司馬倫

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建始帝 司馬倫
西晋
第3代皇帝
王朝 西晋
在位期間 301年1月 - 301年4月
都城 洛陽
姓・諱 司馬倫
子彝
没年 永康二年5月
宣帝
柏夫人
年号 建始 : 301年
司馬荂皇太子

司馬 倫(しば りん、? - 301年)は、西晋の第3代皇帝であり、八王の乱の八王の1人。子彝司馬懿の第9子(末子)。建始帝とも呼称されるが、これは諡号ではなく私年号である建始から取ったものである。

生涯[編集]

若き日[編集]

母は柏夫人であり、司馬懿の晩年に寵愛を受けて司馬倫を生んだ。

249年、安楽亭侯に封じられた。264年五等爵の制度が復活されると、東安子爵に改封され、諫議大夫に任じられた。

265年、甥の司馬炎(武帝)が西晋を興した。12月、琅邪王に封じられた。

ある時、司馬倫は散騎将劉緝に職人を買収させて御裘(皇帝の革衣)を盗もうとしたが、発覚してしまい廷尉杜友は劉緝を処断した。司馬倫も同罪であるとされたが、ある者が上奏して司馬倫は爵位が重く宗族である事から免罪にすべきとした。諫議大夫劉毅はこれに反論して「国法の賞罰には貴賤は関係ありません。礼制を整然とさせる事で、刑典もまた明らかとなるのです。司馬倫は御裘がどういう物か理解しておきながらこれを実行し、配下に下した事への刑罰が未だ明らかになっておりません。もとより劉緝とは罪は変わらず、宗族である事とその地位から減刑する事はあっても、罪を無くすというのは有り得ません。」と述べた。司馬炎はこの事を良く考えたが、結局自らの叔父である事から罰する事は出来ず、司馬倫は免罪となった。

その後、司馬倫は封国である琅邪に出鎮し、東中郎将・宣威将軍に任じられた。277年8月、趙王に改封され、平北将軍・都督城守事に任じられた。後に安北将軍に進んだ。

関中を乱す[編集]

290年4月、司馬炎が崩御し、子の司馬衷(恵帝)が後を継いだ。291年8月、征東将軍・都督徐兗二州諸軍事に任じられた。9月、征西大将軍・都督雍梁二州諸軍事に進んで関中の守備を命じられ、開府儀同三司の特権を与えられた。

294年、司馬倫の刑賞は不公平であったので、関中を混乱させての反乱を招いてしまい、その結果匈奴郝度元馮翊北地にいる馬蘭羌・盧水胡(いずれも異民族の名称)と共に挙兵し、北地郡太守張損を殺して馮翊太守欧陽建の軍を撃破した。司馬倫は雍州刺史解系と共にこれの討伐に当たった。だが、司馬倫は傲慢であり、軍備を整える事もなく功績を立てる事も出来なかったという。

296年5月、司馬倫は解系と軍事作戦について論争となり、互いに朝廷へ作戦案を奏上した。この時、欧陽建が司馬倫の失政を批難する上書を行っていた事もあり、朝廷は司馬倫が関中を乱したと判断して解系を支持し、司馬倫を更迭して代わりに梁王司馬肜(司馬倫の兄)を征西大将軍・都督雍涼二州諸軍事に任じた。司馬倫は側近の孫秀を信任しており、彼の行動はその孫秀の進言によるものであったので、解系は弟の解結と共に、孫秀を処刑して挙兵した氐・羌に謝罪するべきだと主張したが、容れられなかった。その後、司馬倫は洛陽に召喚され、車騎将軍太子太傅に任じられた。また、時期は不明だが右軍将軍にも任じられている。

