エルンスト・ケーゼマン

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エルンスト・ケーゼマン(Ernst Käsemann, 1906年7月12日 - 1998年2月17日)は、ルター派神学者聖書学者

生涯・略歴[編集]

1906年7月、ドイツ帝国ボーフム(現ノルトライン=ヴェストファーレン州)郊外のダールハウゼン(de:Bochum-Dahlhausen)で生まれた。ボン神学を学び、マールブルク大学では聖書研究の泰斗ルドルフ・カール・ブルトマンに師事した。ブルトマンの弟子では最も著名な人物である。1933年から第二次世界大戦終了までナチスドイツ支配に対し抵抗運動をつづけた。1946年から1952年までは西ドイツマインツ大学で新約聖書学を講じた。1952年から1959年までゲッティンゲン大学ニーダーザクセン州)新約聖書学の教授職を務めた。1959年から1971年までバーデン=ヴュルテンベルク州にあるテュービンゲン大学福音主義神学部新約聖書学教授を務めている。なお、ゲッティンゲン大学在職中、日本の聖書学者八木誠一はケーゼマンに学んでいる。

かれの娘で1947年生まれのエリザベート・ケーゼマンde:Elisabeth Käsemann)は、1970年よりブエノスアイレスを本拠として南アメリカ大陸各地で社会福祉事業にたずさわっていたが、ホルヘ・ラファエル・ビデラ率いるアルゼンチン軍事独裁政権によって拉致され、秘密刑務所で拷問を受け、1977年5月に殺害された。2003年、加害者に対し国際逮捕令状が出され、ドイツ政府は責任者の引き渡しを要求している。

1998年2月、テュービンゲンで死去、91歳であった。

「史的イエス」の問題[編集]

師のブルトマンは『共観福音書伝承史』のなかで「原始キリスト教の信仰において本質的なことは、『宣教のキリスト』すなわち原始キリスト教団によって宣教(ケリュグマ)されたキリスト(メシア)なのであって、必ずしも『史実のイエス』ではない」というテーゼを発表し、これにより「史的イエスの問題」が発生したが、ケーゼマンが1950年代はじめにおこなった講演によってこの問題がクローズアップされ、1960年代なかばすぎまで、主としてプロテスタント神学界における中心的テーマとして活発な論争が繰り広げられた[1]

ケーゼマンは、師のブルトマン同様「宣教のキリスト」から出発したが、パウロが「宣教のキリスト」のなかに「パウロ書簡」という文学スタイルで神学的内容を盛りこんでいったのに対し、福音記者たちはなぜ、同じ「宣教のキリスト」に「福音書」という文学スタイルを通して史的構成を試みたのかという問題提起をおこなった。

ケーゼマンは、3人の福音記者マタイマルコおよびルカは、すでにイエスの語録伝承の担い手となった人びとの信仰のなかにみられる「霊的熱狂主義」と対決するために「福音書」という文学形式を採用したと説いた。つまり、霊的熱狂主義者たちは、天に召された「キリスト(メシア)」としてのイエスとかれら自身とを「霊的に」同一の境地に達しようと専心したことにみられるように、かれらは歴史性を捨象する超歴史的傾向が強かったのに対し、福音記者たちは、十字架で極限に達した「イエスの生」を描いていくことで、イエスの歴史性を確保しようとしたと唱えたのである[2]。ケーゼマンはまた、別の戦線にあったパウロは、霊的熱狂主義者との書簡の交換において、熱狂主義者の掲げる「栄光のキリスト」に対峙するため、「十字架のキリスト」としての「宣教のキリスト」を自らの立場として提示したものと説いた[2]

ケーゼマンは、原始キリスト教団の人びとにおける「宣教のキリスト」は、かれらがイエスの生と死の「事実性」(Echt)のなかに救いの意味を感得した限りにおいて、「宣教のキリスト」と「史的イエス」とは時間的に接続し、本質的に双方はたがいに対応しており[2]、イエスが権威をもって神のことばを語り、「神の代理人」のように振る舞った事実は、イエスが「キリスト」であるという告白を含意するものと主張している[3]

著書[編集]

弟子[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 八木(1977)p.177
  2. ^ a b c 荒井(1974)p.8
  3. ^ 八木(1977)p.178

参考文献[編集]

  • 荒井献『イエスとその時代』岩波書店<岩波新書>、1974年10月。
  • 八木誠一『イエスと現代』日本放送出版協会<NHKブックス>、1977年2月。

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