冠着山

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姨捨山
標高 1,252 m
所在地 日本の旗 日本
長野県千曲市東筑摩郡筑北村
位置 北緯36度28分07秒 東経138度06分24秒 / 北緯36.46861度 東経138.10667度 / 36.46861; 138.10667座標: 北緯36度28分07秒 東経138度06分24秒 / 北緯36.46861度 東経138.10667度 / 36.46861; 138.10667
山系 筑北三山
冠着山の位置(日本内)
冠着山
姨捨山の位置
プロジェクト 山
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姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)は、長野県千曲市東筑摩郡筑北村にまたがる。正名は冠着山(かむりきやま)。標高 1,252メートルで、長野盆地南西端に位置する。幾つかの呼び名があり、「冠山(冠嶽)」「更科山」「坊城」とも言われる。古称は小長谷山(小初瀬山・小泊瀬山、おはつせやま)。

地学的知見

筑北村側から見た山頂付近

北部フォッサマグナのいわゆる中央隆起帯と西部堆積区の境界部にあり、かつて海底に有った時代に堆積した第三紀層の砂岩、礫岩、凝灰岩が堆積した部分に、第四紀の貫入により形成された安山岩質の溶岩ドームである。山頂付近は複輝石安山岩であるため、風雨に浸食されず溶岩円頂丘(溶岩ドーム)が残ったと考えられる。直接的な火山活動の痕跡は認められないが、頂上の東側斜面の岩には柱状節理が観察出来る[1][2]1847年(弘化4年)の善光寺地震により大きな崩落があったと伝えられ、真田宝物館には地震被害を示す詳細な絵図が残されている。またこの山を特徴付けているボコ抱き岩は崩落が進み特に松代群発地震後随分小さくなったと言われている。

おばすて信仰と古文書

山頂には冠着神社を祀る鳥居とトタン屋根の祠がある。祭神は月夜見尊で、権現社であったこともあると言う。山頂で蛍が舞う7月に氏子(現在では千曲市側自治会役員の輪番)が登って御篭もりをする祭りがある。 また高浜虚子の「更級や姨捨山の月ぞこれ」の句碑(昭和32年9月建碑)もある。

この地の月に関する初見は『古今和歌集』(905年序、巻17-878)である。京都御所清涼殿には全国各地の名所の襖絵がそれぞれの和歌と共に描かれ、萩の戸と呼ばれる部屋には「おばすての やまぞしぐれる風見えて そよさらしなの 里のたかむら」との歌が添えられた千曲川の対岸[3]から望んだと見られる冠着山の襖絵の存在が伝えられている。

江戸時代の作製と見られる川中島合戦陣取り図や善光寺道名所図会(いずれも長野市立博物館所蔵)には冠着山(冠着嶽)と姨捨山は明らかに別の山として描かれているものがある。古峠を通る古代の街道(東山道支道)を使用した官人衛士防人など旅人(作者不詳)によって古今集に歌われたオバステヤマは冠着山だ、と主張した麓の更級村初代村長の塚田雅丈による内務省(現在の国土地理院)への請願活動で「冠着山(姨捨山)」の名で一般的になったのは明治期以後と言われる[4]

山名の由来

由来は諸説あり、主なものを列記する。

  • 姨捨山の呼称は、一説には奈良時代以前からこの山裾に小長谷皇子(武烈天皇)を奉斎しその料地管理等に従事したとされる名代部「小長谷(小初瀬)部氏」が広く住していたことによるらしい(棄老伝説によるものは後述)。この部民小長谷部氏の名から「オハツセ」の転訛(国郡郷名等を好字二字に表記するようにとの布令に従ったとする説もある)が麓の八幡に小谷(オウナ)や、北端の長谷(ハセ)の地名で残り南西部に「オバステ」で定着したものとされている。奈良県桜井市初瀬にある長谷寺に参詣することを「オハツセ詣で」と言われるのと一脈通じている。なお、仁徳天皇の孫とされる雄略天皇聖徳太子の叔父に当たる崇峻天皇など複数人が初瀬(泊瀬)の皇子と称されている。
  • 冠着山の呼称は「天照大神が隠れた天岩戸手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を着け直した」と日本神話により伝えられている事による。
  • 別名の更級山の呼称は更級郡の中央に位置することから、坊城は山容が坊主頭のようであり狼煙城でもあったとの伝説があることから。
  • 江戸時代の街道に近く猿ヶ馬場峠、一本松峠や古代からの東山道支道の古峠にも近い。これらの難路脇には行き倒れた旅人の屍が放置されていて、それらの骸を集めて弔った所「初瀬」とする説。
  • 水が地表に湧き出してせせらぎとなって川が流れ始める所を初瀬と言うことからとする説。

