テアイテトス (対話篇)
プラトンの著作 (プラトン全集) |
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『テアイテトス』(テアイテートス、希: Θεαίτητος、英: Theaetetus)は、プラトンの著した中期末の対話篇[1][2]。副題は「知識[3]について」。
目次
構成[編集]
登場人物[編集]
導入部[編集]
回想部[編集]
年代・場面設定[編集]
導入部[編集]
紀元前369年、メガラにて。メガラ郊外から市内へとやってきたテルプシオンは、しばらくして帰ってきたエウクレイデスに出くわす。エウクレイデスは外港ニサイアに行く予定だったが、その途中で、テーバイとアテナイが戦闘を繰り広げているコリントスの陣地にて負傷と赤痢で危険な状態となり、アテナイへと運ばれていくテアイテトスと出くわし、彼を見送っていたのだという。
その帰り道に、エウクレイデスは、かつて亡くなる直前のソクラテスが、少年期のテアイテトスと問答をかわし、絶賛していた話を思い出したという。それを書き留めておいた書物があることを前々から聞いていたテルプシオンは、それを読ませてほしいと頼み、二人はエウクレイデスの家に行く。こうして書物の中身である当時の対話内容が述べられていく。
回想部[編集]
紀元前399年[6]のアテナイ、某体育場(ギュムナシオン)[7]にて。ソクラテスとテオドロスは、見込みのある若者について話していたところ、ちょうど話題にしていたテアイテトスがやってきた。そこで彼らはテアイテトスを呼び、ソクラテスがテアイテトスと問答をかわしていくことになる。
ソクラテスはテアイテトスに、「知識(エピステーメー)」が何であるかを問い、提示された答えである「感覚」「真なる思いなし」「真なる思いなしに言論を加えたもの」の3つにそれぞれ検討を加えていくが、いずれもが「知識」ではないと否定されることになる。
そしてソクラテスは、「メレトスに訴えられたのでこれからバシレウスの役所にいかねばならないが、また明朝早くに会うことにしよう」とテオドロスに約束しつつ、その場を去る。
補足[編集]
全体構成[編集]
本篇はソクラテスが、少年テアイテトスに「知識(エピステーメー)」が何であるかを問い、テアイテトスが提示した「感覚」「真なる思いなし」「真なる思いなしに言論を加えたもの」という3つの答えを検討し、そのいずれもが否定されるという話が骨格となっているが、その骨格部分の直接的な議論(問答)の文量は、ステファスヌ版で言えば、
- 「感覚」に関してが、184B-186Eの「2ページ強」
- 「真なる思いなし」に関してが、200E-201Cの「1ページ弱」
- 「真なる思いなしに言論を加えたもの」に関してが、206C-210Aの「4ページ弱」
といった具合に、やや長めとも言える全体の文量(142A-210Dの「68ページ」)から言えば「ごく一部」に過ぎず[8]、それ以外の大部分は、それら骨格部分の議論の手前で行われる、やや冗長・脱線的とも言える関連議論で占められている。
それら「手前に置かれる関連論」も込みのページ数だと、
- 「感覚」に関してが、151E-186Eの「35ページ」
- 「真なる思いなし」に関してが、187B-201Cの「14ページ」
- 「真なる思いなしに言論を加えたもの」に関してが、201C-210Bの「9ページ」
となり、最初が一番長く、徐々に短くなる構成となっている[9]。
そして、それら「手前に置かれる関連論」の内容は、
- 「感覚」に関してが、主として「プロタゴラスの相対主義」「ヘラクレイトスの万物流動説」の論駁(欠点の指摘)
- 「真なる思いなし」に関してが、エウテュデモスの「虚偽不可能性説」的詭弁に類似した発想に対する論駁(不完全性の論証)
