、直ちに裁判官の自由探求によって法の不備を補うべきであるとの考えも出てくる。これが、20世紀フランス私法学で主流をなした自由法学派の主張する自由法論である[89]。自由法論は、法の文言のみからでは導かれえない国民ないし臣民の自由保障や権利の実現を進めようとする、実践的なものとして各国に一定の影響を与えた[90]。前述のスイス民法1条はこの自由法運動を受けたものである[91](→#慣習法)。何よりも、自由法論最大の功績は、倫理的・政治的な主観的評価を厳しく排除して法解釈の客観性を保つことに腐心した従前の註釈学派概念法学に対し、社会統制の技術としての法解釈の実践的側面を明らかにし、法社会学の出現を促したことにあると考えられている[92]。もっとも、自由法論の騎手であったイェーリングによると、このような法の社会性の強調は、(一般に概念法学の象徴とみなされがちな)ヴィントシャイトの内に既に見られるものであったという[93]

自由法論に対しては、その実践的性格の故に主観的・場当たり的なご都合主義に堕する危険があり、法的安定を害するという批判がなされる[94]。このため、制定法が良く整備されているならなるべく論理解釈を駆使して客観的な法文解釈の枠に収めるべきであり、あえて自由法論を採るべき必然性は無いとも主張されている[95]。また、自由法論による法の社会性の強調は、当初こそ強い反発があったたが、その後あまりにも多くの賛同者を得たため、あっけなく法律学上の常識として受け入れられ、陳腐化して盛りを過ぎてしまったとも言われ、ドイツ法系の国々では自由法学は概念法学との統合・止揚の方向へ向かう[96]。そこで、自由法論も、法文解釈の枠組みによる論理操作までは完全に否定せず[97]、概念法学において無意識的に行われていた目的解釈を正面から正当化し、社会的な裏付けを与える方向に進む者と、なお類推解釈の形式を否定して利益衡量によるべきことを説く利益法学との差を生じたのである[98]。(→#反対解釈・類推解釈

このようにして、フランスと異なり、高度に抽象化されたパンデクテン方式を基礎とするドイツ法系においては、批判と修正を受けながらも論理解釈が大いに発達した(論理法学)[99]。ここに、論理解釈の前提たる「論理体系」なるものは、法の体系的な整合性を重視して形式論理的に構成することもでき、また目的的な論理に従って構成することもできる[100]。そこで後者を目的解釈(独:teleogische Auslegung)、目的論的解釈として前者の形式論的な論理解釈と区別することができる[101]

論理解釈の問題点

文理解釈と論理解釈のいずれに重きをおくかは論者によって異なり、個別的な文理解釈を重視し、論理解釈と相対する独立別個の解釈方法と捉えるか、体系的な論理解釈を重視し、両者を不可分一体のものと考えるかという差異が生まれる[102]

文理解釈を重視する立場からは、国語的な文理解釈と体系的・目的的な論理解釈の結果の乖離が進行すると、一般国民にとっては理解が困難となり法治主義の観点から問題であるから、解釈に疑義のある場合は、積極的な立法的解釈によって解決すべきと主張される[103]。なお、この立場からは、形式論と目的論の不可分性よりも対立性が強調されるため、目的解釈は論理解釈と区別され、目的解釈は文理解釈・論理解釈とは対立するものであるとも主張される[104]。この立場にいう論理解釈とは、専ら論理的操作によって導かれる帰結を確定しようとする形式的論理解釈を意味している[105]

これに対し、いかに成文法が改正されても、その度に新しい判例法と慣習法が出現し、これらを無視することはできないのだから、むしろ成文法はより簡明にして理解を容易にしつつ[106]、論理解釈を重視して広範な学理的解釈の発達に委ねるべきであり[107]、それが法治主義の観点からも望ましいとの主張も見られる[108](→#立法的解釈の問題点)。

また、特に自由法論の立場から、論理解釈が形式論理に偏するときは、実際生活に適合しない不当な結論を生み、個別の事案についての具体的妥当性を実現できない概念法学であるとの批判がある[109]。そのため、論理解釈に依るときは、体系的な形式論のみならず、社会的な目的論と不可分一体として解釈することが望まれる[110]

