トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)

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第3代ノーフォーク公爵
トマス・ハワード
Thomas Howard
3rd Duke of Norfolk
ノーフォーク公ハワード家
第3代ノーフォーク公の肖像画(ハンス・ホルバイン画)
続柄 先代の長男

称号 第3代ノーフォーク公爵、第2代サリー伯爵ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)
敬称 Your Grace(公爵閣下)
出生 1473年
死去 1554年8月25日
イングランド王国の旗 イングランド王国 サフォークフラムリンガム英語版フラムリンガム城英語版
配偶者 アン王女英語版
  エリザベス(旧姓スタッフォード)英語版
子女 一覧参照
父親 第2代ノーフォーク公トマス・ハワード
母親 エリザベス(旧姓ティルニー)英語版
役職 海軍卿英語版1513年 - 1525年)、アイルランド総督1520年 - 1522年)、大蔵卿英語版1524年 - 1546年)、軍務伯(1524年 - 1547年1553年 - 1554年)、貴族院議員
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第3代ノーフォーク公爵トマス・ハワード英語: Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk, KG, PC, 1473年 - 1554年8月25日)は、イングランドの貴族、廷臣。第2代ノーフォーク公トマス・ハワードエリザベス英語版夫妻の長男。

1513年スコットランド軍の侵攻を父とともに撃退したことでイングランド王ヘンリー8世の信任を得、宮廷で権勢をふるった。1524年に第3代ノーフォーク公位を継承。姪2人(アン・ブーリンキャサリン・ハワード)をヘンリー8世の王妃にしたが、この2人の姪はいずれも姦通罪で処刑された。やがて彼自身もヘンリー8世の信任を失い、1546年ロンドン塔に投獄されたが、1553年メアリー1世即位に貢献したとされて釈放と復権が認められた。1554年に死去、爵位は孫のトマスが継承した。

生涯[編集]

公爵位継承まで[編集]

1473年に後に第2代ノーフォーク公爵となるトマス・ハワードとその妻エリザベス(旧姓ティルニー)英語版の息子として生まれる[1][2]

祖父ジョン・ハワードイングランドリチャード3世の即位に貢献し、1483年にノーフォーク公位を与えられたが、1485年8月にボズワースの戦いでリチャード3世と共に戦死した[3]。父もリチャード3世に従って参戦し、捕虜になっていたため、議会は10月に父の私権剥奪を決議した。これにより父は1489年まで監禁生活を送った[4]

1489年に釈放された父は、12人の子女を使って婚姻関係でうまく勢力を伸ばしていった[5]。その一環でトマスは1495年ヘンリー7世の義妹アン王女英語版エドワード4世の娘でリチャード3世の姪、ヘンリー7世の王妃エリザベスの妹)と結婚することになった。しかし彼女との子供は夭折し、1511年にはアンに先立たれてしまった(後にバッキンガム公エドワード・スタッフォードの娘エリザベスと再婚する)[6][7][8][9]

1513年ヘンリー8世フランス遠征(カンブレー同盟戦争)の隙をついてスコットランドジェームズ4世が4万のスコットランド軍を率いてイングランド侵攻を開始したが、トマスは老齢の父とともに2万6000のイングランド軍を率いてスコットランド軍を撃破し、ジェームズ4世も敗死させた(フロドゥンの戦い英語版)。この恩賞で翌1514年に父の第2代ノーフォーク公への復権が勅許された[9][10]。トマスも同年に父の爵位サリー伯爵を継承することが認められ[2][6]アイルランド総督海軍卿英語版大蔵卿英語版等の官職を歴任してヘンリー8世の宮廷に仕えた[9][11]1523年に主君の命令でフランス東部ピカルディへ遠征したが、こちらは戦果無く撤兵した(第三次イタリア戦争[12]

