懐帝 (西晋)

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懐帝 司馬熾
西晋
第4代皇帝
王朝 西晋
在位期間 307年1月11日 - 311年7月13日
姓・諱 司馬熾
豊度
諡号 孝懐皇帝
生年 太康5年(284年
没年 永嘉7年2月1日
313年3月14日
武帝
王媛姫(中才人)
后妃 梁蘭璧
年号 永嘉 : 307年 - 313年

司馬 熾(しば し、284年 - 313年)は、西晋の第4代皇帝。字は豊度。正式な諡号は孝懐皇帝だが、一般的に懐帝と呼称される。武帝司馬炎の25子。母は王媛姫

生涯[編集]

即位前[編集]

穏やかな性格であり、学問を好んだという。290年豫章郡王に封じられた。4月、司馬炎(武帝)が死去すると、異母兄の司馬衷(恵帝)が即位した。

恵帝の時代、八王の乱により皇室は大いに乱れたが、司馬熾は自ら慎み家に籠って客も招かず、世間と交流せずにひたすら史籍に勤しんだので、周囲から称賛を受けた。やがて成長すると仕官して散騎常侍を拝命した。

301年1月、趙王司馬倫が帝位簒奪を決行すると、官職を罷免された。4月、左衛将軍王輿が司馬倫を廃して恵帝を復位させると、射声校尉に任じられた。その後、車騎大将軍都督青州諸軍事に任じられたが、洛陽に留まった。

304年、鎮北大将軍・都督鄴城守諸軍事に任じられた。11月、左将軍張方が恵帝を無理矢理引き連れて長安への遷都を強行すると、司馬熾もこれに付き従った。12月、異母兄の成都王司馬穎皇太弟を廃されると、代わって皇太弟に立てられた。元々の皇太子は清河王司馬覃(司馬炎の孫)であったが、司馬穎と河間王司馬顒の画策により304年1月に廃されていた。その為、司馬熾は司馬覃を皇太子に戻すべきだと考えており、自分ではふさわしくないのではないかと常々憂慮していた。典書令盧陵脩粛は「二相(司馬顒と司馬穎)が王室を運営し、社稷を安んじようと志しております。太子の重みがあり、時の望をが帰しており、賢人より推薦を受けている、そのような人間が大王の他にいましょうか。清河王(司馬覃)は幼弱であり、衆人から認めれておりません。故に、東宮(皇太子)に昇って藩国を輔けるべきなのです。今、天子は都を離れ、二つの宮殿(洛陽と鄴)は久しく疎かとなっており、常に氐羌が涇川に攻め入るのを恐れ、蟻の如き輩が灞水で弓を引くのを恐れております。どうか、吉日を選んで太子に登り、上は天子を補佐して東都(洛陽)を早く安定させ、下は民の仰慕の望に応えてくださいますよう」と述べると、司馬熾は「卿は我にとっての宋昌であるな」と喜び、その言葉に従った。

306年5月、祁弘らが司馬顒を破って長安を攻略し、恵帝を奪還して洛陽に帰還した。司馬熾もまた洛陽に戻った。11月、恵帝が崩御した。皇后羊献容は司馬熾が即位すると自らが皇太后になれない(司馬熾は皇太子ではなく皇太弟のため)ので、元皇太子司馬覃を皇帝に擁立しようとしたが、侍中華混はこれに反対し、急いで司馬熾を宮殿に召し出した。結局、司馬覃自身がこの企みに応じなかったので、司馬熾は無事に即位する事が出来た。大赦を下し、羊献容を尊んで恵皇后とし、弘訓宮に住まわせ、生母の王媛姫を皇太后と追尊し、妃の梁蘭璧を皇后とした。12月、中書監温羨司徒に、尚書左僕射王衍司空に任じた。また、恵帝を太陽陵に埋葬した。

即位後[編集]