- 「真なる思いなしに言論を加えたもの」に関してが、字母(アルファベット)への「要素還元」的議論を通じた、言論(ロゴス)の不完全性の論証
となっており、それらも含めた本篇内容全体を通じて、『国家』の「線分の比喩」、『パイドロス』、『第七書簡』などで言及される、「「イデアの(直接的な)観照」以外は、いかなる言葉・模造を用いた表現・認識・知識も不十分」というプラトンの思想を浮かび上がらせる点も含め、初期対話篇『クラテュロス』をほぼそのまま踏襲した内容・構成となっている。
他作品との時間関係[編集]
本篇は、ソクラテスが「メレトスに訴えられたのでこれからバシレウスの役所へ行かなければならないから、明朝早くにもう一度会って話をしよう」と言って終わる。そして、初期対話篇『エウテュプロン』は、その役所に行く途中での問答が描かれている。そしてさらに、その翌日に、本篇の続編である後期対話篇『ソピステス』『政治家』の対話が行われた設定になっている。
また、『クラテュロス』では、ソクラテスが「今朝エウテュプロンと長時間一緒にいて話を傾聴し、彼が自身の知恵を自分(ソクラテス)に乗り移らせた」と述べる場面があり、『クラテュロス』の議論が『エウテュプロン』の直後に行われたものであることが示唆されている[10]。
したがって、本篇を含むソクラテス最後の年(紀元前399年)を描いた8つの対話篇の時間設定は、
(↓翌日)
(↓数日(数週間)後)
(↓30日後)
の順となる。
内容的にも、本篇は、続編である『ソピステス』はもちろんのこと、『クラテュロス』とも密接に関連しているので[12]、この配置はプラトンによって明確に意図されたものであると考えられる。
内容[編集]
ソクラテスが、少年テアイテトス(および、キュレネ出身の数学者であるテオドロス)と、「知識(エピステーメー)」が何であるかについての問答を行う。
テアイテトスからは、
という3つの答えが順々に提示されていくが、検討の結果、それらはいずれも「知識」ではないという結論が与えられることになる。しかし、これはあくまでもソクラテスが得意とする「産婆術」の一環として行われたものであり、ここで諦めて考察を断念するのではなく、これをより善い知見に到達するための通過点として捉え、さらなる考察を続けていくべきことが示唆されている。
本篇は、その内容上、続編である『ソピステス』と共に、プラトンの「知識論」「認識論」の中心的な書として扱われている[16]。また、「言語論」を扱っている初期対話篇『クラテュロス』とも、「概念」自体の正しさ・根拠を考察するという点で共通したテーマを抱えており、内容的・構成的にも非常に密接な関係にある。例えば、「プロタゴラスの相対主義」と「ヘラクレイトスの万物流動説」、あるいはエウテュデモスの「虚偽不可能性説」的詭弁の発想が、プラトン説を引き立てるために否定される「やられ役」的に引き合いに出されていたり、言論(ロゴス)に関して字母(アルファベット)への「要素還元」的な議論がなされたり、それら全体を通じて、『国家』の「線分の比喩」、『パイドロス』、『第七書簡』などで言及される「「イデアの(直接的な)観照」以外は、いかなる言葉・模造を用いた表現・認識・知識も不十分」というプラトン自身の思想を浮き彫りにするなどの点で、両者は内容的・構成的に共通・類似している。
また、本篇の序盤では、ソクラテスの「産婆術」とも呼ばれる問答法(ディアレクティケー)が、どういう意識・意図・動機づけの下で行われているかについて、『ソクラテスの弁明』とはまた少し違った切り口から、詳細な説明がなされている。そして、その「産婆術」を実際に、ソクラテスが少年テアイテトスを相手に、しかも「知識」という根本的な主題を検討する格好でやってみせる構成になっているので、その点では本篇は、『メノン』や『アルキビアデスI』等に並ぶ、「プラトン哲学入門書」としての性格も併せ持っている。
導入[編集]
