宇治川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宇治川の戦い
Stone monument in Ujigawa.jpg
宇治川先陣の碑
戦争治承・寿永の乱
年月日寿永3年(1184年)1月20日
場所:京都近郊 宇治(現 宇治市
結果:頼朝軍の勝利
交戦勢力
源氏(頼朝)軍 源氏(義仲)軍
指導者・指揮官
源義経
梶原景時
安田義定
一条忠頼
平信兼
源義仲
志田義広
今井兼平
根井行親 
楯親忠 
戦力
25,000騎 400騎
損害
不明 不明
治承・寿永の乱
宇治川の先陣争い

宇治川の戦い(うじがわのたたかい)は、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲鎌倉源頼朝から派遣された源範頼源義経とで戦われた合戦治承・寿永の乱の戦いの一つ。

背景[編集]

寿永2年(1183年)7月、信濃国平家打倒の挙兵をした源義仲が数万騎を率いて入洛した。義仲軍はで乱暴狼藉を働き、やがて皇位継承を巡って後白河法皇とも対立した。9月、義仲軍は備中国水島の戦い平家軍に大敗、後白河法皇は義仲を見放した。10月、後白河法皇は鎌倉の源頼朝に東海道東山道の支配を認める院宣を下し、頼朝に接近する(寿永二年十月宣旨)。

11月、起死回生をはかった義仲は院御所の法住寺殿を攻撃、後白河法皇を幽閉して政権を掌握した(法住寺合戦)。孤立を深める義仲は平家との和平を打診するが、拒絶される。12月、義仲は後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を発出させる。そして翌寿永3年(1184年)1月、義仲は征東大将軍に任命された。1月20日、頼朝は近江にまで進出させていた範頼、義経に義仲追討を命じた。

経過[編集]

入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いの敗北と状況の悪化により脱落者が続出して千騎あまりに激減していた。また、義仲は平家との和平交渉とともに後白河法皇らを奉じて北陸道へ下る事も考えていたようであるが、関東は飢饉によって兵力を動員できず義経の兵も千騎ほどという情報が入ってきたため、北陸下向を中止して迎え撃つ判断をしてしまったのである(『玉葉』寿永3年正月13・14日条)。義仲が敵の実勢を把握したのは15日の夜であり、翌16日には範頼が北陸道の入口である近江国の瀬田に兵を進めて義仲軍を京都に閉じ込めてしまった(「関東が飢饉によって兵力が動員できない」という情報自体が頼朝側が流した偽情報であった可能性もある)[1]

義仲は今井兼平に500余騎を与えて瀬田の唐橋を、志田義広根井行親楯親忠には300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護した。1月20日、範頼は大手軍3万騎で瀬田を、義経は搦手軍2万5千騎で宇治を攻撃した。

義経軍は矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れる。佐々木高綱梶原景季の「宇治川の先陣争い」はこの時のことである。義広、行親、親忠は必死の防戦をするが、義経軍に宇治川を突破される。義経軍は雪崩を打って京洛へ突入する。義仲が出陣し、義経軍と激戦となる。義仲は奮戦するが遂に敗れ、後白河法皇を連れて西国へ脱出すべく院御所へ向かう。義経は自ら数騎を率いて追撃、院御所門前で義仲を追い払い、後白河法皇の確保に成功する。後白河法皇を連れ出すことを断念した義仲は兼平と合流すべく瀬田へ向かった。

瀬田で範頼軍と戦っていた兼平は宇治方面での敗報を知り退却、粟津で義仲との合流に成功する。義仲は北陸への脱出をはかるが、これへ範頼の大軍が襲いかかる。義仲軍は奮戦するが次々に討たれ、数騎にまで討ち減らされたところで、遂に義仲が顔面に矢を受けて討ち取られた。兼平も義仲を追って自害した(粟津の戦い)。

巴御前の最後[編集]

義仲挙兵時から従って来た女武者巴御前の最後は、軍記物語『平家物語』の「覚一本」で「木曾最期」の章段などで描かれている。宇治川の戦いに敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後、巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びたところで物語から姿を消している。

源平盛衰記』では畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場を去っている。

『平家物語』諸本で最も古態を示すと言われる「延慶本」では、幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも召し使われたとされる。京を落ちる義仲勢が7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞め、2人の武者は頭がもげて死んだという。粟津に着いたときには義仲勢は5騎になっていたが、既にその中に巴の姿はなく、討ち死にしたのか落ちのびたのか、その消息はわからなくなったとされている。

ギャラリー[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 菱沼一憲「総論 章立てと先行研究・人物史」(所収:菱沼 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一四巻 源範頼』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-151-6

参考文献[編集]