論理解釈における沿革の考慮

なお、論理解釈においても歴史的沿革を考慮に入れた解釈をすることができるが[111]、その方法論を巡る問題がある。

例えば、日本の民法典は、主にドイツ民法草案を母体としてフランス法系の旧民法を根本的に改修したものであることは起草当事者の一致した見解であり[112]、そこにドイツ法思想の民法解釈学ができる必然性がある[113]。この点、イタリア民法学が、フランス民法典を継受して成立したイタリア民法典を、ドイツ民法学説を継受して解釈し直したのとは事情が異なる[114]

しかし、日本民法典においても部分的にはなおフランス法系の規定も残存しており[115]、ドイツ法系とフランス法系の異質な規定が混在したために両者の矛盾が問題となって解釈者をしばしば悩ませた[116]。その故に、この不調和を解釈によって是正して、民法をして矛盾なき統一的体たらしめることが学説・判例の一大目標となった[117]。ここにおいて、ドイツ法の学理を徹底してフランス法系を不純物として軽視する発想[118]、これに対して立法者はあえてそのような規定を残したのだから部分的には尊重されるべきとする発想[119]、或いはむしろ旧民法を通してフランス民法典の方が主要な母体(母法)であるとする発想[120]、社会の変遷をより重視して、母法及び過去の歴史的沿革の極端な尊重に疑問を呈する発想[121]、といった解釈態度の立場の違いが生み出されたのである[122]

以上をまとめれば次のようにいうことができる。

真の解釈のためには為すべきことが多い。諸外国の類似の制度を顧み、且沿革に遡って現行制度の特質を理解することがその一である。判例を明かにして条規の文字の実際に有する活きた意味を知ることがその二である。社会生活の実際に即して法規の作用を検討し、人類文化の発達に対して現行法の営む促進的或は阻止的な作用を理解し、進んでその批判を努むべきことがその三である。社会生活の変遷に順応した、しかも現行法の体系として矛盾なき統一的解釈理論を構成することがその四である。而して、その何れの場合にも先進の学者の説に学ぶべきことは謂うまでもない。これをその五とする[123] — 我妻栄

反対解釈・類推解釈

類似した甲乙二つの事実のうち、甲についてだけ規定のある場合に、甲について反対の結果を認めるものが、反対解釈:argumentum a contrario)であり[124]、乙についても甲と同様の結果を認めるものが類推解釈(独:Analogie;仏:analogie)である[125]。類推解釈は、自然法論に相対する後期歴史法学派により、社会生活は可能な限り成文法規の解釈の形式によって規律されるべきとする法実証主義から説かれたものである[126](→#慣習法)。

刑法においては罪刑法定主義が妥当するため類推解釈は原則的に禁止されるから[127]、反対解釈と後述する拡張解釈のいずれが妥当するかを巡ってしばしば対立が起きるが[128]、民事事件においては、類推解釈と反対解釈は相反する関係に立つ[129]。形式論を重視すれば反対解釈に結び付きやすいが文理解釈同様具体的妥当性を欠くおそれがあり[130]、目的論を重視すれば類推解釈に結び付きやすいが法的安定を害するおそれがある[131]。そこで、どちらの解釈によるべきかは、特に当該制度・法規の趣旨・目的を考慮しなければならない[132]。甲についての制度趣旨(立法趣旨)が、乙についても妥当するもので、たまたま甲を典型的な場合として挙げたに過ぎないとすれば乙について類推解釈(類推適用)が導かれるし、あえて甲のみについて規定した趣旨だと理解すれば反対解釈が導かれる事になる[133]

なお、類推解釈を採るべきことが極めて明白な場合を勿論解釈(羅:argumentum a fortiori)ということがある[134]

例えば、日本民法第738条は、「成年被後見人婚姻をするには、その成年後見人の同意を要しない」と規定しており、事理弁識能力を欠く成年被後見人についてのみ規定し、その能力が著しく不十分である被保佐人については規定していないが、行為能力の欠ける程度の高い成年被後見人ですら成年後見人の同意が不要であることから、それより行為能力の欠ける程度が低いに過ぎない被保佐人については、論ずるまでもなく、保佐人の同意は必要ないと解釈されている[135]

