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楊茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楊 茂
各種表記
ハングル 양무
漢字 楊 茂
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: よう ぼう
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楊 茂(よう ぼう、朝鮮語: 양무生没年不詳)または司馬 楊茂(しば ようぼう)は、百済蓋鹵王から東城王時代にかけての武将官吏[1]。官職は司馬[1]中国人名であるため、百済帰化していた中国人とみられる[2][3][4]。出自については、中国東北部出身という説[5]朝鮮植民地楽浪郡帯方郡漢人遺民[6]、具体的に楽浪楊氏という説がある[7]

人物

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490年東城王は失墜した王権を強化するために様々な政策をとる。その一つは、高句麗水軍によって西海の海上交通路が遮断されたことによる孤立を打開するために、対中国外交関係を強化することであった[8]。同年、楊茂は行建威將軍朝鮮太守兼司馬の肩書で、行建威將軍廣陽太守兼長史高達および行宣威將軍兼参軍会邁とともに南斉に使臣として派遣された。この時、東城王は親書で武帝に使臣の官職を賜与するよう要請し、武帝は楊茂に建威將軍廣陵太守の官職を下賜した[8]

蓋鹵王時代467年471年劉宋に使臣として派遣されており、東城王時代も引き続き対中国外交の一線で活躍していた。その功により、南斉に使臣として派遣されたが、楊茂の官職が廣陵太守であることに着目し、百済の華北進出と関連付ける見解があるが、このような中国系官吏の対中国外交登用は、中国入朝時に百済使臣がより良い待遇を受けるためであり、実質的な意味はない[5]。しかしながら、楊茂の官職が廣陵太守であることから、楊茂の出自が「廣陵」、すなわち中国東北部であることが示唆される[5]。一方、加藤謙吉は、313年朝鮮植民地楽浪郡滅亡後、支配層の楽浪王氏をはじめとする漢人系遺民は、百済をはじめとする新羅高句麗などに分散・吸収されたが、490年南斉に使臣としてともに派遣された高達朝鮮植民地楽浪郡楽浪高氏の流れを汲む人物と判断されること[7]23年楽浪郡で反乱を起こした王調を殺害した楽浪郡の「郡決曹吏」楊邑など、楽浪郡で郡僚となった土着漢人の楊氏もおり、楽浪王氏や楽浪高氏と同様に、楽浪楊氏も百済に帰属した可能性が考慮されることなどから、楊茂は楽浪楊氏の流れを汲む人物と判断している[7]

考証

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古代における朝鮮中国日本三国諸国の中央政治制度を巨視的観点から鳥瞰すると、国家の一般行政業務を担当した外朝と、最高執権者の側近で君主権を支えていた内朝が並存していた[9]史料によると、百済の国王幕府久尓辛王五年(424年)から東城王十七年(495年)までの約70年間存在した[10]。久尓辛王は中国東晋安帝から義熙一二年(416年)に、「使持節 都督百済諸軍事 鎮東将軍 百済王」に冊封され、この冊封と共に中国王公府の幕府制を模倣して久尓辛王は、自身の幕府を開設したとみられる[10]。これに関連して高句麗広開土王中国から遼東・帯方二国王に冊封された後、幕府を開設した事実が参照になる[10]

5世紀百済では国王幕府が開設され、内朝的機能が遂行され、その属僚の長史司馬参軍などの職名を帯びた人物らが国王の側近で近侍臣僚として機能した[10]久尓辛王蓋鹵王東城王代の時代が異なる国王幕府の属僚10人を一瞥すると、王族の余礼を除外すると、張氏三人、高氏、楊氏、会氏、慕氏、陳氏が各々一人で、真氏、解氏をはじめとする百済の有力貴族の姓氏をもつ人物が全くいない。これは百済の国王幕府が伝統貴族とは出身が異なる人物を中心に構成されたことを示唆するが、国王幕府が国王の私的な勢力基盤という点やそれの内朝的機能からみると、当然の人的構成であり、百済王は伝統貴族とは異なる性格の人物を幕府属僚に抜擢したのである。注目すべきは、中国系姓氏をもつ人物が多いことであり、楽浪郡帯方郡漢人遺民を幕府属僚に起用したとみられる[10]。この点は、高句麗広開土王の国王幕府が中国出身の亡命客によって管掌されていたことと同じ脈絡で理解され、百済の国王幕府の属僚が対中国外交で目立った活動をみせたのはこのような出身身分に起因した[10]百済王伝統貴族とは出身身分が異なる人物を自身の幕府属僚に抜擢、それを個人的な勢力基盤とし、上佐平中心の貴族勢力の牽制から逃れようとした[11]。百済の内朝は、内官十二部は前内部を最初にして東城王代から設置されはじめて、増設過程を経て泗沘遷都以後聖王によって最終的に「前内部体制」として整備され、「前内部体制」は前内部を主席官府としながら穀部、肉部、内椋部、外椋部、馬部、刀部、功徳部、薬部、木部、法部、後官部などで構成された[11]

