元帝 (東晋)
元帝 司馬睿 | |
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東晋 | |
初代皇帝 | |
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王朝 | 東晋 |
在位期間 |
建武元年3月9日 - 永昌元年閏11月10日 (317年4月6日 - 323年1月3日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 司馬睿 |
字 | 景文 |
諡号 | 元皇帝 |
廟号 | 中宗 |
生年 | 咸寧2年(276年) |
没年 |
永昌元年閏11月10日 (323年1月3日) |
父 | 司馬覲 |
母 | 夏侯光姫 |
后妃 | ない |
陵墓 | 建平陵 |
年号 |
建武 : 317年 - 318年 大興 : 318年 - 321年 永昌 : 322年 |
元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。諱は睿(えい)、字は景文。宣帝司馬懿の第四子の琅邪武王司馬伷の孫でその妻を通じて諸葛誕の外曾孫にあたる。また、母方を通して夏侯淵の外玄孫でもある。
生涯[編集]
河内郡温県の人。西晋の琅邪恭王司馬覲の子として洛陽に生まれる。生母は夏侯光姫(夏侯威の孫娘)。弟に東安王司馬渾がいる。太熙元年(290年)に父が35歳で急逝して、15歳で琅邪王に封じられる。この年に武帝が崩御し、翌年には八王の乱が勃発する。建武元年(304年)、当時権勢を誇っていた成都王司馬穎の討伐に参戦するが失敗し恵帝と共に鄴で司馬穎の監視下に置かれた。保身のために鄴を脱出し洛陽で母に会い共に封国の琅邪に戻った。途中、黄河の渡し場を渡るときに見とがめられて留置されそうになった。司馬穎が一族を手元にとどめて監視し、地方に自由に去ることを禁じていたからである。そこに遅れてやってきた従者が追いついて司馬睿の馬を鞭でこづきながら「舎長!政府は貴人の通行を禁じているそうだが、お前も止められたのか」と言って笑って見せた。その様子を見て、役人は通行を許した[1][2]。
司馬穎が東海王司馬越に殺害された直後に、司馬越により永嘉元年に安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられる。その頃朝廷の衰退を予測した近侍の王導の献策に従い、建業に赴く。その際に賢人を厚くもてなし江東をよく平定したといわれている。
永嘉4年(310年)、洛陽の危機状況から寿春にいた征東将軍の周馥は寿春への遷都を計画したが、司馬越は裴碩らに周馥討伐を命じ、懐帝の江南遷都を不可能にした。
永嘉5年(311年)、懐帝が匈奴系である漢(後の前趙)の捕虜となり平陽に連れ去られると、司空の荀藩から推されて盟主となった。江州刺史の華軼が服従しなかったので討伐して江州を支配下に置いた。建興元年懐帝を継いで愍帝が即位すると、丞相・大都督・中外諸軍事となり江東の政務・軍事の全てを取り仕切るようになる。
建興4年(316年)、漢の劉聡による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると、当時丞相・大都督・中外諸軍事として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した[注釈 1]。これが、東晋の元帝である。
しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、司馬睿と同じ西晋の皇族である南陽王司馬保は司馬睿に従わず、勝手に晋王を僭称した。また、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄の王敦らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における琅邪王氏の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である前漢の末裔である劉隗と刁協を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、永昌元年(322年)に逆に王敦に反乱を起こされ、刁協やほかにも重臣であった戴淵・周顗らを殺害され、劉隗は北方の後趙に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦した。
それからほどなくして、48歳で崩御した。
出生に関する異説[編集]
北斉で編纂された『魏書』は、北斉が北方の王朝であることから江南の東晋の正統性を認めておらず、諱の司馬睿(司馬「叡」表記)で呼んでいる。また、牛金の隠し子と主張している[注釈 2]。
宗室[編集]
- 『晋書』本紀巻1~10、列伝巻7・8・29・44・68・69による
- 太字は皇帝(追贈含む)、数字は即位順。
(追)宣帝司馬懿 | (追)景帝司馬師 | 斉王司馬攸 | 東萊王司馬蕤 | 斉王司馬超 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北海王司馬寔 | 広陽王司馬冰 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉王司馬冏 | 済陽王司馬英 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)文帝司馬昭 | (西1)武帝司馬炎 | (西2)恵帝司馬衷 | (恵1)皇太子司馬遹 | 南陽王司馬虨 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
楚王司馬瑋 | 秦王司馬郁 | (恵2)皇太孫司馬臧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