司馬倫は洛陽に帰還すると、当時権勢を誇っていた賈謐を始めとした賈氏一派に取り入り、皇后賈南風やその母郭槐に信任されて中宮に出入りするようになった。また、司馬倫は録尚書事尚書令の地位を賈謐らに求めたが、張華と尚書裴頠は共にこれに反対したので、司馬倫らは張華を強く憎んだ。張華もまた司馬倫らが変事を起こすのを恐れ、武庫で火事が起こった時は兵を配置して守備を固めてから火事の消火に当たる程であった。

297年、司馬倫は以前からの恨みから解系を讒言し、解系は陥れられて免官となった。

太子殺害を教唆[編集]

299年12月、賈南風は皇太子司馬遹を忌み嫌っており、罪をでっち上げて廃立して庶民に落とし、300年1月には許昌宮に幽閉した。

3月、右衛督司馬雅・常従督許超はかつて東宮に仕えていたので、皇太子廃位に大いに憤った。彼らは殿中中郎士猗らと共に賈南風の廃立と皇太子の復位を目論み、強大な兵権を握っていた司馬倫に協力を仰ごうと思い、司馬倫の腹心孫秀へ協力を持ち掛けた。孫秀はこれに同意して司馬倫に伝えると、司馬倫もまた賛同し、通事令史張林と省事張衡らに命じて政変の際には内応するよう準備させた。たが、孫秀は裏では密かに司馬倫へ「太子は聡明で剛猛な人物です。もし東宮に帰還できでも、誰かの制御を受けたりはしないでしょう。明公(司馬倫)は元々賈后(賈南風)と結託していたのは誰もが知るところであり、今回太子のために大功を立てたとしても、太子は明公が周囲の圧力によりやむなく協力したぐらいにしか思わず、明公に対する怨みは無くなっても感謝することなどないでしょう。むしろ、今後もし過失があったらそれを口実に誅殺される恐れすらあります。ここはわざと決起を遅らせ、賈后が太子を害するのを待つべきです。その後、太子の仇をとるという大義名分で賈后を廃せば、禍を除いた上に更に大きな志を得ることも可能でしょう」と勧めると、司馬倫はこれに従った。

孫秀は司馬雅らの謀反をわざと賈南風へ流し、さらに司馬倫は孫秀と共に賈謐らへ「急ぎ太子を除いて衆望を絶つべきかと」を進言した。賈謐がこれを賈南風に告げると、賈南風は黄門孫慮に命じて司馬遹を殺害させた。

賈氏一派粛清[編集]

司馬遹の死を見届けると、司馬倫は孫秀と共に賈氏一派討伐を決行しようとしたが、司馬雅・許超は司馬遹殺害の一件で怖気づいてしまい応じなかった。その為、司馬倫は右衛佽飛督閭和・梁王司馬肜・斉王司馬冏らに計画を伝えると、彼らはこれに協力する事を約束し、4月3日の深夜決行と定められた。

4月3日、司馬倫は孫秀・閭和・司馬肜・司馬冏と共に政変を決行し、恵帝の詔と称して近衛軍を指揮する三部司馬へ「中宮(賈南風)と賈謐らは朕の太子を殺した。今、車騎将軍(司馬倫)が中宮を廃すので、汝らはその命に従うように。事が済めば関中侯を与えるが、逆らう者は三族を誅す」と宣言し、傘下に入るよう命じた。華林県令駱休が司馬倫に内応して恵帝を東堂に招くと、詔で賈謐を招集した。賈謐は異変に気付き逃げようとしたが、兵士に囲まれてその場で殺された。さらに、司馬倫は偽の詔によって宮門を開かせ兵を配置すると、司馬冏に100人を与えて宮中に入らせ、賈南風を捕縛させた。こうして賈南風は庶人に落とされ、建始殿に幽閉された。司馬倫は尚書に賈氏一派を尽く捕らえる様命じ、中書監・侍中・黄門侍郎・八座(六曹尚書と尚書令、尚書僕射)が夜の間に入殿した。尚書は司馬倫の持つ詔を疑い、尚書郎師景は恵帝の直筆による詔を示すよう求めたので、司馬倫等は見せしめとして師景を殺し、群臣に従う様強要した。賈南風の取り巻きであった趙粲賈午らも逮捕され、暴室で拷問を受けた。司馬倫は孫秀と謀議し、朝廷で声望がある者や、かねてより怨みがある者を除くことにした。これにより、張華・裴頠・解系・解結らが逮捕され、みな三族皆殺しとなった。

