ランゴバルド人

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パンノニア(現スロバキア・ハンガリー付近)における分布
イタリアにおける分布

ランゴバルド人(ランゴバルドじん)は西暦1世紀頃に文献史料に初めて登場し、6世紀後半にはイタリア半島の大部分を支配する王国を築いたゲルマン人部族である。

名称

8世紀に出来た『ランゴバルド史英語版』に残るランゴバルド人の伝説的な説話では、ランゴバルド族の旧名はウィンニーリー族であり、スコリンガ(Scoringa)と呼ばれた地でヴァンダル人と戦った際に、ヴォーダン(オーディン)神からランゴバルド(Longibardi)の名を与えられたと伝えられる[1]

この時、オーディンは日の出時に最初に見かけた方に勝利を与えるとしたが、ウィンニーリー族はオーディンの妻フリッグに戦勝の祈願をしていた。フリッグはウィンニーリー族に、明朝はオーディンの館の東側に並び、その際女性は髪を顔に垂らしておくようにと言った。朝になりフリッグはオーディンを揺り起こして「オーディン、ごらんなさい(オーディン、セー)」と叫んだ。オーディンは跳ね起きて東側の窓を見ると髭の長い人間たちがいた。「あの髭の長い(ランゴバルド)者共は誰だ」とフリッグに聞いた。それはフリッグに戦勝を祈願していたウィンニーリー族だった。彼らを先に見たことによってオーディンはウィンニーリー族に勝利を与えなければならなくなった。以後ウィンニーリー族は、「ランゴバルド族」と呼ばれるようになった。また、地名伝説として、フリッグが言った“オーディンセー”は、デンマークの都市オーデンセの名の由来となったと伝えられる[2]

言語的にはランゴバルドとは「長い顎鬚(あごひげ)」を意味する(英語のlong beardに相当)ランゴバルド人の言葉に由来すると考えられ[3]、部族の帰属概念として男性が顎鬚を伸ばしていた事に因んでいる。ランゴバルド人がイタリア半島の住人と同化して姿を消した後も、イタリア北部を指す地名ロンバルディア(ランゴバルド人の土地)としてその名は残り、現在でも使用される。

歴史

最初期の歴史

ランゴバルド人の原住地が、その古伝承通りスカンディナヴィア半島であることは今日ほぼ確定されている[4][3]。人口過剰、土地の不足のため、彼らの一部がイボール(Ybor)とアギオ(Agio)と言う首長に率いられて古郷を離れ、スコリンガ(Scoringa)と呼ばれる地に勢力を持っていたヴァンダル人と戦ってこれを打ち破った[4]。このスコリンガは、現在のオーデル川ヴィスワ川(ヴァイクセル川)の間の海岸地方であったと推定されている[1]。ヴァンダル人を撃破した後、前150年-前100年頃には、ランゴバルド人はマウリンガ(Mauringa)と呼ばれた地に居住していた。この地は現在のエルベ川左岸のリューネブルク地方とメクレンブルク地方に相当すると考えられる[1]。ランゴバルド人は現地人と戦闘を交えつつ混住するようになり、スエビ部族連合を構成する一部族となった[1]ローマ人の記録者はいずれもこの時期のランゴバルド人をスエビ人の一支族と見做している[1]。ランゴバルド人は前1世紀前半にスエビ人がウシペテース人英語版と戦ってライン川流域に進出した際には、恐らくその一部として加わっていたものと推定される[1]

その後のランゴバルド人の動向については、ローマ人による断片的な記録しかない。彼らは少数であったが、その武勇によって独立を維持した高貴な部族であるとタキトゥスは記録する[1]。西暦5年にローマ皇帝ティベリウスの攻撃を受けて、ランゴバルド人は一時的にエルベ川の右岸へ逃れた[1]。そして西暦9年トイトブルク森の戦いでローマ軍が敗退しその脅威が和らぐと、再びエルベ川左岸に帰還した[1]17年にはスエビ部族連合から離脱し、アルミニウス率いるケルスキー族英語版と結び、スエビ人を打ち破った[1]。更に47年にはケルスキー族の内紛に介入し、追放された王イタリクスをケルスキー族の王に復位させた[1]。その後、166年オビイ族英語版と共に6,000人の兵力でパンノニアを攻撃したが、ローマ軍に敗れ故地に撤退したことが伝えられる[1]。この後、いわゆる民族移動時代である5世紀まで、ランゴバルド人の動向は全く記録に登場しない[1]

