サンパウロ日本人学校

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Camera-photo Upload.svg 画像提供依頼:サンパウロ日本人学校 (Sociedade Japonesa de Educação e Cultura)正門, Estrada do Campo Limpo,1501, São Paulo-SPの画像提供をお願いします。2014年6月
サンパウロ日本人学校
Sao Paulo Japanese School.jpg
国公私立の別 私立学校
設置者 サンパウロ日本人学校学校教育会
設立年月日 1967年8月14日
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
ブラジルの旗 ブラジル サンパウロ市
Estrada do Campo Limpo,1501-São Paulo-SP,Brasil
公式サイト 公式サイト (日本語)
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サンパウロ日本人学校
サンパウロ日本人学校
サンパウロ日本人学校
サンパウロ日本人学校の位置
(サンパウロ市)

サンパウロ日本人学校(Sociedade Japonesa de Educação e Cultura、略称:サ日校)は、ブラジルサンパウロ市にある日本人学校小学部中学部がある。

略歴[編集]

  • 1967年:日伯文化普及協会の日本語講座として発足。
  • 1968年:中学部を開設。サンフランシスコ・ジャビエル学園内に校舎を移転。
  • 1969年:ブラジル政府より「社団法人サンパウロ日本人子弟教育会」として認可。
  • 1970年:ジャバクアラ校舎に移転。
  • 1974年:カンポリンポ校舎に移転。校歌完成。
  • 1977年:中学部校舎完成。
  • 1978年:校章制定。
  • 1980年:パルメイラスジュニアチームとの親善試合開催。
  • 1981年:生徒・児童数が過去最高の905人に。
  • 1982年:第二体育館が完成。
  • 1984年:校内博物館が完成。
  • 1992年:文化祭「カンポリンポ祭」第1回開催。
  • 1994年文部省の在外教育施設として認定。
  • 1996年養護学級「ひまわり学級」設置。
  • 1997年:パルメイラスジュニアチームとの2回目の親善試合開催。
  • 2001年:小学部英会話授業開始。
  • 2007年:創立40周年。
  • 2017年:創立50周年

歴史[編集]

第二次世界大戦前の日本人学校[編集]

1908年笠戸丸による初の本格的移民から8年経った1915年に、当時日本人移民が多く集まっていたコンデ街にブラジル初の日本人学校である「大正小学校」が設立された(なお、大正小学校と現在のサンパウロ日本人学校には経営、運営上の繋がりはない)。

その後日本からの移民が増えたことを受け、日本人学校の開設が相次ぎ、1932年にはブラジル全土に200を超える日本人学校が運営されていた(なおこれらの日本人学校は、日本政府の学校教育法のもとに運営されていた学校ではなく、現在でいう無認可校であった)。

しかし1938年に、移民の同化政策を推進していた当時のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の命令によって、ブラジル国内の全ての日本人学校が閉鎖されることとなった。その上、1939年に勃発した第二次世界大戦においてブラジルが日本に対して宣戦布告を行い、枢軸国連合国に分かれ交戦状態に置かれることとなったため、日本人学校の閉鎖も戦後に至るまで続くこととなった。

設立[編集]

リベルダージ

1952年4月に日本とブラジルの国交が回復し、さらに1960年代に入り日本の高度経済成長に伴う日本企業のブラジル進出が進み、日本企業の駐在員の子弟が増加していたことを受けて、1967年に在サンパウロ日本国総領事館日系ブラジル人日本企業らの協力を受け、日本人街リベルダージにあるブラジル日本文化協会ビル内に、日伯文化普及協会の日本語講座として戦後初の日本人学校が設立された。

なお、この日本人学校は戦前の日本人学校を引き継ぐものではなく、全くの新しい日本人学校として設立された。この頃になると新しい日本人移民がほとんどいなくなっただけでなく、戦前の日本人移民も2世、3世と世代が進みブラジル社会への同化が進んだ事もあり、その子弟のほとんどがブラジルの学校へ通い、日本語を身に着けたいものだけが日本語学校へ通うようになっていた。

そのために、この新しい日本人学校が対象とする生徒は、戦前の日本人学校のような日本人移民の子弟ではなく、数年の任期でサンパウロに駐在する日本企業の駐在員や外交官独立行政法人などに勤務するものの子弟が中心となった。(下記、ステータスを参照)

