汚い戦争

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ファイル:Que digan dónde estan.jpg
「行方不明者」の写真

汚い戦争(スペイン語: Guerra Sucia 英語: Dirty War)とは、1976年から1983年にかけてアルゼンチンホルヘ・ラファエル・ビデラ(Jorge Rafael Videla)将軍率いる軍事政権によってアルゼンチン国民に対して行われた弾圧行為を指す言葉である。

概説

この弾圧の始まりについては諸説あり、既に1973年には労働組合員が暗殺の対象とされており、実際の弾圧発生の時期がいつからかについては今も議論が続いている。なお、独立作戦(Operativo Independencia)と呼ばれる対ゲリラ作戦を実行中の1975年イサベル・ペロンによって布告された「絶滅命令」がこの汚い戦争の起源とする説もある。

概要

「左派壊滅」

1973年フアン・ペロンが亡命先から帰国すると、ペロン主義者(Peronism)内部における左派と右派の協調路線も同年6月20日に発生した左派による右派への弾圧事件(Ezeiza massacre)によって終わりが見えた。 そして、いくつかの左派ゲリラが誕生し、その中でも最も勢力があったのが人民革命軍(ERP)であった。

1974年にフアン・ペロンが死亡すると、政権の座は彼の未亡人となったイザベル・ペロンの手に渡った。左派の壊滅を目論んだ彼女は及び警察に対し左派を「絶滅」させる為に必要な権限を与える為の多数の法令に署名した。

「国家再編成プログラム」

だが、イザベル・ペロンは翌年に発生したクーデターにより大統領を解任され、そして、1976年から1981年に亘るビデラ将軍による軍事独裁政権時代が始まった。

そして、ビデラとその後のロベルト・ビオラレオポルド・ガルチェリ政権によって労働組合員らを中心に学生や活動家数千人が違法逮捕、拷問殺害、強制的に拉致される等、様々な弾圧が行われた。こうしたアルゼンチン市民に対する弾圧行為をビデラ政権は「国家再編成プロセス」(National Reorganization Process)と呼んだ。

アルゼンチンの治安部隊と「死の部隊」は、「コンドル作戦(Operation Condor)」において、他の南米の軍事独裁国家と協力して行動した。

資金源

これらの作戦の資金源として、フリーメイソンのロッジであることを隠れ蓑に、反共主義を掲げイタリアを中心に活動していた「ロッジP2」による不法な資金調達と(その後これらの不法活動が暴露されフリーメイソンから破門された)、第二次世界大戦下のドイツで行われていた偽ポンド札の偽造計画「ベルンハルト作戦」の関係者で、戦後親ドイツのペロンが政権を握ったアルゼンチンに亡命したドイツ人達による偽造ポンド紙幣が大きな割合いを占めると指摘されている。

その後

なお、この弾圧により1万3千人から3万人が行方不明とされている。後に、アルゼンチンの法廷はこの政府による犯罪行為を人道に対する罪として、これは大量虐殺であると非難した。

2005年、同国最高裁判所は、軍政下の犯罪を不問とする恩赦法に違憲判決を下した。これ以降、拉致、拷問、殺害に関与した元軍幹部らに対する有罪判決が相次いでいる。2008年終身刑判決を受けたルシアーノ・ベンハミン・メネンデス元司令官は、「共産主義から国家を守るための戦争に従事した軍司令官を罰するのは間違いだ」と主張した。

関連項目

外部リンク

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