4日、司馬倫は端門(宮門正南門)を制圧すると、尚書和郁に命じて賈南風を金墉城に監禁させた。同時に側近の劉振董猛・孫慮・程拠らが処刑され、張華・裴頠の取り巻きとみなされた者多数が罷免された。9日、司馬倫は偽の詔を発し、尚書劉弘に金屑酒(金粉入りの毒酒)を金墉城に届けさせ、賈南風にこの酒を飲ませて自害させた。こうして賈氏一族の時代は終わりを告げた。

権力を掌握[編集]

司馬倫は詔と称して大赦を下すと、自ら符節を持って都督中外諸軍事・相国侍中となり、権力を手中に収めた。これは司馬懿の補佐となった時に倣ったものであった。相国府には左右長史・司馬・従事中郎が4人、参軍が10人、掾属が20人、兵1万が配備された。世子の散騎常侍司馬荂が冗従僕射を兼任し、子の司馬馥前将軍・済陽王、司馬虔は黄門郎・汝陰王、司馬詡は散騎侍郎・覇城侯となった。孫秀を始めとした側近にも大郡が封じられ、兵権を握った。文武百官で封侯された者は数千人にも及び、みな司馬倫の指示を仰ぐようになった。

司馬倫は人望を得るため、全国の名士を登用した。かつての平陽郡太守李重滎陽郡太守荀組を左右の長史に、王堪劉謨を左右の司馬に、尚書郎束皙を記室に、淮南王文学荀崧・殿中郎陸機を参軍に任じた。だが、李重は司馬倫に異心があると知っていたので病と称して辞退したが、司馬倫は仕官を強制したので、李重は憂憤により病死した。

5月、亡き皇太子司馬遹の名誉が回復されると、その子である臨海王司馬臧が皇太孫に立てられた。司馬倫は太孫太傅を兼務し、皇太孫を補佐した。

司馬倫はひとまずは人心の掌握と恵帝の補佐に務めていたが、次第に権力の独占を志向するようになり、帝位簒奪の野心を抱いていた。しかし、司馬倫は才能に乏しく知略が無かったので、実際には中書令となった孫秀が百官を動かした。その為、衆望は次第に司馬倫ではなく孫秀の下に集まるようになり、司馬倫自身の求心力は全く無かった。

司馬允反乱[編集]

中護軍・淮南司馬允(恵帝の弟)と斉王司馬冏は、司馬倫が好き勝手に振る舞っているのに不平を抱いていた。また、司馬允は司馬倫と孫秀が異謀を抱いていると知り、賈謐に連座して失脚していた石崇石苞の子)や潘岳の勧めもあり、排斥を目論んで秘かに決起兵を養った。司馬倫らはそれを察知して、これを大いに警戒した。

8月、司馬倫らは謀議し、司馬允を太尉に昇格させて中護軍の兵権を奪おうとしたが、司馬允は病と称して太尉の任を辞退した。孫秀は偽の詔で司馬允を弾劾したが、司馬允はこれに激怒して近臣へ「趙王が我が家を滅ぼすつもりだ!」と言うと、淮南兵と中護軍の兵700人を率いて宮殿に向かい、その途上で「趙王が謀反を起こしたので討伐する。協力する者は左肩を出せ!」と宣言した。宮殿に到着するまでに多くの賛同者を得た。しかし、尚書左丞王輿は掖門を閉じたので、宮中に入るのを諦めて東宮にある相国府に向かった。司馬倫は司馬允が反した事を聞くと迎撃に当たったが、司馬允の兵は精鋭揃いであったので、連敗を喫して1000人余りの死者を出した。

