呼延翼

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呼延 翼(こえん よく、? - 309年)は、漢(後の前趙)の政治家武将である。遠祖は匈奴系の貴種である「呼衍部」もしくは「呼延部」の首長の末裔。娘に光文帝劉淵の皇后呼延氏がおり、子に太尉呼延攸がいる。

生涯[編集]

勇敢で人望があったという。劉淵に仕え、彼が事業を起こすと、それに参画しよく補佐した。

304年10月、漢(前趙)が建国されると、娘の呼延氏は王后に立てられた。後に御史大夫に任じられた。

308年10月、劉淵が皇帝に即位すると、娘は最初の皇后となり、呼延翼は大司空雁門郡公に任じられた。

309年1月、劉淵は皇子の劉聡王弥らに命じて洛陽を攻撃させ、呼延翼が歩兵を率いて後詰めとなった。劉聡は洛陽城下まで軍を進めたが、北宮純の夜襲を受けたために軍を退いた。この時、呼延翼の陣営は大いに乱れ、不服を抱いた部下の反逆を受け殺害された。

側近であった呼延翼を失った劉淵は大いに落胆して、嘆き悲しんだという。剛穆公と追諡された。

参考文献[編集]