拡張解釈・縮小解釈

制度の趣旨に鑑みることで、文理解釈の場合に比べて個々の条文の文理を多少拡張的に解釈することを拡大解釈又は拡張解釈(羅:interpretatio extensiva)、縮小して解釈することを縮小解釈(羅:interpretatio restrictiva)という[136]

拡張解釈は類推解釈と似ているが、類推解釈は、文字の意味に含ませえないものに拡張する場合であるのに対し、拡張解釈は、文字の意味に含ませる場合である[137]

例えば、鳥獣保護法において矢を使用する方法による「捕獲」が禁止されている場合に、獣の保護という制度趣旨の論理的文脈に鑑みて、実際に「捕獲」することのみならず、「捕獲」しようとする行為をも含む意味に解釈する場合[138]、これを拡張解釈(拡大解釈)の一例と評価することができるが[139]、罪刑法定主義及び刑法の自由保障機能を重視する立場からは、このような拡張解釈はできるだけ避けるべきであり、矢が全然当たらなくても「捕獲」だというのは、社会常識の範囲を逸脱しているとの批判がなされることになる[140]

これに対し、縮小解釈の例として、日本民法177条の「第三者」の解釈論が有名である[141]合憲限定解釈もこの縮小解釈の一種と考えられる[142]。縮小解釈の例には、ほかにも、日本国憲法第9条のいう「戦力」には、自衛のための最低限の実力は含まれないという憲法解釈などがある[143]

上記四つはいずれも論理解釈の一種である[144]。拡張解釈・縮小解釈は、類推解釈同様目的的論理を重視した解釈であり、形式的な文理解釈とは乖離した結論を導くから、法的安定を害することなく具体的妥当性を実現するためには、これらの解釈を正当化する体系的な許容性と、目的論の合理性とを厳密に検証しなければならない[145]。さもなくばご都合主義に堕してしまうからである[146]

変更解釈

なお、論理解釈の内、文理解釈と明らかに異なる別の意味に解する場合、類推解釈と別にこれを変更解釈ということがある[147]

例えば、条文が改正されたとき、単純な立法ミスによって関係法令相互の齪齪が生じ、改正後の制度を改正前の制度に当てはめて解釈せざるをえないような場合がその典型である[148]

立法者意思説と法律意思説

前述のとおり(→#反対解釈・類推解釈)、いかなる解釈が妥当するかは、なぜ当該制度・条文が存在するかという制度趣旨・立法趣旨に遡った説明が必要になるが、その手法については、既に述べたように体系的な制度趣旨を重視するのか、個別の条文についての立法趣旨を重視するのかという論理解釈を巡っての立場の違いがある他(→#論理解釈の問題点)、制度趣旨・立法趣旨の確定方法についても、立法当時の立法者及び起草者の意思をどの程度考慮すべきかについて、民法を中心に古くから議論がある。この点、20世紀以降のドイツ及び日本の通説は、論理解釈を重視しつつも、三権分立の原則からは、法の解釈は解釈時におけるをも含めた法律そのものの意義を明らかにすることであって、過去の立法者の思想を明らかにすることに尽きるものではないとする法律意思説に立つ。代表的論者として、イェーリング石坂音四郎がいる[149]。この立場からは、法律そのものではない起草委員の説明、議事録等のいわゆる立法資料は解釈に当たっての参考資料となりうるにすぎず、裁判官に対する法的拘束力は無いことになる[150][151]

ところが、19世紀のフランス・ドイツにおいては、これと相反する立法者意思説が通説であり、ヴィントシャイトが強調したように、立法者たる議会の尊重によって裁判官の不当な自由裁量を防ぎ、社会的弱者が害されることを防ぐべきことが主張されていた[152]。特にモンテスキューは権力者たる裁判官への不信から、裁判官をして法を語る口たらしめるべきことを主張し[153]、またサヴィニーにおいては、フランス法学と異なり論理解釈を重視しつつも(→#論理解釈)、法の解釈・研究は専ら古典文学を研究するのと同様の文献学的方法によるべしと主張されていた[154]。(→#慣習法