中学部開設[編集]

設立当初の生徒数はわずか28名であったが、その後もブラジル経済の発展に合わせ日本企業の進出が増加し、生徒数が急増したことから教室数を増加させるとともに中学部を開設した。1968年にはさらなる生徒数の増加に対応する為に、市内のイピランガにあるサンフランシスコ・ジャビエル学園内に移転し、1969年にはブラジル政府より「社団法人サンパウロ日本人子弟教育会」として認可された。

在外教育施設に[編集]

1970年にはコンゴニアス国際空港近くのドイツ系学校跡地のジャバクアラ校舎に移転し、初の専用校舎を持つことに至った。1971年に当時の文部省から在外教育施設(国内の小学校中学校と同等の教育課程を有する施設)として認定を受け、日本国内と同様のカリキュラムに基づいて授業が実施されることになる。

カンポリンポに移転[編集]

1974年には、好調なブラジル経済の発展を受けた日本企業の進出の増加による更なる児童、生徒数の増加を受けて、現在校舎が所在するサンパウロ郊外のカンポ・リンポ地区に移転した。

なお、この敷地は元々アメリカ人が所有していた牧場であり、ブラジル国内にフィルムカメラの製造工場を建設すべく土地を探していた富士フイルムの紹介によってこの地への校舎の建設が決まった。なお、現在も牧場であった当時の建物の一部が使用されている。

最盛期[編集]

現在の中学部校舎

カンポ・リンポへの移転後は、1970年代前半の「ブラジルの奇跡」と呼ばれたブラジル経済の急激な発展に合わせた日本企業の進出の増加による児童、生徒数の増勢を背景に、1977年に敷地内の高台に新校舎を建設し中学部を移動した。

1980年代初頭の最盛期にはスクールバス数が20台以上になり、スクールバス専用駐車場に入りきらなくなったため、スクールバス駐車場横にある第2運動場の一部をスクールバス駐車場として使っていた他、登下校時には敷地内の道路を乗降用に使用していた。なお、当時のスクールバス(遠距離用を除く)は、日系ブラジル人の経営するバス会社「Kankobus」から、メルセデス・ベンツの大型バス「O326」をチャーターしたものと、「Piccolotur」から、マルコポーロの大型長距離バス「Marcopolo 3」をチャーターしたものであった。

その後、1980年代初頭の生徒数の増加に併せ教室や第二体育館、新プールなどの各種施設を建設する他、1980年代中盤以降のサンパウロの治安の悪化に対応して各種保安設備を充実させるなど、順次施設を拡充した。

生徒数の減少[編集]

しかし、1980年代後半から1990年代にかけてブラジル経済が落ち込んだ余波と、日本からの進出企業の現地化が進み駐在員が減少したこと、日本の少子化の影響などから生徒数が減少を続け、2008年には生徒、児童数がカンポ・リンポに移転した1974年当時の半分程度、1980年代初頭の最盛時の約6分の1の160人程度(小学校約110人、中学校約50人)となった。

現在[編集]

このことから、2000年代後半に入り校舎の移転、縮小が検討されたものの、移転に伴う費用がかかることや、その後のブラジル経済の活性化を受けて駐在員の数が増加し、生徒、児童数が再度増加傾向にあり、2014年には生徒、児童数が250人を超えるまでに回復したことから、現在その話は立ち消えとなっている。また生徒数の増加を受けて施設の改修も進められている。

概要[編集]

学校のステータス[編集]