太子左率陳徽が東宮の兵を集めて司馬允に内から呼応すると、司馬允は承華門前に陣を構えて雨のように弓弩を降らせた。相国府主書司馬眭秘は身を挺して司馬倫を守り、矢を浴びて死んだ。司馬倫の部下は逃げまどって木の下に隠れ、全ての木に数百の矢が刺さるほどであった。朝から始まった攻勢は昼過ぎまで続き、陳徽の兄である中書令陳準が司馬允を援護しようと思い、司馬衷を騙して白虎幡を手に入れると、司馬督護伏胤に騎兵400と白虎幡を与えて司馬允の陣に派遣した。この時、司馬倫の子である汝陰王司馬虔が門下省におり、彼は秘かに伏胤へ「今後、2人で富貴を共にしようではないか。」と持ち掛けると、伏胤はこれに応じた。伏胤は「淮南王(司馬允)を援護する」という偽の詔書を持って司馬允の陣に赴くと、これを迎え入れた司馬允を殺害した。これにより司馬允軍は瓦解し、乱は鎮圧された。

司馬倫は子の秦王司馬郁と漢王司馬迪を殺害し、さらに連座により数千人を処刑した。また、かねてより司馬倫・孫秀と折り合いの悪かった潘岳・石崇・欧陽建も謀反に加担したとでっち上げられて一族皆殺しとなり、石崇の財産は没収された。さらに、司馬倫は司馬允の同母弟である呉王司馬晏を逮捕したが、光禄大夫傅祗らが処刑に反対したので、賓徒県王に移して遠ざけた。

また、孫秀は司馬冏の存在を警戒し、許昌へ出鎮させて中央から遠ざけた。

帝位簒奪[編集]

孫秀が司馬倫に九錫を下賜するよう恵帝に上奏すると、百官で敢えて異議を唱える者はいなかった。恵帝は詔を下して司馬倫に九錫を下賜することを宣言したが、司馬倫はわざとこれを辞退した。百官が詔書を携えて相国府へ至り、受諾するよう請うと、ようやく司馬倫は受け入れた。子の司馬荂は撫軍将軍・領軍将軍に、司馬馥は鎮軍将軍・領護軍将軍に、司馬虔は中軍将軍・領右衛将軍に、司馬詡は侍中に任じられた。また、孫秀や張林らも重任を委ねられた。司馬倫は相国府の兵を2万人追加して宿衛(皇帝の近衛軍)と同等の規模とし、更に秘かに3万を越える兵を無断で養った。また、東宮の3つの門全てに4角の華麗な望楼を作り上げ、宮殿の東西にある道路を遮断して外部との境界を設けた。

11月、孫秀の縁者である羊献容を皇后に立てた。

司馬倫と孫秀は巫祝を信じており、怪異の類を信用していた。

301年1月、国政を掌握した司馬倫と孫秀は、牙門趙奉に命じて宣帝(司馬懿)の神語であると称して「東宮(相国府)の司馬倫は速やかに西宮(禁中)に入るように」と宣言させた。また、宣帝は北芒山にいて趙王を見守っていると称し、北芒山には宣帝廟が別に建てられた。これをもって反逆を正当化した。また、太子詹事裴劭・左軍将軍卞粋ら20人を従事中郎に任じ、別に20人を掾属とした。

散騎常侍・義陽王司馬威司馬孚の曾孫)は司馬倫に媚び諂って信任されていたので侍中に抜擢された。司馬倫は彼を宮殿に派遣し、恵帝に禅詔(帝位を譲る詔)を書かせた。尚書令満奮と僕射崔随は符節を持ち、印章と組綬を携えて司馬倫に送り届けた。だが、司馬倫は今回もわざと受け取らなかった。宗室諸王や郡公卿士は、天文に符瑞(帝王が即位する兆し)が有ると称して司馬倫に受諾するよう勧めると、司馬倫は遂にこれを受け入れた。左衛将軍王輿・前軍将軍司馬雅らは甲士を率いて入殿し、三部司馬へ禅譲が執り行われる旨を告げて「支持する者には褒賞を与える。背く者には刑を施す」と宣言すると、反論する者は誰もいなかった。その日の夜、張林らは宮城諸門に兵を配置して変事に備えた。司馬威は駱休らに迫り、恵帝に印章と組綬を渡すよう強要させた。