しかし、19世紀末から20世紀にかけて、資本主義の発展に伴う社会の変動・複雑化が立法者意思説の維持を困難にした[155]。「立法者が如何なる意思を有したるかの歴史的事実に膠着するは社会をして法律の犠牲たらしむるもの」であると指摘されたのである[156]

ここにおいて、註釈学派や概念法学の硬直を打破しようとするイェーリングやジェニーサレイユらの自由法論が台頭したこともあって法律意思説が通説化し、更に法律意思説も結局は解釈者個人の主観的価値判断を盛り込まざるをえないことから、立法過程及び制定当時の社会状況を踏まえ、現在の状況と比較することによって、法解釈に客観的な歴史的裏付けを与えようとするヘックエールリッヒらの見解が有力化した[157]。自由法論により提起された問題意識を受け止め、法解釈の実践的性格を認めるなら、立法当初とは異なる価値判断を法解釈に盛り込まざるをえないから[158]、いかなる形で法解釈の客観性が保たれるかが法律家を長年にわたって悩ませたのである[159]

今日では、幾度かの論争を経て、他の解釈学等の諸科学におけると同様[160]、唯一絶対の正しい法解釈を具体的に観念することは不可能ないしは極めて困難であるとして[161]、法律意思説を基本に各説の長所を採り入れようとする傾向が有力である[162][163]

なお、注意すべきは、単に「立法者意思」の尊重と言っても、その内容は論者によって一様でないことである[164]。例えば、デルンブルヒ梅謙次郎川名兼四郎のように体系的な論理解釈を重視すれば、具体的・個別的な起草者意思から切り離された抽象的・包括的な立法者意思を観念することになり[165]、その実質は法律意思説と同一になるし[166]星野英一のように個別的な文理解釈を重視すれば、起草者の原案が委員総会及び議会での根本的修正を受けていない場合に、立法者意思を起草者意思に近づけて理解することになる[167]。そもそも近代社会における法律とは何であるかを巡っての理解の差であるということもできるが[168]、極端な起草者意思・歴史的沿革の尊重には批判が強く[169]、法律は起草者の著作物ではないから[170]、法の解釈は特定の起草者個人の思想・見解を明らかにすることに尽きる(起草者意思説)ものではないという点において世界的にほぼ異論は無い[171]

こうして、かつて19世紀の大陸法学を支配した、法解釈の任務は唯一の正解の確認にあるとの信念が否定され[172]、法解釈学の創造的性格が認識されるようになると、その指針となるべき法哲学比較法学法政策学、法社会学等の関連諸科学の重要性が強調されるようになる[173]。そして、いかなる解釈をすべきか明らかにするためには、当該法文の文言を尊重しつつも、制度の趣旨・目的・社会の実態等を広く考慮しつつ[174]、極端な杓子定規にもご都合主義にも陥らないよう、法的安定性と具体的妥当性の調和[175][176]、換言すれば、理屈と人情の調和を目指して解釈しなければならないと考えられている[177]

以上をまとめれば次のようにいうことができる。

法律学は、「実現すべき理想の攻究」を伴はざる限り盲目であり、「法律中心の実有的攻究」を伴はざる限り空虚であり、「法律的構成」を伴はざる限り無力である[178] — 我妻栄

