司馬穎

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司馬 穎(しば えい、279年 - 306年)は、中国西晋時代の皇族で、八王の乱の八王の一人。章度。武帝司馬炎の16子、恵帝司馬衷の異母弟、懐帝司馬熾の異母兄。母は程才人。

生涯[編集]

若き日[編集]

容姿が優れており、人情に厚かったという。しかし、聡明さは持ち合わせておらず、書籍を好まなかった。

289年、成都王に封じられ、食邑10万戸を与えられた。後に越騎校尉に任じられ、さらに散騎常侍・車騎将軍を加えられた。

当時、恵帝司馬衷の外戚である賈氏一派が権力を握っており、特に賈謐の権勢は皇帝をも凌ぐ程であった。299年、賈謐は皇太子司馬遹囲碁を打つと、指し手の事で言い争いとなり、その言には一切遠慮が無かった。司馬穎はたまたまこれに同席しており、賈謐の振る舞いを見て「皇太子は国の儲君であるのに、賈謐はなんと無礼なのか!」と血相を変えて叱りつけた。賈謐はこれを恐れ、また不満を抱いたので皇后賈南風へこの事を相談した。これにより、司馬穎は平北将軍となって城の鎮守を命じられ、朝廷から追い出された。その後、鎮北大将軍に昇進した。

司馬冏に呼応[編集]

301年1月、賈氏一派を粛清した趙王司馬倫は、側近孫秀と謀って帝位を簒奪して国政を掌握した。孫秀は司馬穎が鄴を統治して強兵を擁しているのを深く憂慮し、征北大将軍に昇進させて開府儀同三司の特権を与え、懐柔を謀った。また、補佐を名目として臣下を鄴へ派遣し、司馬穎の監視に当たらせた。

斉王司馬冏が司馬倫誅殺を掲げて挙兵すると、各地の諸王や将軍・州郡県国にも決起の檄文を送り「逆臣孫秀が趙王を誤らせた。共に誅討しようではないか。命に従わない者は三族を誅す」と宣言した。司馬穎はこれに呼応し、鄴県令盧志を左長史に、頓丘郡太守鄭琰を右長史に、黄門郎程牧を左司馬に、陽平郡太守和演を右司馬に任じた。さらに、兗州刺史王彦冀州刺史李毅・督護趙驤石超らを先鋒として洛陽へ軍を進めた。羽檄が及ぶ所で司馬穎に応じない者はおらず、軍が朝歌に入る頃には20万余りの大軍になった。司馬倫は孫秀の子孫会に将軍士猗許超と宿衛兵(近衛軍)3万を与えて司馬穎に対抗させ、京兆王司馬馥と広平王司馬虔に兵8000を与えて孫会軍の後援とした。

趙驤は黄橋に進むと、士猗・許超に敗北して死者8000人余りを出したので、将兵は震え上がった。司馬穎は朝歌から撤退して軍を立て直そうと考えたが、盧志と王彦はこれに反対したのでこれに従い、改めて趙驤に兵8万を与えて王彦と共に進軍させた。司馬倫は孫会と劉琨らに兵3万を与えて士猗・許超らと合流させたが、孫会・士猗・許超は互いに協力し合っておらず、また一度勝利していた事から趙驤を軽んじていた。3月、温県から10里余り手前で両軍は再び衝突すると、士猗らは大敗を喫して潰走した。司馬穎は黄河を渡ると、この機に乗じて長躯して洛陽に迫った。

4月、左将軍王輿は洛陽で政変を起こし、孫秀を殺して司馬倫を幽閉し、恵帝を復位させた。司馬穎が洛陽に入城すると、司馬倫は誅殺された。司馬冏は未だ司馬倫配下の張泓らと陽翟で交戦中であったので、司馬穎は趙驤・石超らに命じて司馬冏を援護させ、共に張泓を攻めてこれを投降させた。こうして、司馬冏もまた洛陽に入る事が出来た。今回の功績により司馬穎は大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事に任じられ、黄鉞を与えられ、九錫が加えられた。また、『剣履上殿(剣と靴を着けたまま上殿してもよい)』、『入朝不趨(入朝時に小走りでなくともよい)』の特権が与えられた。

