セイラム魔女裁判

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セイラム魔女裁判

セイラム魔女裁判(セイラムまじょさいばん)とは、現在のアメリカ合衆国ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で1692年3月1日に始まった一連の裁判をいう。

200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑、1名が拷問中に圧死、2人の乳児を含む5名が獄死した。

以前には、マサチューセッツ地域とコネチカット地域で17世紀に12人の女性が処刑されていた。「セイラム」魔女裁判と一般に知られているが、1692年の予備審問は複数の町で行われた。セイラム村(現在のダンバース)、セイラム町イプスウィッチ英語版アンドーバーである。最も悪名高い裁判は、セイラム町で1692年にオイヤー・アンド・ターミナー英語版裁判所によって行われた。

この事件は、植民地時代アメリカ集団パニックの最も悪名高いケースの一つである。それは、孤立主義、宗教過激主義、虚偽の告発、正当なプロセスの遂行の危険性についての鮮明な警鐘として、政治的レトリックや大衆文学に用いられてきた。アメリカ特有の物ではなく、ヨーロッパでも発生した近世の魔女裁判という広範な現象の植民地アメリカにおける例である。多くの歴史家は、セイラム魔女裁判がその後の米国の歴史において、裁判制度への持続的な影響として非常に有力であったと考えている。歴史家のジョージ・リンカーン・バー英語版によると、「セイラムの魔法は、神権を崩壊させた」。無実とされる人々が次々と告発されて裁判にかけられたその経緯は、集団心理の暴走の例として引用されることが多い。

セイラム魔女裁判はヨーロッパの魔女裁判と比べて犠牲者数は際立ったものではないが、おそらく全ての魔女狩りの中で最も有名な事件であると考えられている[1]

背景[編集]

魔女裁判は17世紀半ばまでにヨーロッパの多くの地域で衰退し始めていたが、ヨーロッパの周縁とアメリカ植民地で続いていた。セイラムの1692-1693年の出来事は、新世界で一種の爆発的なヒステリーとなったが、ヨーロッパのほとんどの地域では魔女裁判は既に衰退していた。

この告発は、ウィリアム・グリッグスの協力を得た、10代の少女たち、特にエリザベス・ハバードによって始められた[2]

経緯[編集]

牧師サミュエル・パリスの娘ベティと従姉妹アビゲイル・ウィリアムズは、友人らとともに親に隠れて降霊会に参加していた。その術中、アビゲイルが突然暴れだすなど奇妙な行動をとるようになり、二人は医師によって悪魔憑きと診断された。ティテュバの自白以降、降霊会の参加者である更に多くの少女たちが、次々と異常な行動をおこすようになり、近隣のジョン・ヘイル牧師を招聘して悪魔払いが行われたが、失敗した。その少女らは、12歳の娘アン・パットナム、17歳のマーシー・ルイス、アン・パットナムの親友で17歳のメアリー・ウォルコットメアリー・ウォーレン、スザンナ・シェルドンらだった。中でも、アン・パットナムはセイラムで最も実力がある一家の娘であり、アンの両親が娘の主張を支持したことが、追及の大きな弾みとなった[3]

サミュエルは南アメリカ先住民の使用人ティテュバを疑い、彼女を拷問してブードゥーの妖術を使ったことを「自白」させた。サミュエルが娘たちを詰問したところ、娘たちは村内での立場の弱い3人の女性の名前を上げた。

1692年2月29日、ティテュバ、サラ・グッドサラ・オズボーンの三名に対して逮捕状が出される。3月1日、セイラム村には判事がいなかったため、近隣のセイラム市から判事を招き、3人を収監するための予備審査が開かれた。

サラ・グッド、サラ・オズボーンは容疑を否認。しかし証人として列席していた悪魔憑きの娘たちが暴れだして、二人が霊を使役していると証言したため、二人は有罪とされてしまう。

ティテュバは、自白すれば減刑されるというピューリタンの法解釈から悪魔との契約を認め、求められるままに証言を行った。ティテュバが他の関係者の存在を示唆したことから、再度娘たちが詰問され、マーサ・コーリーレベッカ・ナースジョン・プロクター夫妻らがつぎつぎと告発された。

こうして100名を超える村人が告発され、収監施設がパンク状態に陥ったことから、6月2日に特別法廷が開かれた。有罪を宣告された被告は6月10日から順次絞首刑に処せられた。

