司馬沖

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司馬 沖(しば ちゅう、永嘉5年(311年)- 咸康7年8月1日[1]341年8月28日))は、中国東晋皇族。東海哀王。道譲

経歴[編集]

琅邪王司馬睿と石婕妤のあいだの子として生まれた。東海王司馬越の嫡子の司馬毗石勒に捕らえられて、生死不明になると、司馬沖は元帝(司馬睿)により司馬毗の後継とされ、東海世子を称した。毗陵郡に封邑1万戸を得た。後に食邑は下邳郡蘭陵郡に改められた。司馬越の妃の裴氏が太妃となると、司馬沖は長水校尉に任じられた。劉耽を司馬とし、庾懌を功曹とし、顧和を主簿として、実務を補佐させた。永昌元年(322年)、中軍将軍に転じ、散騎常侍の位を加えられた。太寧2年(324年)6月、王敦が二度目の反乱を起こすと(王敦の乱)、王敦は明帝(司馬紹)の廃立と司馬沖の擁立を企てたが、程なくして王敦は病死し、残党は鎮圧された。

東海太妃裴氏が死去すると、司馬毗の喪が発せられた。司馬沖は東海王位につき、滎陽を東海国とした。咸和9年(334年)、車騎将軍となった。咸康6年(340年)3月、驃騎将軍に転じた。

咸康7年8月辛酉(341年8月28日)、薨去。享年は31。侍中・驃騎大将軍・儀同三司の位を追贈された。

没後[編集]

司馬沖に子はなく、咸康8年(342年)6月に成帝の次男の司馬奕が後を嗣いで、東海王となった。升平5年(361年)5月に哀帝が即位すると、司馬奕が代わって琅邪王となったため、東海王位は空位となった。興寧3年(365年)2月に哀帝が死去すると、司馬奕は帝位についた。咸安元年(371年)11月に司馬奕は桓温によって廃位され、再び東海王となった。咸安2年(372年)1月に司馬奕は海西公に落とされたため、また東海王位は空位となった。隆安4年(400年)11月、会稽王司馬元顕の次男の司馬彦璋が東海王となり、司馬沖の曾孫扱いとされた。呉興郡を食邑としたが、元興元年(402年)3月に司馬彦璋が桓玄に殺害されると、東海国は廃止された。

脚注[編集]

  1. ^ 『晋書』巻7, 成帝紀 咸康七年八月辛酉条による。

伝記資料[編集]