民族移動時代

5世紀末、ランゴバルド人はドナウ川の中流域に現れる。彼らがエルベ川流域から何時、どのような経路で、何のために移動したのか、確実に言えることは何もない[1]。ただしこの時移動したのはランゴバルド人の一部であり、エルベ川左岸地区にはかなりの人数が残留していたことが確認されている[1]。残留したランゴバルド人たちは、少なくても12世紀までバルディ族Bardi)の名でしばしば記録に登場する[1]

移動したランゴバルド人たちは、アンタイブ(Anthaib)、バイナイブ(Bainaib)、ブルグンダイブ(Burgundaib)を次々と襲撃し、住民を支配下に置いたとされる[5]。この三つの地名はいずれも部族名から来ていると推定されるが、具体的にどこの土地を指すのかは判然としない[5]カルパティア山脈まで到達した後、東方から侵入してきたフン族と接触し戦闘が行われた。その後のフン族が関わるローマとの戦いにランゴバルド人が登場しないことから、フン族全盛期においてもランゴバルド人はその支配下には入らずにいたと考えられている[5]

5世紀後半、イタリアの支配権を握ったオドアケル488年ノリクム属州の北側、ドナウ川の対岸に居住していたルギー人を撃破して追い散らし、現地でルギー人の支配下にあった住民をイタリアに移住させた上で撤退すると、空白地帯となったノリクム属州北側にランゴバルド人が移動し、ノリクム属州にはヘルール人が移住した[6]。ランゴバルド人はヘルール人の支配下に入り貢納義務を負わされたが、数年後にはタトー英語版王の指揮の下、すぐ東方のフェルド(Feld)と呼ばれる平原に移動した[6]。この地でヘルール人の支配に反抗し、勝利を収めて独立勢力となった[6]。続くワコー英語版王の下、当時東に隣接して居住していたスエビ人を打ち破って支配下に置き、北側でもヘルール人を追ってモラヴィア(メーレン)、ベーメン地方を征服した。更にワコーはテューリンゲン族英語版の王女ライクンダ(Raicunda)、ゲピド族の王女アウストリグサ(Austrigusa)、ヘルール族の王女シリンガ(Silinga)を娶り、アウストリグサとの間の長女ウィシカルタ(Wisicharta)をフランク王国の王テウデベルト1世へ、次女ワルデラータ(Warderata)をテウデベルト1世の息子テウデバルトへ、それぞれ嫁がせた。また東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と同盟を結び、ドナウ川中流域の有力な王として台頭するに至った[7]

ローマ領内への移動

540年頃、ワコーは死んだ。ワコーは自分の息子であるワルタリに王位を継承させるため、自分の即位時に甥であるリシウルフを追放していた(ランゴバルド部族法では彼が次の正統な王位継承者であった。)[8]。これによりワルタリが王位を継ぐことができたが、彼の治世は短命に終わり、ガウス家イタリア語版アウドイン英語版が王位についた[9]。当時東ローマ帝国はユスティニアヌス1世の下、イタリア半島の支配権を東ゴート王国から取り戻すべく長い戦争の最中であった(ゴート戦争)。イタリア半島に交通の便が良いドナウ中流域で急速に勢力を拡大したランゴバルド人は、東ローマ帝国にとって戦略上無視できない存在となっていた[9]546年にユスティニアヌス1世はランゴバルド人を味方とするためアウドインと盟約を結び、巨額の年金を与えること約すとともにノリクム、パンノニアへの移住をランゴバルド人に許可した[9]。この時初めてランゴバルド人は「ローマ帝国領」に移住した[9]。この結果、後にユスティニアヌス1世はイタリアでの戦いにおいて、同盟軍(フォエドゥス foedus)となったランゴバルド人から援軍を得る事ができた[9]。しかしアウドインと彼の指揮するランゴバルド人は東ローマ帝国が期待したような従順な同盟者ではなく、548年にはダルマティアイリュリクムを寇略し、多数の住民を奴隷として連れ去るなどの行動をとっていた[10]