しかしこの頃、新しい政治勢力としてジェントリが台頭し始めていた。トマスはラテン語はおろか国語の読み書きも覚束ないとされる一方、そうした才能を持つジェントリ層から出たトマス・ウルジートマス・クロムウェル(後の初代エセックス伯)、エドワード・シーモア(後の初代サマセット公)らに権勢を脅かされるようになった。また、父がノーフォーク公に復権した同年にヘンリー8世はチャールズ・ブランドンサフォーク公に叙爵、イースト・アングリアでノーフォーク公家が勢力拡大する事態を阻止すべく牽制としてブランドンを同地へ派遣、以後両家の間で度々衝突が発生した[13][14]

1524年に父が死去したことで第3代ノーフォーク公位を継承した[15]

2人の姪を王妃に[編集]

トマスがノーフォーク公を継承した頃、妹エリザベス・ブーリンの娘アン・ブーリンがフランスの宮廷仕えを終えてイングランドに帰国し、王妃キャサリン付きの女官として宮廷仕えするようになった。ヘンリー8世はいつまでも男子を産めないキャサリンに嫌気が差してアンとの再婚を考えるようになり、1529年頃から彼女と肉体関係を持ち始めたという。ノーフォーク公はそれまで姪アンにさして関心を持っていなかったが、彼女が国王の御手付きになったと知ると2人の結婚を全力で推進した。ヘンリー8世とキャサリンの離婚に反対するローマ教皇クレメンス7世に圧力をかけたり、教皇から離婚許可を取れなかった王の寵臣大法官枢機卿トマス・ウルジーの追い落としにサフォーク公・義弟でアンの父ロッチフォード子爵トマス・ブーリンと結託、ウルジーを失脚させるなどの工作を行った[9][16][17][18]

1533年にアンを2番目の王妃にすることに成功したが、生まれたのは女子のエリザベス王女(大姪、後のエリザベス1世)だけであり、3年後の1536年にアンが姦通罪で処刑されたため、ノーフォーク公の当ては外れた。なおアンに死刑判決を下した特別裁判所の裁判長はノーフォーク公が務め、公爵は自分の保身を優先し、姪に温情を示すことはなかったという。一方で大蔵卿の補佐を務めたトマス・モアと親しく、1532年に彼の大法官辞任を王へ伝えたり、モアの裁判が1535年に開かれると裁判官の一員を務め、この裁判で大法官トマス・オードリー英語版と共にモアへ王に赦免を乞うことを勧めたが断られている[9][19][20][21][22][23]

1536年から1537年にかけてイングランド北部で発生した反乱(恩寵の巡礼)では鎮圧に当たり、当初は装備・兵站不足のため反徒と交渉で赦免を与えて解決を図り、再度反乱が起こると交渉で分裂した反徒を蹴散らし平定した[9][21][24]。また父に倣って貴族や王家(テューダー朝)との政略結婚を推し進め、姪だけでなく自らの妹や子供たちも利用して姻戚関係を結んだ。ただしテューダー朝との関係は実を結ばなかった[注釈 1]

トマス・クロムウェルとカンタベリー大司教トマス・クランマーが進めるプロテスタント宗教改革にはカトリックかつ保守派の立場から反発、1538年9月にクロムウェルがヘンリー8世の許可を得た上で全ての教会に英語訳聖書を備える命令を出すと、ウィンチェスター司教英語版スティーブン・ガーディナーと組んで巻き返しを図り、翌1539年6月に改革の行き過ぎを危ぶむヘンリー8世の支持でカトリック寄りの信仰箇条を定めた議会制定法の6箇条法が制定された[注釈 2]

1540年にエセックス伯に叙爵されたクロムウェルが実現させたヘンリー8世とユーリヒ=クレーフェ=ベルク公女アンの結婚は、ヘンリー8世の我がままによりすぐに離婚となった。この離婚準備中にヘンリー8世はノーフォーク公の弟エドムンド・ハワード卿英語版の娘キャサリン・ハワードに手を付けた。ノーフォーク公はこれを利用し、結婚の失敗についてクロムウェルの責任を厳しく追及し、7月28日には彼を処刑に追いやることに成功した。ついで同日にヘンリー8世とキャサリンの結婚を実現させたが、この2年後の1542年にはキャサリンは姦通罪に問われて処刑されている[9][28][29][30][31][32]

