毛綱毅曠
毛綱毅曠 | |
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生誕 |
1941年(昭和16年)11月14日 北海道釧路市 |
死没 |
2001年9月2日(59歳没) 東京都 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 神戸大学 |
職業 | 建築家 |
受賞 | 日本建築学会賞作品賞(1985年)等 |
所属 | 日本建築学会等 |
建築物 |
反住器 釧路市湿原展望台 釧路市立博物館 |
毛綱 毅曠(もづな きこう、本名:毛綱 一裕、昭和16年(1941年)11月14日 - 平成13年(2001年)9月2日)は、日本の建築家。日本建築学会賞作品賞など多数受賞。
概要
初期に毛綱モン太(もづなもんた)と名乗っていたが「毅曠」に改名。1970年代の日本の前衛建築の先鋒の観が有ったとされる。「阿弥陀から弥勒への七つのメッセージ」という九枚のパネルを発表し世界的にも有名となった。
略歴
- 1941年 釧路市生まれ
- 1965年 神戸大学工学部建築学科卒業、同大学向井正也の助手。
- 1978年 戸籍名を毛綱毅曠に変更 毛綱毅曠建築事務所を設立
- 1985年 日本建築学会賞受賞(受賞作は釧路市立博物館)
- 1990年 商環境デザイン賞特別賞受賞
- 1991年 都市景観大賞受賞
- 1992年 イギリス出版賞受賞、日本建築美術工芸賞受賞
- 1993年 商環境デザイン賞特別賞受賞
- 1994年 メキシコ・アグアスカリエンテス市建築賞受賞
- 1995年 多摩美術大学美術学部建築学科教授
- 2001年 永眠
作品と設計手法
彼の設計は、「機能」というものに挑戦的であった。例えば、初期の代表作「反住器」は8m角の立方体(建築本体)のなかに4m角の立方体(部屋)が有り、その中に1.7m角の立方体(家具)が有り、三者は同形にデザインされているという。これは「反機能」を「入れ子」の概念で表現しようとしたものである。
その後の、彼は「機能」に直接挑戦するよりも、形而上の概念を建築にあてはめることに意欲を燃やした。「天・地・人」「乾坤」といった概念に基づき独特のデザインをした(少なくとも、本人はそう言っている)。こうした、方向性は設計に首尾一貫性を与えはしたが、彼のデザインそのものの鋭さを失った。しかし、そんな中でも「鏡の間」のような秀逸な空間を持つ傑作が生まれることがあった。1984年に完成した「釧路市湿原展望台」は、彼が「コトバ」の呪縛から離れ、純粋に造形に打ち込んだことによって開かれた新境地である。結局、形而上の概念からは建築デザインはうまく産み出せなかったと考えられている。
ただし彼の作品は、実用性、メンテナンス面で非常に難があるデザインの建築物であることも指摘されている。
主な作品
- 北国の憂鬱(1969年:住宅)
- 反住器(1972年:住宅)
- 天
- 地
- 人
- 乾
- 坤
- 鏡の間(住宅)
- 陰陽の間(1980年)
- 弟子屈町屈斜路コタンアイヌ民俗資料館(1982年)
- 釧路市湿原展望台(1984年:展望資料館)
- 釧路市立博物館(1984年:1985年に日本建築学会賞を受賞)
- 釧路キャッスルホテル(1987年)
- 釧路公立大学(1988年)
- 釧路フィッシャーマンズワーフMOO / EGG(1989年)
- 北海道釧路湖陵高等学校(1990年)
- 釧路市立東中学校(現・幣舞中学校)
- 石川県能登島ガラス美術館
- 下川町ふるさと交流館
- 門前ファミリーイン
- 銀座長州屋ビル
- アンフォルメル中川村美術館(1993年)
- 中三弘前店(1995年)
- くびき駅(北越急行ほくほく線)(1997年)
- NTT DoCoMo 釧路ビル(1998年)
- 丸亀市立城乾小学校(1999年)
- 白糠町立茶路小中学校(2002年)
著書
- 『建築の無限』朝日出版社、1980
- 『記憶の建築』パルコ出版局、1986
- 都市の遺伝子 青土社、1987
- 『七福招来の建築術 造り、棲み、壊すよろこび』光文社カッパサイエンス、1988
- 『神聖空間縁起』横尾忠則画、藤塚光政写真、住まいの図書館出版局(星雲社)1989
- 『ソニァール 対談集』TOTO出版、1990
- 石川県能登島ガラス美術館 藤塚光政写真 TOTO出版 1992.10
- 『詠み人知らずのデザイン』藤塚光政写真、TOTO出版 1993
- 『ガイア・インターネット 風水伝奇』伊藤亜弥共著、時事通信社 1996
出演
- TBS「いのちの響」