9日、内外の百官は車舆・法駕でもって司馬倫を迎え入れた。司馬倫は兵5000を従えて端門より入り、太極殿に昇って帝位に即いた。大赦が下され、建始と改元した。恵帝は雲母車に乗って儀仗隊数百人と共に華林西門から出て金墉城に送られた。護衛の為と称して張衡が金墉城に派遣され、実際には恵帝は監禁状態となった。

10日、恵帝は太上皇とされ、金墉城は永昌宮に改名された。皇太孫司馬臧は濮陽王に降格となり、1週間後に殺害された。世子の司馬荂を皇太子に立て、同じく子の司馬馥を侍中・大司農・領護軍・京兆王に、司馬虔を侍中・大将軍領軍・広平王に、司馬詡を侍中・撫軍将軍・覇城王に封じ、各々兵権を与えた。

司馬倫は群臣を懐柔しようとして官爵を濫発し、司馬肜を宰相に、何劭を太宰に、孫秀を侍中・中書監・驃騎将軍・儀同三司に、司馬威を中書令に、張林を衛将軍に任じた。平南将軍孫旂の子の孫弼と弟子の孫髦・孫輔・孫琰は、孫秀に協力して司馬倫を補佐したので、司馬倫が即位すると4人とも将軍に任じられ、郡侯に封じられた。司馬倫一派はみな列卿や諸中郎将に任じられ、封賞を多数与えられた。即位に協力した者も全て破格の抜擢を受け、奴隷や士卒であっても爵位が与えられたという。

当時、皇帝の近臣は蝉の羽になぞらえた金箔と貂の尾を冠につけていたが、司馬倫が官爵を濫発したので朝廷には貂蝉の冠が溢れかえった。人々は「貂が不足しているので、犬の尾がこれに続いている(犬とは役立たずの者の意)」と噂し合った。

この年は賢良・方正・直言、秀才孝廉・良将の試験が行われず、大臣や郡県から推挙された者はみな官員に登用された。郡国の計吏や太学生で16歳から20歳の者も例外なく署吏に取り立てられた。大赦が行われた日に在職していた郡太守や県令は全て封侯され、郡の小官吏は孝廉に、県の小吏は廉吏に取り立てられた。彼らに下賜する賞賜が巨額になったので国庫が不足してしまい、封侯者に渡す印綬が足りなくなってしまい、文字が書かれていない板が代わりに配られた。その為、賞賜を受けるのをみな恥と思うようになり、百姓ですら司馬倫が天寿を全うしないのを確信していたという。

孫秀は司馬倫の皇帝即位に非常な大功があったので、さらに司馬倫はこれを厚遇し、かつて文帝司馬昭が相国だった時に住んでいた内庫に住まわせた。事の大小にかかわらず、すべて孫秀の許可を得てから実行に移された。司馬倫が詔を下した時は孫秀がいつも改変し、取捨を行って自ら青紙に書き写して詔書とした。朝に出された勅命が夜には変えられた事が3・4度に及び、百官の異動も流水のように頻繁に行われた。

張林は孫秀を妬んでおり、太子司馬荂に手紙を書いて孫秀を讒言したが、司馬荂はこの手紙を司馬倫に見せ、司馬倫は孫秀に渡した。孫秀は張林を逮捕するよう司馬倫に進言すると、司馬倫は同意した。司馬倫は華林園に宗室を集めて会合を開いて張林を招集させ、孫秀がこれを捕らえて三族と共に誅滅した。

