根井行親
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本朝英雄鏡 歌川芳員 | |
時代 | 平安時代末期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 元暦元年1月20日(1184年3月4日)? |
別名 | 四郎・大弥太郎 |
主君 | 源義仲 |
氏族 | 滋野姓根井氏 |
父母 | 父:望月国重 |
兄弟 |
望月行重、望月国親、塩川重長、望月重安、 小田切国綱、行親 |
子 | 行長、行直、八嶋行忠、楯親忠 |
根井 行親(ねのい ゆきちか)は、平安時代末期の武将。源義仲の家臣で、俗に言う義仲四天王の1人。
行親の生まれた望月氏は滋野氏の庶流。滋野氏嫡流の海野幸親(滋野行親)と同一人物とする説もある。
保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝に従い、活躍したという。
治承4年(1180年)信濃国小県郡丸子の依田城で挙兵して以後、義仲に従い各地に転戦、養和元年(1181年)9月水津の合戦で平通盛、経正らを破る。
元暦元年(1184年)の宇治川の戦いでは、義仲の命を受け、子・楯親忠や源義広らと共に300余騎で宇治の防衛に当たったが[1]、2万5千騎の源義経軍を防ぎきれず宇治川を突破された。この際、一族の武将らに前後して敗死したとされている。この戦いでは先陣を焦った頼朝方の武将畠山重忠の馬(磨墨)を射たという。
同年1月26日、義仲や今井兼平、高梨忠直らと共に東洞院の北にある獄門の木に梟首された[2]。
長野県佐久市には、行親の供養塔と伝わる多層塔が現存する[3]。