ブラジル国内におけるステータスは、あくまでも「ブラジル政府公認社団法人サンパウロ日本人学校教育会」という私塾的な扱いとなっており、ブラジルのMINISTERIO de EDUCACAOの認可は何一つ受けていない、(ブラジル国内における正式名称、「Sociedade Japonesa de Educação e Cultura」には学校を意味するescolaという言葉は入っていない。)ブラジル国内では単なる「法人文化団体」として認可されているに過ぎず、本校卒業後ブラジルに存在する学校への進学(または転校)には注意が必要である。日本の文部科学省の認可を受けていることで、本校在籍時の単位をある程度認めてくれる一部のインターナショナルスクール校への進学は一応可能となっているが、進学後何かしらの問題が起きることもあるため事前の保護者による確認が必須である。実際、インターナショナル校へ進学した生徒のステータスが体験入学扱いや、語学研修生扱いで単位が認められず、その後の進学や転学に影響があったこともある。また、以前は受け入れてもらえたインターナショナルスクールにおいて様々な問題が起きたことから受け入れを拒否されるようにもなっている。サンパウロ日本人学校にはブラジルの学校番号(MEC)がないため、サンパウロ日本人学校からはブラジルの教育省に認められる正式な成績証明や在籍証明、卒業証明書は作成できない。本校における単位はブラジル国内では認められず、ブラジルの現地校への進学はできないことになっている。従って本来ブラジルの義務教育を受けなければならないブラジル籍の子どもは本校に通学することは不可能ではないが、その後日本の学校に進学することが前提となる。ちろん、日本の学校から直接ブラジルに来泊しブラジルの学校に転入学する子どもは、日本の学校の単位が認められるため(日本の学校の成績証明書などを公証翻訳人による翻訳をした上でブラジル教育省の認可が必要となるが・・・)同様の学年に転入できるのだが、サンパウロ日本人学校に一度入学した子どもについては、サンパウロ日本人学校の単位が認められないため、日本に在籍していたときの成績証明書しか有効にならず、落第制度のあるブラジルの学校において、原則その分学年が戻ってしまうことを意味する。とはいえ、ここはブラジル。過去には様々な方法を使って転校や進学を行った児童・生徒がいることも事実である。ただ、こういった事実がブラジル教育省から厳重なる注意を度々受けることとなり、サンパウロ日本人学校の「法人文化団体」としての認可取り消しとなる可能性を高めている。(問題は、サンパウロ日本人学校のブラジル国内におけるステータスを十分に理解していない保護者にあるが、サンパウロ日本人学校をMEC認可の学校と思い込み、他校からの転入者同様に入学を許可した相手校にも問題があり、相手校がMINISTERIO de EDUCACAOに確認することで、サンパウロ日本人学校が問題化されることにある。つまり、学校ではないのに学校まがいのことをしていると・・・。問題が起きた場合は受け入れた相手校が何かしらの方法で解決してくれることを望むしかないが、受け入れた学校も曖昧なまま卒業させ、大学合格後の義務教育期間証明書類不備で取り消しとなった例もある。なお、サンパウロ日本人学校がMINISTERIO de EDUCACAOの認可を受けブラジル義務教育相当の「学校」となるためにはブラジルの教育制度に則る必要があるが、日本の文科省認可を優先し、日本語による日本のカリキュラムで教育を行うサンパウロ日本人学校は、ブラジルの法律上解決できない。したがって、ブラジルにある他の日本人学校も同様の課題を抱えている。)

広大な敷地[編集]

土地に余裕がある郊外という立地条件を生かした12万平方メートルの広大な敷地(世界の日本人学校で最大級)に、平屋建てを中心とした校舎が点在して建てられている。この独特の校舎配置は、海外の日本人学校の中でも随一のゆとりある教育環境を実現しており、学校施設としての理想と言われる。少なくとも児童/生徒1人当たりの敷地面積は日本の学校として最大である。

敷地内には小中学校の校舎や職員室、事務室や保健室の他にも、大小2つのプールと2つの体育館(1つはエスパッソと呼ばれ、人工芝が張られている)、視聴覚室と図書室、音楽室と博物館、スクールバス駐車場、広大な、さらにコーヒー園もあり、収穫時期には生徒や教職員、保護者によるコーヒー狩りが行われている。

教育課程[編集]

日本の文部科学大臣から、国内の小学校中学校と同等の教育課程を有す在外教育施設として認定を受け、文部科学省から派遣された日本の教員により、日本国内と同様のカリキュラムに基づいて授業が実施されている。なお、教科書なども日本と同じものが使用されている。

現地交流[編集]

総合的な学習の時間では、日本語が堪能なブラジル人講師による現地の公用語ポルトガル語の授業や、現地の歴史や文化についての授業が行われている。さらに英語圏出身の教員による英会話の授業も行われている。また、ブラジル国内への修学旅行ドイツ系学校との交流、コンコルジア校や日系ブラジル人向け学校の松柏大志万学園、サンタクルーズ校などの近隣の現地校との交流も行われている。