三王起義[編集]

当時、三王(斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒)がそれぞれ強兵を擁して地方を治めており、司馬倫と孫秀はこれを深く憂慮して司馬冏を鎮東大将軍に、司馬穎を征北大将軍に任じ、開府儀同三司の特権を与えて懐柔を謀った。

当時、済陰では王盛が、潁川では王処穆が勢力を張っており、司馬倫はこれの討伐を名目に管襲を斉王軍司に任じて司馬冏の下に派遣し、これを監視させた。司馬冏は密かに王盛・王処穆と司馬倫討伐を企んでいたが、管襲が到来すると計画の発覚を恐れ、管襲に協力して両者を討伐し、首を洛陽に送って司馬倫を安心させた。また、司馬倫は成都王司馬穎・河間王司馬顒へも補佐を名目として、臣下を派遣して監視に当たらせた。

しかし、暫くすると司馬冏は管襲を捕えて殺し、豫州刺史何勗・龍驤将軍董艾らと共に挙兵した。同時に、司馬穎・司馬顒・常山王司馬乂・南中郎将新野公司馬歆に使者を送って協力を呼びかけ、各地の将軍や州郡県国にも決起の檄文を送り「逆臣孫秀が趙王を誤らせた。共に誅討しようではないか。命に従わない者は三族を誅す」と宣言した。司馬穎はこれに応じて兗州刺史王彦・冀州刺史李毅・督護趙驤石超らを先鋒として兵を起こし、軍が朝歌県に入る頃には20万余りの大軍になった。司馬乂は太原内史劉暾と共に兵を率いて司馬穎の後援となり、司馬歆もまた司馬冏を補佐した。司馬顒だけはこれに従わずに振武将軍張方に司馬倫を援護させたが、司馬冏と司馬穎が優勢である事を知ると、張方を撤退させて司馬冏に寝返った。

三王(司馬冏・司馬穎・司馬顒)が挙兵したと聞いて司馬倫と孫秀は驚愕し、司馬冏の上書を偽造して「正体不明の賊に攻撃を受けております。我が軍は脆弱であり守ること敵わず、朝廷から援軍を派遣していただきますよう」と書き換え、司馬倫は許昌にいる司馬冏を救援するという名目で兵を動員し、上軍将軍孫輔・折衝将軍李厳に七千人を与えて延寿関から進ませ、征虜将軍張泓・左軍将軍蔡璜・前軍将軍閭和に九千人を与えて崿阪関から進ませ、鎮軍将軍司馬雅・揚威将軍莫原に八千人を与えて成皋関から進ませ、三軍を南下させて司馬冏らの北上を防いだ。また、東平王司馬楙を使持節・衛将軍・都督諸軍に任じて三軍を統率させた。また、孫秀の子孫会には将軍士猗・許超と宿衛兵(近衛軍)三万を与えて司馬穎に対抗させ、京兆王司馬馥と広平王司馬虔に八千人を与えて孫会軍の後援とした。

司馬倫は楊珍を宣帝の廟に派遣して祈祷を行わせ、宣帝が司馬倫に感謝しており必ずや賊軍を撃ち破れると宣言させた。また、道士胡沃を太平将軍に任じ、幸運を招かせた。また、昼夜勝利を祈願し、宗族に羽衣を着用させて嵩山に登らせると、仙人王子喬のお告げを得たと称して神仙文書を作らせ、司馬倫の国運は長久に渡ると叙述させた。これにより民心を集めようとしたが、逆に困惑を招いたという。

