山谷 (東京都)
座標: 北緯35度43分42.673秒 東経139度48分5.053秒 / 北緯35.72852028度 東経139.80140361度
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/55/Budget_hotels_in_San%27ya_district_in_Tokyo_Japan.jpg/240px-Budget_hotels_in_San%27ya_district_in_Tokyo_Japan.jpg)
山谷(さんや)は東京都台東区・荒川区にある寄せ場(日雇い労働者の滞在する場所、俗に言うドヤ街)の通称(旧地名)である。
概要
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/Street_dwellers_in_San%27ya_district_in_Tokyo_Japan.jpg/240px-Street_dwellers_in_San%27ya_district_in_Tokyo_Japan.jpg)
奥州街道・日光街道に沿った地域であり、江戸時代から木賃宿(食事を提供しない素泊まり専門の旅館)が集まる場所であった。現在も簡易宿泊所の施設が多く、日雇い労働者が集まっていた地域である。1966年以前は地名として台東区浅草山谷1~4丁目が存在したが、住居表示制度の実施により「山谷」という地名はなくなった。
泪橋(台東区・荒川区境)はかつて江戸の境界で、近くに小塚原刑場や遊女の投込み寺(浄閑寺)があった。また、山谷地域西南部の近隣には、ソープランド街である吉原(ここも1966年の住居表示制度の実施により、正式地名としては消滅。現在は台東区千束の一部)がある。
簡易宿泊施設
この町の簡易宿泊施設の殆どは素泊専門(食事などのサービスを提供せず、就寝できる場所のみを提供する宿の形態)である。内部の設備の差もあり、8人部屋などの多人数でのドミトリーを提供している所もある。
また、この町の簡易宿泊施設は軒先に「全室カラーテレビ完備」「全室冷暖房完備」という謳い文句を掲げる店が多い。細かい形式は異なっていても、新しい簡易宿泊施設以外は必ずといってよいほどこの2つが提示されている。
2002年のFIFAワールドカップ日韓大会の頃から、外国人旅行者が山谷地区の宿泊施設を利用するケースが見られるようになった。その後も料金が安いことや(諸外国の安宿街に比べて)治安が良いこと(日常的に発生する犯罪は酔っぱらい同士の喧嘩程度の傷害事件や万引き程度の窃盗で、殺人事件に関しては1年に5件程度[要出典])、最寄り駅である地下鉄南千住駅からは日比谷線一本で「上野」「秋葉原」「銀座」「六本木」などの観光スポットに行けることから更に外国人利用者が増加し、それに伴い施設側の外国人への対応も進んだことから、「外国人向けの安宿のある町」として定着し、往年のイメージから変貌している。
歴史
元々は日光街道の江戸方面の最初の宿場であった。明治初期から政府の意向で市街地の外れの街道入口に木賃宿街が形成され吉原遊郭の客を送迎する車夫等、戦前より既に多くの貧困層や労働者が居住していたが戦後になると東京都によって被災者のための仮の宿泊施設(テント村)が用意され、これらが本建築の簡易宿泊施設へと変わっていった。まもなく高度経済成長期が到来すると労働需要の高まりに対応し、日本有数の寄せ場として発展した。1961年には簡易旅館約300軒が建ち並び、労働者約2万人が集まる居住地となった。
1960年代以降、この地域に新設された山谷地区交番(通称「マンモス交番」、移転した後現在は「日本堤交番」に改名)の警察官との間で数千人規模の暴動(山谷騒動)が複数回発生した。騒動の直接の原因については様々な理由が挙げられているが、犯罪者や過激派などの煽動を指摘する説もある。
1969年、フォーク歌手・岡林信康が日雇労働者の悲哀を歌った『山谷ブルース』を発表した。岡林は山谷に長期滞在して作ったといわれるが、実際に滞在していたのは1週間程度だった。
