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アート・ブレイキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アート・ブレイキー
Art Blakey, 1985年
基本情報
出生名 アーサー・ブレイキー
別名 Abdullah Ibn Buhaina
生誕 (1919-10-11) 1919年10月11日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ
死没 (1990-10-16) 1990年10月16日(71歳没)
ジャンル ハード・バップ
ファンキー・ジャズ
職業 ドラマー
担当楽器 ドラム, パーカッション
活動期間 1940年代 - 1990年代
レーベル ブルー・ノート・レコード
共同作業者 アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ
アート・ブレイキー・クァルテット
アート・ブレイキー・クインテット
アート・ブレイキー&ザ・アフロキューバン・ボーイズ
公式サイト http://www.artblakey.com/

アート・ブレイキー(Art Blakey、1919年10月11日 - 1990年10月16日)は、アメリカ合衆国出身のアフロアメリカンのジャズドラマーである。「ナイアガラ・ロール」(Niagara Roll)と呼ばれる特徴的なドラミング奏法で知られ、彼の功績は現在のジャズ界に多大な影響を与えた。親日家としても知られた。

生涯

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アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの初来日公演を報じる『中部日本新聞』1961年1月5日付朝刊の記事。

1919年ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。10代後半からジャズ・バンドで活動しニューヨークへ進出。当初はピアニストであったが、クラブのオーナーからピアノをやめるよう要求されたため、ピアニストの道を諦め、ドラム奏者に転向した。1942年にメアリー・ルー・ウィリアムズのサイドマン、1943年にフレッチャー・ヘンダーソンのドラマーを経て、1944年にはビリー・エクスタインの楽団へ加入した。[1]1940年代後半からマイルス・デイヴィスセロニアス・モンクチャーリー・パーカーらと共演後、1954年から1955年にかけてホレス・シルヴァーと初代のジャズ・メッセンジャーズを結成[2]クリフォード・ブラウンルー・ドナルドソンらを擁してジャズ・クラブのバードランドに出演して人気を博した。

1956年にシルヴァーが脱退した後、ジャズ・メッセンジャーズは不遇の時代を迎えた。それを打開するきっかけを作ったのが、1958年2月、当時ジャズ・メッセンジャーズにいたジャッキー・マクリーンがキャバレー・カードを没収されたことで、その代役を務めたベニー・ゴルソンと出会ったことである。ここでブレイキーがゴルソンの几帳面な性格が気に入り、彼にグループの立て直しを要請。メンバーもトランペットにリー・モーガン、ピアノにボビー・ティモンズ、ベースにジミー・メリットと自分とゴルソン以外は全員入れ替え、今や代表曲となっている「モーニン[3](ティモンズ作曲)、「ブルース・マーチ」(ゴルソン作曲)などの新たなオリジナル曲ができて新しいレパートリーに付け加えた。[4][5]1958年10月、新メンバーでのお披露目初公演をニューヨークのタウン・ホールにて行い大成功を収め、同月30日、ブルーノートに前記の曲を含めたアルバム「モーニン」(レコード番号:BLP/BST-4003)を収録し、同アルバムは翌月発売され、[6]日本のジャズ・ファンの間で大人気となった。

このアルバム録音直後にバンドが欧州公演を行った際に、同年(1958年)12月28日フランスパリのサンジェルマンで録音されたライヴ・アルバム『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ Art Blakey & Les Jazz Messengers Au Club St Germain』(仏RCA原盤)が当時の日本ビクター音楽部から発売され、また1959年公開のヌーヴェルヴァーグ映画作品『危険な関係 Les Liaisons dangereuses』(監督:ロジェ・ヴァディム)、『殺られる Des Femmes Disparaissent』(監督:エドゥアール・モリナロ)への音楽参加を契機として、日本でもこれらの曲が人気となり、ジャズ・ファンの間でファンキー・ブームが起こった。

「モーニン」の大ヒット後、ゴルソンは翌年(1959年)にジャズ・メッセンジャーズを離れ、その後はテナー・サックスはハンク・モブレーらが担当したが、同年(1959年)秋に、同楽器担当にウェイン・ショーターが入り、その際、ショーターは同バンドの看板曲の1つである「チュニジアの夜」を、ドラム・ソロを中心とするアレンジに新たにリメイクし、1960年8月14日、ブルーノートにアルバム「チュニジアの夜」(BLP-4049,BST-84049)の1曲として録音。これが、同曲のブレイキーの長いドラムソロの象徴的な曲として親しまれることとなった。

以後、彼はジャズ・メッセンジャーズのリーダーとして、様々なアルバムやコンサートなどで活躍した。親日家で来日回数も多い(後述)。ジャズ・メッセンジャーズは基本的に2管または3管のフロント+3リズムのコンボ形式のバンドである。ドラマーとしての一番の特徴はメリハリのあるバッキング[7]にあり、ことにシンバルレガートの技術は評価されている。また、アフロ・キューバンリズムをドラムセットで表現したパイオニアとされている。