脚注

  1. ^ 我妻(1965)27頁
  2. ^ 我妻(1965)27頁
  3. ^ 我妻(2005)1頁
  4. ^ 我妻(2005)139頁
  5. ^ 長谷川(2008)7頁
  6. ^ ラートブルフ(1964)45頁、我妻(2005)139頁、日本民法92条、法の適用に関する通則法3条等参照
  7. ^ 長谷川(2008)428頁
  8. ^ 星野(1970)165頁、穂積陳重「英佛獨法律思想の基礎」『穂積陳重遺文集第二冊』165頁(岩波書店、1932年)
  9. ^ 星野(1970)166頁
  10. ^ 碧海(2000)149頁
  11. ^ ラートブルフ(1964)181頁
  12. ^ ラートブルフ(1964)46頁
  13. ^ 石坂(1919)93頁
  14. ^ 石坂(1919)93頁
  15. ^ ラートブルフ(1964)188頁
  16. ^ 星野(1970)153-184頁
  17. ^ ラートブルフ(1964)162頁、大塚(2008)11頁、長谷川(2008)49頁
  18. ^ 裁判所職員総合研修所『刑法総論講義案』三訂補訂版18頁(司法協会、2007年)
  19. ^ 藤田宙靖『行政法入門』第5版37-71頁(有斐閣、2007年)
  20. ^ 長谷川(2008)49頁、日本国憲法第84条日本国憲法第30条参照
  21. ^ 伊藤(1995)476頁
  22. ^ 伊藤(1995)560頁
  23. ^ 我妻(2005)135頁、石坂(1919)111-138頁
  24. ^ 我妻(2005)127頁
  25. ^ 我妻(2005)139頁
  26. ^ 『新版新法律学辞典』1106頁(有斐閣、1967年)
  27. ^ 中野次雄編『判例とその読み方』改訂版16頁(有斐閣、2002年)
  28. ^ ラートブルフ(1964)188頁
  29. ^ 長谷川(2008)52頁、芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』第4版374頁(岩波書店、2007年)
  30. ^ 伊藤(1993)47頁
  31. ^ 伊藤(1993)43頁
  32. ^ 伊藤(1993)44頁
  33. ^ 伊藤(1993)45頁
  34. ^ 長谷川(2008)52頁、芦部・前掲憲法374頁、田宮裕『刑事訴訟法』新版492頁(有斐閣、1996年)、『最高裁判所判例解説刑事篇昭和二十九年』94頁(法曹会、1954年)
  35. ^ 伊藤(1993)44頁、『最高裁判所判例解説民事篇平成七年』912頁(法曹会、1995年)
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  38. ^ 前掲・穂積陳重遺文集第二冊93頁
  39. ^ 石坂(1919)82頁
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  43. ^ 杉山直治郎『洋才和魂の法学者・ボアソナード尽瘁半生の生涯』帝国大学新聞昭和11年11月26日号
  44. ^ 我妻(2005)139頁、長谷川(2008)7頁
  45. ^ ラートブルフ(1964)170頁、伊藤(1995)560頁、日本国憲法前文憲法1条43条日本国憲法第14条日本国憲法第41条第76条3項参照
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  49. ^ 長谷川(2008)50頁
  50. ^ 長谷川(2008)4頁
  51. ^ 我妻(1965)27頁を中心に、石坂(1919)33頁、富井(1922)91頁、松波ほか(1896)47頁、デルンブルヒ(1911)30頁、鳩山(1923)14頁
  52. ^ 富井(1922)91頁、松波ほか(1896)47頁
  53. ^ デルンブルヒ(1911)30頁、石坂(1919)85頁、鳩山(1923)14頁
  54. ^ 長谷川(2008)404頁
  55. ^ 長谷川(2008)404頁
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  63. ^ 民法改正研究会=加藤雅信『民法改正と世界の民法典』12頁(信山社、2009年)、富井男爵追悼集・166頁
  64. ^ 富井(1922)69頁、前掲富井男爵追悼集155-169頁、穂積(1890)23頁、梅・前掲国家学会雑誌12巻134号349頁、仁井田益太郎=穂積重遠=平野義太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聞く座談会」法律時報10巻7号25頁、龍田節『会社法大要』はしがき2頁(有斐閣、2007年)
