ヘンリー・ハワード (サリー伯)

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サリー伯ヘンリー・ハワード
Henry Howard, Earl of Surrey,
ノーフォーク公ハワード家
Holbein - henryhoward01.jpg
ハンス・ホルバイン画, サリー伯ヘンリー・ハワード c.1542
称号 サリー伯爵儀礼称号
出生 1517年?
イングランド王国の旗 イングランド王国ハートフォードシャー、ハドソン
死去 1547年1月19日
イングランド王国の旗 イングランド王国ロンドンロンドン塔
配偶者 フランセス・ド・ヴィアー
子女 ジェーン・ハワード
4代ノーフォーク公トマス・ハワード
マーガレット・ハワード
初代ノーサンプトン伯ヘンリー・ハワード
キャサリン・ハワード
父親 3代ノーフォーク公トマス・ハワード
母親 エリザベス・スタフォード
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サリー伯ヘンリー・ハワードの紋章

サリー伯ヘンリー・ハワード: Henry Howard, Earl of Surrey1517年 - 1547年1月19日)は、イングランドの貴族子弟であり詩人

第3代ノーフォーク公トマス・ハワードの嫡男。ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンと5番目の王妃キャサリン・ハワードの従兄。

ノーフォーク公爵の法定推定相続人として父の有する爵位サリー伯爵儀礼称号として称したが、襲爵前に刑死した。

生涯[編集]

第3代ノーフォーク公トマス・ハワードの長男。母はトマスの二番目の妻で第3代バッキンガム公エドワード・スタフォードの娘のエリザベスであった。そのため父母両方を通して王の血筋を引いていた。ヘンリー8世の私生児であるヘンリー・フィッツロイと一緒にウィンザー城で育って親友となり、ヘンリー・フィッツロイが妹のメアリーと結婚したために義理の兄弟となった[1]。優れた兵士であり、ヘンリー8世のフランス遠征に加わった。だが他の宮廷人に暴力をふるい、夜に街を歩いては家の窓を割るなどの粗暴なふるまいにより入牢を繰り返した[2]1524年に祖父の第2代ノーフォーク公トマス・ハワードが亡くなり、父がノーフォーク公を継いだため、サリー伯の儀礼称号を帯びた。

1532年には従妹のアン・ブーリンと共にフランスに外交使節として赴き、一年以上滞在した。1536年には、長男のトマス・ハワードが生まれるも、ヘンリー8世の2番目の王妃となっていたアン・ブーリンが反逆罪で処刑され、ヘンリー・フィッツロイが17才で病死してハワード家の領地に葬られた。またこの年、父と共に修道院の解散に抗議して起こった反乱を鎮圧した。

1542年、もう一人の従妹でヘンリー8世の5番目の王妃キャサリン・ハワードがやはり反逆罪で処刑された。

年を取り、病に苦しんだヘンリー8世は次第に妄想に取りつかれ、サリー伯が息子のエドワード王子から王位を奪う計画をしていると考え始め、サリー伯と父のノーフォーク公を捕え、1547年1月19日にサリー伯を斬首した。ノーフォーク公は、処刑前に王が急死したために延命させられた。

サリー伯の棺

結婚と子[編集]

フランセス・ド・ヴィアー, ハンス・ホルバイン画, c. 1535

妻はオクスフォード伯ジョン・ド・ヴィアーの娘フランセス・ド・ヴィアーであり、二男三女を残した。息子のトマス祖父の後継ぎとなり、1554年に祖父が亡くなって公爵に叙された。

詩作[編集]

友人のトマス・ワイアットと共に英語で初めてソネットを書き、ペトラルカのソネットを英語に訳した[3][4]。トマス・ワイアットとともに『イギリスのソネットの父』と讃えられる。

脚注[編集]

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  1. ^ The Norton Anthology of English Literature: Sixteenth/Early Seventeenth Century, Volume B, 2012, pg. 661
  2. ^ The Norton Anthology of English Literature: Sixteenth/Early Seventeenth Century, Volume B, 2012, pg 661
  3. ^ The Shakespearean Sonnet
  4. ^ Sonnets