ローマ領内でも急激に勢力を拡張するランゴバルド人は、同じくローマ領内のシルミウムに拠点を置いて勢力を持っていたゲピド族と対立するようになった[8]。更にワコー王に追放されたリシウルフの息子、イルディゲスを巡るランゴバルドの内紛が事態を悪化させた。イルディゲスは自分がランゴバルドの王位継承者であるとし、その正統な地位の回復への支援をゲピド王に求めた[8]547年549年には軍事衝突に至る可能性のある危機があったが、この時は実際の戦闘に入る前に和平が行われた[8]。イルディゲスはゲピド族から期待した支援を得られないことを悟ると、一時スラブ人の下に身を寄せ、その後独自にランゴバルド人、ゲピド人、スラブ人からなる混成軍を率いて東ゴート王国と結ぶべくイタリアへ向かい、ゴート戦争に参加して東ローマ軍と戦うなど流転の人生を歩んだ[8]。イルディゲスが去った後も両部族の対立は完全には解消せず、551年に遂に軍事衝突に発展し、ランゴバルド人はゲピド族を打ち破った[8]。しかしランゴバルド人が過剰に勢力を拡大することを望まなかった東ローマ帝国は、両部族の和平を画策して介入し、結局ゲピド族を完全に滅亡させることなく和平が結ばれた[8]。その後、ランゴバルド人は東ローマ帝国の同盟軍としてゴート戦争に参加し、552年には東ゴート王トーティラを戦傷死させるなどの活躍を示したが、占領した都市で放火略奪を欲しいままにし、教会に避難した婦女に暴行を加えるなど暴虐の限りを働いた[11][3]。このため激怒した東ローマ軍の司令官ナルセスによって護送軍付きでイタリアから退去させられた[11]

イタリア侵入

565年にアウドインが死去すると、その息子アルボイン(アルボイーノ)が即位した。ほぼ同じ頃、ゲピド族でも新たな王クニムンド英語版が即位し、この二人の王の下で両部族の対立が再燃することになった[12]。再び両部族の戦闘が始まると、当初アルボインは優勢に戦いを進めたが、東ローマ帝国がゲピド族を支援しはじめ、その援助を得たゲピド軍に敗北して苦境に陥った[13]。このため、アルボインはパンノニアで新たに勢力を拡大していたアヴァール人ハーンバイアヌスに同盟を依頼した[12]。ランゴバルドが敗勢にある中で結ばれたこの同盟は、戦闘参加に先立ってランゴバルド人が保有する家畜の十分の一をアヴァール人に引き渡し、戦闘終了後には戦利品の半分及び占領したゲピド族の領土全てをアヴァール側が接収するという、極めて不利な条件で結ばれた[13]。ゲピド側は対抗して東ローマ帝国の援軍を求めたが、皇帝ユスティヌス2世は口約束のみで実際に援軍を送ることはなく、アヴァール人とランゴバルド人に挟撃されたゲピド王クニムンドはドナウ川とティサ川の間で激戦の末に敗北し、戦死した[13]。この敗北によってゲピド族の一部はランゴバルド人に投降し、一部はアヴァール人の隷属民とされ、他の生存者は皇帝の庇護を求めて東ローマ帝国へと移り、部族として消滅するに至った[13]

こうしてゲピド族との戦いに勝利を収めたアルボインであったが、ゲピド族よりも遥かに強力なアヴァール人の脅威に対処しなければならくなった上、パンノニア周辺が戦争の結果荒廃したことから、ゴート戦争の参加によってその豊かさを知っていたイタリアへの移動を画策した[14]。ランゴバルド人の兵力が十分でなかったことからイタリア侵攻の成功を確信できなかったアルボインは、現在の領土を明け渡すが移動後に帰還した場合には元の土地の所有権をランゴバルド人に返還することなどをアヴァール人と取り決め、スエビ人、パンノニアとノリクムのローマ属州民、ゲピド人の残党、サルマタイを兵力に加え、更に20,000人にも上るザクセン人を招請してイタリアへ進発した[15]