鄴に帰還[編集]

司馬冏は司馬倫討伐を企画した事を誇り、次第に権力を自分一人の下に集約するようになった。司馬穎は異母兄の長沙王司馬乂と共に先帝の陵墓へ拝したが、この時司馬乂は「この天下は先帝が基業を創始したものだ。汝はしっかりとこれを守らねばならぬ」と述べ、輔政するよう勧めた。

盧志は司馬穎へ「斉王(司馬冏)は100万と号する兵を持ちながら、張泓らに苦戦しました。大王はその間に黄河を渡り、並ぶことの無い功績を立てました。今、斉王は大王と共に朝政を行う立場にありますが、両雄は並び立たないといいます。太妃(母の程才人)の病を理由に鄴へ帰り、朝廷の重任を全て斉王に譲り渡し、人心を得るべきです。」と進言すると、司馬穎はこれに同意した。

司馬穎は太学に宿営してから入朝すると、恵帝は東堂で出迎え、司馬穎の功績を称えて慰労した。司馬穎は拝謝して「これらは全て大司馬冏の勲功です。臣にはこのような見通しはありませんでした」と述べ、謁見を終えるとすぐに退出した。また、母の病を理由に藩国に帰ることを願い出て、併せて司馬冏の功徳を称えて大任を委ねるよう進言した。その後、太廟に謁すると、営舎には戻らずに東陽城門から出て鄴に帰った。同時に手紙を送って司馬冏に別れを告げると、司馬冏は驚いてその後を追い、洛陽東北の七里澗で追い付いた。司馬穎は車を進めながら涙を流して別れを告げ、政治の話は一切せずに太妃の病状を説明して去っていった。これを見た百姓はみな、寡欲な司馬穎の徳を称賛した。

司馬穎が鄴城に帰還すると、大尉王粋が派遣されて改めて功績を表彰する詔を送ったが、司馬穎は大将軍のみを受けて九錫などの特権は固辞した。また、盧志・和演・董洪・王彦・趙驤らの功績を上書して公侯に封じるよう要請すると、認められて5人はみな開国公侯に封じられた。

司馬穎は上表して「大司馬(司馬冏)はかつて陽翟にあって強賊と長く争いを行いました。その為、万民は傷だらけとなり、飢えて困窮しております。早急に救済する必要があります。郡県の車を手配し、一時的に河北の邸閣にある穀物15万斛を輸送し、陽翟の飢える者に振る舞っていただきますよう」と進言した。盧志は司馬穎へ「黄橋での戦没者は8000人余りおり、夏を越えても骨が原野に晒されています。これは痛ましい事です。かつて周王は枯骨を葬り、故に『詩経』には『死人に行うならば、尊んで埋葬せよ』と載っているのです。これらを言うまでも無く、死人に手を尽すことは王の仕事ではないでしょうか!」と進言すると、司馬穎はこれに同意した。棺8000枚余りを造ると、成都国の俸禄をもって衣服を作り、葬儀を執り行った。黄橋北に遺体を埋葬すると植樹して宝域とし、その全てに祭堂を建立し、石碑を立てて義功を刻んだ。さらに、その遺族を優遇し、季節ごとに祭祀をさせた。家門の事についても上表し、戦死した者については常に2等級を加えるようにした。また、司馬倫軍で戦死した1万4千人余りについても、温県に埋葬した。

これらは全て盧志の進言によるものであり、司馬穎は盧志を信任して大事を委ねていたので、その美徳は大いに知れ渡った。司馬冏が驕侈で無礼な振る舞いが増えると、衆望はますます司馬穎に集まるようになった。