秋ごろには娘たちの証言に疑問を呈する者が出始めた。10月にボストンの聖職者から知事に上告が出され、事態を知った州知事が裁判の停止を命令。1693年5月、収監者に対し大赦を宣言して事態は収束した。

裁判にも関与したジョン・ヘイル牧師は、死後に発表された手記の中で「我々は暗雲の中に道を見失った」と記している。

特徴[編集]

セイラム魔女裁判で処刑された人物は、全員が魔女であることを否定していた者たちであり、魔女であることを自供した者は一人も絞首刑になっていなかった[4]

歴史上、無実の人物を恣意的に魔女に仕立て上げた若者は多いが、その内のほとんどは痙攣や発作などの実際の病気を患っていたと考えられている。しかし、セイラムの告発者の少女らは3月28日にインガソル夫人に対し「みんなで楽しく過ごしたいから遊びでやっている」ことを仄めかしていた[5]

この事件では、一人の被告人の裁判に莫大な時間を要したため、150人近い逮捕者の内、裁判が実現したのは31人だけだった。また、全ての被告人は、最終的に無罪となった者も含めて、獄中での生活費に加え、死刑執行人の手当てに至るまで全ての費用の支払い義務が課せられた。出獄の際にも料金が課せられたため、全員の釈放が決定した後でも、多くの人が獄中に残された。サラ・ダスティンは1693年1月に法的に無罪となったが、出獄料を払えず、獄中で死亡した。獄死したアン・フォスターの遺体の引き渡しには2ポンド16シリングが請求され、彼女の息子はそれを支払ってようやく彼女を埋葬することができた[6]

原因[編集]

この事件の原因としては、児童虐待ピューリタン社会独特の抑圧による集団ヒステリー説、麦角中毒症による集団幻覚説などが唱えられている。

事件に関連する17世紀の建物の19世紀と20世紀における写真[編集]

セイラム魔女裁判の関係者に属する家屋のいくつかはまだ残っているが、これらの建物の多くは失われている。このギャラリーには、19世紀から20世紀初頭にかけて撮影された写真が含まれる。

文献・作品[編集]

  • アーサー・ミラー著、倉橋健訳『るつぼ』 ハヤカワ演劇文庫、ISBN 9784151400155 - 赤狩りが横行していた1953年に、当時の世相を魔女狩りという事件であらわした。
  • Maryse Cond'e著、風呂本惇子、西井のぶ子訳 『わたしはティチューバ—セイラムの黒人魔女』新水社、ISBN 4915165922 - 最初期に魔女として告発され、生き残った女性を主人公にしたフィクション
  • ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 - セーレム魔女裁判を起こしたのも魔法使いの一族であると言う設定。新セーレム救世軍なるものが登場する。
  • マリオン・L・スターキー著、市場泰男訳『少女たちの魔女狩り—マサチューセッツの冤罪事件』平凡社、ISBN 4582824072 - 裁判記録
  • 小山敏三郎著『セイラムの魔女狩り—アメリカ裏面史』南雲堂、ISBN 4523291993
  • チャドウィック・ハンセン著、飯田実訳『セイレムの魔術—17世紀ニューイングランドの魔女裁判』工作舎、ISBN 4875021798
  • Mary Kilbourne Matossian著、荒木正純、氏家理恵訳『食物中毒と集団幻想』パピルス、ISBN 4938165295 - 麦角中毒症による集団幻覚説
  • Celia Rees 著、亀井よし子訳『魔女の血をひく娘』理論社、ISBN 4652077149
  • Celia Rees 著、亀井よし子訳『魔女の血をひく娘2』理論社、ISBN 465207736X
  • 映画『クルーシブル』 - 『るつぼ』の映画化作品
  • ドラマ『セイラム 魔女の棲む町
  • ゲームアプリ『Fate/Grand Order』 - セイラム魔女裁判を土台にクトゥルフ神話を加えたシナリオが存在する。

出典[編集]

  1. ^ マリオン・L・スターキー『少女たちの魔女狩り The Devil in Massachusetts』p.4。
  2. ^ Nichols, Amy. “Salem Witch Trials: Elizabeth Hubbard”. University of Virginia. 2018年3月31日閲覧。
  3. ^ アレン・ワインスタイン『ビジュアル・ヒストリー アメリカ―植民地時代から覇権国家の未来まで』p.56。
  4. ^ ロビンズ 1997, p. 350.
  5. ^ ロビンズ 1997, p. 352.
  6. ^ ロビンズ 1997, p. 357-358.

参考文献[編集]

関連項目[編集]