307年1月、大赦を下して永嘉と改元し、太傅・東海王司馬越に輔政させた。3月、楊芷の尊号を恢復し、改葬して武悼と諡した。豫章王司馬詮を皇太子に立て、大赦を下した。司馬熾は次第に自ら政治を主管するのを望み、あらゆる政務に目を配ったので、政権掌握を目論んでいた司馬越は大いに不満を抱くようになった。その為、司馬越は洛陽を出る事を願い出たが、司馬熾は認めなかった。だが、司馬越は命令を無視して許昌に出鎮した。司馬熾は高密王司馬簡を征南大将軍・都督荊州諸軍事に任じて襄陽に駐屯させ、新蔡王司馬騰を都督司冀二州諸軍事に任じてに駐屯させ、南陽王司馬模を征西大将軍・都督秦雍梁益四州諸軍事に任じて長安に駐屯させた。5月、琅邪王司馬睿を安東将軍・都督揚州江南諸軍事に任じて仮節を与え、建業に駐屯させた。8月、幽州・并州・司州・冀州・兗州・豫州で大赦を下し、荊州と江州の8郡を分割して湘州とした。9月、許昌の千金堨を修築し、船での輸送を容易に行えるようにした。11月、汲桑に殺された司馬騰に代わり、尚書右僕射の和郁を征北将軍に任じて鄴に駐屯させた。12月、前の太傅劉寔を太尉に任じ、光禄大夫延陵公高光を尚書令に任じた。

当時、并州諸郡は全ての軍勢に攻め落とされ、并州刺史劉琨の守る晋陽を残すのみであった。また、益州は全て成漢の支配下にあった。さらに、東莱人の王弥は青州・徐州一帯を荒らし周り、牧人の汲桑は鄴を陥とし、頓丘郡太守魏植は兗州を攻撃した。汲桑と魏植の乱については同年の内に鎮圧に成功したが、他にも全国各地で反乱が多発しており、西晋の衰亡は目に見えて明らかであった。

308年1月、大赦を下した。2月、隴西内史張越酒泉郡太守張鎮西平郡太守曹袪は共に涼州を奪い取ろうと目論み、朝廷に上書して涼州刺史張軌の更迭を要請した。これを受け、司馬熾は侍中袁瑜を涼州刺史に任じたが、長安を守る司馬模は張軌が冤罪に陥れられていると知り、上表してこの人事を止めるよう要請した。司馬熾はこれに同意し、張軌には曹袪の討伐を命じた。これを受け、張軌は子の張寔を派遣して曹袪・張越を討ち、涼州を安定させた。司馬熾は張軌を西平郡公に封じたが、張軌は辞退した。5月、王弥が洛陽へ襲来すると、王衍を都督征討諸軍事に任じて防衛を命じた。涼州からの援軍北宮純は王弥の陣営に奇襲を仕掛け、王弥を退却させた。9月、豫州刺史裴憲を白馬に派遣して王弥を防がせ、車騎将軍王堪を東燕に派遣して石勒を防がせ、平北将軍曹武を大陽に派遣して蒲子の漢軍に備えさせた。11月、太子少傅荀藩を尚書令に任じた。12月、大赦を下した。張光梁州刺史に、劉璠を順陽内史に任じ、長江・漢水一帯に移住した流民を梁州に帰らせた。

309年3月、尚書左僕射山簡を征南将軍・都督荊湘交広等四州諸軍事に任じ、司隷校尉劉暾を尚書左僕射に任じた。太尉劉寔が老年のため引退を申し出ると、代わって司徒王衍を太尉に任じ、東海王司馬越を司徒とした。