中書令陸機は司馬倫の帝位簒奪に加担したので司馬冏は処刑しようとしたが、司馬穎は彼の名望を惜しんで助命を嘆願すると、容れられて免罪となった。陸機は司馬穎の推薦により平原内史となり、弟の陸雲は清河内史になった。

恵帝は再度詔を発し、侍中馮蓀中書令卞粋が鄴に派遣され、司馬穎に入朝して九錫を受けるよう命じたが、司馬穎の寵臣である宦官孟玖は洛陽に行くことに反対し、母の程夫人もまた鄴での生活を好んだので、司馬穎は固辞した。後に太子太保を加えられた。

依然募った義勇軍はみな郷里へ帰る事を願っていたので、司馬穎は「大事(司馬倫討伐)は散ったので、蚕は速やかに帰り、時務に赴くことを望む。かつて義は到来し、今義は去った。もしまた急を要す事があったなら、共に戦わんことを」と、鄴城門に記した。こうして軍を解散させたので、万民は安心した。

朝政を管轄[編集]

302年3月、皇太孫司馬尚が亡くなった。恵帝は子の司馬遹と孫の司馬虨司馬臧・司馬尚を立て続けに亡くしており、直系の後継者がいなかったので、恵帝の弟である司馬穎が後継ぎの有力候補になった。だが、長期に渡る専政を目論んでいた司馬冏はこれを嫌い、まだ8歳である清河王司馬覃(恵帝の弟司馬遐の子)を後継ぎとした。

11月、司馬顒は司馬冏討伐を掲げて長安で決起し、檄文を各地に発布して「十万の兵を集めて成都王穎、新野王歆(司馬歆)、范陽王虓(司馬虓)と洛陽で合流する。長沙王乂に命じて斉王冏を邸宅に送り帰らせ、成都王穎に輔政を請う」と宣言した。司馬穎がこれに応じようとすると、慮志はこれに反対したが、聞き入れなかった。

司馬乂は洛陽城内からこれに呼応し、司馬冏と3日間に渡る争いを繰り広げ、これに勝利して司馬冏を処断した。こうして司馬乂は朝廷の第一人者となったが、好き勝手に朝政を専断する事は無く、政務については事の大小にかかわらず全て鄴にいる司馬穎に報告して裁決を任せた。司馬穎は孫恵を参軍に、陸雲を右司馬に任じた。また、尚書令楽広の娘を王妃とした。

303年5月、義陽の蛮人である張昌江夏で反乱を起こした。司馬穎は南征して乱を鎮圧するよう命じられ、当地の民はみな司馬穎に応じた。だが、司馬穎が軍を発する前に、乱は荊州刺史劉弘・大都護陶侃らによって鎮圧された。

司馬乂討伐[編集]

司馬穎はこれまでの功績を誇って驕奢に耽るようになり、司馬冏の時代以上に政治が混乱するようになった。また、権力の独占を画策し、司馬乂が朝廷に留まっている事を邪魔に思うようになった。

司馬顒は元々、司馬乂の兵が弱小で司馬冏の兵が強大であった事から、司馬乂が司馬冏に敗れるのを期待していた。そして、それを口実に司馬冏を討つよう天下に布告し、それが成った暁には恵帝を廃して司馬穎を擁立し、自らは宰相となって天下を牛耳るのを企んでいた。だが、結果的に司馬乂は司馬冏を撃ち破ったので、彼の目論みは果たされず、これに不満を抱いた。

司馬顒が司馬乂討伐の兵を挙げると、司馬穎は張昌討伐の兵を利用してこれに呼応した。盧志は司馬穎へ「公は大功を立てながら権力を捨てたので、その美徳を称えられました。今、軍を郊外に進めながら文官の服で入朝するのは、聖人ではなく霸主がすることです。」と諫め、さらに参軍邵続も「この続が聞くところによりますと、兄弟というものは左右の手の如しとのことです。今、どうして明公(司馬穎)は天下の敵となって、自らの片手(司馬乂)を切り去ろうとしておられるのでしょう。続はこれに困惑しております。」と諫めたが、司馬穎はこれらを聞き入れなかった。また、司馬穎は刺客を派遣して司馬乂の暗殺を目論んだが、司馬乂に近侍していた長沙国左常侍王矩に気づかれて失敗に終わった。

