民航空運公司

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民航空運公司
各種表記
繁体字 民航空運公司
簡体字 民航空運公司
拼音 Mínhánghángkōngyūn Gōngsī
英文 Civil Air Transport
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民航空運公司(みんこうくううんこんす、略称:CAT)は、1975年まで中華民国台湾)に存在した航空会社

概要[編集]

OSSの支援の下に[編集]

クレア・リー・シェンノート
ベトナムに展開するカーチスC-46型機

第二次世界大戦終結後の1946年に、行政院善後救済総署(行総)管轄下の行総空運隊として創立された。創立に際してはアメリカOSS(のちのCIA)が深く関わり、第二次世界大戦中にアメリカ合衆国義勇航空隊(「フライング・タイガース」)を率いたクレア・リー・シェンノートが役員に名を連ねた。既に中華民国では中国航空(中航)と中央航空(央航)の2社が民間航空を寡占する状態であり、曲がりなりにも民族資本となった両社に加えて新たに外資が参入することには中国国民党国民政府内部からも反発があった。このため連合国救済復興機関(UNRRA)の復興援助物資の輸送と航空機関の再建を担うという目的で、何とか参入を認めさせた経緯がある。

UNRRA援助が1948年に終了すると同社は中華民国交通部管轄下の民航空運隊となり、ベトナム国統治下のハイフォンに就航するなど民間航空としての活動を本格化させるが、その一方で中国共産党軍との国共内戦の激化に伴い国民党軍の軍事物資や兵員の運搬支援業務も請負った。

台湾へ[編集]

国共内戦では国民党側の敗北に終わり、また中航・央航では従業員が集団で共産党側に投降した(両航事件中国語版)こともあって、台湾へと遷都した中華民国でのフラッグ・キャリアとしての地位を民航が担うこととなる。とは言え、中国共産党中華人民共和国の施政下となった中国大陸内の路線と市場を失った打撃は大きく、CIAによる援助で何とか命脈を保つことが出来た。

1950年には台湾島内の航空路線を開設すると共に、東京シンガポール香港バンコク経由)にも就航。冷戦下に勃発した第一次インドシナ戦争朝鮮戦争などのアジア諸国で勃発した戦争においてアメリカ軍向けの運送業務につく傍ら、同じくCIAの支援の下設立されたエア・アメリカとともに、東南アジアや大陸におけるアメリカや中華民国の諜報活動や秘密軍事活動の支援に従事する。

表の顔[編集]

台北松山空港に駐機するダグラスDC-6(1966年)

また、表の顔としては、ダグラスDC-6Bや、「マンダリン・ジェット」(機体記号:B-1008)と名づけられ中華風の機内装飾が施されたコンベア880などの大型旅客機を運行し、中華民国内路線のみならず東京羽田空港)や大阪伊丹空港)、香港マニラサイゴンバンコクなどへの国際線を運行するまでになった。

また、国内線とチャーター便運航を目的として1951年復興航空1957年遠東航空がそれぞれ運航を開始し、1959年にはその後同国のフラッグ・キャリアとなる中華航空(現・チャイナエアライン)が設立されたものの、当時中華郵政当局が発行した航空切手や記念切手には民航空運公司の保有機が描かれており、国際線を数多く運航する同社は事実上当時の中華民国のフラッグキャリアの扱いであった。1953年には中華民国による民間航空会社への外資規制が成立し、これに対応する形でペーパーカンパニーへの株主移転を図りながら1955年に民航空運公司へと改称、また機体整備などの関連部門を亜洲航空公司へとスピンオフした。

会社清算[編集]

その後も順調に運営されていたものの、1968年2月16日に唯一のボーイング727を運航担当役員が無断で操縦して、台北松山空港への着陸進入に失敗(民航空運公司10便墜落事故)して墜落。全ての旅客便を運航停止に追い込まれたところへ同社経営陣による脱税も発覚し、一挙に衆目の批判にさらされることとなった。それ以前から中華民国では、外資色の強い民航より国民党が深く関わった中華航空を優遇する政策が採られており、またアメリカの諜報活動が東アジアから東南アジアへと軸足を移す中で民航の重要度がCIAでも低下していた。

その後は国際貨物便を細々と運行していたものの、蒋介石総統が死去しベトナム戦争が終結した1975年に会社を清算した。

運行機材[編集]

展示されているC-47(B-126)

保存機体[編集]

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]