成都王司馬穎の前峰が黄橋に至ると、孫会・士猗・許超はこれを破って1万人余りを殺傷した。張泓・司馬雅の軍もまた連戦連勝であり、司馬冏軍は一度は散亡したが、後にまた結集して勢力を復活させたので司馬雅らは進軍を阻まれた。3月、張泓らが河南郡陽翟に入り、城南においてまたも司馬冏軍を破り、数千人を殺傷して輜重を手に入れた。また。城を占拠すると軍需物資を確保した。司馬冏軍は潁陰に駐軍した。4月、司馬冏は兵を分けて潁水を渡って張泓を攻撃させたが、張泓はまたもこれを破った。張泓は勢いに乗じて潁上まで追撃し、夜には潁水に達して陣を構えた。司馬冏は少数の兵でその陣営を攻撃すると、諸軍は退かずに迎え撃ったが、夜になると孫輔と徐建の配下が動揺して陣営が乱れたので、彼らは洛陽まで逃走して司馬倫へ「斉王軍の勢いを止めることが出来ませんでした。張泓らも既に全滅しております。」と嘘の報告を行った。これを信じた司馬倫は大いに恐れ、情報を秘匿して子の司馬虔と許超に洛陽へ帰還するよう命じた。だが、張泓が司馬冏を破ったという報告が届くと、改めて許超を前線に戻らせた。許超は黄河を渡ったが、将士は疑念を抱くようになり、その勢いは挫かれた。

張泓らは諸軍を率いて穎水を渡り、司馬冏の陣営を攻めた。だが、司馬冏は別将孫髦司馬譚・孫輔らを破り、その士卒は逃げまどって洛陽へ戻った。張泓らは残った兵を回収すると、陣営に戻った。

孫会・士猗・許超は皆兵権を握ったが、互いに協力し合っておらず、さらに司馬倫は司馬穎撃破の功績により士猗・許超・孫会に皇帝権を代表する符節を渡したので、指揮系統が定まらなくなった。司馬倫は太子詹事劉琨に使節を与え、河北の将軍を統率させて各軍に決戦を催促させた。劉琨は孫会らと共に3万を率いて黄橋に進軍したが、孫会らは以前の戦勝により油断しており、司馬穎の急襲を受けて湨水で大敗を喫した。孫会は軍を捨てて南へ逃走し、劉琨は軍を後退させると、橋を焼き落として防備を固めた。司馬穎は黄河を渡り洛陽に迫った。

皇帝廃位と死[編集]

司馬冏らの挙兵以後、百官や諸将は司馬倫と孫秀を殺害して天下に謝罪しようと思い、その機会を窺うようになった。

4月7日、左衛将軍王輿と尚書広陵公司馬漼は司馬倫排斥を目論み、700人余りの兵を率いて南掖門から宮中へ向かい、勅命を下して諸将へ宮門を押さえるよう命じ、これに三部司馬が内から応じた。王輿は孫秀討伐に向かうと、孫秀は中書省の南門を閉じたので、王輿は兵士に壁を乗り越えさせた。孫秀・許超・士猗は逃亡を図るも斬り捨てられ、孫会は捕らえられて処刑された。前将軍謝惔・黄門令駱休・司馬督王潜・殷渾はみな殿中において斬られた。三部司馬の兵は宣化門において孫弼を殺した。司馬馥は孫秀の家にいたが、王輿の将兵により捕らえられ、散騎省に監禁された。

王輿は雲龍門に兵を集めて八座(六曹尚書と尚書令、尚書僕射)を殿中に入れると、司馬倫は詔を書くよう強要され「朕は孫秀によって誤りを犯し、三王を怒らせた。今、孫秀は既に誅殺されたので、太上皇を復位させ、朕は農地に帰って晩年を過ごすことにする。」と宣言させた。詔は各地に発せられ、騶虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)によって各軍に停戦が命じられた。司馬倫に従っていた文武百官はみな逃走し、家はもぬけの空となった。司馬倫は黄門に伴われて華林東門から送り出され、太子司馬荂らと共に汶陽里にある自宅に帰された。甲士数千人が金墉城から恵帝を招き入れると、民衆は万歳を唱えた。恵帝が端門から皇宮に入り殿上に登り、群臣は頓首してこれまでの無礼を謝罪した。その後、司馬倫・司馬荂らは金墉城に送られた。司馬虔は孫秀の命令で河北から洛陽へ帰還する途中であったが、九曲で政変を知った。詔により司馬虔の官爵が免じられると、大いに恐れて軍を棄てて数10人を率いて私邸に帰った。