8月、司馬穎は司馬顒と共に上書し「司馬乂の論功は不公平であり、右僕射羊玄之・左将軍皇甫商と共に朝政を専断し、忠良の臣を殺害しました。羊玄之と皇甫商を誅殺し、司馬乂を封国に還らせるべきです。」と述べた。これに対して恵帝は詔を発し「司馬顒は独断で大軍を動員し、京都(洛陽)を侵そうとしている。朕は自ら六軍を率いて姦逆の臣を誅殺する。」と述べ、司馬乂に討伐を命じた。

司馬穎は自ら兵を率いて朝歌に駐軍すると、平原内史陸機前将軍・前鋒都督に任じて仮節を与え、北中郎将王粋・冠軍将軍牽秀・中護軍石超と20万余りの兵を与えて洛陽を攻めさせた。さらに富平の津河橋まで進軍すると、戦鼓は数百里先まで響き渡った。司馬顒もまた張方を都督に任じ、精兵7万を与えて函谷関から洛陽に向かわせた。

司馬穎は黄河南に進軍すると、清水に面して砦を築いた。また、石を積み上げてその上に大木を載せ、浮橋を作って河北へ通じるようにすると、これを石鼈と名づけた。恵帝は自ら軍を率いて洛陽城東から緱氏に入り、牽秀を攻撃して撤退させた。石超が緱氏に逼迫すると、恵帝は洛陽の宮殿に退却した。牽秀は再び軍を進めて東陽門外に至ったが、司馬乂に敗れた。陸機は建春門に進んで司馬乂と対峙し、司馬穎は将軍馬咸を派遣して陸機軍を援護させた。司馬乂は司馬王瑚に数千騎を与えて馬咸の陣営に突撃させ、馬咸は敗北して殺された。これにより、陸機軍は大敗を喫して洛陽東の七里澗に撤退したが、死者は山積みとなり、川の流れが止まるほどであった。陸機軍の大将賈崇ら16人が殺され、石超は逃走した。

陸機は孟玖から以前より疎まれていたので、孟玖はこれを機に牽秀・王闡郝昌公師藩らと共に陸機の謀反を弾劾した。司馬穎はこれに激怒して牽秀に命じ、陸機を逮捕させた。参軍事王彰は司馬穎を諫めるも聞き入れられず、陸機は牽秀に殺され、弟の陸雲陸耽と側近の孫拯も逮捕された。記室江統蔡克棗嵩らは上書して陸機の冤罪を訴えたが、司馬穎は三日間答えなかったので蔡克は司馬穎の下へ直接出向き、叩頭して血を流しながら陸雲らの処刑を思いとどまるよう請願した。数十人の官吏もこれに同調したので、司馬穎は陸雲に同情し、また陸機を殺したことを後悔するようになった。だが、孟玖は速やかに陸雲と陸耽を処刑して三族を誅滅するよう催促し、さらに獄吏に命じて陸機らが謀反したと孫拯が認める偽の供述を書かせたので、司馬穎はこれを信じ込んでしまい、孟玖らへ「卿の忠心がなければ姦者を暴くことができなかった」と述べ、陸雲や孫拯の三族を皆殺しとした。

11月、司馬穎軍は再び洛陽に迫ったが、司馬乂に幾度も敗れ去った。朝廷内では司馬乂と司馬穎は兄弟であった事から、両者に和解する説得させる案が持ち上がった。中書令王衍・光禄勲石陋は司馬穎の下に赴いて説得を試み、全国を二分して統治するよう提案したが、司馬穎は同意しなかった。司馬乂もまた司馬穎に手紙を書いて和解を求めたが、司馬穎は「皇甫商らの首を斬れば兵を率いて鄴に帰る」と返事を送ると、司馬乂もまたこれを拒絶した。