晩年の録音では視力や聴力の衰えに伴い、全盛期のようなプレイが満足にできなくなってしまった。1990年肺癌のため、ニューヨーク・マンハッタンにて死去した。71歳没。生涯で4度結婚し、10人の子供に恵まれた。

アート・ブレイキーは多くの新人を発掘し、多くの著名なミュージシャンがメッセンジャーズから巣立った。50年代後半からはリー・モーガンボビー・ティモンズウェイン・ショーター等が、60年代にはフレディ・ハバードキース・ジャレットカーティス・フラー、チャック・マンジョーネシダー・ウォルトンレジー・ワークマン等がメッセンジャーズ在籍を契機として、羽ばたいていった。1980年代に音楽メディアに取り上げられた、新伝承派というジャンルの若手プレイヤーの一部が、メッセンジャーズの出身である。第一線で活躍しているウィントン・マルサリスブランフォード・マルサリステレンス・ブランチャードマルグリュー・ミラーロニー・プラキシコケニー・ギャレットなどがメッセンジャーズの出身である。長女エブリン・ブレイキー(2007年没)も、メッセンジャーズでの活動を経て、プロの歌手となった。

親日家として知られる。その背景には母国であるアメリカを含めツアー先の世界各地で黒人差別により不当で理不尽な扱いを受けてきたことがある。彼らが1961年に初来日した際、彼らを一目見ようと空港には多くの日本人ファンが殺到し、彼らに手を振ったり花束を持ったファンもいたが、今までの彼らにとって信じられない光景に、アート・ブレイキーたちは「自分達が乗ってきた飛行機に誰かVIPがいて、その人に声援が向けられてるんだろう」と最初は思ったそうだが、実は自分達への歓迎だと知るとアート・ブレイキーは泣き出し、その後スピーチを求められても涙で上手く話すことが出来なかったという。また、ファンから記念写真をせがまれ、「俺は黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか。」と尋ねた。[8]当時のアメリカでは有色人種に対する差別が公然と行われていた為、ブレイキー一行はそのファンの反応に戸惑いを感じると同時に大いに感銘を受けた。帰国を前に、彼は「俺は今まで世界を旅してきたが、日本ほど俺の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で『日本だけが我々を人間として歓迎してくれた』ことだ。人間として、ヒューマンビーイングとして」[9]とも述べている。後日、東京での公演がTBS系列で全国にラジオ中継されると聞かされた際、母国のアメリカでは黒人のジャズ・ナンバーは、白人ラジオ局ではなかなかオンエアされなかったが、メンバーは感激した。初来日時の感激が、親日家アート・ブレイキーを生んだとも伝えられている。その後、亡くなる間際まで来日を繰り返し、何度も日本で演奏を行った。特に夏のジャズ・フェスティバルではお馴染みだった。

彼の演奏した曲の中には"Ugetsu(雨月)" や "On The Ginza(オン・ザ・ギンザ)"など、日本をテーマにしたものも存在する。メッセンジャーズにも'70年代以降鈴木良雄鈴木勲等の日本人がレギュラーまたは客演で加わっているほか、日本人ドラマーのジョージ川口白木秀雄らともドラム合戦を繰り広げた。他にもかつての妻の1人が日本人であったり、自分の息子に「Taro(タロウ)、Kenji(ケンジ)」と名付けていたり、日本酒を大いに気に入って千鳥足でステージに上がったこともあったという。使用するドラムも晩年は日本製のキット(パール製)を採用、亡くなるまで愛用した。

ディスコグラフィ/代表作

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ライナーノーツ

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書籍

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脚注

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  1. ^ Art Blakey arts.gov 2025年10月6日閲覧
  2. ^ ジャズメッセンジャーズ 2021年8月10日閲覧
  3. ^ ソウルジャズの代表曲の一つとされている
  4. ^ Ankeny, Jason Artist Biography  AllMusic. Retrieved  & October 2025
  5. ^ Vacher, Peter (May 12, 2006記事) "John Hicks". The Guardian.
  6. ^ 「ブルーノート・レコード オリジナル・プレッシング・ガイド」(フレデリック・コーエン著、行方均訳。ディスクユニオン刊)の「発売日」の項目に記載されている。
  7. ^ ブラシでの寄り添うようなプレイから、激しい「ナイアガラロール」までの幅の広さ
  8. ^ アート・ブレイキー AERA 2025年10月7日閲覧
  9. ^ 「A DAY WITH ART BLAKEY 1961」『スイングジャーナル』第36巻第3号、スイングジャーナル社、1982年3月、70頁。 

関連項目

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外部リンク

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