哀帝 (東晋)
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哀帝 司馬丕 | |
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東晋 | |
第6代皇帝 | |
王朝 | 東晋 |
在位期間 | 361年7月13日 - 365年3月30日 |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 司馬丕 |
字 | 千齢 |
諡号 | 哀皇帝 |
生年 | 咸康7年(341年) |
没年 |
興寧3年2月22日 (365年3月30日) |
父 | 成帝 |
母 | 周貴人 |
后妃 | 王皇后 |
陵墓 | 安平陵 |
年号 |
隆和 : 362年 - 363年 興寧 : 363年 - 365年 |
哀帝(あいてい)は、東晋の第6代皇帝。諱は丕、字は千齢。第3代皇帝成帝の長男。
生涯[編集]
従弟の第5代皇帝穆帝の崩御で即位したが、穆帝の代に成漢征討、洛陽奪還などの功績で実力者となっていた桓温が実権を握っており、哀帝自身はほとんど傀儡同然であった。そのためか、不老長寿を求める長生術に没頭し、政務を顧みなかった。ついには薬の乱用の結果、興寧3年(365年)に中毒死したという。弟の司馬奕が即位した。
宗室[編集]
后妃[編集]
- 王穆之(哀靖皇后)
子女[編集]
- 1人の男子(庶出、363年 - ?)
関連項目[編集]
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