304年1月、司馬穎はなおも敗北を重ね、実に6・7万人の兵を失った。司馬乂は連戦連勝ではあったが、合戦は長期に渡ったので洛陽城内は食糧が欠乏していた。また、張方が千金堨(洛陽東の堰)を破壊したので、水不足にも陥り、洛陽は混乱した。東海王司馬越は洛陽城内の食糧状況から司馬乂には勝ち目がないと判断し、夜中に左衛将軍朱黙・殿中諸将と共に司馬乂を捕えた。常山出身の王輿は1万余りの軍勢を率いて司馬乂の傘下に入ると、司馬穎襲撃を目論んでいたが、その配下は司馬乂の敗北を知ると王輿を斬って司馬穎に降った。こうして洛陽の城門は開かれ、司馬穎は無事に入城を果たすと、公卿は司馬穎に謝罪した。司馬乂は張方により焼き殺された。

皇太弟となる[編集]

司馬穎は丞相に任じられ、20郡を増封された。司馬穎は奮武将軍石超らに5万の兵を与えて洛陽の12城門を守らせた。また、殿中では司馬穎に嫌われていた者が処刑されるか異動を命じられ、宿衛兵も司馬穎の意に沿う者に入れ替えられた。司馬穎は一度は洛陽に身を置いたものの、すぐに再び鄴に戻った。

2月、司馬穎は上書し、皇后羊献容を廃して金墉城に幽閉させ、皇太子司馬覃を廃して清河王に落とすよう要請した。朝臣はなす術を知らず、これに従う他なかった。3月、司馬顒は上書して司馬穎を世継ぎに立てるよう求めると、司馬穎は皇太弟となり、丞相の職務はそのままで都督中外諸軍事を兼任するようになった。また、司馬顒は太宰・大都督・雍州牧に任じられた。制度は曹操の故事に倣うものとし、皇帝の輿・服・器物等が鄴城に運ばれた。さらに、上表して宿衛兵を丞相府に移し、王官宿衛と称した。

司馬穎の奢侈は日に日に悪化するようになり、自らが君主であるかのように振る舞った。さらに孟玖ら寵臣に政治を任せたので、民を大いに失望させた。

皇帝軍蜂起[編集]

司馬越は司馬穎の振る舞いに憤り、討伐を目論むと右衛将軍陳眕・殿中中郎逯苞成輔・司馬乂の旧将上官巳らと共に謀議を重ねた。

7月、陳眕が兵を率いて雲龍門に入ると、詔を奉じて三公を始めとした百官や殿中の諸将に司馬穎を討つよう命じ、羊献容を皇后に、司馬覃を皇太子に復位させた。政変を知ると石超は洛陽から鄴に逃げ帰った。司馬越は大都督となり、恵帝と共に鄴へ向けて軍を発した。皇帝軍が進軍すると、各地で義兵が集結し、魏郡の安陽県に入る頃には10万人余りに規模が膨れ上がった。

鄴の人々は朝廷軍の到来を恐れて震え上がった。司馬穎は逃走しようと考えたが、歩熊道術を用いて「動くことなかれ。南軍は必敗する」と告げたので思いとどまった。司馬穎は幕僚と軍議を開くと、東安王司馬繇は「天子が親征しているのです。武装を解いて出迎え、罪を請うべきでしょう。」と勧めた。折衝将軍喬智明も帝の乗輿を奉迎するように進言したが、司馬穎は大いに怒り「卿は名声が知れ渡っており、私に身を委ねている。主上(恵帝)は群小の者どもに無理やり迫られて、偽の罪状で私を誅しようとしている。にもかかわらず、卿は私に手を縛られて刑に服せと言うのか。共に義を為すのはまさに今ではないのか。」と叱責した。司馬王混と参軍崔曠が抗戦を進めると、司馬穎はこれに従い、石超に5万の兵を与えて防戦を命じ、蕩陰に進軍させた。