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  66. ^ 伊藤(1995)476頁
  67. ^ 長谷川(2008)404頁、我妻(2005)140頁
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  72. ^ 香城・前掲ジュリスト655号299頁、藤田(2002)178頁、伊藤(1993年)19頁、伊藤(1995)初版はしがき
  73. ^ 我妻(1965)27頁、石坂(1919)33頁
  74. ^ 我妻(2005)140頁、星野(1970)11頁
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  77. ^ 石坂(1919)33-36頁、松波ほか(1896)49頁、富井(1922)94頁、我妻(2005)142頁、デルンブルヒ(1911)34頁、星野(1970)8頁
  78. ^ 穂積(1890)第5編第6章
  79. ^ 星野英一『民法概論I』改訂版51頁(良書普及会、1993年)
  80. ^ 長谷川(2008)409頁、碧海(2000)98-132、163頁
  81. ^ 富井(1922)93頁
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  83. ^ 富井(1922)94頁
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  86. ^ 星野・法学教室95号56、57頁
  87. ^ 我妻(1965)27頁
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  89. ^ 石坂(1919)2頁、牧野英一『民法の基本問題』3頁以下、梅謙次郎述『民法総則(自第一章至第三章)』305頁(法政大学、1907年)、碧海(2000)155-161頁
  90. ^ 藤田(2002)135頁
  91. ^ ラートブルフ(1964)184頁
  92. ^ 碧海(2000)149-151頁、石坂(1919)95頁
  93. ^ 勝田有恒=山内進編『近世・近代のヨーロッパの法学者たち――グラーティアヌスからカール・シュミットまで――』329頁(ミネルヴァ書房、2008年)
  94. ^ 富井(1922)101頁、石坂(1919)75頁、藤田(2002)178頁
  95. ^ 富井(1922)100-101頁、梅謙次郎「法律ノ解釈」太陽9巻2号56-62頁(博文館、1903年)
  96. ^ ラートブルフ(1964)184頁
  97. ^ 碧海(2000)158頁
  98. ^ 碧海(2000)160頁、石坂(1919)93-110頁
  99. ^ 石坂(1919)2-4頁
  100. ^ 我妻(1965)28頁
  101. ^ 石坂(1919)43頁
  102. ^ 石坂(1919)33頁
  103. ^ 内田・債権法の新時代15頁、星野英一「日本民法典の全面改正」ジュリスト1339号90-102頁(有斐閣、2007年)
  104. ^ 星野・前掲法学教室95号61頁
  105. ^ このために実質的考慮をせざるを得ない拡張・縮小解釈は論理解釈のカテゴリーから除外される。星野(1970)14頁
  106. ^ 穂積重遠『民法読本』16頁(日本評論社、1927年)
  107. ^ 梅・前掲国家学会雑誌12巻134号348頁、馬場定二郎編『修正法典質疑要録』4頁梅発言(1896年)、梅・前掲太陽9巻2号56-62頁、梅謙次郎述『民法総則(自第一章至第三章)』304頁-309頁(法政大学、1907年)、穂積陳重・前掲遺文集二冊419頁
  108. ^ 穂積(1890)第五編第六章
  109. ^ 我妻(1965)29頁、石坂(1919)74頁、富井(1922)101頁
  110. ^ 石坂(1919)76-78頁、我妻栄『物権法(民法講義II)』序文(岩波書店、初版1932年、新訂1983年)
  111. ^ 富井(1922)95頁
