土肥実平

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土肥実平
Doi Sanehira.jpg
土肥実平/『前賢故実江戸時代、画:菊池容斎
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 不詳
死没 建久2年11月25日1191年12月13日)?[1][2]
別名 次郎[2]、万寿冠者[2]
戒名 實渓大眞、通玄院仁山義公[2]
墓所 神奈川県湯河原町の万年山城願寺
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝
氏族 桓武平氏良文流中村氏土肥氏
父母 父:中村宗平
兄弟 中村重平実平土屋宗遠二宮友平
堺頼平[3]岡崎義実室、伊東祐親
土肥の女房
遠平[2]実重
土肥の椙山の「しとどの窟」。真鶴にも「しとどの窟」跡がある

土肥 実平(どひ さねひら / どい - )は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将桓武平氏良文中村宗平の次男。相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖とされる。

相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町土肥郷を本拠とし早川庄預所を務め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。

現在のJR東海道本線湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったと言われている。

生涯[編集]

曽我物語』によれば、安元2年(1176年)の伊豆奥野の狩場で行われた河津祐泰曾我兄弟の父)と俣野景久の相撲の判定を巡ってもめた際に、老(おとな・長老)であった実平が仲裁に入ったとされるなど、相模・伊豆の武士社会において重鎮と見做される存在であったとされている[4]

源頼朝挙兵[編集]

治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵すると嫡男の遠平ら中村党を率いて参じている。同じ相模・伊豆の有力な源氏方であった鎌倉党工藤党が内部分裂したのに対して中村党は実平を中心に一致して参じたことで頼朝の信任を受けた。山木兼隆を討った頼朝が実平の拠点である土肥郷に入って三浦氏との合流を図っている(『吾妻鏡』治承4年8月20日条)。石橋山の戦いで敗北した頼朝がわずか7・8騎で逃亡した際に実平も加わっていた。『愚管抄』(巻5)によれば、頼朝が箱根山で自害を覚悟した際に実平が自害の作法・故実を伝授したとされ、『吾妻鏡』(治承4年8月24日条)では、頼朝と行動を伴にしたいと申し出る加藤景員宇佐美祐茂に対して、実平が今は敵に見つからないようにバラバラに逃げることが大事であると説得したとされている[4]。『源平盛衰記』で頼朝主従が「しとどの窟」に隠れていたのを梶原景時が見逃した逸話はこの時のことである。この後、実平の用意で真鶴から房総半島安房国へ脱出した。

頼朝は千葉氏上総氏らの参陣を得ると反攻に出て、関東から大庭景親平家勢力を駆逐することに成功する。以後、実平は富士川の戦い常陸国志田義広討伐などに従軍する。この間、奥州から頼朝の陣を訪れた源義経を取り次ぎ(『吾妻鏡』治承4年10月21日条)[注釈 1]、また頼朝に降った梶原景時を取り成したのも実平であった(『吾妻鏡』治承5年正月11日条)[4]

鎌倉軍奉行[編集]

寿永3年(1184年1月源義仲討伐に従軍し(宇治川の戦い)、合戦後、大江山に派遣されの入口を守った。同年2月一ノ谷の戦いでは源義経の軍に属して戦う。三草山の戦い後、義経は一万騎を二手に分け、実平は7,000余騎を引きつれ、一の谷の西の手に進んだ。合戦後、吉備三国(備前備中備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられた。山陽道を守り、源範頼の進軍を支援する。梶原景時と共に頼朝代官である範頼・義経の奉行として遠征軍に派遣されており、頼朝の信任が厚かったと思われる。鶴岡八幡宮の造営にも寄与した。

寿永4年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いの後に長門国周防国の惣追捕使として長府に居城を構える。

文治5年(1189年)、奥州合戦に参加。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした[注釈 2]建久2年(1191年7月18日、厩の上棟奉行をしている記述(『吾妻鏡』)を最後に、実平は史料から姿を消している。一説には義経との関係の深さから頼朝と義経の対立の影響を受けて政治的に失脚したとする説もある[4]。「沼田小早川家系図」では、建久2年(1191年)11月25日死去とされる。しかし、所領であった安芸国沼田荘では、承久元年(1219年)に、遠平とともに遠平の妻である天窓妙仏尼(寺伝では源頼朝の娘)を弔うために棲真寺広島県三原市大和町平坂)を創建した記録が残っており、その頃まで生存していた可能性がある。安芸の米山寺過去帳では承久2年(1220年)11月死去とされている[5]。また、『吾妻鏡』建久6年(1195年)7月13日条には「土肥後家尼参上」とあることから、この時以前に死去したとする説もある[5]

人物[編集]

備考[編集]

脚注[編集]

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注釈

  1. ^ 菱沼一憲は、実平がたまたま陣に現れた義経を取り次いだのではなく、頼朝と義経を引き合わせるための取り成しをしたとする。
  2. ^ 他の6名は、北条義時小山朝政和田義盛梶原景時比企能員畠山重忠

出典

  1. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1927, §小早川家系圖.
  2. ^ a b c d e 今井尭ほか編 1984, p. 340.
  3. ^ 平凡社編.
  4. ^ a b c d 菱沼一憲 2011, pp. 162-164, 170-172.
  5. ^ a b 安田元久編 1985, p. 429.

参考文献[編集]