陳眕の二人の弟である陳匡陳規は鄴城にいたが、隙を見て逃走して皇帝軍の陣営へ至ると「鄴城内は人心が離散しています」と報告したので、司馬越らは油断して警戒を怠るようになった。石超はこの機を逃さず皇帝軍の本営を急襲した。皇帝軍は蕩陰県で大敗を喫し、恵帝自身にも三本の矢が当たって顔を怪我した。百官や侍御は慌てて四散してしまい、身を挺して恵帝を庇ったのは嵆紹だけであった。

石超は恵帝の身柄を確保すると陣営に戻った。司馬穎はこれを聞くと、盧志を派遣して恵帝を鄴に招き入れた。陳眕と上官巳は皇太子司馬覃を奉じて洛陽を固守し、司馬越は封国の東海に帰った。

王浚・司馬騰の決起と前趙の樹立[編集]

司馬穎は恵帝の身柄を確保すると、建武と改元し、百官の役所を設置して自らの独断で殺生を行い、鄴城の南に天地を祀る祭壇を建てた。司馬越とその兄弟である司馬騰司馬略司馬模はみな声望があったので、司馬穎は罪を許して鄴に招こうとしたが、司馬越は応じなかった。司馬穎は以前恵帝に謝罪するよう進言した司馬繇を怨んでいたので、これを捕らえて処刑した。丞相従事中郎王澄はこれまでの孟玖の悪事を暴き、司馬穎に孟玖を誅殺するよう進言すると、司馬穎はこれに同意した。

また、匈奴左賢王劉淵前趙の光文帝)を冠軍将軍に推挙し、匈奴五部の軍事を監督させて鄴城を守らせ、劉淵の子である劉聡(前趙の昭武帝)を積弩将軍に任じた。劉淵は密かに自立を目論んでいたので、葬儀を理由に匈奴本国への帰還許可を求めたが、司馬穎は許さなかった。その為、劉淵は本国にいる右賢王劉宣らに密かに命じ、匈奴五部と周辺の少数民族を集結させて挙兵の準備を進めた。

都督幽州諸軍事王浚は幽州で強大な兵権を持っていたが、かつて司馬穎らが趙王司馬倫を討伐した時はどちらにも付かず、三王からの檄文を遮って幽州の将兵が義兵に参加しないようにした。司馬穎はこれを大いに不満に思っており、機会があれば誅殺しようと考えていた。王浚もまた司馬穎の専横に憤っていたので、討伐を考えていた。

司馬穎は王浚の動きを察知し、右司馬和演を幽州刺史に任じて密かに命を下し、王浚を暗殺してその兵を吸収しようと目論んだ。和演は烏桓単于審登と謀略を巡らして王浚暗殺を目論んだが、審登は寝返って王浚に計画を全てを話した。これを聞くと王浚は東嬴公司馬騰と結託して和演を攻撃し、これを斬り捨てると、自ら幽州全域を領有するようになった。その後、司馬穎は詔と称して王浚に召喚を命じたが、王浚は冀州に留まって動かなかった。

8月、王浚は司馬騰と連携を取り合い、司馬穎討伐を掲げて決起すると、段部段務勿塵烏桓羯朱を始め胡人漢人合わせて2万人を率いて進軍を開始した。司馬穎は北中郎将王斌と石超・李毅らを派遣して王浚らを迎撃させた。