失脚と復権[編集]

これ以降、ヘンリー8世のノーフォーク公に対する信用は低下していき、初代ハートフォード伯爵(後のサマセット公)エドワード・シーモアら政敵に付け入れられるようになった。ノーフォーク公はクロムウェルに代わる宰相としての地位を得られず、キャサリンの処刑もあって保守派の立場はぐらつき、クランマー・ハートフォード伯らプロテスタント改革派が盛り返した。この争いはヘンリー8世の治世末期まで続いた[9][33][34][35]

軍人としての活動は続き、1542年9月にスコットランドへ遠征して略奪、1544年第五次イタリア戦争モントルイユを包囲したが落とせず退却した[9][36]

1546年12月には長男のサリー伯ヘンリー・ハワードとともに大逆罪容疑で逮捕され、ロンドン塔に投獄された。翌1547年1月19日にまずサリー伯が処刑され、ついでノーフォーク公も処刑されるはずであったが、直前の1月28日にヘンリー8世が崩御したため、処刑中止となった。もっとも、エドワード6世の治世中にはハートフォード伯の意向で釈放されることはなかった[4][9][37][38][39]

1553年のエドワード6世の崩御後、摂政である初代ノーサンバランド公ジョン・ダドリージェーン・グレイを女王に擁立した際には、自分と同じカトリックのメアリー王女(メアリー1世)を所領に匿った。その功績でメアリー1世即位後の1553年8月に釈放とノーフォーク公位への復権が認められた[4][40]。以後はメアリー1世に仕えノーサンバランド公の裁判を主宰、ワイアットの乱鎮圧に当たった。ただしワイアットの乱では敵の攻撃で後退する失態を見せている[9][41][42]

1554年8月25日にサフォークフラムリンガム城英語版において死去した[40]。ノーフォーク公位は孫(処刑されたサリー伯の遺児)のトマスが継いだが、この孫も1572年にエリザベス1世への大逆罪で処刑される運命にある[4]

栄典[編集]

爵位[編集]

1514年2月1日の父トマス・ハワードのノーフォーク公爵位復権とともに以下の爵位を継承した[2][6]

1524年5月21日の父の死去により以下の爵位を継承した[2][6]

1547年1月28日に私権剥奪。1553年8月に回復[2][6]

勲章[編集]

家族[編集]

1495年アン王女英語版エドワード4世の娘)と結婚し、1496年に彼女との間に長男トマスを儲けたが、この長男は1508年に夭折した[6]。アン王女も1511年には死去した。

ついで1512年バッキンガム公爵エドワード・スタフォードの娘エリザベス英語版と再婚し、以下の2男2女を儲けた[6]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 長男のヘンリー1532年に第15代オックスフォード伯爵ジョン・ド・ヴィアー英語版の娘フランセス英語版と結婚した。ノーフォーク公はこれより前にヘンリー8世とキャサリンの娘メアリー王女(後のメアリー1世)とヘンリーの縁談を計画したが失敗、1533年には娘でヘンリーの妹メアリー英語版にはヘンリー8世の庶子でメアリー王女の異母弟に当たるリッチモンド公爵ヘンリー・フィッツロイと結婚させたが、1536年にリッチモンド公が子供の無いまま死去、王家と結びつくことはなかった。かたやフロドゥンの戦いで奮戦したスタンリー家との縁組も重視、初め次女キャサリンを第3代ダービー伯爵エドワード・スタンリー英語版に嫁がせ、彼女が急死すると異母妹ドロシーを後妻としてダービー伯に嫁がせた[25]
  2. ^ 6箇条法は化体説を確認し一種聖餐、聖職者独身制、貞節の誓い、個人ミサ告解を擁護する内容を定め、人々に強制し守らない者は処刑する議会制定法だった。この法は結婚政策で国教をプロテスタントに変えたが、本質的にはカトリックだったヘンリー8世の宗教観が反映されている[26][27]