司馬熾は皇太弟時代より中庶子繆播を信任していたので、即位後には繆播を中書監に、その従弟の繆胤を太僕に任じて近くに置いた。さらに、の散騎常侍王延・尚書何綏太史令高堂沖も取り立てて政治の中枢に関わらせた。この時期、司馬越が洛陽に帰還したが、司馬熾が側近で回りを固めているのを不安視し、劉輿潘滔は繆播らの誅殺を勧めた。司馬越はこれに従って繆播らに謀反の罪をでっち上げ、平東将軍王秉に三千人の兵を与えて入宮させ、繆播ら10人余りを逮捕して廷尉に引き渡し、処刑した。司馬熾はただ涙を流して嘆息する事しか出来なかったという。この一件により、司馬越は大いに衆望を失い、大いに猜疑の感情を抱かれる事となった。また、司馬越は保身の為に宿衛の者を全て罷免して自らの近臣と入れ替えた。

漢軍が黎陽に侵攻すると、王堪に討伐を命じたが、王堪は延津で敗北して死者は三万を数えた。この時期、大旱魃が起こり、長江・漢水・黄河・洛水はみな干からびてしまい、歩いて渡れるほどだった。

7月、成漢と交戦を続けていた益州刺史羅尚巴郡で死ぬと、司馬熾は長沙郡太守皮素を羅尚の後任とした。同月、漢の劉聡と王弥が上党に侵攻して壷関を包囲し、并州刺史劉琨が救援に向かうも敗北した。司馬熾は淮南内史王曠・将軍施融曹超に討伐させたが、敗北して曹超と施融は戦死し、上党郡太守龐淳は郡を挙げて漢に降伏した。

9月、漢の劉聡が浚儀を包囲すると、曹武に討伐を命じたが撃退された。劉聡は洛陽へ進撃して西明門まで至ったが、弘農郡太守垣延が夜襲を掛けて大勝し、劉聡を撤退させた。10月、再び漢の劉総が襲来すると、王堪と曹武に命じて劉聡を討たせたが、敗北して王堪は洛陽に逃げ帰った。劉聡は再び洛陽の西明門に到達したが、北宮純や司馬越らが奮戦して退却させた。

11月、王堪と北中郎将裴憲に石勒討伐を命じたが、石勒が黎陽に入ると裴憲は恐れて淮南に逃走し、王堪は倉垣に移った。

12月、東夷校尉李臻が遼東郡太守龐本に殺害されると、司馬熾は封釈を代わって東夷校尉に任じ、龐本を誅殺させた。

310年1月、大赦を下した。5月、幽州・并州・司州・冀州・秦州・雍州で蝗害が発生し、草木や馬牛の毛に至るまで食べ尽くされた。

7月、劉聡・劉曜・石勒・趙国が懐県で河内郡太守裴整を包囲すると、司馬熾は征虜将軍宋抽に救援を命じたが、石勒と平北大将軍王桑が宋抽を迎撃して殺した。9月、河内出身の楽仰が河内郡太守裴整を捕らえて石勒に投降した。10月、驃騎将軍王浚を司空とし、平北将軍劉琨を平北大将軍とした。

洛陽の食糧が枯渇して来ると、司馬越は各地に檄文を送って洛陽救援を命じた。また、司馬熾は使者へ「朕の言葉を諸国の征鎮に伝えよ。今ならまだ間に合うが、遅れるともはや手遅れとなる」と告げたが、朝廷を援けるために上洛する者は誰一人いなかった。

11月、司馬越は急速に勢力を拡大する漢を前に何の手も打てなかったので、朝廷で不安な日々を送った。その為、軍装して入朝すると石勒討伐の許可を求め、洛陽の兵で兗州・豫州の乱を鎮圧しようとした。だが、司馬熾は「今、逆虜が郊畿を侵逼し、王室は蠢蠢となり、心が固まっていない。朝廷社稷は公に頼っているのに、なぜ根本を疎かにして遠くに出ようとするのだ。」と反対したが、司馬越は「臣が軍を率いて必ずや賊を滅ぼします。そうすれば、不逞の奴らが消殄し、東の諸州からの職貢は流通するようになるでしょう。これにより、国威は宣暢し、藩屏としての役割を果たせるのです。もし洛陽に留まって機会を失えば、賊の弊害は日に日に強くなり、いよいよ憂いは重く大きくなるでしょう」と述べ、出征を強行した。