学校生活[編集]

パウリスタやアクリマソン、アウグスタなど、日本人が多く在住する居住区から離れた場所にあり、以前は生徒、児童・生徒の安全管理上の観点から、地下鉄や路線バスなどの公共交通機関や自家用車による通学は認められておらず、メルセデス・ベンツやマルコポーロなどの大型バスやマイクロバスを使用したスクールバスによる通学のみであった。現在は、サンパウロ郊外に居住し、企業が用意したバスで通学したり、自家用車や契約タクシーによる送迎も行われており、スクールバスの利用割合は約80%程度となっている。渋滞の中各家庭玄関前まで送迎するため、バスの運行台数をなかなか減らせず、運行範囲も狭めざるを得ないためスクールバス代の月額利用料(契約バス利用費用を利用する児童/生徒の頭割り)も高くなり悪循環に陥っている。結果、居住区の物件の老朽化や周辺道路の渋滞を嫌い、スクールバス運行範囲を敢えて避けることで、時間的に自家用車や契約タクシーの方がメリットが高くなり、費用面でも二家族、子ども3〜4人で契約送迎車を頼む方がスクールバスより安いという逆転現象も起きている。なお、スクールバスの運行は利用保護者の代表で作られるスクールバス委員会によって運営されている。スクールバスの運行範囲は児童。生徒の安全対策上電話やメールでは教えてもらえず、転入学前に事前に学校訪問し必要書類の受取時に説明を聞く必要がある。(最近はHP上で授業料等の情報も掲載されなくなっている。)

なお、開校時より小中学ともに制服は無く、私服での登校となる。また、昼食は施設面や衛生管理面の問題から給食は実施されておらず、弁当持参となっている。学校近辺でのいわゆる「買い食い」は、治安面の観点から許可されていない。

児童生徒数[編集]

1980年代前半の最盛期には小中学校合わせ生徒数が一時的に1000人を超え、各学年のクラス数が4–5組になるなど、国内の首都圏の小中学校と同じくらいの児童、生徒規模になった時期もあった。

しかし、1980年代後半から1990年代にかけてブラジル経済が落ち込んだ余波と、日本からの進出企業の現地化が進んだこと、日本の少子化の影響などから生徒数が減少を続け、2000年代後半には約160名にまで減少した。

その後ブラジル経済の回復を受けて駐在員が増加したことから、生徒、児童数も回復傾向を見せ、2014年現在の生徒数は小中合わせ250人強程度となっている。なおカンポ・リンポ校舎への移転当初は最高1000人の生徒、児童数を受け入れられることを想定していた。

エピソード[編集]

  • 校歌作曲家服部公一作曲した。
  • 点在している校舎のため、雨天時は傘を差して教室移動する必要がある。そのため、置き傘を推奨している。
  • グラウンドや体育館は敷地の最も低いところに、中学部棟は最も高い所に位置しているため、中学部の生徒にとっては体育の授業後の休み時間で教室に戻る時が本当の運動であるという声もしばしば聞こえる。
  • チーム経営陣の1人が東京海上火災との合弁会社の社長を務めていた関係で、1980年には中学部のサッカー部と、ブラジルリーグの強豪チームであるパルメイラスのジュニアチームの交流試合が行われたこともある(結果は6対0で完敗した)。
  • ブラジルを訪れたJリーグの選手によるサッカー教室や、日本航空整備士と日系ブラジル人客室乗務員による講演が行なわれた事もある。
  • 1970年代に小学部の卒業生によってタイムカプセルが埋められ、2006年にブラジルに帰国した卒業生らによって掘り出されたものの発見されず、現在は行方不明になっている。
  • 初期のプールは取り壊さず「釣り堀」となっているが、これは大小のプール使用期間外にプールに魚を移すことで、デング熱などを引き起こす蚊の幼虫ボウフラ対策を行うためでもある。
  • サンパウロ(特にカンポリンポ区)の治安が悪化した事から、外壁には有刺鉄線が施されている上、校内には7名のガードマンが常駐する。
  • 上記の理由から、OBOG、入校希望者などの訪問者は事前の訪問連絡と、当日は身分を証明するものが無いと入校ができない。

著名人のOB/OG生[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

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外部リンク[編集]