秋霜 (駆逐艦)

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秋霜
艦歴
計画 1942年度(マル急計画
起工 1943年5月3日
進水 1943年12月5日
就役 1944年3月11日竣工
その後 1944年11月13日戦没
除籍 1945年1月10日
要目
排水量 基準:2,077t
公試:2,520t
全長 119.3m
全幅 10.8m
吃水 3.76m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式タービン2基2軸 52,000hp
最大速力 35.0kt
航続距離 18ktで5,000浬
燃料 重油:600トン
乗員 225名/260名
武装(新造時) 50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 Ⅱ×2
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九三式魚雷16本)
爆雷×18乃至36

秋霜(あきしも)は、日本海軍駆逐艦夕雲型の18番艦である。

艦歴

1942年度(マル急計画)仮称第346号艦として藤永田造船所で建造。1944年(昭和19年)3月13日に竣工して一等駆逐艦に類別され、横須賀鎮守府籍となる。

竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海に回航され訓練を受けた後、5月10日、戦艦武蔵」、航空母艦隼鷹」らの護衛のため佐伯を出撃し、タウイタウイに向かう。タウイタウイ到着後の5月25日、機動部隊第二補給部隊をダバオまで護衛。「」とともにダバオ湾英語版口の警戒にあたった後[1]、6月8日にはアメリカ潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃を受けて沈没した「風雲」の乗員136名を救助した[2]。6月14日、「秋霜」は第一補給部隊を護衛してダバオを出撃[3]。6月16日に特設給油船「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)から燃料補給を受けた後[4]、6月17日に乙部隊(第二航空戦隊、戦艦「長門」、重巡洋艦最上」など。城島高次少将)に合流した。6月19日のマリアナ沖海戦を経て、6月22日に中城湾に立ち寄った後[5]、6月24日に柱島泊地に帰投した[6]。その後、8月15日に「早霜」および「清霜」とともに第二駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊早川幹夫少将・海兵44期)に編入された。

10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊栗田健男中将・海兵38期)はリンガ泊地を出撃するが、秋霜はそれに先立って10月14日にリンガ泊地を出撃し、マニラに向かった[7]。しかし、マニラが第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受けていたため、マニラ湾口から引き返してブルネイ湾に針路を向けた[7]。10月22日に第二艦隊主力とともにブルネイ湾を出撃したが、翌10月23日、パラワン水道において第二艦隊旗艦愛宕」がアメリカ潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) の、僚艦「摩耶」がデイス (USS Dace, SS-247) の雷撃をそれぞれ受けて沈没し、「高雄」がダーターの雷撃で大破して戦線離脱した。「秋霜」は「摩耶」の沈没現場で乗員726名を救助し、午後に入って「武蔵」に移乗させた[8]。10月25日のレイテ沖海戦当日、米空母艦載機の空襲を受けて被弾し、12名の戦死者を出した。やがて、同じく損傷した「早霜」を一時護衛した後、燃料の補給のためコロン島に立ち寄ってから10月28日にブルネイ湾に帰投した[9]。2日後の10月30日、「秋霜」はブルネイ湾を出撃してマニラに向かった[10]

マニラに到着した「秋霜」は、レイテ島行きの多号作戦に投入される事となった。11月8日朝、「秋霜」は11月5日に空襲を受けて航行不能となった「」の代役として[11]第四次輸送部隊を護衛してマニラを出撃。翌11月9日夕方にオルモック湾に到着するも、大発が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった[12]。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25P-38 の攻撃を受けて陸軍特殊船「高津丸」(山下汽船、5,657トン)と輸送船「香椎丸」(大阪商船、8,407トン)が沈没。輸送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)は、「」「朝霜」「長波」を率いて救助作業にあたり、「秋霜」以下の艦艇を輸送船「金華丸」(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた[13]。11月11日、「秋霜」以下の先発隊はセブ島北端でP-38 の攻撃を受け、「秋霜」は艦首に命中弾を受けて切断され戦死傷者55名を出し、速力も16ノットしか出なくなった。それでも追いついた「霞」などと合同して「金華丸」を守り通し、同日18時30分にマニラに帰投した[14]

「秋霜」は修理のためカヴィテの第一〇三工作部に回航された。しかし、2日後の11月13日、応急修理のため同じく第一〇三工作部に回航されていた「曙」の外側に係留中[15]、第38任務部隊の艦載機の攻撃を受けた。「曙」は左に傾き、「秋霜」も火災が発生。「秋霜」は翌14日まで炎上した後横転して沈没し、「曙」も同じ14日朝に艦橋部分を水面上に露出させて着底した[15]

歴代艦長

艤装員長

  1. 平山敏夫 少佐:1944年1月22日 -

艦長

  1. 平山敏夫 少佐:1944年3月11日 -
  2. 中尾小太郎 少佐:1944年4月2日 -

脚注

  1. ^ 『日栄丸戦時日誌』pp.12
  2. ^ 『日栄丸戦時日誌』pp.18
  3. ^ 『日栄丸戦時日誌』pp.22
  4. ^ 『日栄丸戦時日誌』pp.50
  5. ^ 木俣『日本戦艦戦史』401ページ
  6. ^ 木俣『日本戦艦戦史』402ページ
  7. ^ a b 『駆逐艦秋霜戦時日誌』pp.4
  8. ^ 『駆逐艦秋霜戦時日誌』pp.5
  9. ^ 『駆逐艦秋霜戦時日誌』pp.6,7 、木俣『日本水雷戦史』530ページ
  10. ^ 『駆逐艦秋霜戦時日誌』pp.7
  11. ^ 田村, 155ページ
  12. ^ 木俣『日本水雷戦史』552ページ
  13. ^ 木俣『日本水雷戦史』554ページ
  14. ^ 『多号作戦戦闘詳報第二号』pp.17
  15. ^ a b 田村, 155ページ、『完全版 特型駆逐艦』162ページ掲載写真

参考文献

  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年三月一日至昭和十九年三月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030126900
  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年五月一日至昭和十九年五月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127100
  • 日栄丸『自昭和十九年六月一日至昭和十九年六月三十日 特設運送船(給油船)日栄丸戦時日誌』(昭和19年5月1日~昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030685200
  • 駆遂艦秋霜『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 駆逐艦秋霜戦時日誌』(昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 能代.妙高.阿武隈.清霜.秋霜.戦時日誌 (捷号作戦)(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030721100
  • 多号作戦第四輸送部隊 第一水雷戦隊司令部『多号作戦戦闘詳報第二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十一月十一日第四次輸送作戦) 』(昭和19年9月1日~昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087600
  • 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 歴史群像編集部(編)/田村俊夫「昭和19年の特型(3)」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年、ISBN 978-4-05-606020-1

関連項目