高賀神社

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高賀神社
所在地 岐阜県関市洞戸高賀
位置 北緯35度39分1.35秒 東経136度51分14.25秒 / 北緯35.6503750度 東経136.8539583度 / 35.6503750; 136.8539583
主祭神 天之御中主尊ほか23柱(本文参照)
社格 郷社
創建 養老年間
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高賀神社(こうかじんじゃ)は、岐阜県関市洞戸高賀にある神社である。別名、高賀山大本神宮。標高1,224mの高賀山の山麓にあり、高賀山を囲む高賀六社の一社。旧社格は郷社。

平安時代から室町時代にかけて、白山信仰の影響を受け、本地垂迹説により十一面観音(白山比咩神)、大日如来を本地仏として信仰された。さらには、牛頭天王信仰、虚空蔵菩薩信仰がされていた。

祭神

23柱を祀る。


歴史

社伝によれば、創建は奈良時代養老年間という(養老元年という説もある)。言い伝えによれば、霊亀年間、高賀の地には光を放つ魔物住み着いたという。これを聞いた朝廷は使者を派遣し、この山の麓に21柱の神々をまつり、退魔の祈祷を行なったという。すると魔物は姿を消したという。その後、この山は「秀でて高き故まためでたい」という意味で「高賀山」、神社を「高賀山大本神宮大行事神社」と名付けたという。

平安時代天暦年間、この地に妖怪さるとらへびが住み付き、村人に危害を加えているのを聞いた朝廷は、藤原高光をこの地に遣わせ、妖怪を退治したという。この時、高賀山大本神宮大行事神社を再建し、七昼夜妖怪退治の祈願をしたという。その後、高賀山麓の六ヶ所に神社(高賀六社)を建立したとされている。この妖怪退治は承平3年の説もあるが、藤原高光の生誕年との矛盾があり、疑問視されている。

詳しい時期は不明であるが、鎌倉時代以前、高賀神社の境内に蓮華峯寺が建立される。高賀神社と蓮華峯寺を合わせて、「西高賀山 蓮華峯寺」と称していたという。

1517年永正14年)、火災により焼失するが、江戸時代に再建される。

1869年明治2年)、神仏分離令による廃仏毀釈の影響で蓮華峯寺は廃寺となる。僧侶の手で一部の仏像は持ち出され、高賀神社から約1.5km離れた観音堂に納められる。これが現在の蓮華峯寺である。

高賀六社

山麓から望む高賀神社の鳥居高賀山

高賀山を主峰とした山(瓢ケ岳、今渕ケ岳、片知山など)の山麓にあり、高賀山を囲む6つの神社。かつては六社めぐりという、この六つの社を尾根伝いに一日で歩いて巡る苦行が存在した。

円空のゆかりの地

江戸時代前期の天台宗僧侶、円空は全国行脚の中で、数回、高賀神社を訪れ修業を行なっているという。確実なのは1671年寛文11年)、1684年貞享元年)、1692年元禄5年)の3回である。円空はまた、最晩年をこの地で過ごしたと伝えられ、円空仏の最後の作と言われている歓喜天像ほか、多数の仏像が高賀神社に奉納されている(後述)。

文化財

円空仏

高賀神社に隣接する関市洞戸円空記念館

円空が晩年すごしたのが地であることから、高賀神社は円空仏を多数所蔵しており、高賀神社伝来円空作仏像群として岐阜県指定重要文化財となっている[1]。大半は1995年(平成7年)に開館した関市洞戸円空記念館に保管されている。

円空仏以外

  • 高賀信仰資料として、岐阜県指定重要文化財に一括指定されている[2]。宝物館(所蔵庫)に保管されている。
  • 蓮華峯寺仏像群 28躯
聖観音坐像 平安時代作。天治の銘がある。
大日如来坐像 伝行基作。実際は平安時代末期作である。
虚空蔵菩薩坐像 など
  • 円空自筆和歌集附神符三十枚(岐阜県指定重要文化財)[3]

交通機関

雑記

シドニーオリンピックの女子マラソンにおいて、金メダルに輝いた高橋尚子選手が給水に利用した「高賀の森水」は、高賀神社の宮水である「ふくべの霊水」である。ふくべの霊水とは1996年平成8年)、高賀神社参道わきに掘られた井戸の水であり、その水を商品化したものが高賀の森水である。

脚注

  1. ^ 木造円空作仏像群 狛犬”. 岐阜県. 2013年5月7日閲覧。
  2. ^ 高賀信仰資料”. 岐阜県. 2013年5月7日閲覧。
  3. ^ 円空自筆和歌集附神符三十枚”. 岐阜県. 2013年5月13日閲覧。

参考文献

  • 岐阜県博物館、1982、『高賀山の信仰 - 鬼と行者と円空と』、岐阜県博物館資料刊行会(特別展図録)
  • 洞戸村史編集委員会編集、1988-1997、『洞戸村史』、洞戸村

外部リンク