  112. ^ 梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号671頁以下、穂積陳重「獨逸民法論序」『穂積陳重遺文集第二冊』421頁、富井(1922)序5頁、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号24頁、仁保亀松『国民教育法制通論』19頁(金港堂書籍、1904年)、仁保亀松講述『民法総則』5頁(京都法政学校、1904年)、松波ほか(1896)8頁
  113. ^ 梅・前掲太陽9巻2号56-62頁、梅・前掲民法総則(自第一章至第三章)304頁-309頁、瀬川信久「梅・富井の民法解釈方法論と法思想」『北大法学論集』41巻5-6号402、423頁(北海道大学、1991年)、穂積陳重「獨逸法学の日本に及ぼせる影響」『穂積陳重遺文集第三冊』621頁、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号24頁
  114. ^ 石坂(1919)94頁
  115. ^ 梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法(続)」『法典質疑録』9号779頁以下(1896年)、仁井田ほか・前掲法律時報10巻7号23頁、井上正一「仏国民法ノ我国二及ボシタル影響」仏蘭西民法百年紀年論集60頁以下
  116. ^ 前掲富井男爵追悼集・83頁
  117. ^ 前掲富井男爵追悼集・84頁
  118. ^ 和仁陽岡松参太郎――法比較と学理との未完の綜合――」『法学教室』183号79頁
  119. ^ 我妻栄『民法研究V』81頁(有斐閣、1968年)
  120. ^ 星野(1970)71頁、内田貴『民法I総則物権総論』第4版25頁(東京大学出版会、2008年)、潮見佳男『民法総則講義』24頁(有斐閣、2005年)
  121. ^ 石坂(1919)41頁、鳩山(1923)14頁、末弘厳太郎『物権法上巻』序文(有斐閣、1921年)
  122. ^ 同様の問題は、ドイツ法系の法律に英米法流の思想を接木して根本的改修を図った日本刑事訴訟法にも存在する。団藤重光「刑事訴訟法の40年」ジュリスト930号5頁(有斐閣、1989年)。またドイツ民法典についても、ローマ法系とゲルマン法系の調和の問題がある。石坂(1919)95-97頁
  123. ^ 我妻・講義II序文、星野英一『民法論集第五巻』218頁(有斐閣、1970年)
  124. ^ 類推解釈の体系的な位置付けについては諸説あり、その実質は新たな立法に等しく、もはや解釈とは言えないとする説も主張されている。石坂(1919)58-62、102頁
  125. ^ 我妻(1965)28頁、鳩山(1923)15頁
  126. ^ 石坂(1919)2頁
  127. ^ ラートブルフ(1964)162頁、大塚(2008)11頁、我妻(2005)152頁、日本国憲法第31条
  128. ^ 大塚(2008)12頁
  129. ^ 我妻(2005)147頁
  130. ^ 長谷川(2008)418頁
  131. ^ 我妻(1965)29頁
  132. ^ 我妻(2005)148頁
  133. ^ 我妻(2005)147頁
  134. ^ 長谷川(2008)424頁、碧海(2000)153頁
  135. ^ 長谷川(2008)424頁、裁判所職員総合研修所『親族法相続法講義案』6訂再訂版4頁(2007年、司法協会)
  136. ^ 我妻(2005)144頁、石坂(1919)52頁
  137. ^ 我妻(2005)148頁
  138. ^ 最判平成8年2月8日刑集50巻2号221頁
  139. ^ 大塚(2008)12頁
  140. ^ 大谷實=前田雅英『エキサイティング刑法総論』18頁大谷発言(有斐閣、1999年)
  141. ^ 最判昭和43年8月2日民集22巻8号1571頁、最判平成10年2月13日民集52巻1号65頁
  142. ^ 伊藤(1995)396頁
  143. ^ 伊藤(1995)177頁
  144. ^ デルンブルヒ(1911)36頁
  145. ^ 我妻(1965)29頁
  146. ^ ラートブルフ(1964)182頁
  147. ^ 石坂(1919)53頁
  148. ^ 長谷川(2008)415頁
  149. ^ 石坂(1919)83-92頁
  150. ^ デルンブルヒ(1911)48頁、石坂(1919)39、87頁、富井(1922)94頁、鳩山(1923)14頁、ラートブルフ(1964)286頁