司馬越は兵を率いて許昌へと出陣し、行尚書台も遠征に随行させた。さらに、太尉王衍を始めとして人望・名声のある者が全て司馬越に従軍する事となったので、洛陽は官員がいなくなって警護が不足し、飢饉は日増しに酷くなって宮中でも盗賊や人殺しが横行するようになった。役所もや営署も自ら堀を作って自衛せざるを得なくなり、危急を告げる太鼓の音は日々絶えなかったという。

竟陵王司馬楙は上書し、司馬熾へ洛陽を監視していた司馬越の側近何倫を討つ事を進言した。司馬熾はこれを許可したが、作戦は失敗した。司馬熾は禍を避ける為、全ての罪を司馬楙に帰したが、司馬楙は洛陽から逃走した。朝廷では漢の攻勢を避けるために遷都すべきという意見が出るようになり、周馥は上表して寿春への遷都を勧めた。

311年1月、司馬越の側近である河南尹潘滔・尚書劉望らが征東大将軍苟晞を讒言すると、苟晞は怒って司馬熾へ上書して司馬越や潘滔らを非難し、さらに諸州に檄文を送って司馬越の罪状を公開した。

司馬熾は司馬越の専横に不満を抱いており、さらに司馬越が洛陽に留めた何倫らは公卿の財産を略奪して公主を辱めていた。その為、苟晞に密詔を与えて司馬越討伐を命じた。これを聞いた司馬越は従事中郎将楊瑁・徐州刺史裴盾を派遣して苟晞を討たせた。3月、詔を発して東海王司馬越の罪を数え上げ、各地の諸将に司馬越討伐を命じ、苟晞を大将軍に任じた。司馬越は憂憤から病に罹って急死すると、司馬熾は司馬越を県王に落とした。

4月、司馬越の棺を守って山東に向かっていた王衍率いる晋軍が石勒により壊滅し、王公以下の死者は10万を超えた。

5月、司空王浚を大司馬に進め、征西大将軍司馬模を太尉とし、太子太傅傅祗を司徒とし、尚書令荀藩を司空とし、安東将軍司馬睿を鎮東大将軍とした。

洛陽では飢饉が日を追うごとにひどくなり、漢の軍勢が次々と侵攻するようになったので、苟晞は上表して倉垣へ遷都するよう請うた。また、従事中郎劉会に船数十艘と護衛五百人を率いさせ、穀千斛を献上して司馬熾を迎えさせようとした。司馬熾はこれに同意したが、公卿は洛陽で築いた財産を惜しみ、また司馬越が留守として残した潘滔の存在をみな恐れていたので、詔を奉じようとしなかった。

さらに飢饉は悪化し、洛陽では人々は互いに喰らい合うようになり、百官の8,9割が離散した。司馬熾は群臣を召し出して遷都の意思を告げたが、穀物物資も宿衛も不足していた。司馬熾は手を撫でて「車輿すら無いというのか」と嘆いたという。司徒傅祗を河陰に派遣し、船を修理させて河を越す準備をさせ、司馬熾は朝臣数10人を従えて徒歩で西掖門から出て銅駝街まで至ったが、盗賊の掠奪に遭って進めなくなり、宮殿に引き返した。

度支校尉魏浚が流民数百家を率いて河陰の峽石を拠点とし、周辺で穀物を手に入れて司馬熾に献上した。司馬熾は魏浚を度支校尉のまま揚威将軍・平陽郡太守に任じた。

6月、前軍大将軍呼延晏が洛川へ侵攻すると、晋軍は連戦連敗して多数の死者を出した。呼延晏は洛陽攻撃に移ると、平昌門を陥落させ、東陽門・宜陽門と諸々の役所に火を放ち、河南尹劉黙を杜門において撃ち破った。司馬熾は河を渡って東へ逃れようとして洛水に船を集めたが、呼延晏はそれをことごとく焼き払った。劉曜・王弥・石勒らも遅れて呼延晏に合流すると、遂に洛陽は失陥した。司馬熾は華林園の門から河陰の藕池へと脱出し、長安へ逃亡を図ったが、途中で捕まって宮城の端門に幽閉された。劉曜らは晋の祖廟を焼き払い、王公や百官は尽く殺されて死者は3万人を超えた(永嘉の乱)。司馬熾は平陽に連行された。

