瀬田の唐橋

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瀬田の唐橋

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線滋賀県道16号大津信楽線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。

京都の宇治橋山崎橋とならんで日本三名橋日本三大橋の一つとされてきた[1][2]。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」にも選ばれている[3]

歴史と伝説[編集]

東海道東山道中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり[4]、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた[1]。唐橋を舞台として繰り広げられた、壬申の乱寿永の乱承久の乱建武の乱など、昔から様々な戦乱に巡り合ってきた[1]

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社雲住寺を東端としていた[要出典]

古代[編集]

唐橋が架けられた年代は不詳であるが、神功皇后の時代にはすでにあったといわれ[1]、摂政元年、香坂皇子忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

壬申の乱671年)では、大友皇子大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇 上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。

藤原仲麻呂の乱恵美押勝の乱、764年)では、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。押勝は高島郡に走り、滅びた(『続日本紀淳仁天皇 天平宝字八年九月)。

平安時代[編集]

鎌倉・室町時代[編集]

焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされる[1]

江戸時代以降[編集]

近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。

膳所藩(本多家)が管理。東海道がここを通った。江戸幕府は、瀬田川に唐橋以外の他の橋をかけることを禁じ、膳所城主に保護監理の任務を課した[1]。1795年(寛永7年)から1894年(明治27年)までの100年間で、18回の架け換えの記録が残っており、安藤広重の浮世絵「近江八景・瀬田の夕照」は、往時の唐橋の様子をよく伝えている[1]

1919年(大正8年)に道路構造令が公布されたのを機に、架け換え計画がなされ、翌1920年(大正9年)に事業費47万円(当時)をかけて事業に着手し、1924年(大正13年)に、これまで木造であった橋が、はじめて鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられた[1]。その後、補修は何度か繰り返し行われてきたが、1974年(昭和49年)に本格的な架橋工事が行われ、1979年(昭和54年)に現在の橋が竣工した[1]。橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。1995年(平成7年)、瀬田唐橋の小橋に右折レーン設置のための工事が着手され、1997年(平成9年)に終了した[1]2012年平成24年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っている。

逸話[編集]

戦国時代の武将である武田信玄は、臨終の際に「瀬田橋に、風林火山の我旗をたてよ」と言ったといわれ、山を越えれば京都・奈良に通ずる唐橋が、軍事上の要害として重要な位置を示していたことが伺い知れるエピソードの一つになっている[1]


江戸時代初期の安楽庵策伝醒睡笑』は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している[1]

武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋

東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。 松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。

五月雨に隠れぬものや瀬田の橋

橋桁の忍は月の名残り哉


千利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねた。すると一座にいた古田織部は急に席を立ってどこかに行って、夕方になって戻ってきた。利休が何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。さて、2つの擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と答えた。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心した[6]

更級日記内の「竹芝伝説」章で、下男と帝の娘が京から武蔵国へ逃走する際、追手から逃れるため瀬田橋を破壊したとの記述があり、当時から交通の要所であったことがうかがえる。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 「日本の道100選」研究会 2002, pp. 124-125.
  2. ^ 滋賀県内務部土木課 編『瀬田橋ノ沿革』p1
  3. ^ 「日本の道100選」研究会 2002, p. 10.
  4. ^ 北側は湖岸まで山が迫る険しい地形であり、古代においては船を使わずに渡るのは現実的ではなかったと思われる。海津大崎も参照のこと。
  5. ^ 小笠原好彦「架船・浮橋・渡船」(倉田実久保田孝夫 編『王朝文学と交通』(竹林舎]、2009年) ISBN 978-4-902084-87-0
  6. ^ 久須見疎安『茶話指月集』

参考文献[編集]

  • 「日本の道100選」研究会 『日本の道100選〈新版〉』 国土交通省道路局(監修)、ぎょうせい2002年6月20日ISBN 4-324-06810-0

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


座標: 北緯34度58分23秒 東経135度54分22秒 / 北緯34.973096度 東経135.906072度 / 34.973096; 135.906072