メガラにて。市街に帰ってきたエウクレイデスが、市街にやって来ていたテルプシオンに出くわす。テルプシオンにどこに行っていたのか尋ねられ、エウクレイデスは、外港であるニサイア港に行こうとしていたが、途中で「コリントスの戦場での負傷と赤痢によって瀕死状態となったテアイテトスが、アテナイへと運ばれていく」場面に出くわし、彼を(途中のエリネオス[17]まで)見送っていたと答える。
エウクレイデスは、テアイテトスの人格の立派さに言及しつつ、見送りの帰り際、かつて亡くなる少し前のソクラテスが、少年だったテアイテトスと問答し、彼の才能を絶賛していたこと、そしてその問答の一部始終を後に聞かせてもらったことを思い出したと言う。テルプシオンにその内容を教えてほしいと請われたエウクレイデスは、その内容を書き留めておいた本があると言い、2人でエウクレイデスの家に行き、その本を召使いに読ませることにする。
回想部導入[編集]
アテナイのとある体育場[7]にて。ソクラテスが、キュレネ出身の幾何学教師であるテオドロスに、アテナイの若者で見込みのある者は誰なのか問う。テオドロスは、一人、鼻が上を向き、目が飛び出ているなど、ソクラテスに似て容姿はあまり良くないが、頭脳の明晰さと、穏やかさと、勇気において群を抜いている若者がいると告げる。ソクラテスがそれは誰の息子なのか問う。テオドロスは、それは覚えていないが、今しがたドロモス(走り場)からやってきた少年たちの真ん中にいるのがそれだと教える。ソクラテスは、あれはスーニオン区のエウプロニオスの息子であり、父親も今言われた性質を持った評判のいい男であり、財産もたくさん残したはずと述べる。テオドロスは、彼の名前はテアイテトスであり、財産は彼の後見者たちによってめちゃくちゃにされてしまったが、彼は金銭に執着しない性質であり、この点でも感心すると述べる。
ソクラテスに要請され、テオドロスはテアイテトスを近くに呼び寄せる。ソクラテスはテアイテトスに、テオドロスがテアイテトスをとても賞讃しているので、その美点を見せてもらいたいと問答に持ち込む。
問答の導入[編集]
ソクラテスは、テアイテトスがテオドロスから幾何学・天文・音律・算術などを学んでいることを確認した上で、「知識(エピステーメー)」とは何であるか問う。
テアイテトスは、幾何学や、様々な職人たちの技術に関する心得なども、それぞれに知識であると答える。ソクラテスは、そうした「○○についての知識」「○○が使う知識」といった類の具体例を列挙していくような(「外延」的な)答えを求めているのではなく、「知識」そのものが何であるかについての(「内包」的な規定・定義としての)答えを求めているのだと述べる。例えば、「泥土」が何であるかと問われて、「陶師(すえものし)が使う泥土」「竈師(かまどし)が使う泥土」「瓦師(かわらし)が使う泥土」・・・などがそれであると答えるのではなく、「土と水が混ざったもの」と答えてほしいと。
テアイテトスは理解し、最近友人である少年ソクラテス(参照 :『政治家』)と数学・幾何学の議論をした時にも、同類の話が出てきたと言う。それは「平方根」(二乗根)についての議論で、「3・5・6・7・・・といった面積を持つ正方形」の「一辺の長さ」は、自然数には収まらないが、こうした例は無限に出すことができてしまうので、もっと端的な表現方法を考え、まず「4・9・16・・・といった自然数の2乗(平方)として表現できる数」を「正方形数(等辺数)」と名付け、次に「それ以外」(すなわち、先の3・5・6・7・・・)を「長方形数(不等辺数)」と名付けた上で、「長方形数(不等辺数)を面積とする正方形の一辺の長さ」として、それを表現することにしたと言う。また、同様のことは立方体(すなわち「立方根」(三乗根))についても言えると述べる。