9日、大赦が下され、永寧に改元された。全国で5日間の宴が開かれた。司馬肜らは上書して「趙王父子の凶逆は誅に伏すべきです。」と進言した。百官は朝堂で議論を行い、みな司馬肜の表奏に同調した。

13日、尚書袁敞が符節を持って司馬倫に死を賜り、金屑酒を飲まされて自害させられた。司馬倫は慚愧して巾で顔を覆うと「孫秀が我を誤らせた!孫秀が我を誤らせた!」と慟哭した。子の司馬荂・司馬馥・司馬虔・司馬詡も廷尉に引き渡され、処刑された。司馬馥は死に臨んで司馬虔へ「汝が我らを巻き添えにして一族を破滅させたのだ!」と叫んだ。司馬倫によって用いられた百官は罷免され、尚書・御史・謁者・門下・中書・秘書・諸公府等の官員がほとんど空位となり、尚書台や府衛だけがごく少数留め置かれた。司馬冏らが挙兵してから司馬倫の敗亡まで60日余り、実に10万人以上が殺害されたという。

司馬倫の死を聞くと、司馬冏らの討伐に当たっていた張泓らはみな投降した。張衡・閭和・孫髦・高越は陽翟から軍を撤退させ、伏胤は敗戦して洛陽に逃げ戻ったが、みな市において処刑された。蔡璜は陽翟から司馬冏軍に投降し、洛陽に戻った後に自殺した。王輿もまたもともとは司馬倫の一派であったが、今回の功績により罪を免れた。しかし、東莱王司馬蕤が司馬冏を謀殺すると、その後殺害された。こうして司馬倫の与党は尽く罪に服したが、司馬楙・劉琨・陸機・顧栄のように助命されたものもいる。

司馬倫の即位は認められず僭称とされたので、彼は歴代皇帝に数えられない事もある。

人物[編集]

司馬倫は学問を修めておらず、書物を読むことが出来なかった。帝位に昇って朝権を掌握したが、彼に政治を運用する能力は無く、その実態は孫秀の傀儡に過ぎなかった。司馬倫の眼にはこぶがあり、当時の人はこれを妖異の象徴であると噂し合ったという。

子の司馬荂は見識・智略が欠け、司馬馥・司馬虔は凶暴・残虐で、司馬詡は愚鈍で軽薄であり、彼らは協力し合わず互いに憎しみ合っていた。また、司馬倫の側近は目先の利益だけを追う遠謀のない者ばかりであったという。

逸話[編集]

  • 司馬冏らが決起した時、司馬倫は自ら太廟を祀って必勝を祈願したが、その帰りに大風が吹いて旗と車蓋が折れてしまったという。
  • ある時、雉鶏が飛び入ってきて太極殿の東の階段から上殿したので、人々はこれを追い払った。雉鶏は殿の西方にある大きな鐘の下に飛んで行くと、またわずかな時間で飛びさった。
  • ある時、司馬倫は上殿すると一匹の奇異な鳥を捕らえたが、配下に尋ねるも誰もどんな鳥か分からなかった。何日か過ぎた日の夕暮れ、白い服を着た少年が宮殿の西方に現れ、この服が鳥を殺すといった。そこで司馬倫はこの少年を捕まえて牢屋の中にいる鳥と共に閉じ込めた。翌日の朝、状況を確認しようとすると、扉は閉まったままであったが、鳥と子供はいなくなっていた。

子女[編集]

  • 世子・司馬荂
  • 済陽王・司馬馥
  • 汝陰王・司馬虔
  • 覇城王・司馬詡

参考文献[編集]