劉和

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廃帝 劉和
第2代皇帝
王朝
在位期間 310年
姓・諱 劉和
玄泰
生年 不詳
没年 河瑞2年(310年)7月
光文帝
呼延皇后

劉 和(りゅう わ)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の第2代皇帝。後世の史家によって廃帝和とも帝和と称される。新興(現在の山西省忻州)出身。光文帝劉淵の長男で、生母は匈奴の名門出身の呼延皇后(元勲の呼延翼の娘)。同母弟に劉裕劉隆がいる。

生涯[編集]

身の丈は8もあり、その姿は雄々しく剛毅で、立派な容貌をしていた。幼少時から学問に励み、『毛詩』、『春秋左氏伝』、『鄭氏易』を熟読した[1]

308年10月、父の劉淵が漢皇帝を名乗ると、劉和は大将軍に任じられた。その後、大司馬となり、梁王に封じられた。

310年1月、劉和は皇太子に建てられた。太子になった後、彼は猜疑心が強くなり、部下へ恩を施さなくなったという。

同年7月、劉淵が崩御すると、その後を継いで皇帝に即位した。

衛尉・西昌王の劉鋭と、母方の叔父でもある宗正呼延攸は、劉淵臨終に際して後事を何も託されなかった事を恨んでいた。彼らは劉和へ「先帝の遺詔は、権力の軽重がしっかり考慮されておりません。3王(北海王劉乂、鲁王劉隆、斉王劉裕)は禁中近衛兵を率いており、大司馬・楚王の劉聡もまた10万の精兵を近郊で掌握しております。陛下は今、ただ玉座にいるだけに過ぎず、実権を彼らに握られているに等しいです。どのような災いが起こるか予測できません。早めに対策されることを望みます。」と、話を持ち掛けた。劉和は呼延攸の外甥に当たった為、彼の進言に疑いを持たなかった。領軍・安昌王の劉盛と安邑王の劉欽馬景らを召して、計画を告げた。

これを聞いた劉盛は、「先帝の棺がまだ埋葬されておらず、4王は反逆の意思を持っていないにも関わらず、味方同士で殺し合わせるようなことをすれば、天下の人は陛下の事を何と言うでしょう。未だ大業は為されておらぬのに、このような小人の讒言を真に受け、兄弟同士で争うようなことはおやめ下さい。一族の諸弟を信じずに、いったい他に誰を信じるというのです。」と劉和を諫めた。劉鋭と呼延攸は怒り「今日の議論に、他の道理を話すことなどない。陛下の命令通りに軍を率いればよかったものを。」と言って、側近に命じて劉盛を斬り殺させた。馬景は大いに恐れ、「陛下のを、臣らが死をもって奉ずれば、失敗することなどありません。」と言い、やむなく劉和に従った。劉和は彼らと東堂において盟約を交わし、4王討伐の準備を行った。

劉和は期を見計らって決起すると、劉鋭には馬景を率いさせ、单于台にいる劉聡を攻めさせた。呼延攸には永安王の劉安国を率いさせ、司徒府にいる劉裕を攻めさせた。侍中劉乗は劉欽を率いさせ、劉隆を攻めさせた。尚書田密と武衛将軍劉璿には、劉乂を攻めさせた。

田密と劉璿らは、関所の守備兵を殺して劉聡の下に奔り、計画を告げた。劉聡は防備を整えて劉鋭の大軍を待ち構えた。劉鋭は、劉聡に備えがあるのを見ると、軍を返して呼延攸、劉乗らと合流して、劉隆、劉裕を攻めた。呼延攸と劉乗は、劉安國や劉欽の裏切りを恐れ、彼らを斬り殺した。呼延攸らは攻撃を続け、当日中に劉裕と劉隆を破り、彼らを斬った。

劉聡が攻勢に転じると、彼は西明門を攻め、これを攻略した。驚いた劉鋭らは南宮に逃げ込んだが、劉聡の前鋒部隊がこれを追いかけ、光極西室にいる劉和を捕らえて、そのまま斬り殺した。劉鋭、呼延攸らは、市街において晒し首となった。劉和の在位期間はわずか1ヶ月だった。

参考文献[編集]

  • 晋書 巻101・載記第1
  • 通鑑紀事本末 巻13

脚注[編集]

  1. ^ 晋書載記第1劉淵伝、第2劉聡伝より。