コンテンツにスキップ

ハーバート・グラッドストーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代グラッドストーン子爵
ハーバート・グラッドストーン
Herbert Gladstone, 1st Viscount Gladstone
ハーバート・グラッドストーン(1910年頃撮影)
生年月日 1854年2月18日
出生地 イギリスの旗 イギリス ロンドン ウェストミンスター ダウニング街
没年月日 (1930-03-06) 1930年3月6日(76歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス ハートフォードシャー ウェア英語版
出身校 オックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジ英語版
所属政党 自由党
称号 バス勲章一等勲爵士 (GCB)
聖マイケル・聖ジョージ勲章一等勲爵士 (GCMG)
大英帝国勲章一等勲爵士 (GBE)
枢密顧問官 (PC)
治安判事 (JP)
配偶者 ドロシー・メアリー・パジェット
親族 ウィリアム・グラッドストン(父)

在任期間 1910年5月30日 - 1914年9月8日
国王 ジョージ5世
首相 ルイス・ボータ

イギリスの旗 第48代 内務大臣
内閣 キャンベル=バナマン内閣英語版
第1次アスキス内閣英語版
在任期間 1905年12月11日 - 1919年2月19日
国王 ジョージ5世
テンプレートを表示

初代グラッドストーン子爵ハーバード・ジョン・グラッドストーン英語: Herbert John Gladstone, 1st Viscount Gladstone1854年2月18日1930年3月6日)は、イギリス政治家バス勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCB)、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCMG)、大英帝国勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GBE)、枢密顧問官(PC)、治安判事(JP)。

自由党に所属し、1905年から1910年にかけて内務大臣を、1910年から1914年にかけて南アフリカ総督を務めた。首相ウィリアム・グラッドストンの末子である。

経歴

[編集]

グラッドストーンは首相も務めたウィリアム・グラッドストンとその妻であるサー・スティーブン・グリンの娘キャサリンの間の末子で、父が財務大臣のときにダウニング街にて生まれる。なおウィリアム・ヘンリー・グラッドストーンヘンリー・ネヴィル・グラッドストーンは実兄にあたる。イートン・カレッジオックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジで学んだ後、同大学のキーブル・カレッジの歴史科にて教鞭を3年間執った[1]

1880年にグラッドストーンは父親の私設秘書となり[1]同年の総選挙ヨークシャー州のリーズ選挙区から庶民院議員に当選した。1885年の総選挙でもリーズ西部選挙区から再選された[1]。1881年から1885年にかけて大蔵卿委員Lord of the Treasury)を務めた。1886年には第3次グラッドストン内閣においてFinancial Secretary to the War Office[訳語疑問点]となった。

1892年に父親が第4次グラッドストン内閣を組織すると彼は内務省政務次官Under-Secretary of State for the Home Department)に任じられた。続いて首相となった第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズの下では建設長官First Commissioner of Works)を務めた[2]。またこれに先立って枢密顧問官に列せられている[3]

1895年に下野した自由党は1905年に政権を奪還、党首のサー・ヘンリー・キャンベル=バナマンは彼を内務大臣として入閣させた[4]。この人事は成功とは看做されておらず、1910年の内閣改造で彼は更迭され、南アフリカ連邦総督および同地の高等弁務官となった[5]。同年、「カウンティ・オヴ・ラナークグラッドストーン子爵」(Viscount Gladstone, of the County of Lanark; 連合王国貴族)に叙され[6]、さらに聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスを授けられた[7]

1914年に南アフリカ連邦から帰国し、バス勲章ナイト・グランド・クロスを授けられた[8]第一次世界大戦中は様々な慈善団体に支援を行った。1917年、大英帝国勲章ナイト・グランド・クロスを授けられた[9]

1930年にハートフォードシャーウェアで死去。息子はおらず、グラッドストーン子爵は一代で断絶した。

出典

[編集]
  1. ^ a b c Lundy, Darryl. “Herbert John Gladstone, 1st and last Viscount Gladstone” (英語). thepeerage.com. 2012年8月27日閲覧。
  2. ^ "No. 26502". The London Gazette (英語). 13 March 1894. p. 2019. 2012年8月27日閲覧
  3. ^ "No. 26494". The London Gazette (英語). 13 March 1894. p. 1517. 2012年8月27日閲覧
  4. ^ "No. 27863". The London Gazette (英語). 12 December 1905. p. 8897. 2012年8月27日閲覧
  5. ^ "No. 28363". The London Gazette (英語). 6 May 1910. p. 3162. 2012年8月27日閲覧
  6. ^ "No. 28350". The London Gazette (英語). 22 March 1910. p. 2029. 2012年8月27日閲覧
  7. ^ "No. 28433". The London Gazette (英語). 14 June 1910. p. 7906. 2012年8月27日閲覧
  8. ^ "No. 28842". The London Gazette (Supplement) (英語). 19 June 1914. p. 4877. 2012年8月27日閲覧
  9. ^ "No. 30250". The London Gazette (Supplement) (英語). 24 August 1917. p. 8794. 2012年8月27日閲覧
  • Ian Machin, entry in Dictionary of Liberal Biography, Brack et al. (eds.) Politico's, 1998

外部リンク

[編集]
先代
アレタス・エイカーズ=ダグラス
内務大臣
1905年 – 1910年
次代
ウィンストン・チャーチル
先代
(創設)
グラッドストーン子爵
1910年 – 1930年
次代
(断絶)