木村友重

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木村 友重(きむら ともしげ、天正13年(1585年) - 承応3年4月8日1654年5月24日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての紀州藩武士剣豪。運籌流、柳生流(柳生新陰流)。 諱は友重、号は矩泰。幼名通称木村助九郎で知られる。柳生宗矩の筆頭高弟で柳生四天王の筆頭。宗矩の父・宗厳の代からの弟子とされる場合もある。

経歴

柳生庄に隣接する大和国の邑地(現在の奈良県邑地町)出身、父は木村伊助。父とともに浪人をした後、大和柳生家に家臣として仕える。18歳の時[1]柳生宗矩に入門して兵法を学んで奥義に達し[2]将軍徳川家光が刀法を練る時は毎度相手を勤めたという(『本朝武芸小伝』)。

40歳頃まで柳生家に仕えた後に家光の命で徳川忠長に出仕して駿河に赴いた。忠長が改易された後の寛永11年(1634年)からは徳川頼宣に600石で召し抱えられ、和歌山城に道場を開いて剣術を指南した。慶安元年(1648年)に1度江戸詰めとなり、5年後の承応2年(1650年)に和歌山に戻った[3]

寛永16年(1639年2月14日、家光が大病中に諸藩の武芸者を集めて兵法上覧を行った際には、師・宗矩の子息である柳生三厳柳生宗冬と共に参加。友重は大久保式部省輔と3試合、鵜殿惣十郎と4試合して全て勝利したという[2]慶安4年(1651年)3月6日、死の床にあった家光を慰めるために行われた兵法上覧においても、紀州藩を代表して藩士・田宮平兵衛と共に出場して試技を披露する[4]など剣豪、剣客として広く剣名を知られた柳生の顔である。

承応3年4月8日病死。享年70。嫡子木村助九郎友安が後をつぎ、木村家の子孫は代々、江戸末期木村金吾友重まで紀州藩の剣術指南役をつとめた。

子孫

友重の子孫である江戸時代末期の紀州徳川藩士 木村友重(木村金吾友重)は、明治維新以降は士族となり、廃藩置県で紀州藩の保護を失った漆器職人を束ね、紀州漆器の生産をはじめる。妻・セ乃の実家である豪商だった南家の支援を得て、貿易のために南家所有の船で欧州などへ漆器の海外輸出に着手する。商売の都合上、身分階級は士族のまま一時的に配偶者の南姓を名乗ることとなり、木村友重から南友重となる。以降、その長男・南若松、孫・南國一と紀州漆器の生産に携わり、苗字も木村姓に戻さず、木村友重の子孫は、今日まで南姓を名乗る。

流儀

はじめ師の流名をはばかって自らの流儀を運籌流と称していたが寛永11年(1635年)に許されて以後は柳生流を公称し、運籌流は二代目として同門の出淵平兵衛(越前松平家)に譲られた。後に平兵衛も柳生流を称することを認められたため、運籌流は柳生家に返上された[2]

著書・伝記・資料

著書
  • 木村助九郎 兵法聞書(正保年間、1644年~1647年、木村助九郎友重著、奈良芳徳禅寺蔵)

 友重65歳の作。全98項目から成り、三厳と宗矩の兵法談を伝聞体で箇条書きにしてまとめている。柳生流の構え、燕飛、一刀両段、無刀取りなど、理・心・裏に至る点について説く。

  • 史料 柳生新陰流(1967年6月10日、今村嘉雄編、人物往来社
  • 改訂 史料 柳生新陰流(1995年4月30日、今村嘉雄編、新人物往来社
伝記
  • 南紀名臣伝畧
  • 木村家譜
  • 南陽語叢
  • 日本剣道史(1960年5月15日、山田次朗吉、再建社)
  • 日本剣豪列伝(教養文庫、江崎俊平)
史料
  • 不審庵伝来 元伯宗旦]文書(1971年、茶と美舎、千宗左編)
  • 新編 元伯宗旦文書(2008年、不審庵文庫、千宗左監修、千宗員編)
事典
  • 日本人名大事典(新撰大人名辞典)第2巻(1937年7月23日、平凡社

題材とした作品

映画
ドラマ
演劇
小説
漫画

脚注

  1. ^ 『木村助九郎 兵法聞書』に「我拾八歳より六拾五まてこの道稽古」との記述がある
  2. ^ a b c 綿谷雪『日本武芸小伝』(2011年、国書刊行会)
  3. ^ 『柳生一族 新陰流の剣豪たち』(2003年5月11日、新人物往来社
  4. ^ 『徳川実紀』

関連項目