小嶺忠敏
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長崎市公会堂で演説する小嶺(2007年7月) | ||||||
名前 | ||||||
カタカナ | コミネ タダトシ | |||||
ラテン文字 | KOMINE Tadatoshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1945年6月24日(78歳) | |||||
出身地 | 長崎県南高来郡 | |||||
身長 | 172cm[1] | |||||
ユース | ||||||
年 | チーム | |||||
1961-1963 | 長崎県立島原商業高校 | |||||
1964-1967 | 大阪商業大学 | |||||
監督歴 | ||||||
年 | チーム | |||||
1968-1984 | 長崎県立島原商業高校 | |||||
1984-2000 | 長崎県立国見高校 | |||||
1993 | 日本 U-17 | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
小嶺 忠敏(こみね ただとし、1945年6月24日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。一般社団法人長崎県サッカー協会会長、長崎総合科学大学特任教授。
来歴・人物
長崎県南高来郡堂崎村 (現:南島原市) 出身。父親は生前に太平洋戦争で戦死したため母子家庭 (7人兄弟) で育ち、一家は農業で生計を立てていた[1][2]。中学(堂崎中学)時代はバレーボール部に所属。長崎県立島原商業高校入学後よりサッカー部に所属し[1]、3年時には主将を務め、九州選抜チームにも選出された[3]。
高校卒業後は家庭事情から就職する予定であったが大阪商業大学からのスカウトもあり同大学に進学してサッカー部に所属。関西学生サッカーリーグ3部だったチームを大学3年時に1部へ引き上げる原動力となった[4]。
サッカー部を持つ企業へ大卒後の就職が内定していたが、母校の長崎県立島原商業高校時代のコーチから誘いを受けて教員を目指し、長崎県の教員採用試験に合格した[4]。
1968年より長崎県立島原商業高校へ赴任し、商業科教諭およびサッカー部監督に就任。部員13人からサッカーの指導をスタートさせ、当時の九州サッカーは全国大会で1回戦さえ突破するのが難しい時代であったが[5][6]、1977年インターハイで長崎県勢として初優勝した[5]。
1984年、長崎県立国見高校に社会科教諭として赴任し、サッカー部を全国高校サッカー選手権で戦後最多タイの6度の優勝に導く[5]。1996年には、JFA 公認S級コーチ(S級ライセンス)も取得。90年代以後もサッカー部員は丸坊主にする事を義務付けていた事で有名であった。
長崎県の公立高校教員には、離島の学校に一度は赴任しなくてはならない規定があるが、教育委員会が小嶺の県外流出を恐れ、特例として離島に赴任させず、その後も教頭(1997-1999年度)・校長(2000-2005年度)を歴任した。なお、校長就任に伴って全国高等学校体育連盟の規定により監督を退いたが、監督はサッカー経験・指導歴のない教諭が就任したため、「総監督」として実質的な指揮をとった。2006年3月に国見高を定年退職(総監督職は、2007年1月9日まで継続)。
定年退職後は一般社団法人長崎県サッカー協会の会長(2004年6月10日就任)、長崎県教育委員会参与、特定非営利活動法人「V・ファーレン長崎スポーツコミュニティ」理事長(2006年5月27日付で副理事長から昇格)なども務めている(後の参院選立候補に伴い、一部役職は辞任した)。
2007年10月10日、長崎総合科学大学情報学部情報経営学科特任務教授および長崎総合科学大学附属高等学校サッカー部総監督に11月1日付で就任することを発表。今後、政治活動はしないことも明らかにした。
参議院選挙落選
2007年1月10日、防衛大臣(当時)の久間章生の推薦により、夏の第21回参議院議員通常選挙の長崎県選挙区より自民党公認で立候補を表明(7月10日に公明党も推薦)。それに先立ち、1月9日付で国見高の総監督 、長崎県教育委員会参与の役職を辞任した。4月、後任の監督(「総監督」のポストは廃止)として、島原商業時代の教え子で元熊本国府高監督の瀧上知巳(2006年度にJFA 公認S級コーチ取得)が就任。
知名度の高さから有利と予想された一方、年金記録問題や久間による「原爆投下はしょうがない」発言などが起こった。なお、久間が応援に入ることで発言が蒸し返されることを懸念し、久間は長崎県に入らなかったという[2]。
選挙では331,147票を獲得したものの、352,953票を獲得した民主党公認の大久保潔重に敗れた。なお、選挙中のキャッチフレーズは「生涯チャレンジ」であった。
主な実績
島原商業時代
- 1974年度 全国高校サッカー選手権初出場、以後1983年度まで10大会連続出場(最高成績は勝矢寿延がいた1979年度のベスト8)
- 1984年度 全国優勝(両校優勝)-小嶺が2年生まで指導した選手達による結果
- 1977年 インターハイ 優勝(メンバーに山田耕介 (前橋育英高校監督) や小林伸二ら)
国見高時代
- 1986年 優勝(1回目)
- 1987年 準優勝
- 1992年 3位
- 1993年 優勝(2回目)
- 1997年 3位
- 2000年 優勝(3回目)
- 2002年 準優勝
- 2003年 優勝(4回目)
- 2004年 優勝(5回目・連覇)
- 1986年 準優勝(初出場での快挙)
- 1987年 優勝(1回目)
- 1989年 3位
- 1990年 優勝(2回目)
- 1991年 3位
- 1992年 優勝(3回目)
- 1993年 準優勝
- 2000年 優勝(4回目)
- 2001年 優勝(5回目・連覇)
- 2002年 準優勝
- 2003年 優勝(6回目)
- 2004年 3位
※左の数字は年度を表している(高校選手権は1月上旬を中心に行われる)。高校選手権では、1974年から2006年まで小嶺の指導したチームが県代表として全国大会へ参加し続けた。唯一の例外は、1985年に国見を破って出場した平戸高校である(同校のGKは前川和也)。
その他
- 1988年 長崎県民栄誉賞を受賞(第1号)
- 1993年 U-17世界選手権(日本開催) ベスト8進出(U-17日本代表監督として)
- 2000年 朝日スポーツ賞
- 2002年 天皇杯にて第2種チームとして初の3回戦進出
著書
- 『国見発 サッカーで「人」を育てる』日本放送出版協会〈生活人新書〉、2004年8月10日。ISBN 978-4140881156。
脚注
- ^ a b c 小嶺 p.203
- ^ a b “小嶺氏、久間前防衛相の応援100%お断り”. 朝日新聞 (日刊スポーツ). (2007年7月15日) 2010年7月15日閲覧。
- ^ 小嶺 p.204
- ^ a b 小嶺 p.206
- ^ a b c 週刊現代 (1月26日号 2013年). “週現『熱討スタジアム』 第45回 高校サッカーの名門・国見高校を語ろう 小嶺忠敏×永井秀樹×徳永悠平”. 講談社: 156頁.
- ^ 小嶺忠敏 (4/4) 日本サッカーは進歩したが、根付き度で世界との差は大、走る九州勢 酷暑に自信 ブラジルW杯 猛練習が下地 大久保「厳しさ望むところ」
外部リンク
- プロフィール
- 「横行する国見批判」 :小嶺のサッカー指導法批判についての検証コラム。