新感覚派

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新感覚派(しんかんかくは)は、戦前日本文学の一流派。1924年(大正13年)10月に創刊された同人誌『文藝時代』を母胎として登場した新進作家のグループ、文学思潮、文学形式を指す。おもに、横光利一川端康成中河与一片岡鉄兵今東光佐佐木茂索十一谷義三郎池谷信三郎稲垣足穂藤沢桓夫吉行エイスケ久野豊彦らを指すことが多い[1]

戦前の評論家ジャーナリスト千葉亀雄が同人の言語感覚の新しさにいち早く注目し、『文藝時代』創刊号の印象を『世紀』上で評論し[2]、千葉が「新感覚派の誕生」と命名して以来、文学史用語として広く定着した[3][4]モダニズム文学として注目された新感覚派は、同年6月に創刊された『文芸戦線』のプロレタリア文学派とともに、大正後期から昭和初期にかけての大きな文学の二大潮流となった[5][6]

特徴・傾向

第一次世界大戦後のヨーロッパに興ったダダイズム芸術革命が目指されたアバンギャルド運動、ドイツ表現主義を意識した新感覚派の表現や手法の特徴としては、美術音楽の感覚の働き方に近く、作風に新しい「ポエム――」が漂う[7]。それは、伝統的な私小説リアリズムを超える言語表現の独立性を強調し、近代という状況・感覚・意識を基調として主観的に把握、知的に再構成した新現実を感覚的に置換・創造する作風、などを傾向としている[2][8][7][9]

『文藝時代』創刊号に掲載された横光利一の『頭ならびに腹』の冒頭文、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」の描写に見られるように、20世紀西欧文学の影響による擬人法比喩の手法を導入し、従来の日本語の文体に大きな影響を与えた[2][3][注釈 1]

川端康成は、新感覚的表現について以下のように説明している[7]

例へば、砂糖は甘い。従来の文芸では、この甘いと云ふことを、から一度に持つて行つて頭で「甘い。」と書いた。ところが、今は舌で「甘い。」と書く。またこれまでは、薔薇とを二つのものとして「私の眼は赤い薔薇を見た。」と書いたとすれば、新進作家は眼と薔薇とを一つにして、「私の眼が赤い薔薇だ。」と書く。理論的に説明しないと分らないかもしれないが、まあこんな風な表現の気持が、物の感じ方となり、生活のし方となるのである。 — 川端康成「新しい感覚」(「新進作家の新傾向解説」)[7]

活動概略

小説の他、1926年(大正15年)には、企画に横光利一が参加し、川端康成がシナリオを担当することで、映画監督衣笠貞之助が協力し、日本で最初のアヴァンギャルド映画狂った一頁』を制作した。説明的映像に阿らない純粋映画を狙った画期的な無字幕無声映画として話題を集めた[12][13]

また、1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)初期にかけて、プロレタリア文学派と新感覚派との間に「形式主義論争」が生じるなど、活発な思潮の舞台ともなった。理論的には、横光利一の「新感覚派とコンミニズム文学」(昭和3年)や[14]、同時期の彼の評論随筆に体系化の跡がみられる。

1925年(大正14年)に離脱した今東光はその後、旧労働党に入党、片岡鉄兵前衛芸術家同盟に参加し左傾化、主要同人の横光利一らが時代の寵児となり、1927年(昭和2年)5月号をもって『文藝時代』は終刊した[5][15]。その後1929年(昭和4年)に中村武羅夫尾崎士郎、川端康成らで結成した「十三人倶楽部」が母体となって、翌1930年(昭和5年)には井伏鱒二吉行エイスケらも所属した「新興芸術派倶楽部」が設立され、「新感覚派」の黄金時代は終焉を迎える[16][5]

「新感覚派の天才」、「新感覚派の雄将」と呼ばれ、派の中心的存在であった横光利一が1930年(昭和5年)に『機械』を発表。文学史的には「意識の流れ」を取り入れた新心理主義に移行するが[5]、1931年(昭和6年)、新感覚派の集大成というべき『上海』を完結し[17]、1932年(昭和7年)に『寝園』を、1934年(昭和9年)には『紋章』を発表する。一方、1931年(昭和6年)には満州事変が起き、文学の流れも国策の時代へ転換。のちに横光も文芸銃後運動に加わり、時代思潮としての新感覚派も完全に終焉した。

脚注

注釈

  1. ^ ちなみに、新感覚派の表現がポール・モランの『夜ひらく』を手本として出来上がったとすることや模倣説を唱えた文壇に対して、川端康成は異議を唱えている[10][11]

出典

  1. ^ 川端康成「新感覚派」(文藝 1952年6月号に掲載)
  2. ^ a b c 千葉亀雄「新感覚派の誕生」(世紀 1924年11月号に掲載)
  3. ^ a b 井上謙『新潮日本文学アルバム44 横光利一』新潮社、1994年)
  4. ^ 川端康成「新感覚派の弁」(新潮 1925年3月号に掲載)
  5. ^ a b c d 板垣信著・福田清人『川端康成 人と作品20』(センチュリーブックス/清水書院、1969年)
  6. ^ 羽鳥徹哉「年譜」(『作家の自伝15 川端康成』)(日本図書センター、1994年)
  7. ^ a b c d 川端康成「新進作家の新傾向解説」(文藝時代 1925年1月号に掲載)
  8. ^ 横光利一「感覚活動」(文藝時代 1925年2月号に掲載)
  9. ^ 羽鳥徹哉・原善『川端康成全作品研究事典』(勉誠出版、1998年)
  10. ^ 川端康成「諸家に答へる詭弁―新感覚主義に就て少々―」(萬朝報 1925年4月24日、28日、30日、5月1日、2日号に掲載)
  11. ^ 川端康成「文壇的文学論」(新潮 1925年1月号に掲載)
  12. ^ 栗坪良樹「作家案内―川端康成」(文庫版『浅草紅団/浅草祭』)(講談社文芸文庫、1996年)
  13. ^ 保昌正夫『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
  14. ^ 横光利一「新感覚派とコンミニズム文学」(新潮 1928年2月号に掲載)
  15. ^ 福岡益雄(金星堂社長)「創刊の前後」(『復刻版 文藝時代』別冊)(日本近代文学館、1967年)
  16. ^ 進藤純孝 『伝記 川端康成』六興出版、1976年)
  17. ^ 川端康成「新感覚派」(『日本現代文学全集』月報97)(講談社、1968年)

参考文献

関連項目