ジャッキー・マクリーン
![]() |
ジャッキー・マクリーン Jackie McLean | |
---|---|
![]() 1982年 | |
基本情報 | |
出生名 | John Lenwood McLean |
生誕 |
1931年5月17日![]() |
死没 |
2006年3月31日(74歳没)![]() |
ジャンル | ジャズ、ビバップ、メインストリーム・ジャズ、ハード・バップ、フリー・ジャズ |
職業 | ミュージシャン、作曲家、教育職員 |
担当楽器 | アルト・サックス |
レーベル |
プレスティッジ・レコード ブルーノート スティープル・チェイス |
ジャッキー・マクリーン(Jackie McLean、1931年5月17日 - 2006年3月31日)は、アメリカ・ニューヨーク出身のジャズ・サックス奏者。本名は John Lenwood McLean。「レフト・アローン」等の演奏で知られる。
略歴
[編集]ジャッキーの父はギタリストで、ブルース・ミュージシャンのタイニー・ブラッドショウのバックも務めた。
15歳の誕生日に母親からサキソフォンを贈られたのがこの楽器との邂逅となった。その2年後にバド・パウエルと出会い、バドを通じて、マイルス・デイヴィス、ケニー・ドーハムに出会った。チャーリー・パーカの模倣に腐心していたという。
ハイスクール時代には既に、アルト・サックスの腕前は上達しており、ケニー・ドリューやソニー・ロリンズと共演。1951年10月、ソニー・ロリンズやアート・ブレイキーと共に、マイルス・デイヴィスのアルバム『ディグ』の録音に参加。その後も何度かマイルスと共演。
1955年、初のリーダー・アルバム制作。ほどなくプレスティッジ・レコードに移籍。また、チャールズ・ミンガスのワークショップに参加し、1956年1月に録音された『直立猿人』の吹き込みメンバーのひとりとなった。その年の春には退団し、ケニー・ドーハム率いるジャズ・プロフェッツの結成メンバーに名を連ねる予定だったが、ミンガスとの退団時のいざこざで歯を折られ演奏に差し支えたことが原因で予定はキャンセルとなり(代役にはJ.R.モンテローズが呼ばれた)、治癒を待ってアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに加入した。1957年、ヘロイン購入で逮捕。メッセンジャーズは代役にベニー・ゴルソンを迎え黄金期を築く。逮捕後間もない1958年の年始に録音したものにソニー・クラークの『クール・ストラッティン』がある。
1959年、バンド・リーダーとしてブルーノートと契約。同年にはウォルター・ビショップやジミー・ギャリソン等を従えた『スイング・スワング・スインギン』発表。また、1960年にはマル・ウォルドロンのアルバム『レフト・アローン』に参加し、ジャッキーにとって重要なレパートリーとなる「レフト・アローン」を録音。この曲は、マル・ウォルドロンとビリー・ホリデイの共作だが、ビリーが亡くなったため、ジャッキーが参加したヴァージョンが初録音となった[1]。
1962年3月に『レット・フリーダム・リング』を吹き込む。この作品は〝新しいジャズ〟であったオーネット・コールマンへの共感を明確に宣言するものであり、その後の音楽的方向を決定づけた。1963年には、まだ17歳だったトニー・ウィリアムスを従えたアルバム『ワン・ステップ・ビヨンド』発表。同作のレコーディングから間もなく、トニーはマイルス・デイヴィスにも認められ、マイルスのクインテットに加入した。トニーは1986年のインタビューで、ジャッキーが自宅まで来て両親を説得したというエピソードを語っている[2]。また、ジャッキーはフリー・ジャズにも傾倒していき、1967年のアルバム『ニュー・アンド・オールド・ゴスペル』で、オーネット・コールマンをバックに従えた。
1968年にはコネチカット州で教職に就き、音楽活動を休止するが、1970年代前半にスティープル・チェイスと契約して活動再開。
1986年、1987年、1988年、1996年と、マウント・フジ・ジャズ・フェスティバルに参加し、1987年には日野皓正、1988年には渡辺貞夫とそれぞれ共演している。
1996年 日本の Somethin' Else レーベルから移籍第一弾『Hat Trick』を発表。
2006年3月31日、コネチカット州で亡くなる。