伊藤圭介 (理学博士)
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伊藤圭介 | |
生誕 |
享和3年1月27日 (1803年2月18日) 日本・尾張国名古屋 (現・愛知県名古屋市) |
死没 |
1901年1月24日(97歳没) 日本・東京府(現・東京都) |
研究機関 | 東京大学 |
影響を 受けた人物 | シーボルト |
影響を 与えた人物 | 田中芳男、柳川春三、千村五郎 |
主な受賞歴 |
勲三等瑞宝章受章 勲四等旭日小綬章受章 男爵綬位 |
命名者名略表記 (植物学) | Ito |
プロジェクト:人物伝 |
伊藤 圭介(いとう けいすけ、1803年2月18日(享和3年1月27日)- 1901年(明治34年)1月24日[1])は、幕末から明治期の本草学者・蘭学者・博物学者・医学者。日本初の理学博士。男爵(従四位勲三等)。尾張国名古屋(現愛知県名古屋市)出身。名は舜民、清民。 字は戴堯、圭介。号は錦窠。「雄しべ」「雌しべ」「花粉」という言葉を作った事でも知られる。
略歴
[編集]- 享和3年(1803年)、町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれる。
- 文政3年(1820年)、町医の資格を得て開業。
- 文政4年(1821年)、京都に遊学し、藤林泰助より蘭学を学ぶ。
- 文政10年(1827年)、長崎にてシーボルトより本草学を学ぶ。翌年、長崎から名古屋に帰る際にシーボルトよりツンベルク『日本植物誌』を受け取り、文政12年(1829年)に『泰西本草名疏』として翻訳刊行した。
- 嘉永5年(1852年)、尾張藩より種痘法取調を命ぜられる(種痘所)。
- 文久元年(1861年)、幕府の蕃書調所物産所出役に登用される。
- 明治3年(1870年)末、名古屋より東京へ移住して大学出仕、翌年より文部省出仕となった。同14年(1881年)、東京大学教授に任ぜられた(1886年に非職、1889年に非職満期)。同21年(1888年)、日本初の理学博士の一人として学位を受ける。また初代の東京学士会院会員となった。
- 明治34年(1901年)1月24日午前2時、慢性胃腸炎のため[2]数え99歳で永眠。なお22日には、男爵位(華族に被列)とともに、東京帝国大学名誉教授の称号も授けられた[3]。
墓所は谷中天王寺墓地。愛知県名古屋市の平和公園内(光勝院墓域)にも碑が建立されている[4]。
栄典
[編集]位階
- 1881年(明治14年)9月24日 - 正六位[5]
- 1883年(明治16年)12月5日 - 従五位[5]
- 1889年(明治22年)3月12日 - 正五位[6]
- 1892年(明治25年)7月9日 - 従四位[7]
勲章等
伊藤圭介にちなむ植物
[編集]伊藤の業績を称えてシーボルトらにより献名された日本の植物には有名なものが多い。
- アシタバ(セリ科、Angelica keiskei)
- イワチドリ(ラン科、Amitostigma keiskei)
- イワナンテン(ツツジ科、Leucothoe keiskei)
- オオビランジ(ナデシコ科、Silene keiskei)
- シモバシラ(シソ科、Keiskea japonica)
- スズラン(ユリ科、Convallaria keiskei)
- ヒカゲツツジ(ツツジ科、Rhododendron keiskei)
- マルバスミレ(スミレ科、Viola keiskei)
- ユキワリイチゲ(キンポウゲ科、Anemone keiskeana)
など。
伊藤文庫
[編集]伊藤文庫は伊藤圭介が収集した本草学に関する書籍コレクション[10]。伊藤圭介文庫とも。伊藤圭介およびその孫の篤太郎より1944年に国立国会図書館が購入した。カール・ツンベルクの『日本植物誌』(1784年)、それを元に圭介が著した『泰西本草名疏』(1829年)、森立之・服部雪斎の『華鳥譜』(1861年)など、約2000冊を数える[11]。蔵書には「尾張伊藤圭介之記」「九十一翁」等の蔵書印が押印されている[11]。国立国会図書館のほか、名古屋大学図書館、名古屋市東山植物園などに見ることが出来る[11]。
著書
[編集]論文
[編集]親族
[編集]- 父:西山玄道 - 尾張藩町医。
- 母:後妻:たき(恵祥) - 野間利貞四女[12]。嘉永5年12月12日(1853年)86歳で没[13]。
- 先妻:嘉寿能(祖父江村吉川旦妹、文政8年(1825年)2月結婚、天保11年(1840年)11月3日没)[14]
- 後妻:貞(佐屋村佐藤市郎左衛門長女、文化13年(1816年) - 明治13年(1880年)7月24日)[14]。
- 義兄・西山春成 ‐ 西山玄道の養嗣子。子に西山尚義
脚注
[編集]- ^ 『官報』1901年1月25日「彙報○官庁事項○華族卒去」、『中外医事新報』501号、1901年2月、208頁。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)4頁
- ^ a b 『官報』第5265号「授爵、叙任及辞令」1901年1月23日。
- ^ “千種区史跡散策路”. 名古屋市千種区. 2021年3月16日閲覧。
- ^ a b c 国立公文書館所蔵「従四位勲四等理学博士伊藤圭介勲位進級ノ件」。
- ^ 『官報』1889年3月15日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1892年7月11日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
- ^ 『官報』第5266号「叙任及辞令」1901年1月24日。
- ^ 国立国会図書館-江戸時代の博物誌. “伊藤文庫”. 2009年7月1日閲覧。
- ^ a b c 国立国会図書館-蔵書印の世界. “伊藤圭介”. 2009年7月1日閲覧。
- ^ 西島 2008, pp. 55–57.
- ^ 吉川 1955, pp. 58–61.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 吉川 1955, pp. 4–5.
- ^ 吉川 1955, p. 6.
- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』上巻、171頁。
参考文献
[編集]- 国立公文書館所蔵「従四位勲四等理学博士伊藤圭介勲位進級ノ件」(履歴書添付)1901年1月23日。
- 吉川芳秋『尾張郷土文化医科学史攷拾遺』尾張郷土文化医科学史攷刊行会、1955年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 土井康弘「幕末尾張藩洋学者伊藤圭介の研究」昭和女子大学(博士論文)、2002年。
- 西島太郎「親子二代の門人 ―西山玄道・大河内存真―」『名古屋大学附属図書館 2008年春季特別展 濃尾の医術 ―尾張藩奥医師 野間家文書を中心に―』名古屋大学附属図書館研究開発室、2008年 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 伊藤圭介記念室 - ウェイバックマシン(2004年3月6日アーカイブ分)
- 国立国会図書館-江戸時代の博物誌-伊藤文庫
- 国立国会図書館-蔵書印の世界-伊藤圭介
- 名古屋大学附属図書館-伊藤圭介文庫検索システム
- 3. シーボルトをめぐる人々 | あの人の直筆 - 国立国会図書館
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 伊藤(圭介)家初代 1901年 |
次代 伊藤一郎 |