捕虜となる[編集]

平陽に到着すると、漢帝劉聡により特進・左光禄大夫に任じられ、平阿公に封じられた。また、司馬熾の側近である侍中庾珉と王儁は光禄大夫に任じられた。

312年2月、儀同三司・会稽郡公に封じられた。劉聡は司馬熾を招いて「卿が豫章王であったとき、朕は卿に接見した。王武子(王済中国語版)が朕を紹介すると、卿は以前からその名を聞いていたと言ったな。卿は楽府の歌を朕に示し、『君は辞賦が得意と聞く。試しにこの作品を見てみるように』と言い、朕は王武子とともに『盛徳頌』という詩を作り、卿はこれを称賛した。また、皇堂での射術に誘われたこともあったな。朕が十二本、卿と王武子は九本を命中させた。卿は朕に弓を贈ったが卿は覚えておるかね」と話した。司馬熾は「臣が忘れるはずなどありません。ただ一つ残念なのは、もっと早くその龍顔(皇帝の顔)を知ることができなかったということです」と答えた。劉聡は「卿の一族は骨肉の争いを繰り返したが、どうしてこうなったと思う」と問うた。司馬熾は「これは人事によらず天意によるものです。大漢は天意に応じたのであり、そのために臣の一族は互いを駆除したのです。もし臣の一族が武帝の大業を継いで九族が協力し合ったならば、陛下の今日はなかったでしょう」と返した。夕方になると司馬熾は退出した。劉聡は貴人の劉氏を司馬熾へ下賜して「彼女は名公の孫であり、特別に卿の妻とするので大切にするように」と述べ、劉氏を会稽国夫人とした。

9月、西晋残党によって甥の秦王司馬鄴長安で皇太子に擁立された。

313年1月、関中の司馬鄴政権が活発となると、劉聡は次第に司馬熾の存在を疎ましく思うようになった。劉聡は光極前殿において司馬熾に命じ、奴隷の服を着させて人々に酒を注がせた。旧臣の庾珉・王儁らは立ち上がって慟哭したので、劉聡はこれを不快に思った。さらにこの時期、王儁らが平陽で反乱を起こし、平洲の劉琨に呼応しようと謀っていると密告する者がいた。これにより、劉聡は司馬熾を毒殺し、王儁を始め晋の旧臣10人余りを誅殺した。享年33であった。

人物[編集]

皇太子となっても慎み敬い、驕る事なく朝臣と引見し、書籍を論じた。即位すると、旧制を復活させて太極殿東堂で聴政を行い、宴の席でも群臣に政務や儒学の経典に関して討論させた。黄門侍郎傅宣は嘆息して「やっと武帝の世を取り戻すことができた。」と語ったという。また、秘書監荀崧はいつも人へ「懐帝は容貌が美しく、清らかで勤勉に励み、幼い頃からその才知で名を馳せていた。もし天下太平であったなら、法律・制度を守って国を治め、良主となったであろう。しかしながら、恵帝の騒乱の後を継ぎ、東海(司馬越)が専政した事から、幽王厲王のような過ちが無かったににも関わらず、流亡の禍に遭遇してしまったのだ」と語ったという。

宗室[編集]

后妃[編集]

  • 皇后梁蘭璧 - 永嘉の乱により消息不明
  • 会稽郡夫人劉氏 - 劉聡の貴人であった

参考文献[編集]

  • 晋書』 - 巻5 帝紀第5 , 巻59 列伝第29 , 巻61 列伝31
  • 資治通鑑』 - 巻85 - 巻87