劉淵はこれを自立の絶好の機会と捉え、司馬穎へ「二鎮(幽州・并州)が跋扈して十余万の兵を擁しています。宿衛(近衛兵)や近郡の士衆では防ぐことは敵わないでしょう。我は殿下のために五部を説得し、国難に赴こうと思います。」と述べると、司馬穎は「果たして五部の衆は動くであろうか。もし動かすことができたとしても、鮮卑や烏桓の兵に対抗するのは容易ではない。今は陛下を奉じて洛陽に帰り、危難を避けるべきだ。洛陽で天下に檄を飛ばして兵を集めれば、二鎮など制圧出来るであろう。」と反対した。なおも劉淵は「殿下は武帝の子であり、皇室で大功を建てたことは天下が知っています。殿下のために命をかけない者などおりますまい。五部の衆が動くのかを憂う必要はありません。王浚は小人であり、東嬴(司馬騰)も陛下から遠い皇族であり、殿下と争う人物ではありません。もし殿下が鄴宮を出てしまえば、彼らに弱みを見せることになり、洛陽に帰ることも難しくなります。仮に洛陽に着うても、権威はすでに殿下のものではありません。どうか殿下は兵を激励して鄴を守ってくださいますよう。我は殿下のために二部の兵で東嬴を討ち、三部の兵で王浚を破ってみせましょう。数日もすれば二豎の首が晒されていることでしょう。」と述べると、司馬穎はこれに喜んで劉淵を北単于・参丞相軍事に任じ、出征を許可した。劉淵は左国城に入ると大単于を自称して晋朝から自立し、間もなく漢帝国(前趙と呼称される)の樹立を宣言した。ただ、その一方で司馬穎への義理立てから、左於陸王劉宏に精騎五千を与え、司馬穎配下の王粋と合流して援護するよう命じた。

王斌は王浚・司馬騰軍を迎え撃つも羯朱に大敗を喫し、石超もまた王浚の先鋒である主簿祁弘に平棘で敗れた。さらに、王粋は司馬騰に敗北し、劉宏は合流する前に引き返した。王浚は勝ちに乗じて進軍し、鄴に迫った。偵察兵が鄴城に現れると、城内は戦々恐々として百官や士卒が逃走し始めた。 盧志は改めて司馬穎へ、恵帝を奉じて洛陽に帰還するよう勧め、司馬穎はこれに同意した。1万5千の兵を伴って明け方に城を出ることに決め、盧志は夜の間に準備を進めたが、司馬穎の母である程夫人は鄴を出るのを嫌がり、これに司馬穎も躊躇して出発が遅れたので、その間に将兵はみな離散してしまった。その為、司馬穎は盧志と騎兵数十のみを率い、恵帝を犢車(諸公が乗る牛車)に乗せて洛陽に向かった。黄河を渡ると洛陽を守る張方が子の張羆に騎兵三千を与えて一行を迎え入れさせた。司馬穎は5日を掛けて洛陽に無事帰還した。

王浚は鄴城に入ると、羯朱に司馬穎を追撃させたが、朝歌に至っても追いつけなかったので引き返らせた。

皇太弟廃位[編集]

洛陽に帰って以降司馬穎は失脚し、張方が兵権を握って専制したので政治に関与する事も出来なかった。范陽王司馬虓と東平王司馬楙は上書し、司馬穎に重責を担う能力は無いとして、皇太弟を廃して一邑を封じて余生を送らせるべきだと述べた。

11月、張方が恵帝を無理矢理引き連れて長安への遷都を強行すると、司馬穎もまたこれに付き従った。

12月、長安に入城すると、司馬穎は皇太弟から廃され、代わって司馬熾(後の懐帝)が立てられた。司馬穎は丞相の位も剥奪され、成都王の爵位のまま謹慎を命じられた。

こうして司馬穎は政治の実権を失ったが、河北では未だに人望があり、多くの人々がこの処置に同情したという。

復権と最期[編集]

305年7月、司馬穎の旧将公師藩は、司馬穎復権を掲げての地で挙兵すると、河北の民はこれに呼応した。同じく司馬穎の旧将であった楼権郝昌らも乱に加わり、その兵は数万を数えた。公師藩は郡県を攻略し、転戦しながら鄴城に迫った。司馬顒は公師藩が司馬穎のために兵を挙げたと知り、司馬穎を復職させ、鎮軍大将軍・都督河北諸軍事に推挙して兵千人を与え、盧志と共に鄴城の鎮守を命じた。