ソクラテスはテアイテトスを賞讃するが、テアイテトスはしかし、「知識」に関してはこのようにできそうもないと答える。ソクラテスは、「知識」が何であるかを見つけ出すのは、頂上の頂上を極める人の仕事と言えるほど困難なものであることを指摘しつつ、それを言論として把握するために粘り強くあらゆる努力を尽くして行くことを勧奨する。テアイテトスも、懸命に努力するだけはすると応じる。
産婆術[編集]
再度ソクラテスに「知識」が何であるか問われたテアイテトスは、以前からこうした類の「ソクラテス的な問い」を伝え聞いており、既に何度も考察したことがあったが、どうしても自信を持てる充分な答えにはならないと言う。
ソクラテスは、それはテアイテトスにとっての「陣痛」であり、「何か産むものをお腹の中に持っている」から起こるのだと指摘する。そしてソクラテスは、自分の母親パイナレテはたいへん由緒のある厳しい産婆の一人だったが、自分もまた(それを知らない者からは、ソクラテスは「ただ人間を行き詰まらせる(困惑させる)だけ」だと言われるが)その技術の専門家であると述べる。
ソクラテスは、産婆というものは、
- 自らは産まず、他人が産むことを世話する
- 妊娠か否かを識別する
- ちょっとした投薬や唱えごとをして陣痛を起こしたり、それを和らげたりする
- 産の困難な者に、産をさせる
- 胎児を流産させた方がよいと考えられる場合に、流産させる
- それぞれの女をいかなる男と一緒にすれば最良の子供を産むかを知り、その結婚を媒介する
- 生まれたものについて、育てるに値する「真正物」か、値しない「偽物」かを見極める
といったことができると指摘する。
そしてソクラテス自身の場合は、
- 「男(青年)たちの精神の産」のために、「取り上げ役」を務める
- 青年が思考して分娩したものが、真正物か偽物かを検査する
- 相手に問いかけはするが、自分自身には何の知恵も無い
(しかし、これは神が、自分に「産むこと」を封じて、「取り上げ役」に専念させるために、そう定めたもの) - 自分(ソクラテス)と一緒になる者、交わりを結ぶ者は、自分自身の内から多くのものを発見し出産して、驚くばかりの進歩をする
- そのことを覚らないで、取り上げも自分で成したと信じ、ソクラテスを軽蔑し、独見や他人のそそのかしによって時期尚早にソクラテスから離れて行った者たちは、腹の中のものは流産してしまい、産まれたものは偽物を大事にするなどして、無知な者へと至った
(そうした1人に、リュシマコスの子アリステイデスがいる(参照 : 『ラケス』)) - その連中の中には再びソクラテスの元へ戻ってくる者もあるが、「ダイモーンの声」がその中のある者と一緒になることは妨げ、またある者は許す、そして一緒になった者は再び進歩する
- そのことを覚らないで、取り上げも自分で成したと信じ、ソクラテスを軽蔑し、独見や他人のそそのかしによって時期尚早にソクラテスから離れて行った者たちは、腹の中のものは流産してしまい、産まれたものは偽物を大事にするなどして、無知な者へと至った
- 自分(ソクラテス)と一緒になる者は、妊婦たちよりももっと「陣痛」で昼夜困惑に満たされるのであり、その「陣痛」を起こしたり鎮めたりする力がソクラテスにはある
- 産むものを持っていない者たちには、誰と一緒になれば幸せか見当をつける
(そして、プロディコスや、その他の知恵ある者、神妙なる者へと多く送り出した)
といった特徴があると述べる。
そしてソクラテスは、テアイテトスが今まさに産み出したいものをお腹に持っていて「陣痛」を感じているのであり、自分を産婆だと思って委ね、産むために一生懸命努力してほしいこと、また「産まれてきたもの」が「真正物」ではなく「偽物」であった場合、それを投げ棄てようとすることに対して怒り狂ったりしないことを要請する。というのも、これまでも多くの人間が、ソクラテスに対してそうした態度を取ってきており、ソクラテスが神の加護によって好意でその人の愚劣な考えを取り除こうとしていることを理解してもらえず、悪意でそのようなことをしていると思われ、噛みつかんばかりの剣幕を示されるのだと言う。