淮南王司馬允 | 漢王司馬迪 | (恵3)皇太孫司馬尚 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清河王司馬遐 | (恵4,6)皇太子司馬覃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長沙王司馬乂 | (懐)皇太子司馬詮 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(愍)皇太子司馬端 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(恵5,7)皇太弟司馬穎 | 廬江王司馬普 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中都王司馬廓 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
呉王司馬晏 | (西4)愍帝司馬鄴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(西3)懐帝司馬熾 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
汝南王司馬亮 | 汝南王司馬矩 | 汝南王司馬祐 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西陽王司馬羕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南頓王司馬宗 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
琅邪王司馬伷 | 琅邪王司馬覲 | (東1)元帝司馬睿 | (東2)明帝司馬紹 | (東3)成帝司馬衍 | (東6)哀帝司馬丕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武陵王司馬澹 | (東7)廃帝司馬奕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
梁王司馬肜 | 東安王司馬繇 | (東4)康帝司馬岳 | (東5)穆帝司馬聃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
淮陵王司馬漼 | (東8)簡文帝司馬昱 | (東9)孝武帝司馬曜 | (東10)安帝司馬徳宗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
扶風王司馬駿 | 新野王司馬歆 | (東11)恭帝司馬徳文 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(僭)趙王司馬倫 | (倫)皇太子司馬荂 | 会稽王司馬道子 | 世子司馬元顕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
済陽王司馬馥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
汝陰王司馬虔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
覇城王司馬詡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
安平王司馬孚 | 義陽王司馬望 | 河間王司馬洪 | 義陽王司馬威 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竟陵王司馬楙 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
太原王司馬瓌 | 河間王司馬顒 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
東武城侯司馬馗 | 高密王司馬泰 | 東海王司馬越 | 世子司馬毗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新蔡王司馬騰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南陽王司馬模 | 南陽王司馬保 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
范陽王司馬綏 | 范陽王司馬虓 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
妻妾[編集]
子女[編集]
- 明帝 司馬紹(道畿)- 母は荀氏
- 琅邪孝王 司馬裒(道成)- 母は荀氏
- 東海哀王 司馬沖(道譲)- 東海孝献王司馬越・司馬毗父子の後を継ぐ
- 武陵威王 司馬晞(道叔)- 母は王才人
- 琅邪悼王 司馬煥(道耀)- 母は鄭阿春
- 簡文帝 司馬昱(道万)- 母は鄭阿春
- 尋陽公主(荀羨にとついだ)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 厳密には、当時、琅邪王司馬睿の他にも、南陽王司馬保・譙王司馬承・西陽王司馬羕・新蔡王司馬滔・楽成王司馬欽・南頓王司馬宗・汝南王司馬祐・彭城王司馬雄・高密王司馬紘・梁王司馬翹ら少なくない数の晋宗室王は健在であり、また晋宗室王の何人かは混乱の中で司馬睿と共に長江を渡り東晋建立に尽力しており(五馬渡江)、東晋の時代も引き続き王室の一角を支えている。
- ^ 『晋書』元帝本紀が引く「玄石図」という石碑の表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という文章が記されていた。そのため曾祖父の司馬懿は牛氏(牛金のこと)を深く恨み、毒酒を飲ませて殺害した、という内容である。さらに、母の夏侯光姫は「小役人の牛氏(牛金とは別人。孫盛『晋陽秋』によれば、名は牛欽)と密通して、東晋の初代皇帝になる司馬睿を生んだ」とされる逸話がある。引き続き『晋書』以前の『魏書』(北魏書)にある「僭晋司馬叡伝」に「司馬睿は夏侯光姫と晋将の牛金が姦通して生まれた子である」という記録が残っているとされるが、時代が合致しない。牛金が司馬懿に毒殺されたことも、元帝が牛氏の血筋を引く確証性は乏しく、元帝自身が牛金の隠し子とする逸話の真偽の程は不明である。