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東城王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東城王
百済
24代王
王朝 百済
在位期間 479年 - 501年
都城 熊津
姓・諱 牟大
生年 不明
没年 501年
昆支王
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東城王
各種表記
ハングル 동성왕
漢字 東城王
発音 トンソンワン
日本語読み: とうじょうおう
ローマ字 Dongseong-wang
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東城王(とうじょうおう、生年不詳 - 501年)は百済の第24代王(在位:479年 - 501年)である。『三国史記』によれば、を牟大、あるいは摩帝とし、第22代の文周王の弟・昆支の子とする。名と系譜については以下の異説がある。

南斉書』では牟大とし、牟都(文周王?)の孫とする[1]。『梁書』では牟大とし、余慶(第21代蓋鹵王)の子の牟都(文周王?)の子とする[2] 。また、牟都を牟大の転訛と見る説もある。ただし『三国史記』百済本紀・東城王紀末文では、古記に基づいて牟都という王はいないこと、牟大(東城王)は蓋鹵王の孫であり蓋鹵王を牟都とは言わないことを挙げ、『南斉書』の記述に対して疑義を唱えている。『日本書紀』では、蓋鹵王の弟で日本に来ていた昆支の第二子の末多(また)とする。『三国遺事』王暦では、名を牟大または摩帝とし、先代の三斤王の堂弟(父方の従弟)とする。子に武寧王

即位まで

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『三国史記』では三斤王が479年11月に死去したので王位についたとするだけであるが、『日本書紀』雄略天皇23年(479年)4月条では、「百済文斤王(三斤王)が急死したため、当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした」と記されている。

公州丹芝里古墳群横穴墓5世紀末に東城王を護衛して百済に渡った倭人軍士のとみる見解もある(出土物のなかに倭系の須恵器とみられるものがある)[3]

治世

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王位につくと直ちに、文周王を暗殺させた解仇の反乱を収めた真老を徳率(4等官)から兵官佐平(1等官)に昇進させ、内外の統帥権を委任した。また、首都熊津忠清南道公州市)の在地勢力である燕氏、沙氏を重用して既存の政治体制を改革しようとした。対外的には、高句麗長寿王が北朝だけではなく南朝にも朝貢して爵号を得たことを聞き、百済からも南朝斉朝貢して冊封体制下に入ったが、高句麗の得た爵号に対しては評価の低いものに留まった。新羅との同盟(羅済同盟)を結ぶための使者の派遣も行っており、493年には通婚を要請して、新羅からは伊飡(2等官)[4]の娘が嫁いできた。翌494年には高句麗が新羅を攻めたところに救援を送って高句麗兵を退け、さらに495年には高句麗に侵入された際には新羅から救援が来て高句麗兵を退けている。このように新羅との同盟で高句麗に対抗する姿勢をとっていたが、501年7月には新羅に対しても警戒して炭峴[5]に城柵を築いた。498年8月には、耽羅済州島)が貢賦を納めなくなったので親征のために武珍州(現在の光州広域市)に赴いた。これを聞いて耽羅は使者を送ってきて謝罪し、以後は百済に服属したとみられる。

倭国との関係では、東城王の即位以前に起きた二度にわたる百済と高句麗の戦い(455年と475年)において、古くからの同盟国であるにもかかわらず倭国が百済を支援しなかったことを背景に東城王は倭国に対しては非友好的な態度を取っている[6][信頼性要検証][疑問点]

王権と国力の回復に努め、外征にも成果を挙げた東城王であったが、在位の晩年には暗君と化した。499年に大旱魃が起こって国民が餓えたが、国倉を開いて民に施そうとするのを許さず、漢山(京畿道広州市)の民2千人が高句麗領に逃亡した。それにも拘らず500年には王宮の東に高さ5丈もの臨流閣を築き、池を掘り珍しい鳥を飼うなどの贅沢にふけり、諫言をする臣下を遠ざけた。さらに同年にも旱魃があったが、側近とともに臨流閣で一晩中の宴会をするなどしていた。こうした状況のなかで501年11月、衛士佐平の苩加[7]の放った刺客に刺され、12月に死去した。されて、東城王という。諡された百済王は初めてであった。