出典[編集]

  1. ^ Lundy, Darryl. “Thomas Howard, 2nd Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Norfolk, Duke of (E, 1483)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月19日閲覧。
  3. ^ 森護 1987, p. 24-25.
  4. ^ a b c d 海保眞夫 1999, p. 209.
  5. ^ 森護 1987, p. 27.
  6. ^ a b c d e f g h Lundy, Darryl. “Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月15日閲覧。
  7. ^ 橋口稔 1988, p. 116.
  8. ^ 海保眞夫 1999, p. 198-199.
  9. ^ a b c d e f g h i j k 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 523.
  10. ^ 海保眞夫 1999, p. 166.
  11. ^ 森護 1987, p. 28-29.
  12. ^ 陶山昇平 2021, p. 122.
  13. ^ 橋口稔 1988, p. 9-10.
  14. ^ 海保眞夫 1999, p. 226,242-243.
  15. ^ 森護 1987, p. 29.
  16. ^ 森護 1987, p. 29-30.
  17. ^ 橋口稔 1988, p. 18.
  18. ^ 陶山昇平 2021, p. 153,156.
  19. ^ 森護 1987, p. 30.
  20. ^ 橋口稔 1988, p. 27-28.
  21. ^ a b 今井宏 1990, p. 40-41.
  22. ^ 海保眞夫 1999, p. 182-183.
  23. ^ 陶山昇平 2021, p. 196-197.
  24. ^ 陶山昇平 2021, p. 206-207.
  25. ^ 海保眞夫 1999, p. 224-225,227-229.
  26. ^ 今井宏 1990, p. 51-52.
  27. ^ 川北稔 1998, p. 150.
  28. ^ 森護 1987, p. 30-31.
  29. ^ 橋口稔 1988, p. 80.
  30. ^ 今井宏 1990, p. 52.
  31. ^ 川北稔 1998, p. 150-151.
  32. ^ 陶山昇平 2021, p. 236-237,240.
  33. ^ 森護 1987, p. 31.
  34. ^ 今井宏 1990, p. 54.
  35. ^ 川北稔 1998, p. 151.
  36. ^ 陶山昇平 2021, p. 251,255-257.
  37. ^ 森護 1987, p. 31-32.
  38. ^ 今井宏 1990, p. 55.
  39. ^ 陶山昇平 2021, p. 281-288,298-299.
  40. ^ a b 森護 1987, p. 32.
  41. ^ 今井宏 1990, p. 64.
  42. ^ 海保眞夫 1999, p. 226-227.

参考文献[編集]

  • 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979 
  • 橋口稔『イギリス・ルネサンスの人々』研究社出版、1988年。
  • 今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』山川出版社、1990年。
  • 川北稔編『新版世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年。
  • 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社平凡社新書020〉、1999年。ISBN 978-4582850208 
  • 松村赳富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。
  • 陶山昇平『ヘンリー八世 暴君か、カリスマか晶文社、2021年。

登場作品[編集]

関連項目[編集]

公職
先代
エドワード・ハワード英語版
海軍卿英語版
1513年 - 1525年
次代
初代リッチモンド=サマセット公爵
先代
第9代キルデア伯爵英語版
アイルランド総督 (ロード・デピュティ)
1520年 - 1522年
次代
第8代オーモンド伯爵英語版
先代
第2代ノーフォーク公爵
大蔵卿英語版
1524年 - 1546年
次代
初代サマセット公爵
軍務伯
1524年 - 1547年
先代
初代ノーサンバーランド公爵
軍務伯
1553年 - 1554年
次代
第4代ノーフォーク公
イングランドの爵位
先代
トマス・ハワード
第3代ノーフォーク公爵
1524年 - 1547年剥奪
1553年回復 - 1554年
次代
トマス・ハワード
先代
トマス・ハワード
第2代サリー伯爵
1514年 - 1547年剥奪
1553年回復 - 1554年