長勇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Mercurius (会話 | 投稿記録) による 2016年2月25日 (木) 17:31個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎経歴)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

長 勇
生誕 1895年2月23日
日本の旗 日本 福岡県
死没 (1945-06-23) 1945年6月23日(50歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1916 - 1945
最終階級  陸軍中将
テンプレートを表示

長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年6月23日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

福岡県糟屋郡粕屋町出身。農業・長蒼生の長男として生まれる。中学修猷館熊本陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1916年大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同期に白銀重二森赳中西良介近藤新八宮崎周一一木清直らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第56連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1928年昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業。額田坦今井武夫片倉衷らが同期にあたる。

1929年(昭和4年)1月、歩兵第48連隊中隊長に就任。次いで参謀本部付勤務(支那課)となる。1930年(昭和5年)に橋本欣五郎らと桜会を結成。同年12月、参謀本部員に異動。1931年(昭和6年)の三月事件十月事件を計画。橋本らと同様に処分を受けるが軽い処分で済んでいる。十月事件での長の役割は、首相官邸を襲撃し全閣僚を殺害するというもので、長は新内閣樹立の際は警視総監に就任する予定であったが保護検束されている[1]

1933年(昭和8年)8月、台湾歩兵第1連隊大隊長に就任。第16師団留守参謀を経て、1935年(昭和10年)12月、歩兵中佐に昇進し参謀本部員(支那課)となる。兼陸大教官、参謀本部付仰付(漢口武官)を歴任し、1937年(昭和12年)8月、上海派遣軍参謀として出征。中支那方面軍が編成された時には、方面軍の参謀を兼務する。同年12月朝香宮鳩彦王指揮下の情報主任参謀として、南京攻略戦に参加。捕らえた捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、それを知った松井石根中支派遣軍司令官に窘められたとの逸話がある[2]

1938年(昭和13年)3月、朝鮮軍隷下の歩兵第74連隊長となり、同年7月、歩兵大佐に進級。張鼓峰事件に参戦。1939年(昭和14年)3月、第26師団参謀長に就任し、台湾軍司令部付、印度支那派遣軍参謀長、第25軍参謀副長、陸軍省軍務局付などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。同年11月、南方軍司令部付(仏印機関長)となり太平洋戦争に出征。

1942年(昭和17年)7月、兼軍務局付となり、第10歩兵団長、関東軍総司令部付、参謀本部付を歴任。1944年(昭和19年)7月、沖縄防衛を担当していた第32軍の参謀長に就任。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進む。沖縄戦を戦うがアメリカ軍に追い詰められ、1945年6月23日(22日とする説もある)摩文仁丘の洞窟内にあった司令部で司令官の牛島満とともに割腹自決。

最期について

八原博通大佐の証言

八原博通大佐は長中将に自決前「八原、後学のため予の最後を見よ」と言われ、自決を見届けたと語っている[3]

米国国立公文書館の記録

長の最期については、元沖縄県知事大田昌秀が、米国国立公文書館で発見した米軍文書と長のものとされる遺骸が写された写真から、割腹自決では無く、青酸カリによる服毒自殺だったと主張している。しかし青酸カリは各将兵へ支給されていないため、自決は自刃か拳銃によるものが大半である。

6月25日、沖縄憲兵隊副官萩之内は米軍の要請により、摩文仁の軍司令部壕で牛島軍司令官と長参謀長の遺体を確認した。

遺体の一つは首がなかった。略章をつけた軍服に白い手袋。坂口中尉に介錯の作法を教えた萩之内さんは、それが故郷の先輩でもある牛島司令官と判断するのに時間はかからなかった。もう一方の遺体は敷布2枚をつなぎあわせた袋の中に入っていた。ズボンは軍服だが上着はなく白い肌着を着ているだけだった。その肌着には墨で「忠即■命 ■忠報国 長勇」と書かれていた。そうした経験から萩之内さんは、米陸軍が撮影した両将軍の自決現場の写真を疑問視する。沖縄戦はまた多くの将兵たちが、自らの手で命を断った戦争でもあった。その写真の現場がどこであるのかを断定するには今となっては困難だ。[4]

墓所・家系

  • 現在は江辻の山に眠る。子孫により墓が建てられている。
  • 家系は能登国人長氏の末裔。

逸話

  • 参謀経験が豊富でありながら豪快な性格の猪突猛進型の軍人で、戦時国際法非戦闘員の保護)を軽視した[5]。沖縄戦では八原博通参謀が主張した既定の持久戦方針を転換し、嘉手納および読谷飛行場を奪回するため散発的な突撃を繰り返し実行させ、守備隊の戦力を大きく削ぐ結果に繋がっている[6]
  • 就寝中寝言をいう癖があった。寝ながら「母ちゃん痛い!」と幼少時の実母に折檻されている夢をみて叫んだり、「突撃! 突撃!!」「この分らず屋が!」と大きな声で怒鳴る事もあり、参謀達から「寝ても起きてもうるさい人」と陰口を叩かれていたといわれる(この癖は後述の映画でも描写されている)。
  • 1944年、沖縄に配備された兵による強姦事件が発生した際、県当局の抗議に対し参謀長であった長勇は「こうした騒ぎが起きるのは慰安所がないからである。」として、慰安所を作ることを提案した。しかし当時の沖縄県知事泉守紀が「ここは満洲や南方ではない。少なくとも皇土の一部である。皇土の中にそのような施設を作ることはできない」と拒否したことが、軍への非協力的態度とみなされ泉が沖縄戦直前に転任させられる一因になったという。[7]

長勇を演じた人物

脚注

  1. ^ 『昭和史の軍人たち』「長勇」
  2. ^ 松井石根の専属副官だった角良晴少佐の証言より。(『偕行』シリーズ(14))
  3. ^ http://www.news.janjan.jp/living/0902/0902187768/1.php
  4. ^ “戦禍を掘る 出会いの十字路 [125 32軍司令部壕(10)]牛島中将の遺体確認”. 琉球新報. (2010年1月27日). http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156404-storytopic-212.html 2010年12月10日閲覧。 
  5. ^ 読谷村史「日中戦争」
  6. ^ ただしこの作戦は長の独断ではなく、大本営の指示を軍参謀長として斟酌したものである。戸部良一等『失敗の本質』第一章6「沖縄戦」参照。
  7. ^ 野里洋『汚名 第二十六代沖縄県知事 泉守紀』1993年 講談社

参考文献

  • 阿部牧郎『豪胆の人 - 帝国陸軍参謀長・長勇伝』祥伝社、1997年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋、1982年。