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池島和彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池島 和彦
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府豊中市
南河内郡河南町生まれ)
生年月日 (1947-02-09) 1947年2月9日(77歳)
身長
体重
181 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1969年 ドラフト7位
初出場 1970年6月6日
最終出場 1974年4月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

池島 和彦(いけじま かずひこ、1947年2月9日 - )は大阪府豊中市[1]出身(南河内郡河南町生まれ)の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物

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島上高校卒業後の1966年明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは、同期のエース・星野仙一の陰に隠れがちであったが、次第に力を付け投手陣の双璧として活躍。実力では星野よりも上と評価されるようになり、4年次の1968年には春季・秋季リーグで3勝ずつ挙げる。

同年のドラフト読売ジャイアンツから8位で指名されるが、肩の故障もあって拒否し、大学卒業後の1969年三協精機へ入社。モーター製造三課に勤務する傍ら、明大の先輩である光沢毅監督の指導を受ける。明大時代はオーバースローの本格派右腕であったが、前述のの故障でスリークォーター気味の技巧派に転換。同年の都市対抗に出場し、1回戦で前年に優勝した富士鉄広畑神部年男と投げ合うが、1-2で惜敗している。

同年のドラフトでは巨人に指名を約束されながら指名されず、7位で阪神タイガースに入団[1]。1年目の1970年にはオープン戦初先発で5回を投げ切り、1位の上田二朗よりも先に新人初白星一番乗りとなった。開幕後は球威不足で二軍落ちし、ウエスタン・リーグではエース格となる。3度目の二軍の先発となった5月3日中日戦ではライバルであった星野と投げ合い、5回零封で勝利している。6月6日広島戦(広島市民)に鈴木皖武の2番手リリーフで一軍初登板を果たし、3回を1失点に抑えた。同23日中日戦(中日)では伊藤幸男の2番手で登板したが、江島巧に本塁打を浴びて降板し敗戦。7月にはジュニアオールスターゲームに出場するなど活躍したが、一軍では3試合登板に終わる。3年目の1972年に頭角を現し、6月末から先発として起用される。7月2日の中日戦(中日)では完封でプロ初勝利、3勝目を挙げた9月2日の広島戦(広島市民)では唯一の安打を放っている。同年は21試合登板で3勝3敗、防御率2.29を記録し、二軍のエースから一軍の中堅投手に成長。

決め球の角度のある大きな緩いカーブと切れの良いシュートスライダーを武器にし、低めの制球力が優れた投球で「掴みどころがない」と他球団から嫌がられた[2]1973年1974年はそれぞれ僅か1試合の登板に終わり、1974年オフに退団[1]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1970 阪神 3 0 0 0 0 0 1 -- -- .000 21 5.0 8 1 1 0 0 1 0 0 5 5 9.00 1.80
1971 3 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 31 6.0 13 1 3 2 1 7 0 0 6 6 9.00 2.67
1972 21 9 1 1 0 3 3 -- -- .500 213 51.0 51 3 14 1 1 19 0 0 15 13 2.29 1.27
1973 1 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 5 1.0 2 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0.00 3.00
1974 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 9 2.0 1 1 1 0 0 0 0 0 3 1 4.50 1.00
通算:5年 29 10 1 1 0 3 4 0 -- .429 279 65.0 75 6 20 3 2 27 0 0 29 25 3.46 1.46

背番号

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  • 14 (1970年 - 1971年)
  • 37 (1972年 - 1974年)

脚注

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  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、33ページ
  2. ^ 1973年阪神タイガースファンブックより。

関連項目

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外部リンク

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