パウリノ・アルカンタラ

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Alcántara.jpg
パウリノ・アルカンタラ
名前
カタカナ パウリノ・アルカンタラ・リエストラ
ラテン文字 Paulino Alcántara Riestrá
基本情報
生年月日 1896年11月7日
スペインの旗 スペイン領東インドイロイロ
没年月日 1964年2月13日(満67歳没)
スペインの旗 スペインバルセロナ
身長 165cm
選手情報
ポジション FW
ユース
ACガレノカタロニア語版
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1912–1916 FCバルセロナ 47 (55)
1916–1918 ボヘミアンズSC英語版 23 (24)
1918–1927 FCバルセロナ 130 (145)
代表歴
1915-1924 カタルーニャ州の旗 カタルーニャ
1917  フィリピン
1921-1923 スペインの旗 スペイン 5 (6)
監督歴
1951 スペインの旗 スペイン
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

パウリノ・アルカンタラ・リエストラスペイン語: Paulino Alcántara Riestrá , 1896年11月7日 - 1964年2月13日)は、フィリピン出身のスペイン系フィリピン人のサッカー選手、サッカー指導者。ヨーロッパで成功した最初のアジア人選手とされる。

キャリアの大半をFCバルセロナで過ごし、通算369ゴールはリオネル・メッシに次ぐクラブで第2位の記録である。

経歴[編集]

1896年、スペイン領東インドイロイロの出身でフィリピン駐留スペイン軍兵士の父と、先住民族イロンゴ人の母との間に生まれたメスティーソであった。スペインバルセロナで育ち、ACガレノカタロニア語版でプレイした後、ジョアン・ガンペールによって見出されFCバルセロナと契約した。

トップデビューは15歳の時、1912年2月25日のカタルーニャ選手権英語版のカタルSC戦。この試合でアルカンタラはハットトリックを決めている。1913年はコパ・デル・レイとカタルーニャ選手権の2冠、1916年はカタルーニャ選手権優勝に貢献した。

1916年にアルカンタラの両親は息子を連れて、フィリピンに帰国することを決めた。フィリピンでは医学を学びつつ、マニラのボヘミアンズSC英語版でプレイしていた。アルカンタラの退団以降タイトルから離れていたFCバルセロナは彼の復帰を懇願しており、本人もこれに乗り気だったが、彼の両親がこれを阻んだ。1917年にマラリアを患ったアルカンタラは、スペインへの帰国を両親が認めてくれるまで、処方された薬を飲むことを頑なに拒んだという。

1918年にFCバルセロナに戻った後、元チームメイトでもある監督ジャック・グリーンウェル英語版は当初アルカンタラをディフェンダーとして起用を試みたが、ファンからの抗議によってフォワードに戻した。1920年にはクラブはコパ・デル・レイとカタルーニャ選手権のダブルを達成した。コパ・デル・レイ決勝ではアスレティック・ビルバオに対してゴールを上げ、2-0で勝利した。この時期がクラブの最初の黄金期と目されている。1922年コパ・デル・レイ決勝ではレアル・ウニオンを5-1で破り、アルカンタラ自身も2ゴールを挙げた。1926年の決勝では3-2で勝利し、この時もゴールを挙げている。

代表でのキャリア[編集]

1915年に初めてカタルーニャ代表としてプレイ。1924年までに少なくとも6試合に出場して、4ゴールを挙げた。しかしこの時代の記録は必ずしも正確ではないため、より多くの試合に出場したりゴールを挙げた可能性もある。

フィリピン帰国中の1917年にはフィリピン代表に選ばれ、5月に東京で開かれた第3回極東選手権に出場。日本代表戦では先制点を決めて15-2の勝利に貢献した[1](フィリピン代表の最大差勝利試合であり、日本代表の最大差敗戦試合でもある)。同大会では卓球競技のフィリピン代表としても出場した。

1920年にサモラ、サミティエル、サスマガらとともにスペインのオリンピック代表に選ばれたが、医学試験の勉強のためにこれを辞退。 1921年10月17日、25歳の時にベルギー代表との試合でスペイン代表デビューを果たし、2ゴールを挙げて2-0で勝利した。その後、1921年から1923年までに5試合に出場して6ゴールを挙げている。

引退後[編集]

1927年に31歳で引退した後は医師に転身した。1931年から1934年までFCバルセロナのクラブディレクター、1951年にスペイン代表監督を務めた。1964年にバルセロナで没した。

所属クラブ[編集]

獲得タイトル[編集]

  • コパ・デル・レイ: 5
    • 1912-13, 1919-20, 1921-22, 1924-25, 1925-26
  • カタルーニャ選手権: 10
    • 1912-13, 1915-16, 1918-19, 1919-20, 1920-21, 1921-22, 1923-24, 1924-25, 1925-26, 1926-27

代表での得点[編集]

スペイン代表[編集]

# 年月日 開催地 対戦チーム 得点 結果 大会
1. 1921年10月9日 サン・マメス, ビルバオ  ベルギー 1–0 2–0 親善試合
2. 2–0
3. 1922年4月30日 Stade Sainte-Germaine(fr), ル・ブスカ  フランス 1–0 4–0
4. 2–0

フィリピン代表[編集]

# 年月日 開催地 対戦チーム 得点 結果 大会
1 1917年5月10日 東京  日本
1–0
15–2
極東選手権競技大会
2
?–?

出典[編集]

  1. ^ 「競技記録 第三日/蹴球/庭球」 朝日新聞、1917年5月11日、2015年11月20日閲覧
  • Morbo: The Story of Spanish Football (2003), Phil Ball.

外部リンク[編集]