 百済の国王幕府の属僚[12]
時期 人名 既保有官職 百済王 私署 官職 任命追認官職(爵号) 任命要請事由 国家
久尓辛王五年(424年) 張威 長史 使節 劉宋
蓋鹵王十八年(472年) 余礼 駙馬都尉・長史 冠軍将軍・弗斯侯 未詳 使臣 北魏
蓋鹵王十八年(472年) 張茂 司馬 龍驤将軍・帯方太守 未詳 使臣 北魏
東城王八年(490年) 高達 長史 行建威将軍・広陽太守 建威将軍・広陽太守 先例・使臣・邊効邊夙著・勤労公務 南斉
東城王八年(490年) 楊茂 司馬 行建威将軍・朝鮮太守 建威将軍・朝鮮太守 先例・使臣・志行清壱・公務不廃 南斉
東城王八年(490年) 会邁 参軍 行宣威将軍 宣威将軍 先例・使臣・執志・周密・屢致勤効 南斉
東城王十七年(495年) 慕遺 長史 行龍驤将軍・楽浪太守 龍驤将軍・楽浪太守 使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧 南斉
東城王十七年(495年) 王茂 司馬 行建武将軍・城陽太守 建武将軍・城陽太守 使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧 南斉
東城王十七年(495年) 張塞 参軍 行振武将軍・朝鮮太守 振武将軍・朝鮮太守 使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧 南斉
東城王十七年(495年) 陳明 ? 行揚武将軍 揚武将軍 使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧 南斉

脚注

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  1. ^ a b 川本芳昭中華的崩潰與擴大:魏晉南北朝台湾商務印書館中国語版、2018年3月1日、265-266頁。ISBN 9789570531312https://books.google.co.jp/books?id=bfzZDwAAQBAJ&pg=PT265=onepage&q&f=false#v=onepage&q&f=false 
  2. ^ 정재윤『중국계 백제관료에 대한 고찰』高麗大学歴史研究所〈史叢 77〉、2012年9月、22頁。doi:10.16957/sa..77.201209.1 
  3. ^ 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學東洋學硏究院): p. 110. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220423195439/https://cms.dankook.ac.kr/web/-oriental/-23?p_p_id=Bbs_WAR_bbsportlet&p_p_lifecycle=2&p_p_state=normal&p_p_mode=view&p_p_cacheability=cacheLevelPage&p_p_col_id=column-2&p_p_col_count=1&_Bbs_WAR_bbsportlet_extFileId=99960 
  4. ^ 이성제. “5호16국·남북조 상쟁기 이주민과 고구려·백제”. 国史編纂委員会. オリジナルの2022年11月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221123050319/http://contents.nahf.or.kr/id/NAHF.edeah.d_0002_0010_0040 
  5. ^ a b c “양무(楊茂)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2022年4月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220411070646/http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0035515 
  6. ^ 金起燮『백제의 주민과 이주 여성』한국여성사학회、2017年、9頁。 
  7. ^ a b c 加藤謙吉フミヒト系諸氏の出自について」『古代文化』第49巻第7号、古代学協会、1997年、431頁、ISSN 00459232NAID 110000448905 
  8. ^ a b “양무 楊茂,?~?”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2022年4月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220411044309/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000982893 
  9. ^ 李文基『百済内朝制度試論』学習院大学史学会〈学習院史学 41〉、2003年3月20日、16頁。 
  10. ^ a b c d e f 李文基『百済内朝制度試論』学習院大学史学会〈学習院史学 41〉、2003年3月20日、20-21頁。 
  11. ^ a b 李文基『百済内朝制度試論』学習院大学史学会〈学習院史学 41〉、2003年3月20日、32頁。 
  12. ^ 李文基『百済内朝制度試論』学習院大学史学会〈学習院史学 41〉、2003年3月20日、21頁。 

関連項目

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