こうして形成された、ランゴバルド人を中核とする緩い結合集団は、アルボインの指揮の下で568年5月にイタリアに入った[15][16][17]。前年にナルセスが解任されていた東ローマ帝国のイタリア駐留軍はこの侵入に対処できず、アルボインは北イタリアと中部イタリア一体を制圧し、ミラノ(メディオラヌム)を拠点にランゴバルド王国(Regnum Langobardonum)を建設した[18]

ランゴバルド王国

イタリアに侵入したランゴバルド人とその連合諸部族の総数は約300,000人、その内、武装した兵力は40,000人から50,000人であったと推定されている[17]。諸部族の寄せ集めであったランゴバルド王国は、建国直後から内紛にさらされ、572年には恐らく東ローマ帝国と共謀した族内有力者によってアルボインが暗殺された[19]。跡を継いだクレフ(クレーフィ)の時代も内紛は絶えず、573年には同行してきたザクセン人たちが「かれら自身の法の下に留まること」を許可されなかったため、ランゴバルド軍から離脱して故地のシュヴァーベンへと去っていった[15]574年にはクレフも暗殺され、その後10年に渡る空位の間に族内有力者たちが、それぞれ独立した領地を実力で確保していった[19]。東ローマ軍の反撃が始まると、各地のランゴバルド系支配者たちはひとまずアウタリを王に選出し、パヴィアを首都とする王国の体裁を整えた[19]。しかし、南部のベネヴェント公スポレート公の独立性は強く、北部でも首都から離れたフリウーリ公トレント公は同様であった[19]。このため、ランゴバルド王国は「一つの国家であるよりも寧ろ諸国家のモザイクであった(リシェ)」と評される[20]。こうして高度に分権的な王国としてのランゴバルド王国の性格が形作られた。

ランゴバルド王国はイタリア半島の北部おとび中部の大部分を支配する王国としてその後2世紀にわたり存続した。773年フランク王国カール1世(大帝)によって征服された後、カール1世がフランク王と兼ねてランゴバルド王に即位し、「フランク人とランゴバルド人の王」となった[21]。彼は781年には、息子のピピンイタリア王国の王とした[21]。このイタリア王国はランゴバルド王国とスポレート公領から成り、ベネヴェント公領は独立した公国となった[21]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 久野 1971, p. 38
  2. ^ 山室 1982
  3. ^ a b c 西洋古典学辞典 2010, p. 1325 「ランゴバルディー(族)」の項目より
  4. ^ a b 久野 1971, p. 37
  5. ^ a b c 久野 1971, p. 39
  6. ^ a b c 久野 1971, p. 40
  7. ^ 久野 1971, p. 41
  8. ^ a b c d e f g 久野 1971, p. 44
  9. ^ a b c d e 久野 1971, p. 42
  10. ^ 久野 1971, p. 43
  11. ^ a b 久野 1971, p. 45
  12. ^ a b 久野 1971, p. 46
  13. ^ a b c d 久野 1971, p. 47
  14. ^ 久野 1971, p. 48
  15. ^ a b c 久野 1971, p. 49
  16. ^ リシェ 1974, p. 158
  17. ^ a b 斎藤 2008, p. 128
  18. ^ 斎藤 2008, p. 126
  19. ^ a b c d 斎藤 2008, p. 130
  20. ^ リシェ 1974, p. 160
  21. ^ a b c 斎藤 2008, p. 135

参考文献

  • ピエール・リシェ 著、久野浩 訳『蛮族の侵入』白水社〈文庫クセジュ〉、1974年12月。ISBN 978-4-560-05567-0 
  • 史学会編『史学雑誌 第80編 第11号』山川出版社、1971年11月。 
    • 久野浩「民族移動期におけるランゴバルド族の動向」『史学雑誌 第80編 第11号』山川出版社、1971年11月。 
  • 山室静『北欧の神話 神々と巨人のたたかい』筑摩書房、1982年。ISBN 978-4-480-32908-0 
  • 北原敦『イタリア史』山川出版社〈世界各国史15〉、2008年8月。ISBN 978-4-634-41450-1 
  • 松原國師『西洋古典学事典』京都大学出版会、2010年。ISBN 978-4-87698-925-6 

関連項目