東城王の王妃の出自

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朝鮮古代史学者の盧重国[8]金鉉球[9]洪性和朝鮮語: 홍성화建国大学[10][11]金起燮朝鮮語: 김기섭公州大学[12]など韓国の研究者たちは、百済の第18代の王・腆支王王妃である八須夫人倭人だったと主張しており、関連して、金鉉球などは、昆支王、東城王、武寧王の王妃も倭人であり、倭国王家が政策的に婚姻させたと主張している。

登場作品

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テレビドラマ

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脚注

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  1. ^ 『南斉書』列伝第三十九 蛮・東南夷 原文:「今以大襲祖 父牟都為百済王」(表曰:牟大は牟都を(亡)(義)父と呼んでいるとも読める。「牟都」=「三斤王」)
  2. ^ 餘映 - 餘毗 - 餘慶 - 牟都 - 牟大 (『梁書』)
      腆支 - 毗有 - 蓋鹵 - 三斤 - 東城
  3. ^ 金起燮『백제의 주민과 이주 여성』한국여성사학회、2017年、10頁。 
  4. ^ 『三国史記』百済本紀では「伊飡」とするが、新羅本紀では「伊伐飡」(1等官)の娘としている。
  5. ^ 炭峴の比定地にはいくつかの説がある。全羅北道完州郡雲州面、忠清南道扶余郡石城面、忠清南道錦山郡珍山面、忠清北道沃川郡郡北面、など。
  6. ^ 沈仁安 著、藤田友治藤田美代子古田武彦 訳『中国からみた日本の古代 新しい古代史像を探る』ミネルヴァ書房、2003年11月。ISBN 4623039056 
  7. ^ 「苩」はくさかんむり「艹」に「白」。
  8. ^ 盧重国 (2005年). “5世紀の韓日関係史-『宋書』倭国伝の検討-” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 263-264. オリジナルの2021年11月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211127011246/https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/1-04j.pdf 
  9. ^ 김현구『임나일본부설은 허구인가』Changbi Publishers, Inc.、2010年12月24日、187頁。ISBN 8936482599。「일본에서 8년만에 귀국한 직지왕의 부인 이름이 팔수부인(八須夫人)으로 씌어 있다. 고대 일본에서는 사람 이름에 ‘팔’이라는 글자가 흔히 들어간다. 그러나 한국에서는 사람 이름에 ‘팔’자를 사용하는 예가 거의 없다. 따라서 직지왕의 부인은 일본 여인이었을 가능성이 높다. 사실 일본은 661년 백제 왕자 풍의 귀국에 즈음하여 그를 일본 여인과 혼인을 맺게 한 예가 있다. 이런 면에서도 야마토정권은 직지가 귀국하기에 앞서 그를 일본 여인과 혼인을 맺게 했을 가능 성이 높다. 그렇다면 동성왕이나 무령왕의 부인도 일본 여인이었을 가능성이 높다. 그들도 일본에서 성장하여 혼기가 지나 귀국했기 때문이다. 만약 일본이 백제의 왕자들을 정책적으로혼인시켜 돌려보냈다면 그 상대는 황가의 여인들이었을 가능성이 높다. 백제의 왕자들이 혼인한 상대가 천황가의 여자들이었다면 백제왕가에도 일본천황가의 피가 수혈되기 시작한 셈이다.」 
  10. ^ “이기환의 흔적의 역사”. 京郷新聞. (2021年6月28日). オリジナルの2021年8月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210822163029/https://khan.co.kr/culture/culture-general/article/202106280900001 
  11. ^ 洪性和 (2009年). “石上神宮 七支刀에 대한 一考察”. 한일관계사연구 no.34 (한일관계사학회). オリジナルの2022年6月11日時点におけるアーカイブ。. https://archive.ph/oYh5a 
  12. ^ 金起燮『백제의 주민과 이주 여성』한국여성사학회、2017年、14-17頁。 

参考文献

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