  151. ^ 日本憲法76条3項の規定する、裁判官を拘束する「法律」は、形式的意味の「法律」(日本国憲法第59条)に限られず、政令規則条例・慣習法などを含む意味に解されているが、立法資料まで含まれるとは説かれない。伊藤(1995)578頁、佐藤幸治『憲法』第3版328頁(青林書院、1995年)、長谷部恭男『憲法』第4版327頁(新世社、2008年)
  152. ^ 勝田=山内・前掲近世・近代のヨーロッパの法学者たち331頁
  153. ^ 碧海(2000)149頁
  154. ^ 石坂(1919)35、85頁
  155. ^ 潮見俊隆=利谷信義編『日本の法学者』法学セミナー増刊33頁(日本評論社、1974年)
  156. ^ 鳩山(1923)14頁
  157. ^ 広中俊雄『新版民法綱要第一巻総論』64頁(創文社、2006年)
  158. ^ 石坂(1919)24、48、76頁、藤田(2002)138頁
  159. ^ 碧海(2000)134頁、平井宜雄「戦後日本における法解釈論の再検討(2)――法律学基礎論覚書(2)――」『ジュリスト』918号102頁(有斐閣、1988年)
  160. ^ 藤田(2002)156頁
  161. ^ 石坂(1919)110頁、星野(1970)4、26頁、川島武宜『科學としての法律學』(弘文堂、1955年)20頁。なお、抽象的に観念することは可能であるとの主張(客観説)もある。星野(1970)42頁、ロナルド・ドウォーキンの項目も参照
  162. ^ 広中・前掲新版民法綱要第一巻総論64頁、石坂(1919)1-110頁
  163. ^ 立法資料研究の必要を説くものにも様々なニュアンスがある。我妻栄『民法研究V』81頁(有斐閣、1968年)、デルンブルヒ(1911)48頁、星野・法学教室95号57頁、池田真朗「論文批評における方法論の問題――道垣内助教授の批判に応えて――」法律時報62巻12号118頁(1990年)
  164. ^ 石坂(1919)88、91頁
  165. ^ デルンブルヒ(1911)34頁、梅謙次郎「法律の解釈」太陽9巻2号61頁(博文館、1903年)、川名兼四郎『日本民法総論』訂正再版12頁(金刺芳流堂、1912年)、川名兼四郎述『改訂増補民法総論』訂正再版27-28頁(金刺芳流堂、1904年)
  166. ^ デルンブルヒ(1911)48頁
  167. ^ 星野(1970)74、80頁、この立場からは、素朴な文理解釈及び立法者・起草者意思解釈の結果が現在の社会に適合しないときに、利益考量による修正が必要になると説かれる。星野(1970)3-67頁
  168. ^ 法律は議会というより主権者の命令であるとの立場も有力である。松波ほか(1896年)3頁。石坂音四郎の項目も参照
  169. ^ 安達三季生「法解釈学(実定法学)方法論と債権譲渡の異議を留めない承諾――池田真朗教授の続稿に因んで――」『法学志林』91巻4号74頁(法政大学、1994年)、安達「指名債権譲渡における異議を留めない承諾、再論――池田真朗教授および石田・西村両教授の批判に答えて――」法学志林89巻3・4号133頁、道垣内弘人「(民法学のあゆみ)池田真朗「指名債権譲渡における異議を留めない承諾(一)~(三・完)」法律時報62巻10号78頁(1990年)
  170. ^ 富井(1922)7頁、石坂(1919)86頁
  171. ^ 星野は、「外国にも「立法者意思説」はありますが、「起草者意思説」はないようです」と発言している。星野・法学教室95号59頁。一方、「学者は通常立法者を立法権を有する者の意義に解す是固より正当なりと雖も或は法律の起草者を以て立法者と解する者あり」との指摘もある。石坂(1919)88頁
  172. ^ 碧海(2000)149頁
  173. ^ ラートブルフ(1964)185頁、石坂(1919)67頁
  174. ^ 石坂(1919)76頁、鳩山・債権法における信義誠実の原則444頁(我妻栄執筆)、星野(1970)13頁
  175. ^ 刑法においては、自由保障機能と法益保護機能の調和の問題となって現れる。大塚(2008)3頁、日本国憲法第31条
  176. ^ 刑事訴訟法においては、特に適正手続と真実発見の調和の問題となって現れる。団藤重光『新刑事訴訟法』7訂版27-29頁(創文社、1967年)、日本刑事訴訟法第1条
  177. ^ 我妻栄『法律における理窟と人情』2版4頁(日本評論社、1987年)、我妻栄『民法研究X』4頁(有斐閣、1971年)、我妻(1965)28頁、我妻(2005)153頁、我妻(1953)534頁、我妻「私法の方法論に関する一考察」ジュリスト563号183頁
  178. ^ 我妻・ジュリスト563号187頁、我妻(1953)560頁

主要参考文献

関連項目