「感覚」についての問答[編集]
「相対主義」と「万物流動説」[編集]
再度ソクラテスに「知識」が何であるか問われたテアイテトスは、「感覚(アイステーシス)」であると答える。
ソクラテスは、それは「あらゆるものの尺度が人間である。「ある」ものについては「ある」ということの、「あらぬ」ものについては「あらぬ」ということの。」と述べたプロタゴラスの(相対主義)説と同様であり、各人が「感覚」した通りに「あるもの(有)」が対応し、それがすなわち「知識」であると言っているのだと指摘する。テアイテトスも同意する。
するとソクラテスは、そうした主張は、「何ものも、他と没交渉にそれ自体としてそれ自体に留まり、単一である、というものはない」と言っているようなものであり、大でもあれば小でもあり、重でもあれば軽でもあるといったように、単一特定の様態が1つもなく、全てのものは(常に変化し)「運動・動き」と「相互の混和」からなると言っているのだと指摘する。そしてそれゆえに、「ある」というよりは「なる」と言うのが正しいのであり、こうした考えは、プロタゴラス、ヘラクレイトス、エンペドクレス等をはじめとする(パルメニデスを除く)全ての智者と、ホメロスのような詩人たちも同一歩調を取る考え方であると指摘する。テアイテトスも同意する。
ソクラテスはさらに、そうした「「有」の生成は「動」が成し、「無・亡」は「静」がもたらす」という考えの根拠として、
- 「熱」「火」は、「自分以外のもの」を自分から生む
- 「熱」「火」自体も、「運動」「摩擦」から生まれる
- 「動物」という種属そのものも「動」から発生している
- 人間の「身体」は、体育で動かせば保全され、使わないと駄目になる
- 人間の「精神」も、学習勉強など動あるもので保全され、何もしないと忘却する
- 「無風」「凪」などの静止は腐敗・滅亡を招くが、その反対は保全の用をなす
- 「天球の回転」も、万物を保全している
ことなども挙げる。テアイテトスも同意する。
「作用」と「受用」の相互関係[編集]
するとソクラテスは、その考えに立脚するならば、例えば「色を感覚する」場合には、「色」と「眼」のどちらにも固有のものがあるわけではなく、両者の「相互関係」によってそれが各別に生じる(現れる)のであり、その生じ方(現れ方)は、各個体(各人)によって異なるはもちろんのこと、同一個体(同一人)においても状態に応じて常に異なると指摘する。テアイテトスも同意する。
またソクラテスは、「常に自分自身に等しい固定的な実体」を想定しようとしても、他との「相対的な関係性」「比較」によって、(「それ自体」は変化していないはずなのに)その事物の「大小」「多寡」といった評価・位置づけには変化が生じてしまう、という矛盾を抱えることになってしまう(すなわち、事物の認識・評価を支えている「尺度」もまた恣意的・相対的・流動的なものであるという)点も指摘しつつ、「相対主義」「万物流動説」的な主張をさらに擁護してみせる。テアイテトスは同意しつつも、そうしたことを考えると驚き戸惑ってしまうと告白する。ソクラテスは「驚異(タウマゼイン)の情」こそは愛知(哲学)の始まりとなる「愛知者(哲学者)の情」であると評価しつつ話を続ける。
ソクラテスは、さらに「相対主義」「万物流動説」論者の主張の紹介を続け、「動」には「作用」と「受用」という2つの相・品種・機能があり、それらの相互の交合摩擦から「子孫」が「双生児」となって生じると指摘する。例えば、「(感覚器と)合性な運動」と、眼・耳・・・などの「感覚器」が交合摩擦することで、色彩・音声・・・などの「感覚されるもの」と、視覚・聴覚・嗅覚・冷覚温覚・快苦・欲求畏憚・・・などの「感覚」が、常に同時に生じるように。