以上の他にも「オバステ」の地名の言われは数種あるとされる[5]

棄老伝説

大和物語』(950年頃成立、156段)[6]が姨捨説話の初見であり、謡曲(14世紀には存在)にも取り上げられているほか『更級日記』(1059年頃)、『今昔物語集』(1120年頃以降)、『更科紀行』(1688年)でも言及されている。 このように往古から全国に知られた山であったが、更級郡に位置するという記述があるなど、特定された山ではなく、長野県北部にある山々の総称という見解もある。

棚田地形

冠着山の北西に位置する三峯山[7](1131.3m)の東側にある千曲高原の東側から北東側斜面に形成されている地形で、姨捨土石流堆積物地形と呼ばれる。この地形の成因には[8]

  1. 「約6万年から7万年前以降に三峯火山の東山腹で生じた爆発により生じた」とする説と
  2. 長野盆地が陥没する過程で生じた旧千曲川による浸食面で、堆積物の放射性炭素年代測定法により13000年前頃と約3000年前頃の2回の変動で形成された」などの説がある。

この千曲市大字八幡地区の斜面には棚田が形成されており水稲稲作に利用されている。古くから、「田毎(たごと)の」として知られるほど棚田に映る月が美しく見られる場所として知られている。田毎の月とは長楽寺の持田である四十八枚田に映る月を言い、今も多くの地図上に名所を示す「∴」印はこの田の位置に示されている。また、この棚田は1999年に「姨捨(田毎の月)」が国の名勝に指定され、2010年には「姨捨の棚田」として重要文化的景観として選定され、農林水産省により「日本の棚田100選」[9]にも、その第1号として数えられ、2008年に全国に数ある月の名所の中から姨捨が第1位の「お月見ポイント」にも選ばれた。さらに時代を遡ると、高知県桂浜や京都府東山( 滋賀県石山寺とする説もある。また豊臣秀吉は「信濃更科陸奥雄島、それに勝る京都伏見江」と位置づけていた )とともに従来から日本三大名月に数えられ、いずれもその筆頭に上げられていた。鎌倉時代の歌人藤原家隆も「更科や姨捨山の高嶺より嵐をわけていずる月影」と詠んでいる。

千枚田とも言われる多くの棚田が形成されるようになったのは江戸時代からとされている。しかし上杉謙信が麓の武水別神社に上げた武田信玄打倒の願文(上杉家文書)に「祖母捨山田毎潤満月の影」との行があり永禄7年(1564年)には田毎に月を映す棚田の存在がすでに広く知られていたと考えるのが相当である(なお、眼下の景観すべてが甲越両軍の12年にわたり5度戦った川中島の戦いの戦場であった)。また棚田の下部地域で近年の道路工事に際して弥生時代の棚田が発掘されてもいて、棚田周辺には小規模ながら古墳も散在し棚田によって一定の勢力を扶植した人々の存在が推定される。

かつての棚田への水源は更級川水系源流域の湧き水であるが、その後千曲高原にある人工のため池(大池:江戸時代の明暦年間に整備が始まり[10]、1880年頃には改修)の水を使用していた[9][11]が、夏期の渇水対策として麓を流れる千曲川の水を汲み上げる[12]と共に大池用水と併用利用している。

文化財

  • 姨捨(田毎の月) - 国の名勝。長楽寺境内、四十八枚田、石付近の棚田の3か所が指定対象になっている。
  • 姨捨の棚田 - 名勝指定地を包含する64.3ヘクタールが重要文化的景観として選定。

関連項目

脚注

  1. ^ 周辺の山・冠着山(姨捨山)長野の地質見どころ100選
  2. ^ 長野県聖山南麓の新第三系-特に堆積相と構造運動について環境科学年報6:32-35 (1984)
  3. ^ 冠着橋付近?
  4. ^ [公民館報ちくま 平成23年4月1日] 千曲市公民館運営協議会
  5. ^ 千曲市観光ガイド
  6. ^ 『日本古典文学全集』(小学館)での段数。
  7. ^ 三峰山 日本の火山(第3版)」(2013年5月、産総研地質調査総合センター
  8. ^ 斎藤豊:長野県の姨捨土石流堆積物の成因とその形成期地すべり Vol.19 (1982-1983) No.2 P1-5
  9. ^ a b 姨捨(おばすて)【長野県】 関東農政局
  10. ^ 名月を映す棚田の水源「大池」(千曲市) 長野県 農業用施設の歴史と文化
  11. ^ 竹内 常行:棚田の水利-信州姨捨, 能登輪島, 越後早川谷の場合 地學雜誌 Vol.84 (1975) No.1 P1-19
  12. ^ 土地改良のしるべ 長野県[リンク切れ]

外部リンク