コンテンツにスキップ

中谷雄英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Soregashi (会話 | 投稿記録) による 2007年12月10日 (月) 22:31個人設定で未設定ならUTC)時点の版 ({{柔道競技オリンピック金メダリスト男子軽量級}})であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

オリンピック
柔道
1964 男子 軽量級

中谷 雄英なかたに たけひで1941年7月9日 -)は柔道選手。柔道指導者。1964年東京オリンピック柔道男子軽量級金メダリストでオリンピック柔道競技、最初の金メダル獲得者である。

来歴

広島県広島市生まれ。兄弟4人がすべて黒帯という柔道一家に生まれ、12歳から柔道を始める。広陵高等学校時代には「広島の姿三四郎」の異名をとった。二段モーションからの素早い左小外刈を中心に、背負投足技と特に寝技の巧みなオールラウンドで堅実な柔道で知られた。しかし進んだ明治大学は当時、村井正芳鳥海又五郎坂口征二(のちプロレスラー坂口憲二の父)らを揃えた黄金時代だったため、団体戦ではレギュラーに入れなかった。柔道が初めて正式種目となった1964年東京オリンピックの軽量級(68kg以下)の選考過程においても闘志を内に秘めるタイプで、責任重大な初戦、更に外国人相手では不利と見られていたが、五輪選手村に入る数日前、ギリギリでの発表で五輪代表の座を射止めた。

1969年10月21日、全勝の使命を背負って臨んだニッポン柔道の先陣を切り、オール一本勝ちの完全勝利。試合時間合計、僅か9分間で柔道競技史上最初の五輪金メダルを獲得。新装直後だった日本武道館のセンターポールに、柔道最初の日の丸を揚げた。しかし代表になれれば金メダルは確実と言われた時代であり、当時の柔道界は「無差別こそ柔道」という雰囲気が強く、その無差別級で神永昭夫アントン・ヘーシンク(オランダ)に敗れたため、あまり祝福されることはなかった。この悔しさをバネに、その後、柔道界の最高峰、体重無差別の全日本柔道選手権に三度出場を果たし、柔道家としての意地を見せた。

明大卒業後は三菱レイヨンに5年間勤務。その後西ドイツ代表ナショナルコーチに就任し地元開催のミュンヘンオリンピックまでの3年間を指導。軽重量級のバルト、重量級のグラーンらのメダリストを育てた。

1973年から広島に戻り、家業の宝石店を経営。また全日本柔道連盟理事、広島県柔道連盟理事長などの要職に就き後進の指導にあたる。

2003年藍綬褒章を受章。

関連項目

外部リンク