またソクラテスは、「動」には「遅速緩急」の別もあり、同じ場所に留まる「動きの遅緩なもの」(「対象」と「感覚器」)同士が、場所を変えて動く「急速な子」(「感覚されるもの」と「感覚」)を生むことも指摘しつつ、こうした説明によって「相対主義」「万物流動説」的な説明は無理なく可能であること、そして全てのもの(万物)は「ある」ものではなく「なる(なりゆく)」ものであること、それを言論で以て「立ち止まらせる(固定化する)」ことを試みようものなら論破されざるを得ないことなどを指摘する。
テアイテトスは返事に窮し、ソクラテスが本心からそう思って言っているのか、それとも自分を試しているだけなのかすらも、よく分からないと述べる。ソクラテスは、先程述べたように、自分は何も知らない「不妊者」であり、「産婆役」を務め、唱えごとをして分娩を促し、産まれたものが「虚妄」なのか「純正」なものなのかを検査するに過ぎないのであり、テアイテトスが思うことを、心に現れている通りに答えてほしいと述べる。テアイテトスも了承する。
「夢」「精神病」「錯覚」[編集]
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「真なる思いなし」についての問答[編集]
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「真なる思いなし+言論」についての問答[編集]
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日本語訳[編集]
- 『プラトーン全集 3』 木村鷹太郎、松本亦太郎共訳 冨山房 1903年
- 『テアイテトス』 田中美知太郎訳 岩波書店 1938年
- 『プラトン全集 第5巻』 岡田正三訳 第一書房 1942年
- 『世界文學大系3 プラトン』 田中美知太郎訳 筑摩書房 初版1959年、復刊1972年
- 『世界古典文学全集14 プラトン』 田中美知太郎訳 筑摩書房 初版1964年、復刊2002年ほか
- 『田中美知太郎全集 第20巻 プラトン翻訳篇』 筑摩書房 1989年。旧版は「第14巻」、1968年
- 『プラトン全集 第2巻』 戸塚七郎訳 角川書店 1973年
- 『テアイテトス』 田中美知太郎訳 岩波文庫 1966年、改版2014年
- 『テアイテトス』 渡辺邦夫訳 ちくま学芸文庫 2004年/光文社古典新訳文庫 2019年。改訂版
脚注・出典[編集]
- ^ 『テアイテトス』 田中美知太郎訳 岩波文庫 p295
- ^ 『プラトン全集 3』 岩波書店 p395
- ^ 「エピステーメー」(希: ἐπιστήμη、epistēmē)の訳語。
- ^ a b 共に『パイドン』で言及されるソクラテス臨終時の立会人に名を列ねている。
- ^ 『テアイテトス』 田中美知太郎 岩波文庫 pp233-234
- ^ 本篇末尾の記述から、時期としてはメレトスに告発された後、予審のために役所に出頭する直前、すなわち、『エウテュプロン』の直前ということになる。
- ^ a b 『エウテュプロン』冒頭の発言や、(『エウテュデモス』と同じく)ドロモス(走り場)への言及があることから、「リュケイオン」である蓋然性が高い。(参照 : 全集2, 岩波 p.183)
- ^ 全集2, 岩波 p.439
- ^ 全集2, 岩波 p.447
- ^ 『クラテュロス』 396D
- ^ 船が派遣されるデロス島のアポロン神の祭り(デリア祭)は2月に行われていた。『プラトン全集1』岩波書店p359
- ^ 全集2, 岩波 p.424
- ^ αἴσθησῐς, aisthēsis
- ^ δόξα, doxa
- ^ λόγος, logos
- ^ 全集2, 岩波 p.450
- ^ エレウシス付近。全集2, 岩波 p.179