8月 、司馬越・司馬虓らが司馬顒討伐の兵を挙げると、豫州刺史劉喬がこれを阻んだ。10月、司馬顒は司馬穎に命じ、将軍劉褒らを従えて劉喬の援護を命じた。12月、司馬穎は洛陽に入ったが、司馬越の勢いを恐れてこれ以上東へ進めなかった。

306年1月、司馬穎は洛陽から再び長安に向かい、弘農郡華陰県に入った。だが、この時司馬顒が張方を殺して司馬越と和親を図っているとしていると知り、西進を中止した。8月、司馬穎は司馬顒の敗北を知ると、武関から義陽郡新野県に逃走した。恵帝は南中郎将劉陶荊州刺史劉弘に司馬穎の逮捕を命じた。この時、劉弘は病没し、司馬郭勱は乱を起こして司馬穎を迎え入れようとしたが、治中郭舒は劉弘の子である劉璠を奉じて郭勱を討伐した。その為、司馬穎は母や妻を棄て、単車に子の廬江王司馬普と中都王司馬廓を乗せ、北の黄河を渡って朝歌に逃走した。そして、かつての部下数百人を集めて公師藩を頼ろうとした。

9月、頓丘郡太守馮嵩により司馬穎は捕らえられ、鄴城に送られた。だが、司馬虓は司馬穎を殺すことができず、幽閉した。また、公師藩らは兗州刺史苟晞に討たれた。

10月、司馬虓が急死すると、長史劉輿は鄴の人々が司馬穎の境遇に同情していた事から、変事が起きることを恐れた。その為、劉輿は司馬虓の喪を秘匿し、鄴台(司馬虓)からの使者だと偽って司馬穎の下へ派遣すると、詔と称して司馬穎に自殺を命じた。その夜、司馬穎は守衛の田徽へ「范陽王は亡くなったのか」と問うと、田徽は「知りません」と答えた。さらに司馬穎は「卿は幾つかね」と聞くと、「50です」と答えた。また、「天命とは何か分かるかね」と問いかけると、「知りません」と返した。司馬穎は嘆息して「我の死後、天下は安定するかそれとも乱れたままか。我が放逐されて3年が経過するが、身体や手足を全く洗沐していない。湯水を数斗持って来たまえ!」と叫んだという。司馬穎の2人の子が号泣すると、司馬穎は人を遣って子供だけでも逃がそうとしたが、失敗して殺された。司馬穎は髪を解き、頭を東に向けて横になると、田徽に首を絞められて殺された。享年28であった。鄴城は哀しみに包まれたという。

死後[編集]

司馬穎の官属はみな逃走したが、盧志だけは最後まで従い、司馬穎の死体を引き取って埋葬した。

307年汲桑大将軍を自称すると、司馬穎の報復を掲げて挙兵し、軍を進めて鄴へ入った。そして、盧志により埋葬されていた司馬穎の棺を掘り起こし、その棺を車中に載せた。そして、何か事がある度に棺に言上してから実行に移したという。汲桑が敗亡すると棺は古井戸に投げ込まれたが、司馬穎の旧臣は棺を収めて洛陽に改葬した。懐帝は県王の礼をもって葬儀を行った。

また、司馬穎の死から数年後、開封には司馬穎の10歳余りの子がおり、百姓の家を流離しているという噂が立てられたが、司馬越は人を派遣してこれを殺したという。

後に東莱王司馬蕤の子である司馬遵が司馬穎の後継とされ、華容県王に封じられた。

男子[編集]

  • 廬江王・司馬普
  • 中都王・司馬廓
  • 華容王・司馬遵(養子、司馬攸の長男の東莱王司馬蕤の子)

参考文献[編集]