1984年と1986年には、この地区で暗躍する暴力団(金町一家)と労働者の闘争を描いたドキュメンタリー映画『山谷(やま) - やられたらやりかえせ』を製作した監督2名が暴力団(日本国粋会)の組員によって相次いで暗殺される事件が起こった。
1996年に東京都と東京23区は互いの了解のもと路上生活者に各区が生活保護を行い、自区内で住居が決まるまで山谷に預ける「規則(ルール)」を作った。一時的に預けるという措置だったが保証人などの問題もあり、その後も各区が再度引き取ってアパートなどを探すことはあまりなく山谷に連れて行かれた後そのまま放っておかれるなど、長期にわたって住所不定のままになっている人が少なくない。
こうした住人の変化に伴い、簡易宿泊施設には従来の労働者に代わって各国から日本に旅行にやって来る外国人達(バックパッカー)による格安のホテルとしての利用が増加している。英語表記の案内を施設内に充実させるなど簡易宿泊施設のオーナーらには外国人利用者の利用を促進したいという動きがみられる他、真新しい新築の簡易宿泊施設も次々と登場している。さらに近年では休みを利用した都内に旅行やイベントに来る国内外の若者が簡易宿泊施設を利用するケースも見られるようになっている。
2010年、2011年の実写公開を期に泪橋が舞台だった事で漫画「あしたのジョー」で地元のいろは商店街が街おこし、所謂聖地巡礼ビジネスに乗り出している。[1]
交通
東京都内に幾つかあった「山谷」
旧版地図等によると、他にもかつて「山谷」という地名が幾つかあった。
「山谷」表記
- 中央区-「山谷河岸」。現在の日本橋箱崎町付近。箱崎川の旧河岸名。「三谷河岸」とも。「山谷堀」を経て吉原遊郭へ行く「山谷船」の船宿にちなむ。「稲荷河岸」とも。
- 渋谷区-代々木山谷町が現在の代々木四丁目付近に相当する[2]。区立山谷小学校があり、付近を代々木山谷通りが通り小田急線開通当初は山谷駅が設置されていた。
- 世田谷区-東北沢駅付近に「下山谷」という字があった。下北沢地区には、他に「大山谷」などの字もあった。
- 大田区-大森附近に存した。京浜急行電鉄本線大森町駅のある位置には、かつて「山谷」駅(後に「大森山谷」駅と改称、廃止)があった。
- 北区 - 明治時代の下田端に井堀・満賀登・九十九免・神の木・山谷の字があり、田端新町三丁目、旧小台通り付近が山谷にあたる[3]。
山谷を舞台にした作品
参考資料
- 書籍『山谷—都市反乱の原点』竹中労・著 全国自治研修協会 1969年
- 書籍『山谷・泪橋—ドヤ街の自分史』宮下忠子・著 晩声社 1978年
- ドキュメンタリー映画『山谷─やられたらやりかえせ』佐藤満夫・山岡強一共同監督 1985年
- 書籍『現代棄民考—山谷はいかにして形成されたか』今川勲・著 田畑書店 1987年
- 書籍『山谷 やられたらやりかえせ』山岡強一・著 現代企画室 1996年
- 書籍『山谷ブルース—「寄せ場」の文化人類学』エドワード ファウラー・著 川島めぐみ・訳 洋泉社 1998年
- 書籍『山谷崖っぷち日記』大山史朗・著 阪急コミュニケーションズ 2000年
- 書籍『東京のドヤ街・山谷でホスピス始めました。』山本雅基 実業之日本社 2006年
- 書籍『だから山谷はやめられねえ—「僕」が日雇い労働者だった180日』塚田努・著 幻冬舎 2008年
- 書籍『大いなる看取り—山谷のホスピスで生きる人びと』中村智志・著 新潮社 2008年
- 書籍『山谷でホスピスやってます』山本雅基 実業之日本社 2010年
脚注
- ^ [立つんだ!台東・山谷の商店街]東京新聞2010年11月18日 13時54分
- ^ 西井一夫・平嶋彰彦『新編「昭和二十年」東京地図』筑摩書房、1992年7月、P239。
- ^ 荻島教雄『北区の史跡と伝説(30)神ノ木稲荷神社(田端新町)』、「北区新聞」昭和50年6月8日所収。