アウタリ

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アウタリ
ランゴバルド王
Nuremberg chronicles f 150r 1.jpg
アウタリの木版画(ニュルンベルク年代記、1493年
在位 584年 – 590年

出生 540年ごろ
死去 590年9月5日
パヴィーア
配偶者 テオデリンダ
父親 クレフ
宗教 アリウス派
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アウタリまたはアウタリウス (ラテン語: Authari, Autharius 540年ごろ – 590年9月5日) は、ランゴバルド王国の王(在位: 584年 - 590年)。

生涯[編集]

第2代ランゴバルド王クレフが574年に暗殺されると、ランゴバルド人は息子のアウタリをすぐに王位につけようとはせず、10年(12年とも)の間国内の公が合議する諸公の時代に入った。

574年と575年に、ランゴバルド人はメロヴィング朝オルレアン(ブルグント)王グントラムの支配するプロヴァンスに侵攻した。この報復として、グントラムと同盟していたアウストラシア王キルデベルト2世が北イタリアに侵攻した。アウストラシア軍はアディジェ川を下りトリデントゥム(現トレント)を占領した。また東ローマ皇帝ティベリウス2世がフランク人と同盟しようという動きを見せるようになり、挟み撃ちを恐れたランゴバルド人は584/5年にアウタリを王に選出し、首都パヴィーアを彼の領地とした。彼の最初の難敵は、ランゴバルド人でありながら東ローマ帝国と組んでポー平原を支配していたブレシェッロドロクトゥルフだった。彼をラヴェンナに追いやりブレシェッロを制圧したのち死去するまでの6年間、アウタリはラヴェンナ総督スマラグドゥスやメロヴィング朝フランク王国の諸王と闘い続けた。

グントラムとキルデベルト2世は、最初の報復に飽き足らず、以後何度もイタリアに侵攻した。その背景にはアウストラシア王テウデベルト1世のイタリア遠征の記憶や、キルデベルト2世の母で好戦的なブルンヒルド、東ローマ帝国、ラヴェンナ総督府による強い後押し、グントラムの短気で激しい性格があったとされる。彼らが588年に侵攻してきた際は、アウタリはこれを易々と撃退したものの、二人のフランク王は590年に再びモン・スニ峠ブレンナー峠を通ってミラノやヴェローナに侵攻してきた。この時にはアウタリもパヴィーアでの籠城を強いられたが、フランク軍はラヴェンナ総督軍との連携が取れず、結局疫病が発生したため撤退した。

フランク人の脅威を受けていない時期には、アウタリはもっぱら東ローマ帝国領に侵攻し、ランゴバルド王国の勢力を広げていった。コマッキオの要塞が陥落したことで、東ローマ帝国はラヴェンナとパドヴァの間での連絡を絶たれた。スポレート公ファロアルド1世はラヴェンナの外港を占領し、徹底的に破壊した。アウタリはレッジョを押さえカラブリアを征服することを誓ったが、この誓いは後のランゴバルド王もついに果たすことができなかった。

589年5月15日、アウタリはバイエルン公ガリバルト1世の娘テオデリンダと結婚した。590年にアウタリはパヴィーアで死去した。毒殺された可能性もある。この後テオデリンダが再婚相手に選んだトリノアギルルフが王位を継いだ[1]

脚注[編集]

  1. ^ German Tribes org Lombard Kings”. GermanTribes.org. GermanTribes.org. 2010年7月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月18日閲覧。

参考文献[編集]

  • Jarnut, Jörg (1992). Geschichte der Langobarde. Stuttgart.